11 地吹雪
「丙午の女は男を食い殺すんだよ」
今から三〇年も前のことだ。奈々子はそういった。
元旦に奈々子の実家へ顔を出した。
そのまま僕は奈々子と啓太を残し、正月二日にはひとりで故郷へ向かった。一緒に連れていかなかったのは奈々子が遠慮したことと、いきなり子連れを会わせて驚かれないよう、まずは前ふりをと思ったからだ。
実家に帰るのは決まってお盆と正月だけだった。
雪に埋もれたふるさとの町は閑散としていた。年ごとに過疎化が進んでいるせいか、商店街を歩く人も極端に少なく感じる。いくら正月だから殆どの店が閉まっているとはいえ、ゴーストタウンかと見間違うほどだ。
海岸近くの古いブロック造りの公団住宅に住む両親はこのところ、帰るたびに小さくなってしまって、みるみると年老いてゆく姿がとても哀れに思えて、どうにもこうにも僕をこの場所に居づらくさせるのだった。
幼い頃から争いの耐えない家庭だった。
難産のために母子ともに命を落としてしまった前妻の影におびえる父。それをこころよく思わず父との対立を繰り返してきた後妻だった母。罵りあい、罵倒しあうことでしかお互いの存在を確かめることができず、まるで四六時中闘い続けることを生きがいにすり替えたかのような夫婦だった。
姉も兄も弟も、絶えず繰り広げられる修羅のような毎日に、こころ壊れた時期がある。
そんな風でありながら、不思議に別れることなく今日まで暮らしてきた夫婦のきずなは、細くて弱い織り上げた枯草のようだった。彼らの歴史は、彼らにとってかけがえのない尊いものであることには疑いようがなかった。
「あけまして、おめでとう。父さん、母さん」
「まんず、めでてもんだべがな」
母は嬉しさを表に出さずに渋面を装う。いつもこうだ。
「ああ。ヒロが。よぐきたな」
父は焼酎焼けの顔をさらに赤くして笑った。
母はデレッキでストーブの石炭を掻きまわし始めた。父は座椅子に背中を預けて焼酎を舐めながらテレビを観ている。窓辺に鏡餅が飾ってある以外は正月らしさなど何もない家だった。
「お雑煮作ってっから。食ってけ」
正月休みを実家で過ごすといっていた三つ上の姉が台所から顔を出していった。
「あんまし、時間がねえから。ちょっとだけなら」
僕はそういって小さな封筒を父と母に差し出した「これ、少ないけど、取っといて」
ボーナスから少しだけ包んだお年玉だ。
「ありがてな。どもども」父が頭を下げて受けとった。
「なしておどさんさ、渡すのさ。すんぐ呑んでまうべさ」母は受け取りながらすぐに父との争いの口火を切る。
「うるせての。何こいだもんだが」
「なに、この呑んべがっ」
母はデレッキを振り上げた。父も構える。いくら身体が衰えてもこれだけは変わらない、見飽きたいつもの光景だった。
「いいから。やめなって。正月くらいおとなしくしなって」
呆れた顔で姉が雑煮を運んできた。「まったく。正月も何もないんだから」
姉がつくった雑煮を食べながら僕は奈々子の写真を取り出して見せた。次に啓太の写真も見せた。すでに一緒に住んでいることをほのめかした。
「いっしょになるってが」
「なんだが目え悪いから見えねな」
父と母は少し驚いて写真に目を向けた。
小さな船に乗って漁をしていた父は、体を壊して今は隠居の身だ。母が魚の加工場へパートに出てはいるが、あとはわずかな年金で暮らしている。昼間から焼酎をちびちびやっている父は息子に何か意見をするような気持ちはすでにないのだった。しかし、母に対しては荒い気性を剥き出しにする。夫婦の争いは、互いの老化を鈍化させるための妙薬なのかも知れなかった。母は最近、白内障が進んでいて細かな写真はよく見えないようだったが、口出しすることもなかった。
「そのうち連れてくるから」
「ちょっと、大丈夫なのかい。急にそんな。もう少しちゃんと考えたら」
姉は心配していった。
「大丈夫だって。馬鹿じゃねえから。ちゃんとやるからさ」
姉はすぐに諦めたようすだった。奈々子のことを、写真の顔を見ただけで性格が良さそうなひとだと適当な判断をしていた。
