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奈々子と歩いた日  作者: キョウシロウ
15/16

15 後悔

丙午(ひのえうま)の女は男を食い殺すんだよ」

今から三〇年も前のことだ。奈々子はそういった。


 一週間が過ぎた。

 少しずつ奈々子と啓太の荷物が減っていることには気付いていた。衣服や化粧品の類は相当数がなくなっている。僕がいない昼間、少しづつ持ち出しているようだ。

これが意味するところはつまり、彼女が住処(すみか)を変えつつあるということだ。

一度、託児所に行ってみたが啓太はいなかった。保育士の話ではここしばらく利用されていないとのことだった。

急に不安になった。別れが現実のものになる、望むところであったはずが、いきなりじたばたしてとうてい受け入れることができないでいる不思議な自分もいた。

何故だろう、何故受け入れることができないのだろう。

ただ、納得がいかなかった。

ちゃんと話をしていないからだ。別れるなら別れると、はっきり口に出していないからだ。じりじりとくすぶるような(おき)()のままでは、受け止めることなどできるはずがないではないか。

 別れが現実味を帯びた途端に慌てふためくなんて、こんなかっこ悪いことはない。

だけど、奈々子の本心がききたかった。奈々子の声が聞きたかった。奈々子の心の中を知りたかった。なんて未練がましい男だろう。

それなのに我ながら馬鹿げたこの感覚を、未練というふうには決めつけたくなかった。きっと、奈々子も同じように思っているに違いないんだ。奈々子の考えなんか手に取るようにわかるんだ。本当にそうなのか。じゃあ、きくまでもないだろうに。これこそが未練というものだ。

気がつくと僕は『ロンシャン』がある場所の裏路地で、冬の夜の寒さを必死にこらえて立ち竦んでいた。

「おい、元気か」

 肩を叩かれた男は、ぎょっとした眼を向けて僕を見た。

 路地の反対側で同じように立ち止まっている、怪しい男を見つけた僕は近寄ってみた。懐かしい顔があった。富島だ。

「こんなところで何をしてる。あやしいだろう」

 自分を棚に上げて問い詰めた。富島は怯えたまま言葉に詰まっていた。

 すぐそばの飲み屋に誘った。初めは警戒して持ち合わせがないことをいいたてたが、お金は心配するなとなかば強引に連れ込んだ。

 酒を勧めるといくらでも飲めるというふうに次々と杯を空にした。頼んだ料理も片っ端からがっついて食べた。それにしても汚いなりだ。髪も髭もだらしなく伸びて異臭がぷんぷん漂ってくる。冬だからまだしも、これが夏場だったなら間違いなく店を追い出されるだろう。浮浪者といっても大げさではない格好だ。

「あれからどうしてたの」

「いや。何も」

「今はどうしてるの」

「いや。別に」

「住むとこは」

 富島は黙り込んでしまった。

「仕事はしてるの」

 返事はない。

「あそこで誰か待ってたのか」

 顔をあげて僕を見た。

「奈々子を待っていたのか」

 富島は頷いて見せた。

「その格好じゃ、どうにもならないんじゃないのか」

「わかってる。最後にひと目と思って」

「馬鹿じゃないの。最後にひと目見てどうするんだよ。死ぬ気なのか」

 富島は急に神妙な顔になり、ゆっくりと頷いた。

「おい、やめなって。まだ若いんだしなんとでもなるって。多少は相談に乗るし。いくとこないならうちに来いよ」

 富島はとうとう泣きだした。次第にその声が大きくなっていった。

僕は富島を必死でなだめて説得した。説得しながら後悔も同時にしていた。これ以上、余計なものに関わるのは心底嫌だったのだ。けれど、わずかでも知りあった人間を死なせるわけにはいかなかった。

