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黎明のあやとりうた  作者: 緋水月人
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呼ぶ声にこめられた情

第三章 呼ぶ声にこめられた情


 郷から少し離れたところにある山。木々の背は高く、日も暮れている中で足を踏み入れるのは危険以外の何物でもない。

 空に輝く望月が微かなよすが。

「――!」

 叫びが鳴る。重く、腹に響く音。

 目の前にあるのは荒魂(あらみたま)。明確な敵意ではない。ただそこにある荒ぶる気。しかし放置すれば害をなす存在。

 戦わねばならぬ。

 鎮めねばならぬ。

「……」

 静かに一歩踏み出した。

 空には月。白く、煌々と。


     *     *


 目を覚ましたとき、すぐには自分のいる場所が分からなかった。それほどに夢の気配が強かった。

 あれはただの夢ではない。意味のある夢だろう。

 少女──淡紅は身を起こし、片手で額を押さえながら夢の内容を振り返る。夢に見たのは過去──四年前の出来事だった。

 郷を守る結界ぎりぎりまでやってきた荒魂。何がどうして荒魂に転じたかは不明なれど、放置するわけにはいかなかった。

 当時の淡紅は十になったばかり。郷で例年行う祭祀や鎮魂の経験は積んでいたけれど、調伏と鎮魂のどちらに転ぶかも分からない状況は初めてだった。

 せめて少しでも有利になるよう結界に手を加え、郷外れだが結界の内側である山に相手を招き入れた。山の霊気は少女に力を貸してくれるので地の利を確保したのだ。そして山だけを覆う結界をさらに張った。これは荒魂の気が他の邪気を呼ばないように、郷に悪い影響を与えないように。

 自分で打てる手を打ってから神々に助力を願う。最初から頼るわけにはいかない、無策で乞うこともできなかった。

 幼くても少女は護国の巫女だから。

 そして──。

「……ああ、違いますね。夢の内容を振り返るのではなく、なぜこの夢を見たのかを考えなくては」

 立ち上がって机に近づく。机には文箱があり、その中には皇からの文が納められている。文の内容は郷にいたころのように気遣いに満ちているが、郷にいたころとは違って事務的なものも記されている。

 事務的な内容とはすなわち、東宮から護国の巫女へと向けられた依頼だ。

 一番上のものを手に取る。一昨日に届いた文の内容は頭に入れ、そのための準備もしていたつもりだった。しかし行動する当日になってあの夢を見た。

 さて、夢解きはできるだろうか。

「……」

 文に改めて目を通すも、すぐには何も閃かない。夜着のままでいるのも気になったので布団をあげ、着替えることにした。

 本日選んだのは江戸小紋。動きやすいように行灯袴なので礼装とは言えないが、そこは目をつぶる。その神社の神が抱える怒り次第で立ち回りが変わるために。

 鏡台を出して座り、櫛を手に取る。長い髪を梳かし始めたところで足音が耳に届く。やけに軽い音と慣れぬ妖気。どうやら見知らぬ妖怪がやってきたらしい。

 仮住まいであるこの家にも当然ながら結界を張っている。弾く対象は護国の巫女を知らない人間と、害なす妖怪だ。従って無害な妖怪は簡単に入り込める。

 左近など、書物を読みながら歩いてすねこすりに躓き、転ぶことがよくある。

 櫛を置いて座ったまま体の向きを変えた。足音が廊下から聞こえるのでそちらの障子を見る。

 足音は一度、淡紅の部屋の前を通り過ぎた。おや、と首を傾げると足音が戻ってくる。今度こそ淡紅の部屋の前で止まり、思い切り障子を開け放つ。

 ──本人的には障子を開け放ったつもりなのだろう。残念ながら背丈も手も小さく、比例するように非力なので勢いはない。

「……座敷童さまですかね?」

 現れたのは三尺(約90cm)に満たない幼い娘。やや不揃いなおかっぱ髪に絣の着物は動きやすさというよりも幼さゆえと思われる。きらきらと輝く目がかわいらしい。

 妖気に「陽」の性質が混ざることから福の神に繋がりのある妖怪を思い浮かべて問う。淡紅の問いは正答だったらしく、幼女はにっこり笑って駆け込む。そのままの勢いで――転んだ。

