願いを捧げる
第五章 願いを捧げる
清め桜の様子を見に行った少女は、およそ一刻後に幼なじみをつれて戻ってきた。ただし祐筆の少年がいない。
「天狗?」
「ああ。なんか、名前を呼んでほしいんだと。絶対に来てほしいからって、一人連れていった」
「結界とやらは――」
「あの天狗はわたしに悪意などありません。だから結界を通り抜けられました」
月詠命と対面した広間に全員が集まって状況を確認していく。淡紅はなぜか筆記用具も用意している。
「結界を通り抜けられただけで」
「……十年ほど前より、高い空からこの郷を見ている気配を二つ感じていました。二つの気配から感じるのはずっと、好奇心と好意だけです。昨日、この郷に戻ってから気配が少し変質していたので気になってはいましたが……悪意がないことに変わりありません」
短冊の大きさに切った紙に墨を付けた筆を走らせる。用意された紙は三枚。記された文字は「遠野」「比叡山」「鞍馬山」。
筆を置いて乾くのを待つ。次に動いたのは従者の三人。三人とも一つずつたらいを持ってきて少女の前に置いた。どのたらいもたっぷりと水が張られている。
一つのたらいに一つの紙を浮かべる。柏手を打つ護国の巫女の肩に、兎姿の神が乗った。
「──三つの地を治める天狗の長殿、おうかがいしたいことがございます。しばし時間をいただきますよう、お願い申しあげます」
言霊に答えるように水が波打つ。最初は小さく、次第に大きく。あわやたらいから溢れると思われた水はしかし、その入れ物の上にとどまって円をなし、水鏡となった。
それぞれに映る人影。
『やれやれ、また厄介ごとかの、護国の』
「さて、どうでしょう。まだ全容が見えておりませんので。なのでお知恵を拝借したいと思っております、鞍馬の大天狗殿」
『さて……そなたの望むものを儂らがもっているとは限らんぞ。世は常にそう甘くない』
「存じているつもりです、遠野の山ン本殿」
『……』
「お取り込み中でございましたか、比叡天狗殿」
『……いや。毎度戯れ言を紡ぐご老体に呆れつつ、それに付き合わされるおまえを哀れんでいる』
水鏡に姿を見せたのは三人の天狗。しかし絵巻などに描かれる高い鼻の持ち主はいない。芝居で使われる天狗の面は完全に人の想像なのか、それとも化けているだけなのか、軍人たちにはわからない。
華奢な背をまっすぐ伸ばし、少女は穏やかな笑みで問う。
「元は別の体であった二人の天狗。しかし体は一つになり、その内側で二つの魂がせめぎあう、あるいは水際で均衡を保っている──それが何を意味するのか、教えていただきたいのです」
『──』
知っているか、とは聞かない。知っていることを前提に問いを紡いだ。
それは言葉遊びを避けるためなのか。落ち着いているようで、やはりどこか焦りがあるのか。
幼なじみを一人、人質に取られているにも関わらず「悪意はない」と評する。その矛盾に答えたのは、意外にも清たち三人だった。
曰く、淡紅を必要以上には動揺させず、人質に怪我をさせないための最良の選択なのだと。
清や猛は妖怪の力があり、抵抗できてしまう。どうしても淡紅に来てほしい天狗は抵抗を封じようとするだろう。したがって無傷ではいられない。
左近は「自分で待つことを選んで離れるならともかく、むりやりひぃ様から引き離れたら大暴れするでしょうね」と、自分で言った。そうなるとやはり抑えるために実力行使をせねばならず、淡紅の不安も高まる。
望む結果を少しでも早く手に入れるためには、抵抗する術が少なく、一番落ち着いている久佐が適任となる。手段の善悪は別として。
十年前から好奇心と好意で少女とその周りを見続けたらしい天狗。よっぽどの鈍感でもなければ五人の関係性は理解できただろう。その上で最低の手段を取らなかったことを、彼らは評価していた。
だからこそ淡紅も考える。「名前を呼んでほしい」という願いの裏側を。天狗の身に何が起きているのか。
各地を治める天狗たちは沈黙している。さすがに表情は読めない。三者の中で一番若いらしい比叡天狗でさえ八百年は生きているから、そう簡単に感情を読みとらせてはくれない。
焦ってはいけないことぐらい淡紅もわかっている。急いでいるからこそ、冷静にならなくてはいけないことも。天狗たちと淡紅の間に主従のつながりはない。好意的に見て隣人と呼べる程度。
人と妖怪。絶対的に相容れないものがあることを承知の交流。協力できることもあれば、それぞれが守るもののために対することもある。それを忘れてはいけない。
はやる心を抑えようと一度目を閉じる。同時に肩に乗る重みが増し、左頬に動物の毛が触れた。兎姿の月読命が従者の葛藤に気づいて労ってくれたと悟る。必要のない重さを作って存在を主張してまで。
ほぐれた心のまま、先ほどよりも上手に笑えた気がする。改めて三人の天狗を見る。
『……お主には、借りができたしの……』
やれやれとため息混じりに口を開いたのは遠野の天狗、山ン本五郎左衛門 。
「……借り……?」
『そなた、二人の座敷童と誼を結んだだろう』
「月乃さんと雪乃さんですね」
二人の座敷童は帝都を離れる前日にも淡紅の家にきた。お茶を一緒にできたものの、その前にしばらく郷に戻ると告げたら大変だった。
月乃は拗ねて雪乃は大泣き。それにより二人の力が暴走し、家中の小物が飛び交う羽目になった。
二人の力が未熟なためか大きな家具が飛ばなかったのは幸い。飛び回った小物も淡紅にあたらなかった。代わりとばかりに久佐と清が痛い目にあっていたけれど。
どうにか慰めて落ち着いてもらって、また帝都に戻ると理解してもらったときには日が暮れていたから驚きだ。しかもいくつかの交換条件を出された。
そのうちの一つに、「様付け禁止!」があったのは余談である。
『うち一人に関しては、堕ちかけたのを助けられた借りがあるからな』
「……泣いている童がいたら慰めるのは当たり前のことと思いますが」
『主はもう少しずるくなれ、護国の。山ン本が話してやるために借りと言うているのだから、堂々とそれを受け取れ』
呆れて口を挟んだのは鞍馬山の大天狗。求めるものが手に入るのだから些末は流せと忠告する。
返す言葉もなく沈黙する少女。
そのやりとりに比叡天狗は声を殺して笑った。
『ともぐい、と言う言葉に覚えはあるか』
「……同じ種に属するものが互いを食べあう、と記憶しておりますが」
