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黎明のあやとりうた  作者: 緋水月人
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沈黙は金たりえるか

 第六章 沈黙は金たりえるか



 帰りの足も汽車だった。けれども様々なものが行きと違っていた。

 まず左近と猛が一緒に乗っている。そのこともあってか淡紅たちの表情も行き以上に柔らかい。そして少女の手には一体の市松人形。着せかえが可能なそれは今、少女と同じ紅地に花筏の反物で織られた振袖を着せられている。ちなみに淡紅はそれを小袖に仕立て、鉄紺色の行灯袴を履いている。

 花鎮めの儀がつつがなく終わり、片づけや最後の潔斎は翌日に使われた。さらに翌日の早朝、淡紅は早々に故郷の郷を出ることにした。帝都を覆う暗雲が晴れていないという説明が理由であり言い訳であることを、気づかないわけにはいかない。

 少女に市松人形を渡したのは椿の精。「思いの外長い留守に、この人形も寂しがっておりますので」と述べたが、はたしてそれは比喩か事実か。

 やはり見送りにたった月詠命はというと、一羽の兎を淡紅の肩に乗せた。それは月と夜を司る神の力の欠片であり、広い意味では分霊(わけみたま)とも言える。

 それが己への気づかいと悟る少女は、はにかみながら礼を述べていた。

 いつもの顔ぶれがそろって穏やかな淡紅たちに対し、軍人たちの空気は重い。五人中二人が護衛のために少女たちの客室前に立つとは言え、頼や佑が失調しているのでどちらになっても話は弾まない。彪は自分から話す性質ではない上にまだ自分の答えを見つけられていない。閃も何か思うところがあるらしく沈黙を守り、そのような状況で話題を提供するほど亘もお人好しではない。

 だから──汽車が不調(トラブル)を起こして止まり、一回外に出られたのは幸いだった。

 張りつめた空気も漂う緊張感も耐えられるけれど、開放的な空気を吸えるならばそれに越したことはない。

 汽車が止まったのは帝都にだいぶ近づいたところだった。歩いて帰ることはさすがにできないけれど。

 子どもだけで一等客室を使い、年齢不相応にも軍人の護衛。車掌たちは淡紅を華族令嬢とでも見たのか、入れ替わり立ち替わり謝罪と状況説明にやってくる。家柄が整っているのはむしろ軍人たちと知っている少女は、それが非常にいたたまれなかった。

 見かねた左近が少女に散歩を提案するのは当然の流れだろう。

「すぐには戻らないと思いますし。終わりが見えたらひぃ様がくれた式紙でお知らせします」

 残念ながら華族の縁者には見えず、怪訝な視線を向けられる猛を連れていってくれと伝えれば、少女も固辞はできない。

 左近の申し出はありがたい。けれども淡紅はすぐには決められなかった。彼女が動くには最低でも一人、軍人がつきそう。ただでさえ軍人たちと距離を置く彼女が、さまざまな真実を知って動揺している軍人たちに依頼できるはずもない。

「──仕方ない、私が行くとしよう」

「……え」

 決められない彼女を助けたのは意外にも閃だった。

 青年たちから見ても意外だったらしく驚愕の視線が集まる。けれどもそれを歯牙にかけることもなく、青年は一歩踏み出した。

「……行くならば付き添うが?」

「……は、あ……では、お願いいたします。……その、申しわけ」

「君にいいように動くのが仕事だからね」

「――……猛、いきましょう」

 閃の返答に何を感じたのか。淡紅は逃げるように猛を呼び、歩き始めた。

「──お、おい、閃っ」

「ちょっとやそっとで直らないだろう。こんなところでただ待つのは私の性にあわないんだ」

 佑の驚きを背中で切り捨て、閃はのんびりと少女の後を歩き始めた。

 彼の言い分は理解できるし、おかしくもない。けれどもなぜか違和感が拭えなくて。残った少年たちが問う視線を投げてきても、佑には答えられなかった。

 左手に人形を抱き、右手で猛と手をつなぐ少女。その足取りに何かしらの意図を感じたのはすぐのことだった。

「姫様、行きたいところがあるの?」

「少し気になる気配がありまして。──ああ、あの影です」

 あまり整備されていない道。原っぱだったのを何度も人が通ったことでできあがったような道。その脇の草むらが確かに蠢いている。

 無防備に近づいていく少女たち。その後ろにつきながら、念のために携帯していた半棒(約90cm)を確認する。居合、剣道と並んで三道と呼ばれる杖道を閃は得手としていた。要領がいいので他の武道もそれなりにこなすが、彪が得手とする居合は特に手を抜いている。

