概念『記憶の固執と分解』
眼を開く瞬間というのは一瞬の出来事だ。特に気になることもないし、そもそも意識がそこに注意を払おうとしない。ごく一般の、極限まで機械化された行動なのだ。ただときに、ただ眼を開くという行動ですら、恐ろしくなる瞬間がある。
目を開くとは、視る世界を意識の中から現実へと向けるということ。意識という自己でできた自己のための世界を見るのではなく、ありのままの、直接自分へとのめりこんでくる世界を受け入れるということ。それはまるで、現実という生物が、自分の角膜を突き破って光彩をつつき、脳内に直接侵入してくるようなものだ。我々は母体より生れ出て病院のまぶしい照明と天井を見る時から、その生物を難なく受け入れている。受け入れなくては、堕ちてしまうからだ。それが、第一の眼。通称「眼球」である。
しかし我々人間は幸運なことに、第二の眼を獲得する。他の動物にはない、知と本能の混ざり合った眼。第一の眼に脅かされながらも、決して屈することなく、真実を常にまっすぐ見つめようとする眼。第二の眼、通称「意識」だ。生まれてすぐには、この眼は開かない。言葉に触れ、他人を知り、自我を知ることでやっと開き、更に文化と叡智に洗練されてついに真実を見ようとする。決して現実に騙されない、美しい真実のある世界。その世界とは、平たく言ってイデアである。
さて、瞼を上げれば第一の眼が開き、閉じれば第二の眼が開く。
しかしどうだろうか、今私が視ているのは、まんま意識の中ではないか。私は瞼を上げているというのに。時計が泳ぎ、リュウグウノツカイが横たわり、レンガが規則正しく配置されている。ここは現実か―意識か―いや、現実であるはずがない。現実で今見えるように時計がぐにゃりと曲がることはまず在り得ないし、こんなに水中に移る山の風景が水面から離れていることも起き得ない。―となれば、やはり夢か、夢なのか?しかし私の意識はこんなにも鮮明に、はっきりと、それこそ朝強い日差しに起こされたときのように冴えている。であれあば、―現実――いやいやいやいやいや……
答えが出ない。不思議なものだ。例えるなら、夢のような空間で、現実を見ている。いや、この表現はよろしくない。現時点で、そもそも夢の中なのか現実の中なのかわかっていないのだから。では、私は何処にいる?まさか、この今見えている世界こそ、「物自体」なのか?まさか、私の理性がそこまで現実を直視できるとは思えない。では、イデアか?いや、これもない。イデアならば物は一つでいい。不自然に曲がった時計がいくつかあるのも、レンガが何十も配置されているのも、どれもイデアの定義に反している。
ではここは、記憶か?私は今、記憶の中に目を入れたのではないか。ありのままでしかない現実でもなく、恣意性と本能で構成された意識でもなく、ただの記憶なのではないだろうか。そういえば、意識と記憶は似ている。記憶から意識が作られるからだ。意識という器は、記憶と本能で満たされ生まれるのだ。原材料である記憶が視れるのかどうかは、私にはわからない。一般的に、視れていると思っている記憶は、実は意識の恣意性というレンズを通した間違った記憶というのが通説である。しかし私が視ているのは、今まで回顧してきた度の記憶とも違う、全く新しい形だ。いや、新しいのではない。これこそ、真の記憶の形なのだ。どうやら、私は第三の眼を手に入れたらしい。通称、「閃後」である。