『我らにも時折りそのような定めをもったものが生まれることがある。天狗だけに生まれるのか、他の妖にも生まれるかは知らぬが』
「……」
『肉体を喰われたものは魂を喰う──―それが我らのともぐいよ』
「肉体を喰われたものは魂を──では」
『ここまでじゃ。これ以上は勘定に合わぬ』
山ン本の言う借りの対価が、質問の答えのおよそ半分。許されるなら淡紅こそ言いたい、勘定が合わないと。
だがそれはきっと人間の感覚なのだろう。ともぐいの定めは妖にとってそれほど重い事実なのかもしれない。
ならばと思考を巡らせたとき。
「勘定に合わないって姫さんは──!」
非難の声と人が立ち上がる音、そしてそれを無理矢理引き倒す音はほぼ同時だった。
思わず肩が跳ねた。けれど振り向くこともできない。
完璧に聞き分ける自信こそないが、己を「姫さん」と呼んだことから佑の声だと推測する。人のいい彼は、従者を質にとられた自分のことを案じて抗弁しようとしたのかもしれない。妖の理からは少しずれるも、ありがたい心遣いだと思う。
しかし礼を述べるゆとりはない。最低でも八百年以上を生きる曲者との対談はまだ終わっていないのだから。
『知らぬ者がいるようだのう』
「天照の末裔に関わる縁で知り合った方にございます」
『儂らの勘定に不満なようだが』
「帝都になにが起きているかわからず、なにが天照の末裔に害を及ぼすか定かではない状況ですので。ご容赦いただけると幸いです」
「──っ」
佑の人柄を察しながら、それでもその行動の理由を己ではなく天照の末裔におく。
それを冷淡と取るか、臆病と取るか。
水鏡から目を逸らさず、膝の上で拳を握るたおやかな巫女をしばし見つめ、一人の天狗が口を開いた。
『いつだったか──まあ、さほど遠くない日だろう。どこぞの隠れ郷に住む娘が愛しいだの守りたいだのほざく二羽がいたな』
「──は、」
『比叡の!』
『若輩の独り言など聞き流せばよかろう。ああ、そうだ。その二羽、片方は未来仏と同じ音、もう一方は常に闘う心持ちのものが至る道と同じ音を名に持っていたな』
『また奇妙な気遣いを見せるのう』
『はてさて。ただ思い出しただけなれば。ともあれ、もうよかろう。俺は去らせてもらう』
水鏡の一つがゆらぐ。後を追うように残り二つの鏡も揺れた。思わぬ土産ももらってしまった以上、もう引き延ばせない。
護国の巫女は軽く頭を下げて礼を述べた。
力を失った水がたらいに落ちる。波打つ水面を眺め、わずかに考える。
やがて細く長い息を吐いた従者の肩から兎姿の神が降りる。月詠命は人身へと転じ、片膝立てて座った。手を伸ばし、こめかみのあたりから淡紅の髪をなでる。顔の輪郭に沿うようで、けれども肌には触らず。しかし主の手に合わせて髪が揺れるから少しくすぐったい。
沈黙の労りに口元を緩ませた。穏やかな表情で月詠命に伝える。
「祭りの準備もしなくてはいけませんしね。急ぎ、行ってまいります」
優しい手が離れる。少女は座したままで後ろを向く。そこには様々な表情があった。
どんな言葉が出ても平気と言いそうな清、左近、猛。気遣いと戸惑いが混ざった頼と佑。努めて無表情と分かる彪。苦笑いの仮面で本心を隠している亘に、視線をそらしている閃。
閃の表情にどこか迷いが見えた気がして、内心で首を傾げる。けれどもかける言葉が見つかるはずもないから蓋をした。
「……姫さん、あの……」
気まずそうな佑の声。少女は少し悩んでから口を開く。その視線は胸元のボタンより上にいかない。
「お気遣い、いたみいります。けれどあちらは天狗、わたしは狭間に立つもの。人の道理や心配りが成り立たないことがしばしばあるのです。大事にするもの、心の在りようが違うこともありますから」
「心のありようって言ったって……」
「戸惑われるのも無理はないと思います。そういうものだと、片づけてしまって大丈夫ですよ」
そうではないのだと、佑は言いたかった。彼が言いたいのはそこではないのだと。
確かに妖の勘定に納得はいかず、声も上げた。けれど今、一番引っかかっているのは。
『天照の末裔に関わる縁で知り合った方』
天照の末裔の存在を示すことで、佑をかばったのかもしれない。天狗たちもそれぞれ長の立場にあり、彼は統治者の会談に水を差したのだから。
そうだとしても何かが納得できない。けれども言葉にできなくて。
そうしている間に少女は視線を動かし、今度は全体に伝える。
「清、左近、猛をつれてわたしの従者を迎えに行ってまいります。あの山も結界の内側ですので、早々危険なことはありません。みなさまはいかがなさいますか?」
三人の幼なじみをつれていくのは当たり前。幼なじみも否やを唱える理由がない。むしろ留守番をいやがる位だ。分かっているから、どうしてもできないときはできないと言うからこそ、確認も忘れる。
ある意味では傲慢な「当たり前」。
対して軍人たちには問う。来ない道を示すことで線を引いた上で。それは彼らが「皇の気配り」の象徴だから。
自覚の有無は分からない。しかしながら淡紅は、青年たちをそのように見なすことで距離をとろうとしていた。裏を返すと、そこまでしてやっと、彼女は彼らと接触できるのかもしれない。
目線を合わせず、張り付けた笑みで己を守る少女の問い。その背後には月詠命が座したまま見ている。
青年たちの答えは──。
* *
さて。天狗に抱えられて山の上にくるはめになった久佐。彼は別に天狗に対して敵意も嫌悪もなかった。
それは天狗が「けがはさせない。俺の誇りにかけて」と言ったからでも、自由にした久佐から離れたところにいるからでもない──多少の判断理由ではあるけれど。
淡紅が、小さい頃からときどき空を見上げて「今日も天狗が来た」とつぶやいていて、しかも結界を通り抜けたから。淡紅の声に警戒はなく、なによりも淡紅が張った結界をくぐり抜けた。ならば天狗の真意は分からなくても、警戒するだけ無駄と言うもの。
迎えをただ待つのは情けないが、変に暴れてけがをして。事態を混乱させるほうが失策だろう。
「──お前、本当に冷静だな。やっぱりお前にしてよかった」
「ありがたくない評価おそれいります。ただ、そちらの用が終わったら何発か殴られると思っててください、僕らから」
「お前らから?」
「姫さまは怒らないでしょうけど。花鎮めの儀が明日の夜なのに、疲れさせるんだから当然かと」
「あー……それは申し訳ない。こっちにもいろいろとあって」