 草の動きから小柄な動物。しかし気が立っているかもしれない。何があってもいい位置をさりげなく取った。

 少女がしゃがんだとき、やけに高いこどもの声が聞こえてきた。

「やった……やったぞー! ついに変化が成功したぞっ、さすがじゃおいら!!」

 構えを解いても大丈夫そうだ。閃でなくともそのように判断しただろう。

 少女の向こう側に小さい子どもが見える。獣の耳としっぽがあり、変化と言っているので人間でないことは明々白々。

 声をかけるか悩む少女と反対に、猛はためらいなく言い切った。

「耳としっぽが隠れてないよ、失敗だよ」

「──っぎゃああああああ! なんじゃ貴様ら!! いきなり驚かすでないわっ」

 そういうのはおいらの仕事じゃと叫ぶ子ども。その目には涙がにじんでいる。

 気配に気づけず、声をかけられたことに驚いて言われた内容を吟味する余裕もない。妖の年齢は外見通りでないにしても、目の前の存在は明らかに「こども」だ。

「だって失敗に気づかず喜んでるんだもん」

「やかまし──失敗? 失敗じゃと? なななななんのことじゃ!?」

「だから、しっぽと耳が出てるってば」

「そんなばかな!! ……にゃあああああああ! 本当じゃったー!」

 どうでもいいがやかましいと思った閃は悪くない。会話が終わるのを待てる淡紅が例外なのだと思う。

 自分の頭と尻を触って猛の言葉が事実と知った妖はぺしゃりと潰れる。なりふり構わず地面に顔をつけてメソメソと泣き出した。

「なぜじゃあ……やっと、やっと成功したと思ったのに……これじゃあおばばに恩返しができんではないかぁ」

「君さあ、狐? まだ一人前じゃないの?」

「やかましいわこの狸!」

「狸じゃないよ。鬼熊の先祖返り」

「知ったこと……お、鬼熊じゃと!? おおおおいらは見ての通り小さいからな! 食ってもうまくないぞ!?」

「食べないよ。先祖返りだけど、人を食べるわけじゃないし。好きなのはおむすび」

「きいとらんわっ」

「そろそろよろしいでしょうか?」

「あ、ごめん、姫様」

 狐の妖怪と猛のやりとりは清と猛のやりとりにどこか似ていた。そのために会話の終わりどころを見つけるのもたやすい。

 半端な変化のまま狐がうろんげに淡紅を見る。ただし地面に寝そべったまま。

「なんじゃ貴様──あだっ! なにするか鬼熊!」

「姫様に失礼な言葉使わないでよ」

「知るか! 貴様の姫であってもおいらにとってまったく知らん人間じゃ! ……人間じゃろ、貴様?」

 狐の額をもう一度弾こうとする猛の手を押さえ、淡紅は淡く微笑んだ。

「ええ。神職の身であり、人と人ならざる者の狭間にありますが、わたし自身は人として生まれております」

「神職……! お、おいらはまだ悪さしとらんぞ! ちょっと畑のものとかかじったりしたが、人はくっとらんぞ!」

「わかっています。こちらに来たのは、妖気がめまぐるしく動いているのを感じたからですよ。……今は、なぜあなたがそんなにも焦っているのか、その訳も気になっていますけど」

「……知ってどうする気じゃ」

 小さい体を警戒で満たす子狐に少女は笑みを返す。しゃがんでいるのに疲れたのか立ち上がった。

「場合によってはお手伝いできますよ。これも何かの縁です」

 ぱかりと子狐の口が開いた。言われた言葉の理解が追いつかないらしい。

 完全に構えを解き、閃は傍観者となった。

「なんでじゃ……だってきさ、おんし、神職じゃろ? おいら、妖じゃぞ?」

「人ならざるもの全てを調伏するつもりはありません。わたしの基準にはなりますが、適度な距離がとれるのならばそれでいいと考えています」

「……」

「あなたも、害なすために変化を急いでいるわけではないのでしょう? 恩返し(・・・)なのでしょう?」

 穏やかな微笑みと見透かしたような言葉は、それでも狐を迷わせる。

「……おんし、人と妖はわかりあえると思っているか?」

「――いいえ」

 探るような問いに対して返された答え。その答えに迷いはなかった。

「同じ人であっても分かりあえない部分があるのです。違う存在ならばなおのこと。分かる部分もあれば分からない部分もある、それでいいのではありませんか?」

「……おんし、変わっとるのう。おんしのような奴は、違う存在でも分かりあえると言うかと思っとったぞ、おいら」

 誉めてはいない感想には無言の笑みで答える。

 その背中はまっすぐ伸びている。猛も立ち上がり、無言で少女の空いている手を握った。

「……ここからちょっと行ったところにな、村があるんじゃ。おいらも、まあ、世話になっとる」

「畑のものを盗られてる方は世話してるって思ってないよ」

「やかましいわいっ。……が、まあ、むこうにしてみればおいらが厄介者なのは事実じゃ。当然、向こうだって罠を仕掛ける」

「え、引っかかったの?」

「いちいちうるさいんじゃ! 貴様、おいらになんか恨みでもあるのか!?」

「ううん。っていうか別になんとも思ってない」

 少し黙ってろとわめいてから狐は続ける。

 罠にかかり、さすがにまずいと思った子狐を助けたのは一人の老女だった。年貢の納め時かと思ったが、意外にもその老女は狐を助けた。

『わしゃ一人だで、ちぃっとくらい盗られてもなんとかなるがな。他のもんはそうはいかね。今回は逃がしてやるから、もう盗ってくれるな』

 狐が言葉を解するとは思っていない、ただ見逃すための言い訳。見逃したのはたぶん、気まぐれ。

 それでも、狐は恩を受けたから。

「受けた恩は返す。返さねばしっぺ返しがくる。だからおいら、人に化けて少しでも畑仕事を手伝おうと思ったんじゃが……」

 どういうわけかうまく行かないと、また泣き出す。よくよく表情の変わる妖怪である。

 事情を理解した淡紅はしばし考える。握っていた手を離すと人形を幼なじみに預け、自分の髪に手をやる。しかしその髪を飾っていたのが最近はやりのレースのリボンであることを思いだして止まった。

 目の前の狐は少年。まして帝都から距離のあるこの場所。レースのリボンを身につけていたら悪目立ちするのは確実である。

 そのため手に提げていた巾着の中を探る。

「確か……ああ、これならば」

「……なにしとるんじゃ?」

「簡単なまじないをします」

「……は?」

 巾着から薄藍色の結い紐を取り出した。これならばあまり目を引かないだろう。

 口の中で短く(しゅ)を唱える。狐に左手を出すよう求める。

「なんのまじないじゃ」

「あなたの耳としっぽを見えないようにします。それと、『見慣れないこども』であるあなたを『どこかのこども』と錯覚してくれる術も。いちいち素性を聞かれても困るでしょう」

「た、確かに……。つまりあれか? 座敷童みたいになるのか?」

「そのように思っていただければ大丈夫です。どちらの術も──そうですね、三日で薄れていきます。三日後にこの紐を返していただきます」

 狐が化けた少年の左腕に紐を結ぶ。すると、閃の目に映る少年から耳としっぽが消えた。相変わらずこともなげに術をこなす腕前に内心で感嘆した。己よりも『見る』才があるらしい亘にはどう映るのかと、かすかな疑問も覚えつつ。

