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荊の魔女  作者: 宵宮祀花
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星影の夢

 温かな水面をたゆたうような、ゆるりと滲んで混ざる意識の中で、フィオは自身の名を呼ぶ、甘くとろける蜂蜜のように深い黄金色の声を聞いた。胸の奥を満たしていく優しい声。欠け落ちたなにかを包み込んで埋めてくれる懐かしい声だ。

 暗いほうへと沈みゆく体を引き上げられる感覚。のち、朧気だった意識がふわっと浮上したのを感じて目を開けると、どこまでも透き通ったアイスブルーが眼前にあった。


「……ベル……?」


 うっすらと水幕が張ってぼやける視界を取り戻そうと軽く目を擦りながら名を呼ぶと、ベルはいつものやわらかな微笑を見せてフィオの髪を撫でた。子供に対する母のような、優しい慈しみの手がフィオを包む。


「おはようございます、フィオ様。お目覚めはいかがですか?」

「んん……悪くはないわ。熟睡してしまったみたいだから、夢も見なかったもの。ねえ、フィオ、いつの間に眠ってしまったのかしら」

「ほんの二時間ほど前です。初めての場所で気持ちが高ぶったのでしょう」


 未だぼんやりしている様子で辺りを見回すフィオに、ベルは穏やかに答える。


『良い夢を』


 確かに、そう聞いたことだけは覚えている。きっと、そのときに眠ったのだろう。頭の片隅に引っかかる違和感は見ないふりで、フィオは眉を下げてベルに笑いかけた。


「……ねえベル、もうフィオは、今更覚えのないベッドに寝ていることは気にしないわ。ベルと出会ってからは何故かよくあることだもの。それより、もしかしてその二時間ものあいだ、ずっと待っていてくれたの?」

「はい。フィオ様のお傍に、片時も離れずおりました」


 にっこりと、それは綺麗に微笑んで言うものだから、フィオは力が抜けて起こし掛けた体をベッドに沈めて溜め息を吐いた。額に右手をかざしながら首を傾げてベルを見ると、相変わらずの微笑みがそこにあった。こんなにも頻繁に、フィオと会話する度に氷の瞳をとろけさせていたら、いつか水になって落ちてきても良さそうなものなのに、ベルの瞳は僅かも揺るがない。幸せそうに緩やかな弧を描いてフィオを捕らえている。


「ベルは良く飽きないわね。図鑑を見ていたのでもないのでしょう?」

「ええ。フィオ様に対して飽きるなど、有り得ないことです。その呼吸、瞬き一つさえも独り占めできる誉にあずかっておきながら目を離すなど、とんでもないことです」


 うっとりと目を細めて、謳うようにさらりと言い切られ、フィオは目を丸くしてベルを見つめたまま固まってしまった。これまでも何度となくほめ殺しに遭ってきたが、今回のそれはまた一段と熱烈だった。

 じわりと顔が熱くなる。きっと、ベルの目にも明らかに色づいたのが見えるだろう頬を隠そうとブランケットを目元まで引き上げて、恥ずかしいのを誤魔化すべく、にこにこと幸せそうな従者を睨んだ。彼の澄んだ氷の眼差しが何故こんなにもフィオの心と体に熱をもたらすのか、理解が出来ない。


「もう……わかったわ」

「ありがとうございます、フィオ様」


 ベルの満足そうな応答に、最早なにかを返す気力も湧かなかった。

 いまになってようやく本当の意味で目が覚めたのか、ベルに圧倒されてそれどころではなかったのか。フィオは体を起こすと、自身にかけられているブランケットと、変わった形のベッドに気付いた。

 真珠のネックレスにも似た、数珠状の鎖が天井から下がってベッドの四方を支えている形状なのかと思えば、波のような曲線で形成された支柱がしっかり立っている。三日月の部分は、フィオのためにオーダーしたかのように体に合っていて、寝心地は寝室でいつも使っているベッドと比べても遜色ない。


「このベッドも、ベルの魔法なの?」

「はい。フィオ様を想い、この書庫にあうものをお作り致しました」


 ベルの言う通り、星図に挟まれたこの場所に三日月のベッドはよく合っている。書庫は寝るための部屋ではないという真っ当なことはともかく、最初からここにあったものだと言われても納得出来るほどだ。