「……」

 幼女の歩幅で五歩分くらいのところにある頭。とっさの反応で手を出していたが、間違いなく額を打ち付けている。

 思わず無言で見つめてしまった。はたと気づいて慌てて近づく。

「顔をあげられ――っ!?」

 声をかけた瞬間、火がついたように泣き出す。幼児に慣れていてもさすがに驚いた。

 しかしながらすぐに苦笑を浮かべ、転んだ姿勢のままで泣く童を抱き上げる。

「驚きましたね、痛かったですね。もう大丈夫、大丈夫ですよ。いたいのいたいのー、とんでいけー」

 膝の上に座らせてだきよせ、背中をとんとんと叩く。泣いているために上がった体温、ひっくひっくと震える体。それが落ち着き始めるのにさほど時間はかからなかった。

 ――座敷童の中には、幼くして亡くなったこどもの魂が転じたものもいる。亡くなる要因は病や間引きと多岐にわたる。この座敷童がどのように生じたかはわからない。けれどもすぐに落ちつき始めていることをふまえると、座敷童になってからの生は幸せで、大切にされているのだろうと安堵する。

 幼女が落ちつき始めたところで別の気配が近づいてくることの気づいた。その妖気に覚えがあり、記憶を探る。

「……もしかして、先日の……?」

 首を傾げた瞬間、その気配は部屋の前を見事に通過した。障子が開いたままなので姿もしっかり見えた。

「……」

 思わず吹き出しかけたのを必死でこらえる。膝の上にいる幼女が不思議そうに見上げているのを感じたが、応える余裕もない。

 そうしている間に気配が戻ってくる。開いたままの障子の前に立ち、胸を張った。

「遊びに来たわよ!」

「おはようございます。お元気になられたようでなによりです」

「あんぱんありがと! 遊ぼ!」

 過日、町で見かけたときのような負の気配は感じない。思い切り泣いてすっきりできたのだろうか。仲間にも慰めてもらえたならば上々。

 膝の上にいる座敷童が二つほど、あとから姿を見せた座敷童は八つほどの見目をしている。少女は駆け足で淡紅の後ろに周り、背中に抱きついた。

「あーそーぼ!」

 膝の上の幼女も同意するように声を上げる。こちらの都合などお構いなし、いつだって自由奔放なこどもの妖怪――それが座敷童だ。

 淡紅は小さく笑ってから首を傾げる。

「せっかく遊びに来ていただいたのに申し訳ありません。本日はお勤めがございまして」

「えー」

「とはいえ何のお構いもせずにお返しするのも情けないお話。朝餉(あさげ)は召し上がりましたか? 確か果物があったと思いますし、それだけでも用意いたしますよ」

「たべるー!」

 二つの同意を受けた。幼女を膝からおろし、文箱とは別の箱に手を伸ばした。そこから一枚の折り紙を取り出して用件を書き付ける。少し考えてから鶴を折り、霊力を込めて飛ばした。