 目線をあわせるために再びかがんでいた淡紅。立ち上がると猛から人形を受け取る。

「……なあ、ありがたいし、恩に着る。だけど、なんでこんなことしてくれるんじゃ?」

「縁だから、ですよ。特に理由はありません。あなたを助けた『おばば』様ときっと同じです」

 修練を積んだ術者には看破される可能性もあるので気をつけるよう、注意を足した。

 狐はなおも悩む様子を見せる。しかし恩返しという目的がためらいを上回る。

「ありがたく借りるぞ! おんしにも恩返しするからな!」

 きびすを返して走り出す。意外にも人と同じように走れている。畑仕事をどこまで手伝うつもりかは知らないが、なんとかなるのを祈るばかり。

 夏の色を帯びる空を見上げて目を細める。汽車は直っただろうか。


     *     *


 帝都に戻った淡紅は以前と似た日々を送る。同じと言えない要因は淡紅にも青年たちにもある。どちらの比重がより大きいかは不明だ。

 そして淡紅の視点にたった場合、青年たちのなかでも特に「以前と違う」存在がいる。その違いを明確に言葉にすることは難しい。本当に微かな空気の違いだから。

 それでも確かに存在する「違い」は、他の軍人たちも感じているはずだ。触れるべきか、触れざるべきか。答えを出しあぐねている。

「……淡紅」

「……はい」

「ずいぶんとぼんやりしていたな。疲れたか」

「いえ……」

 この日の淡紅の任務はいくつかの結界の補強だった。付き添いは九条彪と一条閃。

 淡紅の存在があろうとなかろうと避けたい相性最悪の二人。それにも関わらず、各自にさまざまな都合があってこの二人しかおらず、頼や佑は非常に申し訳なさそうな顔をしていた。

 確かに和やかな空気はほど遠く、二人の間に事務以外の会話はなかった。だかといって無駄な口論をすることもないので、淡紅に余計な負担がかかることもない──それだけならば。

「……私のかわいい淡紅に珍しいものを見せてあげよう」

 なんの気まぐれか。書面ではなく口頭での報告を聞きに来た皇。彼は思考に沈みがちな少女の注意を引いた。

 彼が取り出したのは持ち歩ける規格(サイズ)の帳面と。

「……御懐中筆──と少し違いますね」

「萬年筆という。それも初めて日本で作れたものだ」

 九百年は前に外国で発明された手を汚さないペン。日本でも江戸より前に御懐中筆と呼ばれるものがあるが、最近は横浜の港から輸入品が届いている。輸入するだけで満足せず、ついに国産品を完成させたらしい。

 皇は帳面に何かを書き出し、淡紅に見せた。

「悪くない書きごこちだ、おまえにもあげようか」

『お前を悩ませているのは一条准尉か』

 言葉と一致しない文面に数拍呼吸が止まる。いきなり核心を突かれるとは思わなかった。

 淡紅は沈黙のまま廊下を見た。部屋には皇と二人だが、廊下に彪と閃が控えている。少し開けた障子の隙間からはどちらの姿も見えないけれど。

 再び文面に目を戻す。淡紅が覚える違和感の中心にいる人物。

「……少し、お借りしてもよろしいですか?」

「ああ、試してみるがいい。気に入らなければ贈っても無駄になるからな」

 どちらかというと筆中心の生活だが、鉛筆などの持ち方は知っている。それでも慣れないために書いた字はぎこちない。

『おそらく。うまく言葉にできませんが』

「……字が、下手ですね」

「慣れればいいだけの話だがな。必要ならば言うといい、届けさせよう。──そういえばこのあとは少し遠方に行きたいと言っていたな」

「はい。先日の狐さんに渡した紐を返したいただきに」

「狐がもうしばらく──と頼んできたらどうする?」

 紙を折り畳んで胸のポケットにしまいながら皇が問う。無声のやりとりがあったとは感じさせない、自然な態度に感心する。

「応えるつもりはありません。縁あって一度は手助けをしましたが、二度はありません。時間を延ばしたいと願うならば、それは……それだけの代償を求めざるを得ません」

 依頼ならば考慮の余地ありとする態度は、皇にしてみれば十分に甘い。

 神職、陰陽師、修験者――それぞれがより所とするものによって多様な呼ばれ方をする術者たち。立場を違えても、術を行使すれば相応の対価が必要とされることは共通している。陰陽道における「返りの風」が有名だろうか。もちろん、それの対策も講じてこそ一人前の術者なのだが。

 当然ながら淡紅も対策はしている。だからといって、今回のような些末は捨ておいてもいいと青年は思う。それをしないのが淡紅であり、そんな甘さと紙一重の優しさをも愛おしいのだが。

「なるほど。……九条少尉、一条准尉。このあとも淡紅に同行しろ。日が延びたとはいえ、淡紅に何かあってはことだ」

「──兄様、私用なのですが」

「分かっているが?」

 だからどうしたと言わんばかりの微笑を返されて言葉を失う。なにを言っても聞き入れる気がない人にぶつける言葉など、少女は知らない。

 公私混同に巻き込まれた二人はというと、瞬き分の時間だけ互いを見てごくわずかに顔をしかめた。そのあと、淡紅に複雑そうな視線を向けたのは彪だった。

 閃は軽く息を吐いてから少女に問う。

「先日の子狐のところに?」

「──ええ」

 目を軽く伏せて応えると、閃は是の返事を皇に返す。拒否権などありもしないのだが。

 任務のために用意した馬車も利用していいことを伝え、さらに戸締まりまで請け負った。馬車の姿が消えるまで見送り、皇は玄関の壁に背を預けた。

「──複雑極まれり、といった顔じゃのう、橘よ」

「これは、日の御方。このような場に姿をお見せくださるとは」

 強大な神力が膨らんだかと思うと乙女姿の神が姿を見せた。清廉でありながら老獪な笑みを浮かべるその存在。

 この日の本の要となる神──天照大御神だった。

 血筋が影響しているのかは不明だが、皇はこの姫神に気に入られ、特別な加護を受けている。帝や東宮など天照の末裔のそばにいることが多いのに、今回のように青年のところに単独で姿を見せることも珍しくはなかった。

