10 視察
「丙午の女は男を食い殺すんだよ」
今から三〇年も前のことだ。奈々子はそういった。
翌朝、手早く仕事に出る支度をしていると、部屋の隅で寝ていた香苗がむくりと起き上った。
「おはよ」
「あ、おはよう。今日は晃一君と仲直り、ちゃんとしなよ」声をかけた。
「うん、そうする」
香苗は眠そうな目をこすりながら欠伸をした。
つられて僕も大きな欠伸が出た。
「あんまり寝てないでしょ」
「え、いや。ちゃんと寝たよ」
「うそ、夜中にやってたでしょ。奈々子と」
上目使いでいうのだった。すっかりばれてしまっていた。
「え、いや。してない、してないよ」
晃一君の下手な言い訳みたいになって僕は慌てた。洗顔もそこそこに部屋を飛び出した。
いつもどおり支店に着いて清掃を始めると 支店の中がいつもと較べてそわそわしていた。社長が視察にやってくるというのだ。
ああ、そう言えば週の初めにそんな話があった。
事務所の中はいつになく緊張感が漂い、念入りに片付けや清掃やショールームの飾りつけに取り組んだ。
清掃が終わった頃に社長と専務がやってきて支店内外の視察を始めた。支店長がふたつみっつ小言を言われ、朝礼ではありがたい訓示をいただいた。
長居をする訳ではない。このあと南北海道にある十五の支店を順繰りと廻るらしい。朝礼後、帰る間際の社長が僕に声を掛けてきた。呼び止められた僕は人目につかない場所へと促され、初めて社長と直に対面することになった。
「牧野君、あれか。今、好きな女性と一緒にいるのか」
「え。どうしてそれを」
僕は心底驚いた。まさか社長にまで伝わっているなんて。
「ああ、噂で聞いたよ。子持ちなんだって」
社長は四角い顔を少しほころばせていった。
「あ、はい」
「責任を持って面倒をみるつもりなのか」
「ええ。そのつもりです」
消え入りそうな細い声で答えるのがやっとだった。うつむいた顔は真っ赤だったろう。
「いいじゃないか。その分仕事に励んでくれればいい。がんばれよ。会社としてもあれだ、援助する方向で考えるからな」
「あ、ありがとうございます」
「困ったことがあれば、何でも相談しなさい」
「はいっ」
社長はきりっと口を結んで僕を見つめた。そして握手を求めてきた。
僕は照れくさくて嬉しくて、汗ばんだ手をズボンで拭い、固い握手を交わした。
それではと、振りむいて歩き出した肩幅の広い背中を、僕はいつまでも見送った。
中島さんをはじめ支店のみんなが肩や背中を叩いてきて、祝福のような励ましのような冷やかしを、僕は痛い思いで受け止めた。
「大丈夫なのか」
「くじけるなよ」
「大変だな」
「しっかりやんなさいよ」
「頑張れ」
それぞれの声にはやさしさと温かさが溢れている。祝福に満ちている。あの頃の僕はそう信じて疑わなかった。
三人で迎えたクリスマスは最悪だった。
僕は小さなクリスマスツリーを飾り、ケーキとチキンと寿司を用意した。ボーナスで買ったバッグを奈々子に、啓太には服を、それぞれ用意して待っていた。
けれどクリスマスは店もかきいれ時だ。客とのつきあいもしかたないにせよ、結局、奈々子が帰ってきたのは朝がただった。なるべく早く帰ってくるといっていたのに、朝早くではどうしょうもない。僕は朝食に乾いてぽろぽろの寿司をつまんで会社へ向かった。
寝ぼけた奈々子が僕にくれたプレゼントは腕時計だった。決して高くはないものだったが、飛び上がるくらいに嬉しかった。
大晦日は三人で過ごした。クリスマスの穴を埋めるかのように奈々子はたくさんの料理を作ってくれた。上機嫌で鼻歌を歌いながら台所に立つ奈々子を、僕は手伝うふりをして後ろから抱きしめた。奈々子は怒りながら笑った。
ささやかな年越しの宴。たくさん食べて飲んで、啓太を抱っこしながら奈々子と寄りそい紅白を見た。
これ以上ないしあわせが僕らをつつんでいた。
続く