 宛先は台所にいるとめ。これで二人分の果物が用意できるはず。

 そのまま身支度の続きに移った。櫛を取り出して髪を梳りはじめる。二人とも待ってくれる。待ってくれるがおとなしくもない。

 護国の巫女に向ける安心感なのか、部屋の探索を始めてしまった。特に困ることも危ないものもないと思い、淡紅も止めない。鏡台にかけた鏡越しに様子を見てはいるが。

「お二人は――」

「あ! はい、お母さんにかいてもらったの。これがあたしの名前」

「……月乃さまですね」

「うん。で、こっちが妹の名前」

「雪乃さまですね。お二人は姉妹でよろしいのですね」

「うん。お母さんと、お父さんもいるの」

 取り出された二枚の紙。それぞれに名前が書かれていた。存在を縛られないように工夫をしてくれたことに感謝する。

 こめかみあたりの髪を一房ずつ残して一つにまとめる。少し考えてから浅黄色の伊賀組み紐で飾る。

 食事に向かおうと立ち上がった淡紅の耳に物音が届く。高い音が混ざっているので鈴でも落ちたのだろうか。

「雪乃!? 大丈夫!?」

 振り返ると寄せ木造りの箱がひっくり返っている。そばには雪乃がいて、泣きながら頭を下げている。

 滑るような足取りで近づき、膝をつく。小さな頭に右手で触れた。

「お怪我はありませんか? これは寄せ木造りなのですが、珍しかったのでしょうか? ひっくり返ってびっくりしましたね」

「……巫女、怒ってない?」

 妹のそばに来た姉がうかがうように見上げてくる。二人の憂いを微笑んで払う。

「わざとしたわけではありませんし、きちんと謝っているのに、怒る理由がどこにありますか? 怪我がなくて、本当になによりです」

 言いながら散らばったものを片づけ始める。童二人の顔が安堵に綻ぶ。

 ――そしてその手は、あるものに触れて止まった。

「……巫女?」

「……座敷童は、家に憑いていなくても幸をくださるのでしょうか」

 護国の巫女が手に取ったのは、小さな鈴が連なる腕輪だった。


     *     *


 今日の貧乏くじは誰だろう。亘はそんなことを考えた。それが現実逃避であることは自覚している。

 彼の横には九条彪が相変わらずの仏頂面で立っている。二人の前には上官に当たる天地皇少佐がいて、政府高官殿と話をしている。一見するとにこやかだが、勘のいいものならば漂う不機嫌さに気づくだろう。気づけないほうが幸せなのかもしれないが。

 本日の亘と彪は軍部で書類整理。佑は午前中に護国の巫女の護衛で午後は休み。頼は佑と反対で、閃は終日護衛任務。畢竟、淡紅も終日任務となるわけだが。

 書類仕事だけならば貧乏くじでもなんでもない――佑をのぞいて。しかしながら軍部につめるということは皇に付くことを意味し、当然ながら煩わしい世間話なども付いて回るのだ。

 亘と彪はまさに今、政府高官殿の自慢話につきあう皇の背後に控えている状態。皇から感じる不機嫌と、抱えている大量の書類に気力が下がり続けていた。

 気づかれないように窓の外に視線をやり――奇妙なものをみた。紅の折り紙でおられた鳥が浮いているのだ。亘でなくとも目をむくだろう。事実、亘の様子に気づいた彪も視線を追い、静かに目を見開いた。

 背後の空気が変わったことに気づいた皇も視線を追う。折り紙の鳥を確認したあとの行動が違うのは、付き合いの長さゆえか知識ゆえか。

「……九条少尉、窓を開けてあの式紙を招き入れろ。――私の子飼いの術師からの火急の用向きです。失礼しても?」

「じゅ、術師!? いったいなにが……」

「教えたほうがよろしいでしょうか? 宮様のお許しもないので、判断しかねますが」

「みやさ――っ、い、いや、いい! 儂はこれで失礼する!」

 東宮の存在を示した瞬間に声がひっくり返る。そして礼もそこそこに音は立ち去っていった。

 そんな男の背中を冷ややかに見送ると、皇は反対側に向かう。

 彪が持っていた書類を一時的に預かっているつもりだった亘は慌てて追いかける。彪も紙を手に取ると急いで窓を閉めて後に続く。

「失礼ですが少佐、子飼いというのはもしかしなくとも」

「知らない人間のほうが多く、誰に聞かれているかもわからない状態で丁寧に話す必要もないだろう。天地家が『そっち』に詳しいのは、公然の秘密だからな。九条少尉、よこせ」

