愛したのは敵国の人間
二作品目の短編です!
最初はシリアス展開続きますが、ちゃんとハッピーエンドで終わりますので是非最後まで読んでみてください!
一六五〇年。大国の領地拡大が進む中、アズライト王国と隣国のウレキサイト王国との戦争が勃発。戦争はちょうど一年後、ウレキサイト王国の勝利で終わりを告げた。
その後アズライト王国は植民地になってしまう。表面上は保護国となっているが、実状国民は重労働を強いられ、しばしば虐殺も起こっていた。
ウレキサイト王国の非人道的な支配が続く中、アズライト王国の民は時々反乱を起こし抵抗を見せるが、その悉くは鎮圧され、人々は処刑された。
大半はその場で斬首される。しかしごく一部の最後に戦意喪失した者は牢屋に入れられ、その後裁判を受けることになる。と言っても牢屋では兵士たちの惨たらしい行為によって、大半は裁判の前に衰弱死してしまう。はっきり言って斬首刑の方がまだマシである。
そんなウレキサイト王国の牢屋に今日も何人かの罪人が収容された。
その内の一人、ガーネットは直接反乱を起こしたわけではなくそれを補助した、ということで捕まってしまった。
彼女の周りでは反乱に加わった男が次々に首を斬られた。その中には親や兄、そして恋人であった大切なあの人も。愛していた人が目の前で死に行くのを見て、最早彼女には何の希望もなかった。
「ベリル……」
ガーネットは牢屋の中で蹲り恋人の名を一人呟く。彼の顔がどうしても忘れられない。
周りの人間から聞いた話によると、牢屋では男は暴力を受け、女は陵辱を受けることになるらしい。
腰まで伸びた艶やかな金髪に、宝石を散りばめたような碧眼。まだ幼さが残るが、大人にも負けぬ上品な顔立ち。そんな容姿端麗なガーネットがこれから受ける事は想像に難くない。
そんな監獄の中に一つの足音が響き渡る。足音は彼女の牢屋の前で止まった。鉄の扉が錆びた金属音を立て開く。彼女は恐怖に怯えながら悪魔の到着を待つ。
「怖がらないでください。僕はあなたを傷つけたりはしません」
しかし悪魔の笑い声は聞こえない。代わりにガーネットを包み込むように優しい声が鼓膜を揺らした。思わず顔を上げそうになるのを抑え彼女は震える口を開いた。
「お願いします、殺してください」
この国の人間は無慈悲で残虐。そう教え込まれた彼女はせめて楽に殺してくれと懇願する。男に体を汚され、苦痛のうちに死ぬのなら、今すぐ殺された方がましである。
しかし返ってきた声はこれまた彼女の予想に反するものであった。
「僕はあなたを殺すことも、痛めつける事もしません。僕にそんな酷いことはできません」
声の主は彼女の前まで来ると甲冑の音がして隣に腰を下ろしたということがわかった。それを彼女は横目でちらりと一瞥し、すぐに視線を床に戻した。
顔までは確認できなかったが露出した張りのある肌の様子からして若い男であることは間違いない。
「それなら私をどうするつもりですか?」
「何もしません。仕事ですのでこうして牢の確認をしているだけです」
「…………」
青年の言っていることが彼女には理解できなかった。ここに連れて来られる間に聞いた男女の悲鳴。それを嗤う男たちの声。何もしないなどあり得ない。甘言で彼女を惑わし、それから底に突き落とす気かもしれない。
「僕の名前はユークレスです。貴方の名前を聞かせてもらっても構いませんか?」
「…………」
「……警戒されるのは無理もないことですね。名前を聞くのは尚早でしたか」
ユークレスと名乗るその青年は苦笑を漏らし、自分の無礼を詫びた。何故ここまで親切にしてくれるのだろう。
「食事を置いておきます。今の段階で食欲がわかないのは承知してますが、どうか口に運んでください」
そう言って彼は牢屋を後にした。それを確認したガーネットは横に置かれた一切れのパンに目を向けた。お腹が鳴る。ここ何日か何も食べていない。しかし、彼女はそれを口にすることはなかった。ここで生き長らえても、苦痛の時間が増えるだけだからである。
その後も何事もなく時間は過ぎ、次の朝を迎えた。
眠ることもせず同じ場所にいたガーネットの元へ、またあの青年が来た。
「やはりこれはお気に召しませんでしたか?」
そう言い錆びたお盆の上に乗ったパンを手に取った。代わりに彼は一つ皿をガーネットの横に置いた。
