13 裏切り
「丙午の女は男を食い殺すんだよ」
今から三〇年も前のことだ。奈々子はそういった。
事件の後、二、三日が経った頃だった。
仕事を終えて帰る途中、僕は二人の警官に職務質問をされた。
べつだん悪いことをしているという意識は全くなかったから何故自分が、という気持ちしかなかった。名前、年齢、住所、職業、家族、ここ数日間の行動についてこと細かく訊かれた。抱いていた啓太のことも不審感を顕わに、本当にあなたの子なのかといわれた。最近、近所でボヤ騒ぎがあって放火の疑いがあるらしかった。疑いは晴れたようで、最後に気をつけてくださいといわれた。僕はとても返事に困った。
いったい何をどう気をつければいいというのだろう。気をつけたからといって、いったい何がどう変わるというのだろう。ずい分、間抜けないいようだ。
その夜、帰って来た奈々子は、昼間スーパーで万引きに間違われて事務所に連れて行かれたのだという。えらく憤慨したという話をえんえんと僕にきかせてくれた。へえーそんなことがと、僕は何気なく相槌を打つのだが、内心、そんなことがある訳ないだろうと確信していた。何故そんな嘘をつくのかと訝った。けれどいわなかった。
ふざけんな冗談じゃないと憤って話す奈々子を見ていると、仕事先を進んで探そうともしない投げやりな態度と重なってしまい、何を言っても無駄に思えてきて、結局、どっちでもいいことのように思うのだ。
中島さんはしあわせだったのだろうか。少なくとも事件が発覚するまでは、彼のこころは充実していたのだろうか。何もかも失ってしまった今、やはり後悔しているのだろうか。身にしみたといったあの表現は、たぶん後悔なのだろう。
奈々子がどういうひとで何をしようとも、だから危険な恋愛なのだとかいわれても、じゃあ何をどう気をつければいいのだろう。気をつけたからといって変わることなんて何ひとつないではないか。どんなに気をつけたところで事実は唐突にやってくるものだ。
仕事に身が入らない状況が続いた。奈々子はしだいに部屋に寄りつかなくなっていった。啓太を迎えに行っても、預けていなかったり、先に引き取りに来ていたりすることも多かった。
週のうち半分も部屋には帰ってこなかった。
帰らない日は友達のところや親のところへ行っているという。それ以上のことを訊いても口を閉ざしてしまう。
日頃から寝不足が続いていたが、こうなるとますます混乱した頭が眠気を遠ざけてしまいすっかり眠れなくさせた。不眠症のしわ寄せが、昼間の仕事に深刻な影響を与えるのだった。つまらないミスを犯したり、約束を忘れてすっぽかしたり、横柄な態度を取ってしまったり、そんなだから営業成績は急降下していった。支店長の締め付けも日々厳しくなる一方だった。
さらに奈々子は啓太を放置して遊んでいることがあった。僕が仕事に出る朝になっても帰ってきていない。託児所にも預けることができない。仕方なく啓太を置き去りにするしかなかった。
たいてい午前中には帰って来て啓太の面倒をみているようだったが、気が気ではなかった。
ある夜、また香苗がやってきた。啓太に会いにきたといった。奈々子は当然のようにいない。小一時間ほど啓太をあやしたあとで僕にいった。
「奈々子とはどうなの」
「どうって、まあそれなりに」
「あまり上手くいってないみたいね」
「いや、そんなことはないし。そっちこそどう、晃一君と」
香苗は訝しげに僕を見つめた。
「まあ、それなりに」
「じゃ、いっしょじゃん」
「奈々子はねえ、毎晩、男と遊んでるよ」
「えっ」
僕は言葉を失った。
相手は『ロンシャン』に毎晩のように通って仲良くなった三十がらみの男だという。その男の部屋にしょっちゅう行っているらしい。
きっとそうなのだろう。これだけ夜帰ってこない理由は、そんなことしかないだろうと薄々は考えていたことなのだが、姉の香苗にはっきり告げられると、それはそれでショックが大きかった。急に心臓の動悸が激しくなって動脈が泡立つような嫌な感覚に襲われる。
だけど、いい機会ではないか。考えようによってはこれはまさしく別れるには絶好のチャンスといえる。なにもかもその三十がらみの男に押しつけて、いち抜けたでいいのではないか。これ以上義理立てする意味など何もない。僕の中では逃げ出したい気持ちが芽生えていた。
ここまでやってきて、頑張ってきてこれでは、いい加減じゅうぶんじゃないか。誰にも責められる筋合いはないではないか。
「馬鹿だよね。奈々子は。こんなにいい人が待ってるのに」
「え、いや。そんな」
香苗は啓太の両手を取ってあやしながら、さびしそうな笑顔を見せた。
「じゃあ、帰るね」
「そう。じゃ気を付けて」
玄関まで見送ると、香苗は僕の顔をじっと見て、思いつめたような顔をした。それからすっと抱きついてきてキスをした。あまりに突然で除けようがなかった。一瞬、唇が触れるだけのキスだった。バードキスだ。
「じゃあね」
香苗は背中を向けた。
僕は香苗の唇の感触を奈々子と較べていた。馬鹿じゃないのかと自分を罵りながら、いつまでもその感触を覚えていたいと思ういやらしい感情には抗えないでいた。
次の日は奈々子の父親がやって来た。
「奈々子はいるかい」
「いえ、いませんけど」
「いつ帰ってくるかね」
「さあ。最近はわからないんです」
あの穏やかだった顔にはしわが深く刻まれていて、苦悩の色がにじんでいた。
「毎日帰ってこないのかい」
「ええ、帰ってきたり来なかったりです」
「そうかい。やっぱりそうか」
落胆した顔には年齢以上に年老いたさびしさみたいなものが感じられた。
「なあ、ヒロユキくん。頼みがあるんだけど」
父親は急にそわそわして目を泳がせた。
「なんですか」
「いや、実は、恥ずかしい話だけど、ちょっと支払いが足りなくてね。困ってるんだ。すぐに返すから一万円ほど貸してくれないかな」
「あ、いいですよ」
僕は財布から一万円を取り出して渡した。
「や、助かるよ。悪いね。すぐ返すから」
父親はあわてて玄関に向かっていった。そしてきびすを返していう。
「あの、ヒロユキくん。ごめん。もう一万円なんとかならないかい。本当に申し訳ない」
済まなそうにそういわれると、貸さない訳にはいかなかった。しかし、すでに今月の生活費もぎりぎりだ。すぐに返してくれればいいが、でなければこちらも困ってしまう。
僕は一万札をもう一枚差し出した。財布の中はずい分とさびしくなってしまった。
「ありがとう。恩に切るよ。じゃあまた」
父親は笑顔という仮面を、顔に被せたような笑顔を見せて玄関を出た。きっと、外に出た瞬間にその仮面を脱ぐのだろう。財布以上にさびしい気持ちになった。
いったい何に使うのだろうか。実家も大変なのだろう。例えお金が戻らなくても、このことは奈々子にはいわないでおこうと決めた。無駄に争いの種をつくりたくなかった。
続く