 早歩きで進みながらぞんざいに手を差し出す。その上に鳥に折られた紙を乗せる。

 歩みを止めないまま、慣れた手つきで紙を広げるとすばやく文字に目を走らせる。

「……手が空いているのは九条少尉だな。九条少尉、急ぎ、各隊の本日の予定をすべて確認してこい。渋るようなら私の名前を出せ」

「――はっ」

 歩みを止めぬままの命。理由も意図も聞かずに応え、彪は方向を変えた。大量の荷物を抱えるはめになった亘は無言で皇の後に続く。

「近衛少尉、その書類を置いたら地図を持ってこい。帝都の地図だ」

「はい」

 執務室について息をつく間もなく出された指示に従う。どのような意味があるのかを探るのは後でいい。

 作戦立案用のテーブルに地図を広げる。皇は無言でその地図に小さな重石を二つ置いた。それは本日の任務で護国の巫女たちが向かう場所だと気づく。

 二つの場所は直線距離にすると近い。しかし合間に整備されていない林があり、少し迂回を必要とする。

 現在時刻からすると、おそらく一つ目の神社で何か行動が始まっているはず。そちらでは結界の強化をする任務が下されている。

 もう一つ――午後の任務は少し面倒な内容だったことも亘は記憶していた。

「この林……確かにこの地はあまり良くない気をはらんでいると報告されている。午後に向かう神社のことを考えると楽観視もできないが、はたして淡紅が夢を見るほどの何かがあったか……?」

 皇のつぶやきが耳に届くも沈黙を守る。発言を許されても求められてもいないから。だから気になる発言があっても問うこともしない。

「本日の行幸でこの地と関係あるものはない。もしも軍部が無関係ならば、あとは――」

「失礼いたします。九条少尉、戻りました」

「はいれ。すぐに報告を開始しろ」

 敬礼もそこそこに命令が飛ぶ。皇の視線は地図に落とされたまま。入室した彪が足を止めるとすぐに報告を求める。

 淀みなく読み上げられる本日の予定の数々。皇が先ほどつぶやいた通り、行幸も予定されていない本日、特筆することなどないいつも通りの――。

「――大尉率いる部隊、かつて鎮守の森と呼ばれていた、現在では林程度の土地の確認――」

「――っ!!」

「っ!?」

 男にしては珍しい荒々しさでテーブルに拳をぶつける。驚愕のあまり彪の言葉が止まり、亘の呼吸リズムがずれた。

「――しょ、しょう」

「そういう、ことか。だからあの子は不快極まりない夢を見たと、そういうことか」

 今この瞬間、貧乏くじは間違いなく二人の少尉だった。思わず目配せで次の一手を相手に押しつけあう。

 藪をつついて蛇以上のものがでてきても困る。

「自分がいやになる失態だな、まったく。――あの子の側には盾。控えは刃、右筆、医者か……。ならば近衛少尉、九条少尉」

 二人の挙動に目もくれず式紙として届いた文の内容を確認する皇。状況の整理を終えるとすぐに二人を呼ぶ。

 敬礼で応える青年たち。

「すぐさま例の家に行き、あの子の従者たちと落ち合え。状況を確認の後、近衛少尉は鷹司準尉を捕まえてこの林へ向かえ。奇妙な感覚がしたら敷地に足を踏み入れず待機。特に違和感もないか、あるいはこの隊を見つけられれば活動を止めろ。お前たちの同期である副官と話せ。隊長とはいえ、あの阿呆とは話すな」

「……は、いえ」

「淡紅のことだ、最悪の事態も想定し、その場合の指示も出しているはず。ならば――九条少尉、久佐か左近のどちらかが神水を集めようとするだろう、お前はそれを手伝え。その水を持って同じく林へ向かえ。林での動きは淡紅に、護国の巫女に従え」

「……いったい、なにが」

「――今日あの子が向かう神社二つは相手の鬼門ないし裏鬼門の位置に建っている。そして間にある林は淀みが溜まりやすい土地だ」

「……」

「とはいえ、それだけならば大きな問題にもならなかっただろう。問題なのは午後に向かう神社の娘だ。その娘は巫女の才を持つもその行を修めることはなかった。後継はその兄と決まっていたのでそれ自体は些末だ。看過するべきでなかったのは娘の振る舞いだ。それは祀る神の怒りを買い――邪気を呼ぶ」

「な――!!」

 二人とも様々な案件に取り組む淡紅を見てきた。従って、邪気を呼ぶということがどういうことなのかをうっすらと理解し始めている。

 目つきを剣呑に細めて皇は続ける。

「お前たちが動揺してあの子の気を乱しても迷惑だから言っておく。問題の林に向かっている部隊の隊長である荊木(いばらき)大尉、あれは――」

 いよいよ二人は絶句した。


     *     *


 項がひりつくような奇妙な感覚。閃は朝から何度となくそれに襲われていた。

 野生の、なんて冠詞をつけたくなるような勘を持つ佑も似たような感覚を覚えているので、気のせいと流せないのが腹立たしい。

 気になることは他にもある。朝、護国の巫女を迎えに皇が用意した家に向かったところ、珍しいことに巫女と四人の少年が揃っていた。今までの流れだと多くても従者は二人だったというのに。そして勢ぞろいで待機しつつも、任務に向かう淡紅に付き従ったのは清だけ。後の三人はそのまま待機を続けるという。