「今朝出されたシチューをこっそり持ってきました。まだ温かいですし、味も保証しますよ。他の監視に見られる前に食べていただけると嬉しいのですが」
彼女はやはり青年の顔を見ず、視線だけをシチューに向けた。渇ききった口の中から唾液が溢れる。
拘束されてから牢屋に連れてこられ、その時から一口も食事を口にしていない。そんな彼女の前に現れたごちそう。彼女の空腹は限界に来ていた。
「…………」
「こんなに痩せ細ってしまって、このままでは死んでしまいます。せめて一口でもいいので食べていただけませんか?」
青年の顔が近づくのを感じた。ガーネットの顔を覗き込もうとしているらしい。彼女は咄嗟に彼と反対側に頭を傾けた。優しい彼はまるで死んでしまった恋人に似ている。
「すみません、そんなつもりはなかったのですが……」
彼が突然慌てた様子で謝罪を口にした。その理由はガーネットから零れ落ちた涙であった。
それは悲愴と憤怒の権化である。大事な人を失ったことへの悲しみ。敵国の人間をあの人と重ね合わせてしまった自分への怒り。
彼女は体を震わせ嗚咽交じりの声を漏らした。そんな彼女の頭にポンと何かが置かれた。それはゆっくりと彼女の頭を撫でる。故郷にいるような懐かしさ、あの人のような暖かさがそれにはこもっていた。
「離して……」
しかし彼女から出てくる言葉は拒絶。この国の人間は彼女の愛する人々を殺した。どんなに優しくされようがそれを受け入れてはいけない。そう頭で自分に言い聞かせる。
「……はい」
青年は名残惜しそうにゆっくりと手を退けた。
「なぜ、私に優しくするのですか……?」
「僕は元より自分の意思でここに配属されたわけではありません……僕は自分の国のする行為を愚かな事だと思います。だから、せめて僕の担当する人には辛い思いをさせたくないのです。それにーー」
そこまで言いかけて彼は口を噤んだ。
「…………」
ガーネットは絶句してしまう。
まさか自国の行うことを否定するなんて。愛国心はないのだろうか。いや、今はそんなこと関係ない。
「あなたが本当に私に辛い思いをさせたくないのなら……ここで一思いに私を殺してください」
それが彼女の願いだ。しかし自分の言葉に違和感を感じる。これは自分の本当の思いである……はずなのに。本当に自分は死にたいのだろうか。
「また昼と夜にごはんを届けにきます……」
彼はガーネットの言葉に答えずに立ち上がった。足音が遠ざかっていき、扉が音を立てずにゆっくりと閉められた。
暫くして彼女は横に置いてあった、シチューの入った皿を手に取った。美しい金属製の皿は明らかに囚人に出されるものではない。ご丁寧にスプーンまでついている。
それに昨日のパンと違い、多くの野菜、それに肉まで入っていた。いつもに比べ幾らか細くなった腕でスプーンを持つ。
「……だめ」
しかし彼女は結局それを口にすることはなかった。
その後昼、夜と青年は彼女に食べ物を持ってきた。しかしどちらも口を聞くことはなく、出されたものも全て食べずに終わった。
既に夜が更けり外からは月の明かりが微かに差し込む中、ガーネットは寒さに震えていた。
現在の季節は秋。夜になれば零度以下まで冷え込むこともある。しかし彼女の着ている服は薄い肌着一枚。牢屋に入れられる前にそれ以外は取られてしまったのだ。
昨夜に比べ今日はかなり冷え込んでいる。身体の末端は赤く染まり、霜焼けを起こす。彼女はできるだけ身を丸め寒さに耐えていた。そんな時であった。
「ーーえ」
不意に身体が何かに包み込まれる。そして徐々に冷えが薄れていった。心地よいサラサラとした肌触り。おそらく毛布であろう。
またあの青年が持ってきたのだろうか。突然すぎる展開にガーネットは彼に礼を言うか迷ってしまう。
しかし、青年は無言のまま牢屋を出ていってしまった。
彼女は羽織られた毛布をぎゅっと引き寄せた。
「ありがとう……」
彼女の独り言のような小さな声は誰に届くこともなく消えていった。
三日目の朝を迎えた。
時計がない牢屋の中では光の差し込み方で、大体の時間を知ることができる。今日も朝日が微かに牢屋を照らす頃に彼はやってきた。
彼は昨日と同じで何も喋らずに料理を乗せるお盆を置いた。しかしその後ガーネットの横に腰を下ろしたのは予想外であった。相変わらず顔を上げずにいる彼女は変に反応しないよう、身体に力を込める。