気まずそうに頬をかく男。背丈はおそらく六尺(約180cm)に届かず、けれども彪よりは高い。髪は散切り頭で修験者の装い。錫杖はなく、赤ら顔でもない。鼻の長さも至って普通なので、羽を隠したら人間と見分けがつかない。
(いや、そうでもないか……)
目の色が赤っぽい。かなり濃く、光の加減では茶色にも見える長春色。その色のために異端であることは隠せないかもしれない。
突然、視線の先で天狗の体がわずかに傾く。片膝をつき、胸元をきつく握りしめた。目を閉じ、歯を食いしばるのがわかった。
尋常ならざる様子に思わず立ち上がる。それでも近づけない。敵ではないけど警戒も解けない自分は、薄情なのか。
「──っ、ああ……気にするな。大丈夫だ、あと少しで収まる」
荒い息を吐きながら男は言葉を紡ぐ。目の色が緑青に変わっている。
「……それは、あなたの事情に関係するものなんですか」
「まあ、な」
天狗の呼吸が落ち着く。目の色が戻った。質問をしてしまおうか悩む。しかし開いた口から言葉が出ることはなかった。
膝をついてうつむいていた天狗が顔を上げ、立ち上がる。姿勢を正したということは、待ち人が来たということだろう。
久佐も視線を天狗から外す。今いる山に郷から来た場合、道は一つ。薬草取りなどの理由がない限り、人々はその道を使う。もっとも薬草や木の実が豊富で遊び場とするに高すぎるこの山では、まっすぐに登る人の方が少ないのだが。
最初に姿を見せたのは淡紅だった。顔にあまり疲れが見えず、おやと首を傾げた。
淡紅とてもちろん、この山に登ったことはある。思い出したくないが四年前に荊木と対峙したのもこの場所。したがってこの山を自力で登ることは彼女にも可能だ。その速度はゆっくりで、隠しきれない疲労に襲われるけれど。
しかし今の淡紅に疲れの色は薄く、どちらかと言うと気まずさが滲んでいる気がした。 あとで仲間に確認しようと、頭の隅に書き留めた。
「ご足労を煩わせて申し訳ない、うすべにの君。──名前、見つけてもらえたかな」
先ほどの苦しみなど感じさせない様子で、へらりと笑いながら天狗が問う。
その姿をじっと見つめてから少女は一度目を閉じた。
「遠野、鞍馬、比叡の天狗殿に『ともぐい』の定めについてうかがいました。──少し前に『ミロク』と『シュラ』という名の天狗がいたことも」
「……」
「──わたしが、天狗の長殿と交渉する材料を持っていなかったらどうするつもりだったのです?」
「なにが何でも交渉してもらうための人質だったんだけどな。──結果として、うすべにの君はきたし」
平然と言ってのける。何も知らなければ厚顔無恥甚だしいと糾弾できる。だけどそうするだけの理由があると、察してしまったから。
許す許さないは別として、糾弾する気もない。
少女の目には天狗の体内で瀬戸際の均衡を保つ二つの魂が映る。
「──ともぐいの運命を背負う天狗、体を食われたものは相手の魂を食らうと決まっていながら、なぜ貴方たちの魂は残っているのです。わたしの従者を人質に取ってまで叶えたい、貴方たちの本当の望みとはなんですか──ミロク、シュラ」
「……俺たちが、初めて君を見つけたのは、十年前だった」
へらりと笑い、天狗は語り始める。自分たちの運命を決めたときのことを。
十年前、彼らは別の体を持っていた。ともぐいの定めのことはなんとなくわかっていて、いつかどちらかが消えるということも悟っていた。それ自体には何も思うことなどなかった。
ただ──誰の心にも残らないで消えるのは嫌だと、二人ともが思っていた。
そんなとき、護国の巫女が治める郷の近くに来た。護国の巫女の存在はもちろん知っていて、けれども興味などなかった二人に結界は意味をなさない。二人は簡単に空から郷を見ることができて──そして、運命を見つけた。
「あんたは自分のためには泣かない。でも、自分の周りにいる存在や、自分が助けられるかもしれない存在のためには泣きそうになりながら必死になっていた」
今は淡紅の幼なじみとして郷で暮らす猛と左近。彼らは郷の外で生まれた。先祖返りである猛はそれが理由で虐げられ、左近は家族の鬱屈のはけ口だった。そのままでは大人になれなかった童は、けれどもかすかな奇跡で救われた。
淡紅が二人を夢に見て、助けるために月詠命や村の人間たちに願ったのだ。
少年たちは運がよかった。だから二人にとって淡紅は特別で、始まりに否定を受けた二人は「いらない存在」と感じることに敏感だ。
「あんたは器用じゃない、万能じゃない。そんなのはわかってる。それでも、必死になってくれるだろう、心を砕いてくれるだろう。そんなあんたを見て、あんたの心に残りたいと思ったんだ」
「──」
「でも必要以上に傷つけたくなかったから、だから君の前には姿を見せなかった。ともぐいの日が来て、魂を食らいつくす前に会いに行こうって、そう決めた」
身勝手な願いだとわかっている。押しつけの好意なんて迷惑なだけだと知っている。けれども止められないし、止めるつもりもない。
「君の成長が知りたくて、何度もあんたを見に来た。うすべにの君って呼び方もさ、そんな中で決めたんだ。いつか、誰かが手習いであんたの名前を書いたって見せていただろう。名を秘める術で読み方はわからなかったけど、字は分かった」
淡い紅という字に思い浮かべたのは「薄紅」だから、うすべにの君。
自分たちだけの呼び方は、二人の天狗の宝で、秘密だった。
少女を見つけてから十年、ついにその日が来た。儀式のためとはいえ、少女が郷に戻ってくれていたのは幸いだった。天照の加護とさまざまな術式で守られた帝都が、今の天狗には辛い。
「君にしてみれば勝手な願いだろう。それでも──見届けてほしいんだ」
二つの魂が交互に語る。見れば目の色も片方が緑青に転じている。刻限が近づいている。笑みを保ちながら、しかし苦悶の汗も流れ始めた。
「──」
少女は一歩を踏み出した。
後ろで見守っている人たちが驚くけれど、答えている余裕はない。天狗の時間が、少ない。
「まだすべてを話していないでしょう」
「──っ」
「体を喰らったのがどちらで、魂を喰らうのがどちらなのか。なにより本当の願いを貴方たちはまだ話していない、違いますか」
「……っ、だが……」
「叶えられるかどうか、それは聞かなくては分かりません。貴方たちの思いやりには感謝しますが、わたしを雛のように包んで己の願いを押しつぶして、それで貴方たちは後悔しないと言えるのですか」