「いかなる心持ちじゃ、掌中の玉に余所者の手が伸びるというのは」

「もちろんおもしろくはありませんね」

 ためらいなく笑顔で言い切る。それを受けて天照も笑った。

「……ではそなたがおもしろくないと思うことをもう一つ教えてやろう。二番目が堅物をつれて出歩いておるぞ」

「──どちらへ?」

弟神(おとがみ)の従者が向かった方角と一致しておるな」

 文字通り神前でありながら舌打ちを漏らした。知らなかったとはいえ、淡紅に過剰な負荷をかける自分に腹が立つ。

 とはいえ呼び戻すこともできない。あとで何か甘味を差し入れると決め、ささくれた自分の心をなだめた。

 そんな皇の心境が手に取るように分かったのだろう。日を司る女神は楽しそうに笑った。


 相変わらず沈黙が多い馬車はつつがなく目的地に着く。

 馬車を降りた少女は、嫌な予感が膨らむことに気づく。まずはあたりを見回す。おかしな様子はないが全く安心できない。

「子狐はまだ来ていないようだが」

 閃のつぶやきが耳に届く。ただの事実なのに無性に胸が騒いだ。おそらく術師としての勘が騒いでいるのだ。

 ──うすべにの君!

 そのとき、空をかける従者の『声』が耳に届いた。

 実は内緒で深勒に狐の様子を見るよう頼んでいた。その従者が送ってきた焦り。

 やはり何か起きている。

「不測の事態が起きているようです。村に向かいます」

「な──!?」

 天狗の気配を覚えている。それを辿れば村まで行ける。

 淡紅が走り出したことに青年二人は当然驚く。とはいえ所詮は軍人と少女。軽い走りで追いついた。巫女がなにを察知したのか聞きたいが、走りながら話すのは辛いだろうと堪える。

 村はすぐ近くだった。人が集まっている。その中心は──。

「……私刑(リンチ)か?」

 ぼそりと小さく呟く。少女の耳には届かなかったが、隣の男は視線を流してきた。

 彼らの目に映るのは獣の耳と尾を生やした異形の子どもと、その前に立つ天狗の青年。話すには遠い距離を開けて立っているのは十代半ばの少年。そしてその三者をうかがうように村人たちが囲んでいた。

 子どもは怪我だらけで、天狗が子どもを庇っているのは一目瞭然。

「……いったいどういう状況なんだか」

「──あの方は、妖は須く消すべしとお考えですからね。なぜここにいるのかは分かりませんが」

 供の姿も見えませんし──と呟く少女は少年のことを知っているらしい。そのこと自体は特に驚かなかったが、あとに続く言葉に動揺した。

「お二人はこちらでお待ちください。あの方に意見するわけにもいかないでしょう」

「――なに、を、……君だって」

「私の主は月詠さまだけです。天照の末裔である帝や春宮に対して敬意はありますが、絶対服従というわけではありません」

 二人はそうもいかないでしょうと、ただ当たり前の事実を伝えて足を踏み出す淡紅。その華奢な腕を掴んだのは、完全に無意識だった。

「──え……」

「君はっ――君、は……!」

「──」

 閃が冷えた視線を向けているのに気づいていたが構えない。自分の思考さえ把握できない。

 掴んだ、掴んでしまった華奢な腕だけが確かだった。

「どうして、いつもそう──」

 見えない境はいつも強固。それを越える方法が分からない。

 そもそも越えたいと思っているのか。

 自分はいったいなにをしたいのか。謝罪さえ拒否されている今、自分は──。

「……っ……」

「──彪」

 淡紅から苦痛の声が漏れるのと閃が介入したのは同時だった。

 はっとして腕を離す。すぐに閃も彪の腕を解放した。自由になった少女は無意識にだろう、囚われていた腕を反対の手でさすり、数歩下がった。その瞳に宿る、かすかな恐怖。

 青年の焦りが言葉になるより早く。

「失礼します」

 淡紅は逃げた。顔見知り程度の子狐と従者を助けるという役目に。

 それを止める術などありもせず。仮に止めたとして、伝えるべき言葉が分からない以上、制止は無意味。彪はどうしようもない苛立ちを抱えたまま、少女の小さな背中を見ることすらできない。

 深入りを拒否する淡紅に、どう謝罪すればいいのかが分からない。どんな言葉を伝えるべきなのか。

 ──そもそも自分は、どうするべきなのか。

「──、おい、聞け」

「──っ! ……なんだ……?」

「……だから、松方少佐を探すと言った。彼女は『供の一人も連れず』と言ったが、あの人がそんなことを許すわけがない。荊木大尉が書類仕事におとなしく取り組むようなものだ」

「……もっともだが身も蓋もないな。だが少佐を探してどうするつもりだ? 下手をすれば不敬罪に」

「これだから頭が固い奴は」

 明らかな嘲り。彪の間合いの外に出てから閃はそれを紡いだ。

 視線で人を攻撃できるならば、今の彪のそれは狙い違わず閃を貫いただろう。

「私たちは誰の命令で動いている?」

「──天地少佐だが」

「そもそも護国の巫女に関する権限を少佐に与えたのは?」

「──」


     *     *


 慣れた気配が近づいていることに気づき、深勒は内心で安堵した。自分の主がきたならばもう大丈夫だし、主に恥じない働きもできた。

 帝都に戻って最初に下された命令はまさかの子狐の見守り。斬ったはったを期待していたわけではないけれど、拍子抜けした自分がいたのも事実。その心情は見事に見抜かれ、淡紅は苦笑し清たちは呆れた。

 拍子抜けしたからといって従わないという選択などありもせず、深勒は狐の同行を見守った。

 主たる少女が気にかけた小妖は降ってわいた幸運に溺れず、当初の目的通り恩人の手伝いに励んだ。見よう見まねで水田に足を踏み入れたり畑を耕したり。恩人の老婆が言えば他者のところまで手伝いにいった。