「本を持ってきました。やはりここにいるだけでは退屈だと思いまして。……貴方の嗜好に合うかわかりませんが」
「ここに置いておきますね」と青年はその本をお盆の横に静かに置いた。暫しの沈黙の後彼は立ち上がり牢屋を出ようとする。
「待って……!」
疲労した彼女は今出せる精一杯の声を発した。
慌てて振り返ったのだろう、甲冑のカチャカチャという音が数回聞こえた。
彼女自身も予想以上の自分の大きな声に少し驚いてしまった。
「どうしましたか?」
「……良ければ、本を読んでいただけませんか?」
「ーー僕でよければ」
そう言うと再び彼はガーネットの隣に座った。
彼が読んでくれたのは、小さな町で生まれた一人の少年が圧政を行なっていた王を打倒し、平和を築くという内容であった。あまり厚い本ではなかったため、小一時間ほどで読み終えてしまった。
その間の、亡くなった恋人を連想させるような彼の優しい声に、ガーネットは引き込まれそうになっていた。
「……素敵な話ですね」
「良かったです。僕はこの本を子供時から何度も読んでいるんですよ。もう書かれていることは大体覚えてしまいました」
青年は嬉しそうに語り、それを聞いたガーネットからも自然と笑みが溢れてしまう。
「やっと笑ってくれましたね」
ガーネットの耳がほんのり赤く染まる。寒さからではなく、何となく恥ずかしくなってしまったのだ。
彼女は居心地の悪さから逃れるため話を変えることにした。
「貴方は国の平和を望むのですか?」
「国、というより世界の平和ですね。一国だけが平和になっても意味はありません。今の我が国のような 高慢な姿勢は僕の望むものでは無いのです」
「かと言って僕に国を変える力はないんですけどね」と最後に付け加え彼は自嘲気味に笑った。
確かに彼の考えは綺麗事で単なる夢物語でしかない。しかし。
「優しいんですね」
彼の言葉にガーネットは感銘を受けた。やはり彼はあの人と同じだ。
「ガーネットです」
「え?」
「私の名前ですよ。聞きたがっていたじゃないですか」
「ガーネットですか……とてもよくお似合いの名前だと思います」
顔は見ることはできないが声の感じから青年が喜んでいるのがわかる。
ガーネットは彼の決まり文句のような台詞に苦笑を漏らす。陳腐な言葉ではあるが、それを彼は真剣に言ってのけたからだ。
「顔は、まだ見せてもらえないのですか?」
途端にガーネットの動きが止まった。
彼女はこの牢屋に青年が来るときずっと俯いて会話をしていたのだ。
彼女は青年を知らぬ間に殺された恋人と重ね合わせていた。優しくて、誠実で、平和を望んだあの人。まるであの人と話しているようだ。しかしそれはただの幻想に過ぎない。
何を恐れているのかはっきりとしない。
憎いはずの敵国の相手にこれ以上情を移してしまうことか。もしくはあの人と違う顔の青年を見て自ら抱いていた幻想が壊されてしまうことか。
「ごめんなさい、それはできないーーです」
彼女は自分の気持ちがわからないまま静かな拒絶を示した。彼の顔は見えない。表情がわからない。呆れられてしまうのか、それとも怒ってしまうのか。自分の言葉で彼はどんな反応を示すのだろう、という考えが頭の隅に浮かんだ。
「そうですか」
「ごめんなさい……」
青年の平坦な口調で、やはり嫌われてしまったかと感じる。
「やっぱり」
しかし聞こえてきたのは嗚咽を含んだ小さな笑い声であった。
「やっぱり、貴方は妹にそっくりです」
「妹……?」
突然の事に、彼女にできたのは青年の言葉をおうむ返しすることだけ。
「ええ、僕にはローズという名の妹がいました。一年前の戦争中に亡くなってしまいましたが」
「一年前の戦争…… まさか、アズライト王国との戦争ですか?」
「……その通りです。あの時起こった市街戦で僕の妹はアズライト王国の兵士に殺されてしまったのです」
「そんな……」
一年前の戦争では確かに一度アズライト王国がウレキサイト王国を圧倒した時があったと彼女も知っていた。しかし、市民を巻き込む可能性のある市街戦を自国が行なったとは一度も聞いたことがなかった。
「でも私、そんな話……」
「初耳でしょうね、これはアズライト王国が秘密裏に行った事だと聞いています。当然市民はそんな話聞かされていないでしょう」