 理由を問う佑に対し、少女は悩みながら応えた。曰く、「気になることがある」と。それに関する調査を皇に依頼していて、結果次第で残り三人の動きが決まると。

 不明なことが多いために詳細は語れないとしつつ、午前と午後の神社の間にある林には気をつけてほしいと注意まで促す始末。

(鬼が出るか蛇がでるか――なんて、そんな面倒な事態にならないでくれるといいんだが)

 午前の任務はつつがなく終わり、午後の神社へと向かう。途中で頼を拾い、佑が降りた。気のいい佑は少女の言葉が気になって去りがたい様子を見せるが、確証がないこともあり残ると強くは言えなかった。

 頼にも同様の注意は伝える。青年は困惑を浮かべながらも頷いた。しかしその注意がどこまで入っているかは怪しい。

 先日――少女を銀座につれていった一件以来、頼が何かしら護国の巫女について思い悩んでいることは明白だったので。割り切らないのは彼の長所だが、割り切れずに悩み続けるのは彼の短所だと閃などは思う。

(全くもって面倒な仕事だよ)

 うっかり漏らしそうになったため息を飲み込む。

 閃の内心に気づいているのかいないのか。淡紅は清に渡された竹筒から霊力のこもった水を飲んでいる。

 次の神社がもう目の前だった。

「……」

 馬車を降りると淡紅と清の表情は劇的に変わった。少女は強い緊張を宿し、少年は畏怖が色濃く表れた。

「お――」

 異変が起きていることは火を見るよりも明らか。声をかけようとした閃を、しかし護国の巫女は片腕をあげて制する。

 一歩、二歩と足を踏み出して片膝をつく。そこは目的の神社の敷地に入る手前。境目を示す鳥居の前だった。

「……お初おめもじつかまつります、天表春命(あめのうわはる)の神。この身は当代護国の巫女の任を課せられしもの。卑しき身ながら本日、御身のお怒りを――」

「っ!?」

「姫!?」

「動くなっ」

 軍人二人には見えない何かに向かって口上を述べる少女。その華奢な体を包む江戸小紋の左袖が切り裂かれた。まるでそこにかまいたちが起きたかのように。

 慌てて踏み出した青年二人を清が怒鳴りつけた。

「――っ、なんで、君たちの」

「俺の、俺たちの姫だよ。怪我してほしくない。だけど姫は今、護国の巫女として神と相対している。それもただの神じゃない。己を祀る血筋に連なる(かんなぎ)の愚かさに怒りを抱いている神だ。下手な介入をして、呪われるのはこの地と巫たちだぞ。――あんたらに、その覚悟があるのかよ」

「……っ」

「――なら聞くが、護国の巫女殿は」

 清の言葉につまる頼。返す言葉がないのは同じながら、それでも抗弁する閃。年も背も上の軍人に対し、清はそれでも不敵に笑った。

「そういうのなんて言うか知ってるか、愚問って言うんだよ。俺の姫をなめるな」


「――この地に御身をお招きする際に交わした約定をないがしろにしたはこの社に連なる娘。その娘にいかなる罰を下そうと、卑しきこの身には何も申し上げられませぬ。なれど御身がこの地を災厄をもたらすというならば、護国の巫女と呼ばれる者として、かつて天照の末裔(あまてらすのすえ)たる大王(おおきみ)と約定を交わした者として、なによりも我が主の願いを知る者として、御身の慈悲をこうより他にありません」

 少女の言葉に呼応するかのごとく風が強くなる。しかし最初と違ってそれは誰かを傷つけるものではなかった。

「御身が娘に下した罰に対して慈悲をこうような愚かさはございません。わたしがお願い申しあげるのはこの地を守るための慈悲にございます」

 閃と頼の目に映るのは淡紅のみ。そして聞こえるのも巫女の声だけ。だからどのような会話をしているのかわからない。それでも耳に届く言葉と不自然な風の動きで不穏なことだけは分かる。分かるのにできることがない歯がゆさが苛立ちを呼ぶ。