自分の言葉に、なぜか自分の胸の奥が軋む。気づいたら立てなくなりそうで、愚かにも目をそらした。
彼女の目に映る二つの魂。一つがもう一つを喰らう。止める術も権利もない。
けれども、その手は伸ばされている、己に向かって。
「──っ……肉体を喰らったのは『修羅』、今、修羅の魂を喰らうは『深勒』」
二人の魂が代わる代わる名乗った。その名告りが、少女に彼らの字を教える。
魂を喰らう苦痛か、修羅の体が膝をついた。太刀を落とし、草ごと土を抉った。
「ずっと、……見てた、君も、君の従者も。あんたの従者はあんたを支えるために必死で、あんたも従者とともにたとうと……がんばっていて」
血反吐を吐く思いで吐露する。今朝までは言うつもりだった。けれども今朝、母親のことや自分の運命を軍人たちに知られて傷ついている少女に、言えないと飲み込んだ願い。
「君の従者、が、妬ましいっ」
けれども少女が言えと言うから。
それは命令であり、赦しだった。
「死ぬならば誰かの心に残って死にたいと思っていた。あんたに出会ってからもその願いは変わらない。だけど、あんたとあんたの従者を見て思った──生きる意味も、君がいい」
修羅と深勒。偶然、同じ種族と運命の元に生まれただけの、似ているところなんて何一つない二人。それにも関わらず抱いた願いは同じだった。
どちらが魂を喰らうことになってもかまわない。ただ、すべてを喰らいつくす前に少女の元へ行こう。そして願うのだ。
魂の最後の一欠片を護国の巫女に砕いてほしい。そして、不完全な魂を抱える天狗だけれども、従者にしてほしいと。
誰かのために懸命になれる存在に、自分たちも全力になりたいと、心を奪われたから。
「……魂の一部が欠けた従者でもいいと、君が言ってくれればの話だけどな。まあ、いらないなら、この場で調伏してくれ」
「──」
平然と死を乞う天狗。
木々に隠れ、密やかな観客となっている軍人たちがさすがに息を呑んだ。
「おいおい……いくらなんでも極端だろ……」
「零か、百か……それほどの思いと言えばそうなんだろうが、私には無理だな」
小声で呟く。閃の言葉にうまくいえない違和感を覚え、頼は横目で探った。
珍しいことに人を食ったような笑みさえ浮かべていない。けれどそう言えば、今朝──淡紅と淡紅の母の関係を共有したとき──から、彼はどこかおかしかった気がする。
(……やっぱり、さっきの行動も変だよね)
この山を登る際、少女は佑に背負われていた。別に少女が依頼したわけではなく、怪我をしていたわけでもない。仮に怪我をしていても、淡紅は軍人たちには頼まないだろう。
佑に負われる状況に持っていったのは閃だった。
山道に足を踏み入れる瞬間、閃がおもむろに少女の背と膝裏に背を当てて抱き上げたのだ。無駄な早業に誰もが固まった。
最初に立ち直った亘とて「……や、おまえ、なにやってんの?」と、それを言うのが精一杯だった。それに対して平然と「時間と体力の節約か?」と閃が返したとき、一発殴るべきか真剣に考えた。
しかしながら客観的に考えて、少女の体力や歩く速度が軍人に比べて劣るのは明々白々。そのため、問答無用で行動した──しかも年頃の少女を抱き上げるなどという暴挙をやらかした閃には制裁を加えつつ、淡紅には佑に背負われてもらうことになった。
その代替案すらも彼女の幼なじみたちには不満だったが、急ぎたいのも事実だったので渋々と承諾していた。少女にいたってはよっぽど驚いたらしく、山の中腹までいってようやく我に返ったくらいだった。
──結果だけを見れば、確かに時間の節約ができたわけだが、話の運び方がおかしい。たとえ裏に考えがあっても、閃が女性相手に不言実行するなどほとんどない。まして立場が複雑かつ、皇や東宮のような大物との関わりが深い存在ならばなおさらに。
思考に浸っていた頼の意識を、鈴のような声が引き戻した。
「わたしが、ではなく、貴方が、それでいいのですか? 貴方の魂は変化を始めているのでしょう。その変化を正しく終え、一つの完全なる形になるためには、もう一つの――修羅の魂を食らいつくさねばならないのでは?」
「……運命に従うならば、そうだな」
長春と緑青の瞳で青年は笑う。苦痛を押し隠し、焦がれた少女を見つめて。
早く答えをくれと願う。
「ともぐいの運命なんて、別にどうでもいいんだよ。ただそのように生まれて、逃れられないってだけだ。それよりも俺たちにとって大事なのは、あんたの心に残ることと、君のために生きたいってことだから」
「──そう、ですか」
少女が足の位置を変えた。同時の場の空気が変化する。
「──とおつかみ、えみたまえ。そは陰、そは留まるもの、そはうつろうもの。闇夜に輝く我が神」
祝詞とともに少女が左手を掲げる。上弦であるがために空に姿を見せていた月から、光が降りてくるような、そんな錯覚を覚える。
「月の影の禊ぎを受け、我は伏して願い奉る。我が従者の願いを叶えんがため、御身の力を受けし弓を今この場に降ろし給え」
「──っ!? うすべにのっ」
「立ち続けなさい、修羅。空から、離れたところからわたしたちを見守り続けた貴方の労をねぎらわないほど、わたしは非情ではないつもりです」
「……うす、べに、の……」
「だからこそ、これが最後の命令です。わたしの手で最期を迎えたいと願うならば、膝をつくことは許しません。──夜と月を統べる神の力を受けし弓よ、月詠命の従者たる我が触れることを許したまえ。来たれ、『偃月』!」
降り注ぐ月光がより強く輝いた。少女の言霊に答えて一竿の弓が現れる。
その弓は非常に滑らかな手触りで、それ自体が白く輝いているように見える。暗闇の中にあればそれこそ月のように見えることだろう。
真っ青な顔色の天狗が、少女の言葉に泣きそうに笑った。それでも自力で立ち続けることは難しいのか数歩下がり、木にその背中を預けることで淡紅の命に従う。
「……そっか、俺は、俺たちは君の従者になれていたのか」
「──わたしは、至らぬ身。歯がゆいこともあったでしょう。それでも堪えて遠くから見守ってくれていたこと、感謝しています」
礼射の手順で少女が弓を構える。つがえるのは巫女の霊力で作られた矢。
はなれの直前、淡紅が笑う。
「──ありがとうございます、修羅。おつかれさまでした」
ゆっくりと、おやすみなさい。
手向けの言葉が添えられた笑みは優しく、慈しみに満ちていた。それは、彼女が幼なじみや郷の人々に向けるものとほぼ同じ。