「…………」
嗚咽交じりになりながらもゆっくりと話す青年。その言葉には微かに怒りが込められていた。
「私と妹が似てるというのは……」
「何となく雰囲気が似ている、というのもありますが、敵国の相手にも気を遣ってくれるその優しさは妹とそっくりです」
「私が……優しい……?」
「いきなり変な話をしてしまいました。すみません、どうか忘れてください」
話を終えると彼は足早に扉の向こうへと消えていった。
ガーネットは今までの会話の内容を頭の中で整理した。あの青年には妹がいて、彼女は戦争の最中に殺されてしまった。彼は被害者であったのか。
「あの人も同じ……」
ガーネットは隣にあったパンを手にした。そして、それをゆっくりと口に入れる。パサパサとしていて素朴な味であった。昨日のシチューを食べておけば良かったと後悔する。彼女はそれを食べ終えると大きく嘆息した。
「顔を見せるくらいのこと……」
彼女は自分の中にあった葛藤を無理やり押し込み、決心を固めた。彼は何があってもあの人になり得ることはないのだ。
それから数時間が経った。とうに日は傾き、辺りは暗く、そして気温は下がっていく。しかし青年は来なかった。パンを食べたことを知れば彼も喜ぶと思っていたのだが。
それからさらに数時間。彼の姿はない。何かあったのだろうか。得体の知れない悪い予感が脳裏をよぎる。ガーネットは強くかぶりを振ってその予感を否定した。
結局彼がこないまま翌日を迎えた。
朝日が昇りいつもの時間になった。しかしそこに現れたのは四十代程の男だった。
「ほらよ」
男は格子の外から彼女の元へパンを投げ入れた。今の所作と声の低さからしてあの青年でない。
「あの……!」
「なんだ」
「ここの担当のをしている方はどうなったのですか?」
恐る恐る問いかけたガーネットに、男は不敵な笑みを浮かべて口を開いた。
「あいつなら王に叛いた罪で、明日斬首刑を受けることになったぞ」
「え……」
ガーネットは心臓の鼓動が急激に早くなるのを感じた。息は荒くなり、十分に酸素が行き渡らない。男の言っていることが理解できなかった。
「王に直談判して、その後あいつ、王に向かって剣を向けたそうだ」
男はそう言いながら、ガーネットを舐めるように見た。
「こんな、いい女がいたのに何もしないなんて。あいつはやっぱり頭がおかしかったのか?」
「ーーーー」
男は下品な笑い声を上げながらその場を後にした。
「どうして……」
ガーネットから大粒の涙が溢れ出す。それは冷たい床にポツポツと零れ落ちていく。頭の中には青年の優しい声が響き渡る。もう二度と聴くことのできないあの声。青年と死んだ恋人の姿が重なる。
「また、同じなの……?」
彼女に別れも告げず、この世を去ったあの人。青年もまた何も言わないまま逝ってしまうのか。まだ顔も見ていないではないか。次に会うときに見せると誓ったのに。
彼女は涙で滲む視界の中、側に置いてあった本を見つけ、手に取った。彼が置いていったものだろう。彼女はそれをぎゅっと胸に寄せる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
何について、なぜ、謝っているのかはわからない。しかし謝らずにはいられなかった。
彼女の涙は枯れることはなく、気づけば辺りは暗くなっていた。
ようやく涙も出なくなったガーネットはずっと抱えていた本を読むことにした。物語の中に入れば嫌なことは忘れられると考えたのだ。彼を助けることのできない彼女には現実逃避をすることしかできなかったのだ。
まだいささか震える手で本を開こうとする。
しかしその時彼女は本を落としてしまう。ちょうど真ん中で開いてしまった本を慌てて手に取った。
「何、これ……?」
ガーネットは訝しげにその開いたページを見つめた。そのページから数十ページが外側だけを残し切り取られていたのだ。そして切り取られたページの最後の方に何かが張り付けてあった。
彼女は月明かりを照明代わりにし、それを取り出した。
それは小さな封筒であった。中身を出すと手紙が一枚、そしてーー
「鍵?」
甲高い音を響かせ、床に落ちたのは小さな鍵であった。彼女は慌ててそれを掌の中に隠し、手紙をもう片方の手で持った。ガーネットに向けた手紙であった。