「そう。途中で眠ってしまったのはもったいなかったけれど、このベッドは好きよ」

「光栄です、フィオ様」

「なにも眠らなくても、ここで本を読んでもいいのよね。また頼んでもいい?」

「フィオ様がお望みなら、いくらでも」


 思ったことをただ口にしただけでも、ベルは満面の笑みで喜ぶ。長い冬が明けて、春が訪れたかのように。

 いつだったか、フィオはベルに、なにもそこまで大袈裟にとらなくてもと言ったことがあった。そのときのベルの言葉はいまでもフィオの心に焼き付いている。


『フィオ様が、私のためにその細い喉を震わせ、麗しいお声と可憐な唇でもってお言葉を紡いで下さる。その栄誉を喜ばずにいるなど、私には不可能です』


 思い出すだけで熱が出そうになる。フィオは軽く首を振ると、ベルに向き直って両手を差し出した。


「ベル、下ろしてちょうだい」

「畏まりました」


 背中と膝裏を支えて横抱きにし、星図の上にふわりと下ろす。スカートの裾や髪を軽く整えると、ベッドが現れたときと同じ細い光の粒子に包まれて、空気に溶けるようにして消えた。代わりに現れた椅子には、緋色のひざ掛けが所在無げに座面に置かれている。


「図鑑も面白かったけれど、魔法の本も読んでみたいわ。だって元々はそのために来たのだもの」

「ではフィオ様、何冊か選んでお部屋まで持って帰られてはいかがでしょう? まもなくお茶の時間になりますから、そのあとにでも」


 ベルの言葉に、フィオはいま気付いたような顔で目を瞬かせた。地下書庫には当然窓がない。言われるまで気にしなかったが、見える範囲に時計も見当たらない。時間を忘れて研究に没頭するにはいい空間だが、好奇心の赴くままに動きがちなフィオには、今後ともベルの同伴が必須になりそうだ。


「もうそんな時間だったのね。それなら、実は気になる本をいくつか見つけてあるから、その中から選んで持って行くことにするわ」

「お手伝い致しましょうか?」

「……お願い」


 ベルの申し出に恥ずかしそうに頷くと、フィオは視線をあちこちに彷徨わせながらも、足取りは迷いなく本棚のあいだを縫っていく。そして所々で立ち止まってはベルに取ってほしい本を指し示し、持ち帰る分を集めていった。

 選んだ本は、魔法の基礎知識に関するものと、星読みと言われる、魔術というより占星技術に近いものを簡潔にまとめた入門書だ。


「そちらの二冊で宜しいのですか?」

「ええ。一度に欲張っても読み切れないもの。それに、ここにはまた来たいわ」

「畏まりました。では、戻りましょう」


 ベルが差し出した手をフィオが取ると、空いた手にそれぞれランプと本を持って書庫をあとにした。

 書庫を出てすぐ、真っ直ぐ伸びた通路には、暗く寒々しい牢が並んでいる。片側に牢が五部屋ほどあり、もう片側には等間隔に炎の小さいランプが並んでいるのだが、それらの灯りはあまりに儚く、牢室の奥までは照らさない。牢の通りの突き当たりにある書庫へと行くには必ずここを抜けなければならないのだが、フィオはこの通路が苦手だった。


「ここはいったい、何のために作られたのかしら。戦があった頃は他国の兵を捕らえたりすることもあったでしょうけれど、それにしては寝台の一つもないのは不思議だわ」


 本をぎゅっと胸に押し付けて抱きしめ、不安を押し殺した声でフィオが呟く。

 暗闇でしかない牢の中は、それゆえに余計な想像を働かせそうになる。フィオが歴史の本で見た地下牢の図説には、手錠や寝台、排せつ用の穴などがあった。たとえ囚人や捕虜だとしても人として最低限必要なものが置いているとあったが、ここの牢には、明らかにそれだけではないなにかの痕跡が多数残されている。


「……そうですね。猛獣でも捕らえていたのではないでしょうか。古くは、猛獣と戦士を戦わせる見世物もあったと聞きます」


 入口などの作りからこれが猛獣用の檻などでないことは、世間知らずのフィオにも理解出来た。けれどフィオは、人が人を捕らえるという行為に自分でも不思議なほどに恐怖と嫌悪感を覚えるため、無理やりでもそう思い込むことにした。


「そう、よね……昔は狩りも貴族の嗜みだったそうだもの、フィオには野蛮に思えることだって、楽しみになっていたこともあるわよね」

「ええ。……さあフィオ様、もうすぐ階段です。お気をつけ下さい」


 ベルの手をきゅっと握り、ゆっくりと階段を上がっていく。背後に広がる深い暗闇から逃げるように。

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