富島はなんとか住み込みの仕事を見つけたのだが、生来の呑み込みの悪さと人付き合いが下手なために続かず、結局すぐに追い出されてしまい、この寒空に、大げさではなくほんものの浮浪者になり果てていたのだった。所持金も使い果たしてゆくところもなくなり、ほんとうに死ぬ寸前だった。この場所にふらふらとやって来たのは、華やかな『ロンシャン』の思い出に浸って死にたかったかららしい。

僕は相手が年上だということも忘れて叱りつけ、説教をした。

では、この僕はいったい何をしにここに来たというのだろう。富島を笑うことも馬鹿にすることもできなかった。お説教をする自分がむしろ笑えた。

 仕方なく僕は、しばらく富島を部屋に住まわせることにした。

 奈々子との正式な別れの前に、奇妙な男との同居が始まったのだった。

 働く場所、住めるところを確保するまで僕は富島の面倒を見た。厄介者を背負う星のもとに生まれついたのだろう。そう思って諦めることにした。


 すでに二月の末だった。部屋に戻ると、富島は日中、奈々子が来たことを報告してきた。僕を避けて荷物を全て運び出しにやって来たのだ。たしかに彼女の荷物は全部なくなっていた。

奈々子は富島の姿を見て驚いてはいたが、勝手に軽ワゴン車の運び屋と部屋に入ってきて、荷物を運び出した。富島も手伝う羽目になったという。奈々子は移転先を秘密にしていたが、富島は機転を働かせてこっそりと運び屋に探りをいれた。

「もしも、あとから運び漏れた荷物が出てきたら困ると思うし、すぐに届けてあげたいので、移転先を教えといてください。漏れがなかったらすぐに捨てるし誰にも言いません。なにせこの部屋の主人が今留守なので、僕も怒られますから」

 必至に頼むと教えてくれたのだった。良くやったとほめてあげた。富島は頭は悪くない、使いようによっては役に立つ男だ。

おかげで奈々子が男と住んでいるらしいアパートがわかった。

 僕はその夜、住所をたどって問題のアパートにたどり着いた。

富島は連れてこなかった。自分の問題だ。一人で決着をつけたかった。

少し離れた場所にクルマを停めて周囲を観察した。

エンジンを止めるとすかさず冷気が襲ってくる。僕は辛抱強く待つことにした。

何時間そうして待ったことだろうか、深夜になって階段を上る男女が現れた。啓太らしき子供の影もある。女は奈々子だ、間違いない。遠巻きにもはっきりとわかる。街灯に照らされた男の顔にもどこかで見覚えがあった。どこだ。どこで見たんだろう。きっと『ロンシャン』の客には間違いないだろう。だけど、店では見たことがない顔だ。すらりと伸びた背丈に髭が似合う精悍な感じの男だった。

あ、あの時の。雪山から脱出させてくれた運転手ではないか。いや、そんな偶然がそうそうあるわけがない。ひと違いかもしれないがよく似ている。ああいう感じの男は、僕には敵わないと思える雰囲気を備えている。すでに負けた気分だった。

楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

玄関のドアを開けて三人は入っていった。

二階の部屋には明かりがともった。

テレビから漏れる色とりどりの光りが、薄手のカーテンを照らしだす。

急にとてつもない惨めさが、一度にどうっと押し寄せて来た。くらくらと眩暈がした。

奈々子が奪われてしまった。最愛のひとだったはずだ。

啓太がいなくなってしまった。我が子のように可愛くて、愛しい存在だったはずだ。

ふたつの大事な宝が僕のもとを離れ、目の前にある得体のしれない地上五メートルほど上の監獄のような空間に、僕のまるで知らない異次元の世界に、飲み込まれてしまったのだ。

とうてい受け止めることができない現実に、うち震えた。

部屋の明かりをじっと見つめていると、思いもよらなかったあたたかな水が頬を流れ落ちてきて、ほどなくそれは冷えきってしまって顎の先に留まった。そのまま放っておくと凍りついてしまいそうだった。



    続く



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