『僕はウレキサイトの国王に、囚人を解放するよう話をしてきます。全員が無理でも、せめて貴方だけは助けだします。でももしそれが失敗して、僕に何かあればその鍵を使って逃げてください。国を抜けることができれば南に村があるはずです。どうか生き延びてください』
手紙には監視が一時的にいなくなる時間帯やここの見取り図も書かれていた。
そして月の向きからして、今はちょうどその時間帯であることがわかった。
「……」
最早考えている暇などない。
ガーネットは格子の隙間から腕を伸ばし牢の鍵を外した。
手紙の見取り図を見るにここから抜け出すのはそれほど難しくない。もしかするとこの国を出ることも可能かもしれない。
「助けなくちゃ……!」
しかし彼女一人で逃亡することは考えられなかった。あの青年を助けなくては。
食事をまともに摂っていなかったため足元がおぼつかない。そんな身体を酷使し、一つ一つ牢屋を見て回る。
朝に処刑されるのであれば、それまで牢に入れられているに違いない。
しかし眼に映るのは身体中傷だらけになった男の姿。床に頭を擦り付け咽び泣く女の姿。ピクリとも動かない、布を全身に覆いかぶされた人の姿。まさに地獄絵図であった。あの青年は大丈夫なのだろうか、と不安と恐怖が彼女の足を早めた。
「…………」
見つけたのは血まみれで壁にもたれかかった男性。床には小さな血だまりができていた。全て彼の血なのだろうか。
「ねえ……」
彼女は彼があの青年であると直感した。半開きの虚ろな目はガーネットの声に反応を示さない。
震える足をゆっくりと進める。
鍵は全て共通らしく、彼女持っている鍵で牢屋は開いた。重々しい金属の音が鳴る。
「ねえってば……」
青年の前まで来た彼女は膝をついて座った。手を伸ばして彼に触れようとするが、直前で思いとどまる。触れれば彼の体温を感じてしまう。それで生死がわかってしまう。
「顔、せっかく見れたのに……」
金髪の整った顔であった。恋人とは違う顔。
彼女は手を下ろし崩れ落ちるように座り込む。もう涙は出ない。彼女はどうすることもできなくなってしまう。いっそこのまま自分も死んでしまおうかと、そう考え始めた。
「……ガーネット……」
か細い声が耳に入った。彼女は目を見開きその声の主を見つめる。
「……」
先ほどまで身動き一つとらなかった彼から、微かに呼吸をする音が聞こえる。
彼女は慌てて彼に近づいた。そして彼の手を両手で包む。まだ脈があるのがわかった。
「……外に出て、民家の方へ逃げてください。そこに、友人が、馬車を……」
「馬車……?」
「急いで、見張りが来る前に……」
「……貴方も一緒にーー」
ガーネットの言葉を遮り、青年はゆっくりと彼女の手に彼の手を重ねた。
「足の骨が折れて、立つ力も残っていません……どうか、貴方一人で逃げてください」
弱々しく彼女の手を握る。そしてすぐに彼の手は滑り落ちるように離れていった。
「そんなのだめ」
ガーネットは彼の手が床に着く前にそれを掴んだ。彼からは小さく驚愕を示し、重い瞼を開けた。
「何をーー」
「私は引きずってでも貴方と一緒にここから逃げます。それでも貴方が行かないと言うなら私もここに残ります」
「どうして……」
「貴方はここで死んでもいいの?まだやり残したこともあるでしょ!」
彼女の力強い口調に、彼は固まる。しばらく沈黙が続いた後、彼の口が開かれる。
「……どうか、僕を外に連れて行ってください、まだ死にたくないです……!」
青年の頬を涙が伝った。身体は小さく震えている。強がっていた彼の口から、彼の本心が漏れ出したのだ。
ガーネットはそんな彼の涙を指で撫でるように拭き取った。そして彼の肩に手を回して、負担をかけぬようにゆっくりと立ち上がった。
疲労困憊のガーネットは青年の体重を支えながら外へと向かう。視界は眩み、身体の感覚も失われて行く。しかし着実に、一歩ずつ出口へ近づいていく。
「もう少し……」
倒れそうになるのを堪え、必死に進む。青年の命は彼女にかかっている。その思いだけで彼女は意識を保っていた。そして。
「出口……!」
ついに出口が見えてくる。残り数歩で外に出られる。もう少しだ。あともう少し。
五歩、四歩、三歩……
「あーー」
大きな音を立て前のめりに倒れる。何かに躓いてしまったのか、それとももう限界であったのか。それも分からないまま彼女の視界は暗くなっていった。
