14 盗み
「丙午の女は男を食い殺すんだよ」
今から三〇年も前のことだ。奈々子はそういった。
二月になっていた。厳しい寒さと大雪とが交互にやってきて、僕のこころとからだを凍えさせた。
奈々子は、相変わらず帰ってきたりこなかったりを繰り返していた。何かと理由をつけては身入りがないといいわけをして生活費を入れようとはしなかった。奈々子の父親はあれきり姿を見せなかった。もちろん連絡もない。
もう、潮時だろうか。考えが浮かんでは沈んでゆく。体力も愛情も忍耐力も精神力も、ぼろぼろにちぎれて風に吹き飛ばされてゆくようだった。
その朝気が付くと、めずらしく夜中に帰ってきた奈々子が、ぼろくずのように泥酔して寝込んでいた。啓太はそばに寄り添っていた。
僕は一人起き上がり、朝の支度を終えて出て行こうとしたが、玄関から少し離れたところに奈々子のバッグが転がっていることに気がついた。中身がこぼれそうになって顔を覗かせている。彼女の持ち物に興味がある訳ではなかった。ただ、財布らしき入れ物を見た時、なぜか急に魔が差した。
僕は、生まれて二度目の盗みを働いた。
一度目は子供の頃、母の財布からだった。どうしても読みたかった漫画の本を買うために百円札を一枚盗んだのだ。見つかった時、石炭ストーブをかき混ぜる『デレッキ』で叩かれ叱られたのだけど、それよりも母の悲しい顔がとても辛かった。
二度目のその時、僕は奈々子の財布から五千円を抜き取った。そんなことをしながら悲しかった。これですべてが終わるのだと予感した。
だけどこうしなければいけないというような、おかしな義務感に捉われた僕の手は、僕の意思とは関係のないところで盗みを働いてしまったのだ。
それはきっと、どこまでもいやらしい自分を見せつけたかったのかもしれない。ほんとうはこんなにもずるくて、卑怯で、男らしくなんかこれっぽっちもなくて、小心者で、だらしなくて、哀れな僕を知って欲しかったのかもしれない。
僕はそのまま部屋を飛び出した。
雪と北風の中を走り出した。
電飾が煌くパチンコ店に無意識のまま入っていった。
轟音のような騒音が激しく耳を突き刺していたが何も聞こえてこなかった。
僕は五千円分のパチンコ玉を買い、大きな箱の中に入れた。
てきとうな空き台に座って受け皿に玉を流し込んだ。
ぼうっとした感覚でひたすら玉が盤面を飛んでゆくのを眺めた。
二〇分ほどでみごとに玉はひとつ残らずなくなった。
そのまま仕事にも行かず、夜になるまでパチンコ店の休憩所で過ごした。
夜になると雪も風も止んでいた。
アパートに戻ってみると明かりがついている。珍しく奈々子がいる。
どうしようかと、逡巡した。
結局、部屋に入ることにした。何気ない顔でただいまといったけど返事はない。
部屋の中では奈々子と啓太が遊んでいた。一度だけ僕に目を向けたのだが、すぐに啓太とままごと遊びに戻り夢中になっている。僕は着替えて椅子に腰かけ、テレビに視線を向けた。
明らかに気まずい空気が流れている。
しばらくして奈々子は顔を僕には向けずに口だけ開いた。
「あたしの財布からお金を盗んだでしょ」
僕は返事をしないでテレビを観ていた。
「どうして、そういうことしたの」
だまっていた。
「あたしのこと、何も信用してないでしょ」
「そんなことない」
嘘だとおもいながらいった。
「いいんだよ。どうせ信用ないから」
「そんないいかたって。お前の方こそ」
「あたしがなに」
「お前の親父だって、いや、なんでもない」
「うちのお父さんがなに」
「なんでもない。悪かったよ。ごめん」
「いっつもそうやってごまかす。本当のことあたしにはいわないよね」
「そんなことはない。お前の方こそいわないじゃないか」
「ちゃんと訊きもしないくせに」
「訊いてもこたえないくせに」
「そっちこそ」
「お前こそ」
驚いた。お互いが同じことをおもっていた。
僕たちは、お互いが何もいわないし、何もきかなかったのだろうか。そんなつもりはなかった。なんでも話していたつもりだった。何でもきいたつもりだった。
いや、そうだろうか。ほんとうにそういえるのだろうか。全てはつもりでしかなかったのではないか。
奈々子は、ばつ一子持ちを意識して卑屈になって、僕はそれを慮るふりをしながら結局、触らぬ神にたたられないような、意気地なしの行動しか取らなかったのではないのか。
何もいわずに何もきかずに知ったかぶりを決め込んで、お互いのこころはすれ違ったのではないのか。投げやりな態度は僕の方だったのではないのか。
奈々子のことを、浮気性の性悪女といってしまえば簡単だ。そう決めつけてしまえばいい。
でも、ほんとうにそれでいいのだろうか。流れに任せて生きるしかない弱いひとなのではないのか。
もっと、気をつけていれば良かったのだろうか。じゃあいったい、何をどう気をつけるというのだ。
はっきりしていることはただひとつ。今の僕にはもう、ふたりの関係をもとに戻す力なんて少しもないということだった。
沈黙が続いた。
いたたまれなくなってきた頃、奈々子はいった。
「ちょっとそと出てくるね」
「どこに行く」
「いいでしょ。どこでも」
奈々子と啓太は外出の支度を始めた。
僕はやはり何もいえずに、ただふたりを目だけで見送った。
それっきり、奈々子は戻ってこなかった。
続く