嗚呼、と。修羅は満たされた思いで、目を閉じた。
矢はまっすぐに飛び、狙い違わず天狗の胸に吸い込まれた。霊力で練られた矢だからなのか、彼に痛みはあまりないようだ。
矢が消えると同時に天狗の体が崩れる。同時に、巫女もその場に膝をついた。
「姫!」
駆け寄ったのは当然のごとく清と──頼だった。二人の手が伸ばされるが、制したのもなぜか淡紅。
少女は右手をあげて二人を制し、荒い呼吸を整えながら座り込んでいる天狗を視界に治める。天狗のそばには久佐がいる。彼は祐筆としての役目を忘れていない。
混ざり始めている二つの魂。大半の魂を守りながら一部の魂を砕くのは難しく、本来ならば十分な準備と集中を必要とする。しかしながら今回は準備の時間がなかった。さらには明日の夜に控える花鎮めの儀への備えもあり、霊力が過剰に出てしまった。
その結果として頭痛に襲われているが、まだやるべきことがある。だから少女は気力で呼ぶ。
「……ともぐいの定めを背負いし天狗、空を駆けるもの、歪な魂を持つわたしの従者──」
清は盾、猛は剣、久佐は祐筆で左近は医師。ならば彼の役目は。
「高きところよりわたしには見えぬもの、わたしが求めるものを探し、届けてください。盾の役目も剣の役目も貴方には求めましょう。それ以上に、貴方にはわたしの『耳』としての役目を求めます。覚悟があるのならば──立ちなさい、『深勒』」
言霊で呪いを紡ぐ。天狗──深勒が応えれば彼は淡紅の従者、陰陽師が言うところの式になる。応えなければ──。
「……過分なお役目、恐悦至極ってところですかね、うすべにの君」
「……できませんか?」
「いいや? あんたの仰せとあらばなんなりと」
二色の瞳で深勒は笑う。失った従者の名残もあることに気づき、淡紅も吐息のような笑みをこぼしてうつむいた。
頭上から、状況を受け入れた幼なじみたちの声が降ってくる。
「じゃあとりあえず、従者のくせに姫に迷惑かけたってことで殴っていいか?」
「ついでに僕に迷惑かけた分も」
「あ、じゃあ僕もー」
「受け入れが早いのはありがたいが、素直に殴られると思うか?」
「殴られたら姫様の名前を教えるということで」
「久佐、頭いいー」
左近だけは話に入らず、淡紅の横に膝をついた。律儀に一言断ってから少女の腕を取り、脈を診る。
「……」
渋い顔をし、右手を伸ばして今度は少女の首に触れた。微熱が出ている自覚は少女にもあった。その原因が、修羅の願いを叶えるために用いた術式だけかは不明だが。
「姫? もしかして具合が──」
「あー……帰りもおぶるか?」
二人の様子に気づいた頼と佑が近づいてくる。腕を委ねたままだから、強ばってしまったことに左近が気づいたことだろう。
さて困った。そんな権利はないけれど困った。
行きは閃に抱き上げられた衝撃が大きかったため、佑におわれるという事実を受け入れるのに時間がかかった。けれども今は、佑の申し出を受けてしまったら、最初から理解せざるを得ない。
分かっている。
花鎮めの儀は明日の夜。月詠命の神域で休ませてもらえば疲労から来る熱は下げられるだろう。しかしそのためには少しでも早く山を下りねばならない。この場に神を呼ぶという手段もあるにはあるが、それは最後の手段。
分かっている。軍人たちは、皇が用意してくれた「盾」であるということも。それでも、何事もなければ自分は、いつか。
「──深勒、さん」
「あ? どうした?」
「ひぃ様をつれて先に山を下りてください。久佐を抱えて飛べたんだから、できますよね。明日の祭りのためにも、ひぃ様は早く休まないと」
「──そうだな」
「そのときに月の御方に睨まれるくらいは覚悟しておいてください」
「……ご忠告、痛みいる」
左近の言葉が思考を止めた。ゆるゆると顔を上げる。苦笑いを浮かべている左近の顔が見えた。その向こうに、気遣わしげにこちらを見ている頼と佑、堅い表情の彪。
──閃と亘を視界にいれることは、できなかった。
「ひぃ様、深勒さんは、ひぃ様の従者です。だから、だから大丈夫ですよ」
「……深勒」
「ああ、うすべにの君」
青年が近くに膝をついた。己を死に場所と生きる場所にした妖怪。その色違いの瞳を見つめ──少女は頷いた。
大丈夫だ。深勒はさまざまな強い思いを己に向けているけれど──こわくない。深勒は「従者」を選んだから。「幼なじみ」と「従者」と「家族」を選んだ清と同じように。
それが分かったから、淡紅は腕を伸ばせた。
「戻ります。我が君のもとへ」
「承知いたしました」
彼が飛びやすいよう、己を抱えやすいよう、深勒の首に腕を回す。青年も体勢を整えるため、まずは両腕で少女を抱き寄せる。
月詠命ほどの安心感はないけれど、従者だから平気だ。数年前までの皇と同じくらいには安心できる。
深勒は己の左腕に少女を座らせるような形を取り、羽を広げた。
「じゃあ先に戻らせてもらう」
「ああ」
深勒が準備している間に、清が久佐に記憶を読ませている。多分、考えていることは同じだろう。
淡紅は怯えている。それでも役目から逃げられるような人ではない。
亘や閃のように自覚的に距離を置いているなら、まだ許せる。分かっていない部分があるけれど、距離を置かれているほうがましだ。
手がかりを示されておいて気づかず、分かった振りをして無自覚に淡紅を脅かす頼や彪は許せない。理屈では分かっていないのに、感覚的あるいは人としての当たり前で振る舞う佑は危険だ。彼らの当たり前で距離を詰めてきて、結果的に淡紅を脅かすから。
それでも短い期間のつきあいながら我慢できた。ただの通りすがりなら。
しかし皇は彼らを郷に来させた。そして淡紅はまた帝都に行く。つきあいが長くなるのは必定。
ならば、淡紅の幼なじみとして、従者として。彼女を大切に思うものとして。
「僕たちはあなたたちを責める権利がある」
* *
「──現時点での適任とはいえ、あの五人にしたのは意外なんだよね、実は」
「それはなんとも、今さらなお言葉ですね、宮」
淡紅の郷から離れた帝都。
皇は東宮のお召しを受けて茶をたしなんでいた。日の本で二番目に尊い人物だが、人払いはされている。
「人柄だけを言えばむしろ加々美少尉の方が適任だと思うんだよね。ああでも彼、許嫁がいるんだっけ」
「いなくても、彼は家と縁を切る決断が難しいでしょう。──まあ、そういう意味では近衛少尉も同じですが」