いいのかなこれで。拍子抜けした僕は判然としないまま、やはりこの場所での居づらさはぬぐい切れず、その日は泊まることなくすぐに札幌へ引き返すことにした。札幌までは二時間程度の距離だった。奈々子たちもきっと待ちわびていることだろう。
母から土産に渡された冷凍の干し魚やタラコやカズノコなんかを風呂敷に包んでもらいクルマに積んだ。
海は荒れていた。海から吹いてくる潮風は冷たいというよりは痛いほどで、しばれるという言葉がぴったりのふるさとの正月だった。もう三年も経つ、この町に住む大失恋の彼女のことを思い出すこともなかった。
帰り路の吹雪の中、僕はクルマを運転しながら考えていた。
刑務所にいる別れた旦那とはどんな奴なのだろう。奈々子の両親の懇願する顔が浮かぶ。香苗の誘惑めいた行動や、社長の励ましや、奔放な奈々子の顔や、あどけない啓太の顔が次々と浮かんでは消えてゆく。秋から冬にかけての目まぐるしい変化に、めまいのような感覚が襲ってきて、やがて不安にさいなまれた。
迷うな、間違ってはいない。たとえ間違いだとしても、自分が決めた道なのだ。決して振り返らず突き進もうと決めた道だ。
どかん。
あっと思う間もなく、激しい衝撃が襲ってきた。僕はハンドルに強く胸をぶつけてしまい、車体は急停止した。
除雪作業が行き届かない上に防風設備が未整備の当時の田舎道は、吹き溜まりがあちらこちらに出来るため地面を舞いあがる地吹雪が起こり、視界が全く遮ぎられることがある。 油断すると、容赦なくクルマごと雪山に突っ込んで飲み込まれてしまうのだ。国道でさえそれが当たり前だった。
自分の決めた道を考えるどころではなくなった。僕のクルマは地吹雪に飲み込まれ、あっという間にハンドルを取られて半転し、反対車線の道路脇の雪山に車体をめり込ませてしまった。
対向車がなかったのが唯一の救いだ。不幸中の幸いではあったが、しばらく恐怖に締めつけられて心臓が激しく脈打った。
やがて落ち着いてくると、状況を判断する必要に迫られた。何時までもこのままではいられない。クルマは対向車線の半分を遮っていた。このままでは大渋滞を引き起こしかねない。正月の田舎道だからさほど往来はないと思うが、それにしてもかなり拙い状況だった。
ギアをバッグに入れてアクセルを吹かしてみたが、一度だけがくんと車体が揺れた後はもう動かなくなった。前進とバックを繰り返してみる。だめだ、ぴくりとも動かない。窓を開けてタイヤがむなしく空回りする様を確認する。どうみても自力で脱出することは不可能だった。
ドアを開けてみるが強い抵抗を感じる。雪の塊が邪魔をしている。何度も力を込めてドアを押しのけて、ようやく二〇センチほどの隙間を開けることができた。すり抜けるようにして外に出てみると、地吹雪は止んでいたが雪山にはやはり車体の三分の一ほどがめり込んでしまっている。
こまった。脱出する手立てはない。助けを呼ぶにも近くには公衆電話すらない。天を仰ぎ、途方に暮れてしまった。
五分ほど突っ立って思いあぐねていると、資材を積んだ四トントラックが停止した。
「どうした」
三〇歳くらいの妙に口ひげが様になっている、浅黒い顔をした運転手が降りてきた。
「地吹雪で前が見えなくなって、気付いたらこんなことに」僕はこたえた。
「下手糞が。冬に運転なんかすんなよ。待ってろ」
運転手は手際よくロープをトラックと僕のクルマとに結びつけ、そのまま引っ張ってくれた。あっという間に脱出することができた。すばらしい手際の良さに僕は感激した。
「あ、ありがとうございました。あの、お礼させて下さい。お名前は」
「いらねえよそんなもの。いいか、死にたくなかったら冬はこんなとこ走るな。クルマは万能じゃねえからな」
言い残すと、颯爽とトラックに乗り込んで去っていった。
助かった。地獄に仏とはこのことだ。去っていった運転手が、まるで後光が射した神様のように見えた。
クルマに乗りこむと、安堵とともにいっぺんに疲れが押し寄せきた。大きなため息をひとつついてハンドルに突っ伏した。
ようやく頭をもたげて札幌方面へと方向転換を始めたが、ハンドルを握る手はいつまでも小刻みに震えていた。
続く