 淡紅の術の効果もあって誰も少年の存在に疑問を抱かない。だから子狐の働きを誰もがねぎらい、優しさを返す。その優しさを受け止めるだけの器を妖も持っていた。

 積み重なっていく縁は、たとえ人と妖が結んだものであっても悪しきものではない──はずなのに。

 まさかの三日目、とんでもない客が村を訪れた。

 淡紅ほどではないが強い力。尊い血をその身に宿す少年は、開口一番で言った。

『醜い妖が』

 初撃を庇ってやれなかった。

 少年が放った炎は過酷な強さで子狐を焼いた。結紐が護国の巫女の気に馴染んでいなかったら、子狐──妖狐が火気を持つ妖でなければ、それだけで子狐は滅していただろう。

 紐が燃え尽きる。それはすなわち、子狐にかけられていた術が消えることを意味する。

 少年の暴挙に呆然としていた村人たちは、つい先ほどまでかわいがっていた男童を「知らない」ことに気づく。そしてその童は獣の耳と尾を持つことも知った。

『妖じゃ……!』

 叫んだのは誰だったか。

 村人たちに恐怖が広まるのを待っていたかのように、少年の術師は二撃目を放つ。けれどもそれは子狐には届かない。

 深勒が間に合ったから。

『薄汚い妖がもう一匹いたか、邪魔者が!』

『やかましい。こちらにしてみればお前が無粋だよ。小妖のささやかな恩返しを邪魔しやがって』

 乱暴な口調に宿った怒りは淡紅の思いやりが無視されたから。相手の地位も血筋も関係ない。自分は護国の巫女の従者。その誇りを胸に、深勒は立つ。

 一方、深勒に庇われた子狐。彼は火傷以外の痛みにも泣いていた。声に宿った恐怖と嫌悪は、苦痛にあえぐ子狐の心をそれほどに抉った。

 知っていたはずだった、わかっていたはずだった。所詮は人と妖、埋められない溝がある。けれど──この数日があまりにも優しかったから。恩返しなのに、誰もが礼を述べてくれるから、頭をなでてくれるから、優しい言葉をくれるから。

 思い上がってしまった。

 恩返しなんて、考えるべきではなかった──!

「死ね、妖ども!!」

「──水神招来」

 術師が苛立ち混じりに放った炎。それを防いだは水柱。激流が天狗の足下から立ち上って炎を消す。

 それをなした声は子狐にも聞き覚えがあった。

「助かった……けど、驚かせてくれるなよ、うすべにの君」

「申し訳ありません。なにぶん、私も焦っていましたから」

 穏やかな声音で天狗に応える少女。──なぜ天狗が自分のような小妖を庇ったのか、答えがそこにある。天狗は神職の少女と縁があるのだろう。そして神職の少女が己を見守るように頼んだのだろう。

 ──見張られていたとは思わない、思えない。疑心を生み出すことなどできない。

 そんな少女に、矮小な妖である己ができることは──。

「この無礼者! お前は自分の立場が分かっているのか!? それとも薄汚い己の立場を、その薄汚い妖にでも重ねたかっ」

「! てめぇ……!」

「深勒」

「止めてくれるな! 他の誰でもない君を侮辱されて黙っていられるほどっ」

「みろく」

 名は短くとも(しゅ)。力ある者ならばその名を呼ぶだけで捕らえられる。まして淡紅と深勒の間には主従の繋がりがある。その効果は語るまでもない。

 深勒は納得いかない気持ちのまま淡紅を見下ろし──絶句した。

 少女が無の表情を浮かべていたから。怒りも悲しみも憎しみもない、見た者を不安にさせる無。

 そうして思い出す。淡紅が一番傷つくのは、母の中に己がいないという事実を突きつけられること。彼女が一番怖いのは、自分が誰に体を委ねるか分からないということ。少女が一番不安なのは、いつか生まれる子どもの育み方を知らないこと。

 己の出自を侮辱されただけでは怒れないし悲しめない──ほどに、傷が深い。

 そんな事実を突きつける術師が憎い。傷だらけの少女にさらに爪を立てる少年が許せない。

 そもそも立場を引き合いに出すというなら。

「立場を弁えろとおっしゃるのでしたら、まずは己の身を省みていただきたくございます」

「なっ──!」

「なぜあなたはここにいるのです。なんの罪もない妖をなぶるのが、あなたの『立場を弁えた』行動なのですか?」

「罪がないだと!? 妖などみなっ」

「あなたの考えは承知しております。同意するつもりはありませんが。ですがあなたの考えと行動は別であり、あなたの行動が軽率という言葉ではくくれないことにかわりありませんが」

 いつになく饒舌に話す淡紅。少女の下に降って日の浅い深勒さえ違和感を覚えるそれ。付き合いの深い幼なじみたちなら、その場の注意を己に集めるためにあえて選んだ行動だと気づくだろう。

「僕にそんな口を聞いていいと思っているのか!!」

「わたしがお仕えするは彼の方のみです」

 突然始まった言い合いに、村人たちは完全においていかれる。少年術師が現れてからの出来事は完全に理解の域を越えていた。

 だがしかし。怪我の功名と言うべきか否か。子狐が化けて自分たちの畑仕事を手伝っていたという衝撃も恐怖も気づけば静まっていて。小妖に対してどう行動するべきか、冷静に考えるものまで出てきた。

 けれども子狐は落ち着けなかった。己の恩返しを手伝ってくれたもう一人の恩人が罵倒されているのだ、落ち着けるはずもない。さらに天狗を従えた上で妖たる己を庇う少女が、村人からも暴力を受けてしまったら。

(それは……そんなの、絶対にだめじゃ)

 恩を返せないどころか、仇で返すなど。

 小さな妖にも譲れないものはある。

 だから。

「──こ、ここまで来ておいらを庇うなんて、人がいいにもほどがあるぞ!」

「──」

「お、おいらの、言葉を本気で全部信じたのじゃろう? 今もこんなところまできおって、ほんに、……ほん、とうに……!」

 言葉が詰まる。それではだめなのに。

 言い切らなくては。自分にできるたった一つの恩返しなのだから。

 少女の手で調伏されることこそが。

「狐は、化かすものじゃ! 知らぬわけではあるまいっ。どうじゃっ、ば、か、された、きぶ、は……!」

「──以前」

 足音がする。静かな声が降ってきた。その声はどこまでも穏やか。怒りはもちろん、これから妖を調伏しようとする気構えも感じない。

「知り合いの竜神に言われたことがあります。『嘘をつくならば、それが嘘だと気づかせるな』」


『嘘をつくならば、それが嘘だと気づかせるな。嘘だと糾弾させるな。それができぬなら──沈黙を選べ』


 少女の足が己の前で止まる。いつかと同じようにしゃがみ、そして手が伸ばされた。童特有の丸い頬に触れると、顔を上げさせられた。

 怒りも哀れみもない、まっすぐな視線が子狐のそれとぶつかる。

「そんなに涙を流して、後悔と憤りを全面に出して、それで『化かすつもりだった』と言っても……嘘だと、気づいてしまいますよ」

「──じゃあ、じゃあどうしたらいいんじゃ! おいらが妖だとばれてしまった! そうしたら、おいらに関わったおばばだって狐憑きだって言われてしまうじゃろ、村八分じゃろ!? お前だってそうじゃどんな目に遭うかわからん!! だったらおいらが退治されるのが一番いいに決まってるっ」