「へえ?」
「いざというとき名誉の死ではなく、一時の汚泥を啜ることになろうとも生を選び、最終的な勝ちを選べるという点では一条准尉も近衛少尉も似ています。ですが一条准尉の基準が己という個であるのに対し、近衛少尉の場合は己と己の生家を含めた大多数。少数になりやすい淡紅が切り捨てられかねないという点で、あれが一番選んでほしくない相手ですね」
「なのに選んだの?」
「五行の土に属し、他の四人の手綱を握れるのがあれだけでしたので」
「消去法か。二条准尉と鷹司准尉は?」
「一応人柄を評価しています。気づけるか否かは賭ですし、気づいていない状態での『当たり前』は淡紅を傷つけますが……気づいた上での『当たり前の優しさ』は、あの傷だらけで臆病な子を助けるでしょう。それに、あの二人はそう簡単に死なない」
最後の言葉に東宮は吹き出した。「台無しの言葉を言わないように」と言えば「事実ですので」と返される。
期待を裏切らない男である。
「で、九条少尉は? 正直、僕はあれがおまえにとっての論外だと思っていたけど」
「……現時点では論外ですね。無意識で見ないようにしているものが多く、役目を投げ出せないまじめさは淡紅と似ていて、一歩間違えば同族嫌悪に陥りかねません。ただ……うまく行けば、だからこそ理解者となり、共に歩いていける可能性も」
「……僕としては、護国の巫女が誰かを嫌えるなら、それもそれでいいと思うけどね。あいつのことさえ、嫌わないんだから」
「……」
目を閉じて思い出すのは、今よりも幼い淡紅の姿。母に忘れられた彼女が立ち上がるため、自分から、己の意思で手を伸ばしたことがあった。
けれど──。
「月の方が守る郷に行かせるという劇薬が、うまく転べばいいけどね」
「──お気遣い、感謝いたします」
* *
日が沈み、月が空の主となった。深勒が淡紅の従者となっておよそ一日。ついに花鎮めの儀が行われる。
軍人たちは郷の人々と同様に清め桜のもとに来た。
「これは……」
その木を見て言葉を失う。桜というには紅すぎる花弁。風の音とは異なるうなり声に似たものが耳に届く。
言いようのないおぞましさを感じる、そんな木だった。
木の前には舞台としての毛氈がある。そこからさらに距離を置いて人々が座る。大人はさすがに平然としている者が多いけれど、たまの夜更かしに喜んでいたこどもも今は怯えている。
青年たちもおぞましさを否定できない。淡紅に付き添って一度見たはずの亘とて、「ここまで不穏じゃなかった」と表情が硬い。
邪気を吸い上げて咲く桜。花開くということは、それだけの邪気を吸い上げているということ。
これを淡紅はどうしようというのか。
「……」
少女のことを思い出して、複雑な想いに駆られる。
前日の夕方、天狗とともに去ってから淡紅の姿を見ていない。立つことさえ難しいほどに疲労していた少女。その疲労が、天狗の願いに応えたからだけではないことぐらい分かる──分かりたいと思ってはいなかったけれど。
『あなたたちの目には、姫様がどんな風に見えているんですか』
『確かに護国の巫女ですよ。でもそれがひぃ様のすべてじゃない』
責める権利を主張した少年たち。彼らは容赦しなかった。
護国の巫女としての勤めをつつがなく果たせるように計らえばいい、突き詰めればそれだけの任務。護衛対象がなにを思っていようと関係ないといえば関係ないのに。
少女への精神的な負荷があまりにも大きすぎたから。何より──。
『どんなにしっかりしていたって、気丈に振る舞えたって、姫様はまだたったの十四歳なんですよ』
『あんたたちが知らないって分かっていたって、いつか、自分を傷つける可能性のある男を怖がって何がおかしいんだよ、何が悪いんだよ』
母について語ったとき、少女は続けて話した。いつか、自分も子を──次代の護国の巫女を生まねばならない、と。
護国の巫女の血筋が絶えることを恐れる者は今も存在していて。けれども母を襲った悲劇、自分が生まれた経緯を知る少女が普通に恋をできるかは分からない。母になることを恐れていても当然だ。
しかしそんな少女の不安を考慮してくれるものばかりではない。まして、外道な手段を一度でもとってしまった奴らは、二度目への抵抗が少しばかり軽くなる。一度だけ、少しだけ──そこで止まれる者などほとんどいない。大義名分があり、自分にほとんど実害がなければなおさらに。
亘たち五人は、そんな思惑を逆手にとって皇が用意した牽制にして盾であり、可能性だ。
淡紅は亘と閃に「拒む権利がある」と話した。そして自身を慈しむために彼らを利用する皇の選択を、皇に守られる身として謝罪した。
皇と淡紅の年は十一違う。この日の本の中枢に近い天地家の息子ならば、幼いころから護国の巫女という存在を知っていて当たり前だろう。まして東宮の『ご学友』。
知らないでいられるほど恵まれた環境でもないし、鈍感でもいられなかっただろう。
皇が淡紅の母をどう思っていたかは知らない。けれども十一という年頃、特有の潔癖さを持ちうることを考えれば、その心情の想像はしやすい。
『私は淡紅の味方だ』
なんの躊躇いもなく言い切った男を思い出す。いっそすがすがしいほどの公私混同。
少女を大切に想うと同時に己の立場を理解しているからこそ、皇は一人で淡紅を守ることをやめた。少女の周りに己の手駒を置くことで、外道の手を届きにくくした。
少女もまた理解している。己の立場も求められていることも。五人の青年たちを直視できなかったのは、育ちや気性だけではなく、どこかで恐れもあったのだろう。少年たちが言うように。
皇の思いやりも、自分のために選別された人材であることも理解しているからこそ、拒絶しないように努めているだけで。
『何が悪いんだよ』
悪くない。淡紅は何も悪くないと言い切れる。
青年たちが知らなかったのは事実。
けれども目の前にいる存在がたったの十四歳の少女であることを忘れた彼らは。触れたこともない異界に振り回され、目の前にある明確な事実を受け止めることを忘れた彼らには、免罪符になどなり得ない。
『その可能性がなくたって、まだたったの十四歳なんだ。見知らぬ帝都で、知らない男たちに囲まれて、ろくに話せなくて、何がいけないって言うんですか』
男女七つにして席をおなじゅうせず──そんな当たり前さえ、忘れた彼らには。
「──っ」
再び空気が変わる。
呼吸を許された村人たちの表情がどこかやわらいだ。