最後に視界に映ったのは青年の顔。最初に彼の顔を見て思っていたことだが、やはり彼は死んだ恋人の顔とは違う。しかし、不思議と恐怖は無かった。彼は彼であり、あの人とは違う。当たり前のことである。
今まで自分は何を悩んでいたのだろう。
「ごめんね、ユークレスーー」
彼女は初めて彼の名前を呼び、頰に手を置いた。そしてそのまま意識を失う。
□■□■□■□■□■□■□■
ーーガタガタと耳障りな音がする。
身体が揺さぶられる感覚に襲われる。
自分は死んでしまったのか。あっけない最期だと思った。もう少しで逃げられたかも知れないのに。「一緒に逃げる」と強気に言ったのに、結局助けられなかったではないか。彼と一緒にいたかった、と今更後悔しても遅い。
「ーーーー」
ふと額に何かが置かれたような感じがした。温かかいそれはゆっくりと彼女の額を撫でる。気づけば視界に光が差し込んでいた。
彼女を天へと誘う光なのか、それともーー
「目が覚めましたか?」
聞き覚えのある声がした。それと同時に光は人の形に変わる。
「ーーえ、私……」
「良かった……どこか痛い所はないですか?」
彼女の目に映ったのは優しく微笑む青年の姿。彼の手は彼女の頭に伸びていた。彼の身体には所々包帯が巻かれている。
「逃げられたの……?」
青年は強く頷いた。
「どうやって?」
「僕が馬車まで君を運んだんだ」
彼の言葉で彼女は周りを見渡す。布でできた屋根に木の板でできた床。そこは馬車の荷台であった。前方では彼の友人と思しき男が手綱を引いていた。
「でも、貴方、歩けなかったんじゃ……」
「僕の名前を呼んでくれました」
「え?」と彼女は口を開けた。彼は顔を赤くし少し恥ずかしそうに視線を外した。
「貴方が僕の名前を呼んでくれたおかげで、力が湧いてきた、と言えばいいんですかね」
「そんな、ことで……?」
「そんなことではありません!僕にとっては貴方に会った時からずっと望んでいたことなんですから!」
彼の必死な抗議にガーネットは呆れてしまう。
確かに彼の名前はあの時初めて呼んだが、そんなことで力が湧くなんて。
彼は至って本気のようだ。しかし逆それが可笑しくて彼女は笑ってしまう。
「何も笑わなくても……」
しかしかく言う彼からも笑い声が漏れた。
「これから、どうするの?」
暫く笑いあった後に、彼女から質問をする。逃げ延びる事が出来た今、問題になってくるのは「これから」の事。二人とも国に戻ることはおろか、居場所となる場所もない。
それを聞いた青年は少しの逡巡の後、気まずそうに口を開けた。
「……一緒に暮らす、というのはどうでしょうか?」
「それってーー」
「いえ!違います!そんなすぐに結婚だなんてーー」
青年は慌てて口を噤んだ。彼女の言葉を遮ってまで否定しておいて、自分で墓穴を掘ってしまっているではないか。彼の気持ちはつまりそういう事なのだろう。
「……そんな急に言っても、貴方もまだ決心はつかないでしょう。でも、とりあえずは二人で暮らしていきたいな……と」
ガーネットの脳裏には殺されていった大切な人達の姿が。確かにまだ彼女は彼らの事を忘れることはできない。それにまだ青年のことを全く知らない。
しかし、彼女の思いは既に決まっていた。
「……まずは、私に敬語を使わないようにすることから始めましょ、ユークレス」
揶揄い気味にそう言うと、ユークレスの目が潤む。何か変なことを言ってしまったのだろうか。しかし、特に思い当たる節はない。
頭にクエスチョンマークの浮かんだ彼女を彼は優しく抱きしめた。
「どうしたの?」
「わかりません。でも、こうしていたいと思ったので。……迷惑でしたか?」
「……そんなことないよ」
気づけばガーネットの瞳からも雫がこぼれ落ちていた。抱きしめられたことで改めて彼と一緒に居られるという実感が湧いたのだ。不安は安堵へと変わる。
「最初は貴方を妹と重ね合わせてしまっていて、助けたいと思いました。でも今は違う。僕は貴方がーーガーネットが好きです」
「私もユークレスが好きです」
二人の顔が近づく。
目を閉じお互いの唇が触れ合うのを感じた。数秒キスをした後、彼らはまた抱きしめあった。
これから彼とこんな時間が続いて欲しい。彼女にはそんな願いが生まれていた。