「そんなこと言うな!」

 狐の叫びを遮ったのは少女でも少年でも天狗でもなかった。

 それが誰なのかと理解するより先に、馴染みの薄い温もりが男童を包む。年を重ね、日に焼けた腕が狐の体をしっかりと抱きしめる。髪やら顔やらに雫が落ちてくる。

「頼むからそんなこと言うてくれるな。わしから、わしから孫を奪うてくれるな……」

「……孫って、なにいうとるんじゃ……おいら、おいらは……」

「おまえが、おまえが妖なのは分かってる。術師様が言ったからじゃねえ。お前、一回、手を洗うときに化けるのを止めたときがあったじゃろ。そんとき、お前の耳としっぽを見た」

「──え……」

「そんときはなんじゃ化け狐とか、わしを騙すのかとか思った。……けど、おまえはちゃあんと畑仕事をしてくれただろ」

 気づいたらそこにいた子ども。年の割に畑仕事にあまり慣れていなかったけれどよく働いた。老婆の畑だけではなく他の畑も手伝い、よくがんばったと褒めれば嬉しそうに笑って、お腹が空いただろうと握り飯を渡したら嬉しそうに頬張った。

 遠い昔に子どもを亡くした老婆が孫を重ねてしまうほどに愛おしく、心安らぐ時間だった。化け狐めという思いもいつしか消えていた。童の正体などどうでもよかった。

「それが狐憑きだって言うならそれでもええ。どうせ老い先短いんじゃ。こんなに大切なもんがいなくなるくらいなら、わしは狐に憑かれたままでかまわん。だから頼む、この婆より先に死なんでおくれ。子に死なれただけじゃなくて孫にまで死なれたら、わしはどうしたらいいかわからん」

「おばば……」

 人目もはばからず訴える老婆に、他の村人たちも迷いが深くなった。

 妖を恐れる気持ちは変わらない。けれど、目の前の光景を無碍にもできない。まして子狐が畑仕事を手伝ったおかげで助かった者もいるから。

 狐に支援したらしい少女がなにも言わないのがまた不安を煽る。視線を向けられたら向けられたで、きっと責められた感じてしまうのだろうけれど。

「ふざけっ──!」

「あー……そうだそうだ、仕事が残っているのを忘れていた」

 無視された形の少年が怒りを露わにするより先に、一人の男が言い訳を口にしてその場を離れた。それに何人かが続く。

 他の者も少しずつその場を離れていく。誰もが戸惑いながら答えを先送りにする。ただ──迷いながらも「畑仕事を手伝えよ」と、変わらない態度を試みる者もいた。

 おもしろくないのは少年である。

「ふざけるな! そいつは妖で、滅するべきものなんだぞ!? この僕がそう言って」

「あなたが何者かなど関係ないのでしょう。もちろん、わたしが何者かもどうでもいいのでしょう」

「なっ──」

「わたしの考えもあなたの考えも必要とせず、彼らは彼らの考えで答えをお出しになるでしょう。こちらのおばば様がそうであるように」

「っ……」

 呼ばれた老婆と、その腕の中にいる子狐が顔を上げた。すがる視線に苦笑で応え、この場を離れるよう告げる。子狐への迫害や村八分の恐れが少ないからというのが一つ。

 もう一つは──少年と少女のやりとりなど、見る必要がないから。

 背筋を伸ばし、あらためて淡紅は少年を見た。激動の時代を生き残るため、二つの「まつりごと」のうち「政」を重視した数代前の帝。今いる天照の末裔の中では強い霊力を持ったためそれを受け入れられない親王。それが目の前の少年の正体だ。

 本来ならばこのような場にふらりと来ていい立場ではない。けれど霊力に己の価値を求める彼は、まれに妖を滅するために勝手な行動をとる。

 すべての妖を否定するその態度が、かえって天照の呆れを買うとも知らず。

 今回彼を短慮に走らせたのは淡紅の存在だろう。帝都を異変が襲った際になにもできず、彼の尊敬する東宮(はるみや)は護国の巫女を召喚した――受け入れられるはずもない。それほどに親王は淡紅が目障りだ。

 わかりきった事実に苦笑が漏れる。ななのこともそうだが、変わりようのない事実はなんのさざめきも生まない。そんな己を冷たいと評するのだろうと、淡紅は思う。

 かすかな表情の変化は少年の神経を逆なでした。何もかもがうまくいかないだけでなく、もっとも目障りな存在に馬鹿にされ、平常心を保つなど不可能。

「きさま──っ!」

「おやめください、宮様」

「っ、離せ松方! あいつは、あいつだけはっ」

「なりません。それにそろそろ戻りませんと」

 力任せに術を放とうとした少年を新たな青年が止めた。

 その人物には淡紅も見覚えがあり、反射で肩が震えた。そんな少女の傍にも二人の軍人が近づいてくる。村人たちが離れていてよかったと場違いにも思う。

 ただでさえ突然現れた謎の術師に妖と村人たちを戸惑わせているのに、これで軍人まで出てきたら納得のいく説明をしなくてはいけなくなる。

「遅くなって悪かったな。少佐(あちら)を動かすのに手間がかかって」

「……動かす?」

 選ばれた言葉に驚いて思わず声が漏れた。松方の階級は少佐。少尉、准尉が動かせる存在ではないはず。そんな疑問を正確に読み取ったのだろう、閃は不敵に笑って彪はうんざりしたようにため息を吐いた。