毛氈を舞台と見立て、下手から一人の人物が歩を進めている。被衣で顔はほとんど見えない。けれどもそれが誰なのか、みな知っている。
これから行われる儀礼の祭主が毛氈にたどり着く。草履を脱いで舞台に上がる。
それを待ち、鳴物たちが下手に並ぶ。太鼓、大皮、小鼓、笛、謡。小鼓には久佐、笛には左近がいる。
舞手でもある祭主は歩みを止めず、毛氈の端──舞台の上手まで進んだ。そこには大きな岩がある。
ふわりと被衣が舞う。舞手を隠す役目から岩を覆う役目へ。
明らかになった舞手の横顔は凛として美しく──儚い。
長い黒髪は巫女らしくうなじで一つにまとめられ、白と薄青の紐が飾る。重ね色目で言うところの柳だ。そして額には天冠。
「──花鎮めの儀、どうぞお見届けくださいませ、我が君」
物思いを遮る高い声。
従者の呼び声に答えて神が降りる。少女が被衣で覆った岩の上に。
闇夜と同じ色の衣をまといながら、なぜか闇夜に紛れることのない神。彼はしばし淡紅を見つめると、おもむろに地に足をつけた。
手を伸ばして従者の額を覆う天冠をはずす。さすがに驚いたらしい少女の目が丸くなった。凛とした空気が消え、幼さが目立つ。
月の化身は天冠をふところに納めると、代わりに山吹の花で少女の髪を飾る。
「……おっしゃってくだされば花簪の用意もできましたのに。気まぐれでいらっしゃる」
淡紅は困ったように笑ってから立ち上がる。あわせるように月詠命も岩の上に座す。片膝を立て、そこに肘をついた。
静かな足取りで少女が毛氈を進む。舞台の真ん中、清め桜の前で立つ。
巫女という言葉で誰もが思い浮かべる緋袴。白い小袖の上からゆったりと重ね着された千早。描かれた模様は柳。どうやら髪をまとめる紐はこれにあわせたらしい。
ポン、と。
鼓が軽やかになった。それを合図に少女の右手が上がる。その手に握られた採り物は扇。描かれているのは雀。
笛が高らかに鳴る。風が吹き、清め桜から花びらが散る。
「──っ!?」
黙って観ていた彪が片耳を押さえた。顔色が青く、もう片方の手も不自然な位置で止まっているところ見るに、本当は両耳を塞ぎたいのだろう。
反対側では亘が目を見開いている。
さて──と、閃は思う。彼が今見て、聞いているものは、亘や彪と同じだろうか。
「──ちがうだろうなあ」
背後からぶつけられた声に攻撃しなかったのは、できなかったからだと認めざるを得ない。誰も彼もが目の前の光景に視線を奪われていたから。
それを承知しているのだろう、声の主──深勒と言う名の天狗は独り言のように続ける。
「うすべにの君が言っていたよ。五人のうち三人には素質があるかもしれない、って。一人は目、一人は耳。最後の一人は目と耳が少しずつ。持った資質が違うから、見え方も聞こえ方も違うだろうな」
「……それって」
「残り二人もまったく才がないってわけじゃなくて、気づきやすい時があるだろうって言ってたな。たぶん、目の前の倒すべき敵がいるときと、守るべき誰かが後ろにいるときだって。見事に向き不向きがばらばらだな、あんたら」
含まれた意に気づいた頼の言葉を無視して天狗はのどを震わせる。
「あんたらの目にはなにが見えて、耳にはなにが聞こえてる? それはな、うすべにの君が見て聞いているものの、ほんのかけらなんだぜ」
はらはらと舞う花びらが、広げられた扇に落ちる。紅すぎる桜が触れた直後、勢いよく扇をはね上げた。
笛のシギ音が高らかに響く。太鼓が声を上げ、強く打った。
「……!」
人々の感嘆が静かな波となる。さもありなん。
扇に降り注いだ花びらが、見事に白へと変わっていたのだから。
紅すぎる花びらをたたえた清めの桜。その前に舞い散る雪のごときかけらたち。おぞましさと清廉。重ならない二つが今、並び始めた。
謡がのどを震わせる。鳴り物たちがそれぞれの音を鳴らす。
そして巫女が舞う。
少女が扇を震う度に白が増える。けれども、抗うように木が震える。
一般に知られる花鎮めは、神々に花を捧げて疫病や風水害を鎮めることを祈る祭り。名前を同じくしながらも異なる祭りは、華やかでありながらも厳しい祭礼だった。
「……なあ、天狗。おまえ、これがどういう祭りなのか知ってるのか?」
舞に目を奪われながら佑が問う。深勒は軽く肩を竦めて答えた。
祭りの準備に駆り出された際、村人たちが教えてくれたことを繰り返す。ここの村人は外側の人間に対して警戒心が強いけれど、護国の巫女が受け入れた瞬間に仲間意識を生む。相手が妖であれ人間であれ。
「この清め桜は、日の本中から恨み辛み妬みといった負の感情を吸い上げるんだと。で、木が限界を迎えたとき、紅の花をつける。一つ一つは小さくたって、花をつけるころには大きく、重くなっている。それを護国の巫女が受け止め、浄化するのがここの花鎮めだとよ」
故にこの儀式は、祭礼であり鎮魂であり、調伏でもあった。
毛氈で世界を分けられた舞台。そこで舞う少女。苦しい表情など見せず、けれども油断のない視線を桜から離さない。
淡紅の左手が動けば、地に近づいた紅が再び宙を舞い、右手の扇が翻って白雪へと変化する。足が拍子を踏めば空気が軽くなる。
おぞましいばかりだった木にも白が増え、やがて頼もしさを感じるようになる。
──あまつかぜ……
不意に脳裏に浮かんだ歌に、ぎくりとした。すばやく周囲を探る。幸いにも同僚たちには気づかれていないらしい。
深呼吸でごまかしながら息を吐き、視線を舞姫に戻す。
気づきたくなどなかった。気づいても触れたいとは思っていなかった。面倒なことはごめんだった。
仕事は引き受ける。東宮の覚えめでたい少佐の傘下に入る仕事をこなせば、よっぽどのことでもないかぎり自分の立場が安定するから。
なのに。
『立場がもたらす恩恵に一度でもすがってしまった人間が、義務を放棄するなんて、わがままではありませんか?』
思い出すのは悲しいのに泣けない笑顔。その言葉の裏にある気持ちだって、気づいていた。
わがままだと思うから言わないだけで、本当は嫌なのだ、怖いのだ、彼女は。強すぎる責任感から言えないだけで。恋に夢を見ていたい年頃なのに、母を襲った悲劇と自分の生まれた経緯がそれを許さない。
強制された婚姻を拒みたいと願うことの、なにがわがままだろうか。願うくらいならば許されてもいいはずなのに。
立場がもたらす恩恵にすがったと言うが、それだって無理もない理由がある。