「私たちの上司は誰だ?」

「……天地、少佐、ですが……」

「では、その少佐に権限を一任したのは?」

「…………はるの宮ですね」

 東宮とそのまま言うのははばかられたための下手なごまかし。幸いなことに二人には通じた。

「言ってしまえば私たちはかの方の命で動いているも同然──と言えば、あちらも融通を利かせてくださったよ」

「……ぬけぬけと」

 苦々しい彪の声音が被さる。まじめな彼の性格を思うと、なかなかの詭弁を弄したのかもしれない。しかし直属ではないにしても上官の悪感情を買うような真似をする人だっただろうか、閃は。

 ざわり、と。胸騒ぎがよぎる。覚えのある感覚。

 そろりと青年を探ろうと視線を動かすと、青年もこちらを見ていた。しっかりと重なってしまった視線に淡紅は息をのみ、閃はわらった。

「松方少佐とどんな話をしたか、気になる? ──面識があるんだろう?」

「─いりません」

 言葉を返せたのが不思議だった。もっともその声音は自分でも呆れるくらいに強張っていたけれど。


     *     *


 東宮の弟は淡紅を疎んでいる。そのことを知る幼なじみたちは彼らに会ったと聞いてひどく彼女を心配した。また天照に親王が抜け出したことを知らされた皇からは謝罪の菓子が大量に届けられた。ほんの数時間で買いそろえたその手腕がいつもながら恐ろしい。

 淡紅自身はというと、明朗な気分ではないものの親王たちのことはさほど気にしていなかった。彼らについてはもう「そういうもの」だと思ってしまっているから。そのため、松方が親王を連れ戻そうとしているのを見て、早々にその場を去った。もちろん深勒を労うことは忘れない。

 親王や松方と話すことなど何もないし、何より彼女にはそれ以上に気がかりなことがあった。

「──おや、意外なところで会うな、お姫様」

「……」

 親王と会った翌日、彼女は一人で外出していた。非常に珍しい選択に幼なじみはもちろんついて来ようとした。しかし他ならぬ淡紅自身がそれを固辞した。

 人が多い道を歩く。どれくらい歩いただろう、一人の青年と鉢合わせた。相手の名は一条閃──少女が、一人の外出を選んだ理由。

 ──夢を、見てしまった。とてもこわい夢だった。

「お姫様はひとりか? 従者どのたちも連れず無防備だな。──私としてはありがたいが」

 暗い夢殿。少女はそこにひとり座っていた。意味のある夢だとわかっていて、夢の中だというのに予感があったから動きたくなかった。動かないでいたら何事もなく夢殿から抜け出せるのではないかと、愚かな期待にすがった。

「……」

「何か行きたいところがあるのか? もしよければ、少しばかりお姫様の時間をいただきたいのだが」

「……、……」

 口を開きかけ、けれど言葉が浮かばなくて。何が正解かもわからなくて。結局ただ一度、うなずいた。

 夢の中で動かないことを選んだ少女を嘲笑うように、一人の男が姿を見せた。背中を向けられていて、顔は見えなかった。見えなかったけれど、誰かわかってしまった。だから必死に目を覚ました。

 なぜ今なのだ。なぜ彼なのだ。

 己を縛る恐怖を振り払えない。帝都を覆う影を祓うために来たのに。皇がそれを利用して手を打ったことは知っているけれど、知らない振りも許されていた。このまま何も起こさずに郷に戻っても皇は許してくれると知っていた。

 なのに現実は容赦なく変化して淡紅を襲う。それも思いもよらない人物が動いて。

 少女の少し前を歩く閃。気配を探れるはずなのに、ときどき振り返って彼女がついてきていることを確認する。うつむいて歩く彼女が誰ともぶつからないのは結局、閃の気遣いのおかげなのだ。

 目を覚まして動けない彼女を兎姿の神が慰めた。おかげで食事をとるだけの気力は生まれた。それでも表情が悪い淡紅を当たり前のように皆が気遣い、出かけるのを反対しない代わりについて来ようとしたのだ。それでも一人を選んだのは、出会うだろう予感があったから。

 一条閃。皇が選んだ牽制。五行における火の行に属し、どこか斜に構えた姿勢の青年。少女への不信を隠さず、仕事だからと割り切った態度をとっていた人物。それでよかった、よかったはずなのに。

「このあたりでいいかな。……ひとりで出歩いている意図を聞いたら君は困るんだろうな、お姫様」

 聡い人だ。だから淡紅の隠し事に気づいて、自覚的にかさぶたに爪を立ててきた。その前も、意図的に少女を見なかった(・・・・・)人。皇が、幼なじみが何と言おうとその距離は変わらない──はずだった。

「──あなたは」

「……」

 母を見た少しあと──修羅の最期を見届けるために山を登ったあのあたりから、何かが変わっていた。一時だけならば、少女の過去を知ってしまったがための憐れみだと片づけてしまえた。けれど違う。帝都に戻ってから昨日まで、閃は少しずつ巧妙に態度を変え、距離を詰めてきた。そのことに気付けてしまえる程度に淡紅も鋭かった、不幸なことに。

 そして決定打となったのは今日の夢。見えた後ろ姿は、目の前の人のものだった。

「──あなたは、何を考えて、どんな気持ちで今、わたしの」

「それを聞いて答えを得た場合に困るのは君だろう」

「……」

 遮られた言葉にやはりと思う。淡紅の言葉に態度に動揺を見せないのは、閃もまた気づいていたのか。少女が気づいているということに。もしもそうならば本当にどこまでも聡い人だと思う。だからこそ皇も選んだのか。