『母が過去を封じたとき、わたしは、己の役目に自分の居場所を求めました』
『母はわたしを見てくれないけれど、護国の巫女であればきっと、みんなはわたしを見捨てないでくれる、忘れないでくれる、と。みんな、そんな人じゃないって知っていたのに』
見て、忘れないで。
当時まだ四つの子どもの、声なき叫び。
悲しみのあまりにすべてを封じた女がいる一方、悲しみのあまりに役に立つことを存在意義にしようとした子どもがいた。誰がそれを責められるだろう。
生まれてくれただけでえらい、生きているだけで尊いと。そう言ってくれるはずの母に忘れられたことで誤ってしまった子どもを、誰が責められるだろうか。
青年の耳にはうなり声が聞こえる。青年の目には花びら以外の赤黒い靄が見える。
かすかに持っていたらしい才に目覚めてしまった青年の目と耳に届く物すら、正直おぞましい。ならば、青年以上の才を持つに違いない少女はなにを見て、なにを聞いているのだろう。
「……最悪だ、まったくもって最悪だ」
誰にも届かない声でひっそりと呟く。
恋などしたくなかった、面倒ごとはごめんだから、割り切れる人だけを相手に遊んできた。
仕事として『護国の巫女』に触れても、『藤原淡紅』という個に触れたくなかった。彼女が十四の少女ということに気づかない振りをしていたかった。
それなのに、五節の舞姫を天女にたとえ、天に帰らないでくれと乞う男の歌が消えない。
消えない光景があって、目をそらさないと伸びそうになる手があるから。
「桜が……」
早い拍子の鼓と大皮。締め太鼓の音も止まらず、笛も謡いも鳴り続ける。舞姫の緩やかだからこそ難しい舞も大詰めを迎えた。
桜はすでに紅を消し、白雪のごとく降り注いでいた。
遠目ながら、淡紅の顔に疲労と安堵が浮かんでいることに気づいてしまった。そのようなかすかな色にさえ気づける以上、もう否定はできなくて。
「……最悪だよ、まったく」
青年──閃は、自分の中に芽生えた恋を認め、苦く笑った。
保身を最優先にするところは変わらないけれど、泣きたいのに泣けない笑顔が消えないから。
だったら、自分と少女の保身のために動いたって、いいはずだ。
* *
祭りが終わり、それぞれが帰ったころには夜もだいぶ更けていて。
仮眠を取るには十分な時間。けれども郷の人々にとっては短く、きっと彼らの朝は遅いのだろう。
祭りは無事に終わったけれど、淡紅の疲労を考慮すれば帝都に戻るのはもう一日時間を置くだろう。
帝都に「戻る」と考え、頼は寝返りをうった。──戻していいのだろうか
帝都の状況は最悪から少しましになった程度で怪異はまだ起きているし、そもそも原因がわかっていない。だから護国の巫女の協力はどうあっても必要だ。
けれども帝都は淡紅にとって優しくない。さまざまな感情、思惑が少女に降り懸かる。それらから少女を守れるのだろうか。
そもそもなにをもって「守る」と言えるのか。
思考が迷子になりかけていることに気づき、頼は上体を起こした。このままでは悪友たちの仮眠も邪魔してしまう。少し夜風に当たってから仮眠に戻ろう。
上着を羽織り、足音を消して縁側にでる。月はだいぶ西に沈んでいて、東の空が白み始めている。
特に考えもなく歩き、思わぬ人物に出会った。
「え……」
誰かの部屋の前に月詠命がいた。その膝の上に眠る少女を抱えて。
「なんで……」
幸か不幸か、声は大きくならなかった。驚きすぎて出ないのか、神を前にどこか萎縮していたのかはわからないが。
月詠命は凪いだ瞳で頼を見つめ、すぐに懐に納めた己の従者に戻す。淡紅の顔は神の胸元に伏せられていて青年には見えない。
偶然とはいえ少女の寝顔を見ずに済んで安心する。
「……貴様は、半端だな」
「──っ!?」
まさか声をかけられるとは思わず、再び息を飲んだ。
青年の驚きも疑問もすべて流し、淡々と月と夜を司る神は言葉を紡ぐ。沈黙のまま少女と接していたから、てっきり話さない神なのかと思っていた。そんな想像を裏切って饒舌に語る。
「半端に思考し、半端に放棄する。我が従者を半端に理解しようとし、半端に忌避する。そのことに無知であるがゆえに愚かしい」
「な……!」
責めるのではなく、ただ事実を述べているだけだと言わんばかりの口調。だからこそ胸に突き刺さった。
「わかったつもりであるがゆえ、余計に罪深い。佐伯の娘はそのようなことを言わなかったか。半端な優しさを向けられるくらいならば、完全な無関心か自覚された敬遠のほうが理解しやすく、この子の傷も浅い」
「……」
「そういう意味では、何もわかっていないのに本能の部分で動く金気の男も厄介か。我が従者は対応し切れぬ」
掌中の玉を大切に抱え、月詠命は立ち上がった。音にも振動にも淡紅が反応しないのは、それほどに深い眠りだからなのか。それとも神の配慮で術をかけているのか。
「……橘の命によりこの娘に帝都を見せておいて、貴様は気づかなかったのだろう。この子は、見知らぬ場所に戦きながら、見慣れぬものに心惹かれてもいた」
「──っ!?」
「何に心を惹かれたか、見る余裕もなかったゆえに詳しく話せぬことを惜しみながら、拙く我に語った。さて、何を話したか……ともに歩いてもこの娘を見ていなかった貴様には、想像もできないであろうな」
嘲りも呆れも怒りもない。それは初めから期待もしていないし、そもそも関心もないから。
それでもあえて語ったのは、ただただ従者である少女を慈しむからこそ。
「……そんな、場所に」
「……」
許してもいないのに話し出した非礼を、けれども月は咎めなかった。
背中で青年の言葉を聞く。
「彼女を見ていないものが多い、彼女に優しくない帝都に、彼女を行かせていいんですか、役目だからって」
「わが従者は弱い──が、籠の鳥ではない」
「──くっ」
初めて込められた感情に圧迫され、膝をついた。
息苦しさにあえぎ、手もついて俯く。
「守りは必要だ。守り方も変えよう。だが、ただ与えられるのを待つばかりの娘ではない。誤ろうと立ち止まろうと、己で考えて答えを出し歩く娘だ。──我が従者を見誤るのも大概にするがいい」
何も見えていないことには感情を揺らさないのに、掌中の玉を見誤る発言には静かな恫喝を表す。
──月詠命は、間違いなく彼の基準で淡紅を愛し、慈しんでいる。
神の怒りの、ほんのかけらに触れた青年は、立ち上がれないままそのことを痛感した。
物語そのものはまだ続きますが、第一部完ともいえます。そんな章です