 軍服ではない、昨今はやりの書生姿でくつくつと楽しそうに青年は笑う。その瞳を見るほどの勇気など淡紅にはない。

「なるほど。それが、君がひとりで歩いている理由というわけか。私に会う予感でもあったか?」

「……夢を見ました。見えたのは背中だけでしたが」

 とんだうぬぼれだと捨ててしまえればよかったのに。夢に出るほど、目の前の男が、誰よりも自分を疑っていたはずの閃が、己を──。

「──だが、今は告げる気などないよ」

「……どう、いう……?」

「これでもね、負ける勝負は好きではなくてね。まして、久しぶりに本気の勝負だ」

「……勝ち負けにこだわる方とは思いませんでしたが」

試合(・・)ならばね」

 淡紅の視線は青年の胸元に向けられている。だから顔を直視していないけれど、楽しそうに笑っているのがわかった。

 ざりっ。

 一歩踏み出され、反射的に二歩下がった。

 想像と異なる展開に巫女の頭が真っ白になる。彼女としてはただ意図を確かめて、そして拒絶するつもりだった。証はなくとも夢によって確信を得てしまった。ならば知らぬ振りはできないと思ったから。そしてその場に他の人間がいるのも失礼だと思ったから。

 怖がりなくせに誠意をみせようとしたいとけない少女の胸中を知ったなら、きっと青年はわらうだろう。

「惨敗がわかっていて勝負をしかけられるようなものじゃないんでね。なんせ、どうしてもと想ってしまったから」

「……」

 困惑と恐怖でこわばる少女に罪悪感が刺激されないと言えば嘘になる。それ(・・)は彼女にとってとても怖いものを想起させると気づいているからなおさらに。けれども退けない、捨てられない。どうしてもほしいと求める心があるから。

 今までとは違う己を悪くないと思えてしまうから、まったくもって恐ろしい。

「どうせならば打てる手をすべて打ってからでなくては、玉砕もできない。そういうものなんだよ、私のこれ(・・)は」

「……わかりたく、ありません」

「正直だね、お姫様」

「……その、呼び方だって……」

「伝わるだろう、今までとは違うと。無論のことこれだけじゃない。言っただろう、打てる手はすべて打つ、と」

「……」

 淡紅は知らないだろうが、異国にはこんなことわざがある。

 All's fair in love and war.(恋と戦争では手段を選ばない)

 閃も例外ではない。だから暴こうとしながらもどこか怯えている隙をついて明言をしないしさせない。意識させる必要があるからあれこれと匂わせるけれど、要の言葉だけは言わない。それを紡ぐべきは今ではないから。

「だから、ね、お姫様。知らないふりをするといい」

「──え……?」

 驚きに弾かれて顔を上を向く。傷だらけの黒曜石が閃を映した。

 態度で、表情で、言葉の裏側で。ありとあらゆる形で伝え続ける、頑なな心を絡めとる。

「私はまだ言わない。言わなければないのと同じだろう? だから君も、知らないふりをするといい」

 雄弁は銀、沈黙は金。

 言葉にして形をはっきりさせたら少女はそれに答えをだす。受け止めきれないという答えを。恐怖と傷でがんじがらめの心のまま、怖いからみたくないという答えを。

 それではだめなのだ。だってソレはそんな簡単なものではないのだから。

 だからまずはいくつもの手段で叩きつけて見せる──どうしても求めずにはいられない、傷つけるとわかっていてもほしいと思うほどの情があるということ。理屈や理性で抑えられるようなものではないということを。

「……そ、れ、は……ひきょう、では、ありませんか……」

「私がそれを良しとしていて、誰に責める権利がある?」

「え……」

「私とお姫様の間の問題だ。世間一般の常識も誠実も考える必要はない。大切なのは私と、君の間の規律(ルール)だけだ。そしてその私が君に言うんだ、知らないふりをするといい、と。それだって君への気づかいがすべてじゃない。明言していないからないのと同じだという状況にすることで、君ははっきりとこれを、私の行動を否定できない。ないものは否定できないだろう?」

 ここに少女以外の誰か──精神的に成熟している誰かがいたら詭弁だと断罪しただろう。だが現実にはいない、男も女もひとりずつ。その好機を逃すほど閃は悠長ではなく、優しくもない。

「──本当に卑怯なのは果たして誰だろうな?」

「……」

「覚悟しておいておくれ、お姫様」

 流れるように祝詞を紡ぐ唇から、しかし今はなにも流れない。

 許容量以上の出来事に思考が止まっている想い人の幼さを楽しみながら、この後の予定を問う。

「……この、あと……?」

「ああ。どこかへ行くならば喜んで供をするが」

「……いえ、けっこうです。かえり、ます」

「そうか、残念だ。ならばせめて送らせてもらうとしよう」

 問いではなく決定事項のように言えば相手はさらに絶句する。押しすぎるのも愚策なので、少女にあった手加減を覚えていかねばなるまい。

 それにさえ楽しさを覚えるあたり、そうとうに浮かれているという自覚は閃にもある。浮かれついでにもう一つと、青年は懐を探った。丁寧に包装されたそれは、先ほど小間物屋で購入した花簪。

 そもそも非番であった閃は、ただ散歩目的で歩いていた。たまたま見かけた花簪が少女に似合うと思い購入したのも、そのあとで淡紅にあったのもまったくの偶然だった。

「お姫様」

「…………はい」

 長い間は、呼びかけを受け入れるか否かの葛藤だろう。彼女の従者たちが呼ぶのと、明らかに違うのだから。

 律儀に振り返る姿に笑みを噛み殺しつつ、取り出した花簪を丁寧な手つきでその黒絹に飾った。思わぬ接近に少女が硬直するのも予想のうち。

 しゃらりと、飾りと髪がこすれてかすかな音がする。藤の花を模したそれは少女によく似合った。藤色が一般的だが、その簪は紅色──紅藤を模していた。珍しさと、彼女の氏と名前を思わせることから手に取った。

「え……」

「ああ、とてもよく似合う」

「──っ……!」

 本当になんの裏もない、愛しさと賛辞だけを乗せた笑みを無自覚に浮かべ、閃は淡紅を見下ろした。

 もらえないと、紡がれるより早く。

「不要なら捨ててくれ。紅藤に彩られた君が見たかった、私のわがままだ」



 恋情をぶつけてあげよう。

 これは最初の一手。



嘘をつこうとした狐、嘘をつかない代わりに沈黙を選ぶ淡紅ちゃん、言わなければないのと同じという詭弁を弄した閃。

うまく表現できなくて悔しいです。

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