 二人と違って見えて聞こえている清が緊張を浮かべながらも落ち着いているのは、得ている情報が多いからなのか、それとも信頼のためか。

 そのとき、事態に気づいたらしく社務所から人が出てきた。壮年の男と青年と呼べる年頃の男が一人ずつ。おそらくはこの神社の神職だろう。二人はぎこちない歩みで近づいてきた。

 探るような視線は淡紅の前、鳥居の下を見て驚愕に変わる。二人は止まった歩みを再開させると、鳥居から二間(約2m)ほどの距離を置いて平伏した。

 見えぬものからすれば奇妙としか言えない光景だ。

「…………宮司。神の問いに返答を。この度の非礼に対する償いとして、あなたは何をなすのです」

「――っ! 畏れながら申し上げます!! 娘の愚行を止められなかった私の咎、いかなる責めも負う覚悟はできております。娘は、娘につきましては、息子に嫁ぐことになっている娘の生家に養子にだした上で嫁がせ、この神社の土を踏ませません」

 実質的な縁切りに等しい。神に仕える家はそこまでしなくてはいけないのかと、閃は知らず眉を潜めた。

 肝心の巫女はと視点を戻すと、彼女もまた緊張に満ちた表情で空を見つめている。

 日の本を守るため、神に祟らせないため。そこにどれほどの覚悟がいるのか、青年たちは知らない。

 ――そして、淡紅の目が苦しげに眇められた。震える唇はどんな言葉を紡ぎたいのか。視線が揺れ、伏せられる。呼吸は二拍。

 そして宮司と青年を見た。

 二人の男も青ざめた表情を浮かべている。土ごと拳が握られ、呻くように言葉が紡がれた。

「か、しこ、まり、ました……むすめの、目と耳、を、封じた上で、養子に、出します……」

「――!?」

 耳を疑う言葉に一歩踏み出しかけた頼の肩をとっさに掴む。気持ちは分かるが、感情で口出しするべきではない。

「……別に、本当に目が見えなくなるわけじゃない。見鬼(けんき)としての力を封じるだけだ。この家の娘はもう神や妖怪の姿を見ることも聞くこともできない、それだけ」

 それだけと、護国の巫女の従者は言う。見えて聞こえることが当たり前だった者にとって、それが失われるとがどれほどの恐怖をもたらすか、彼らのほうが知っているのではないか。

 そんな感情を察したのか、清はちらりと頼を見上げ、すぐに淡紅を見つめる。

「俺が知らない相手がどうなっても、俺はなにも思えない。俺は、俺の大切な人たちのことだけで手いっぱいだ」

 齢十四の少年がするには早すぎる割り切りに絶句する。この割り切りは、彼が竜の血を引いてることと関係するのか。

 嘆息する閃と口を噛む頼。やがて何かを決めたように頼が顔を上げなおしたとき、布を切り裂くような悲鳴が響いた。全員の注意が元凶を探す。

 社務所の前には髪も裾も乱して裸足で立つ娘がいた。それなりの器量だろう顔立ちは、怒りで歪んでいる。

「艶子さん、落ち着い――」

「うるさいっ! 触らないで!!」

「夕夏!」

 巫女装束をまとった別の娘がやってきてなだめようとするも、叫びとともに振り払われる。沈黙していた青年の慌て方からするに先ほど話にでてきた許嫁だろう。

 艶子と呼ばれた娘は足が汚れるのも構わずに歩いてくる。怒りに染まった目が見るのは立ち上がった護国の巫女。

「……っにが、なにが護国の巫女よ偉そうに! ここの『血』も『()』も継がない人間が余計な口出しを――!」

「――清」

「姫に触るな」

 巫女が一歩下がって従者の名を呼ぶのと、少年が竹筒を取り出しながら一歩踏み出すのは同時だった。

 竹筒からこぼれるかと思った水は宙に丸く留まり、艶子の体にぶつかってその歩みを止めた。そしていくつもの小さな球体となり、淡紅を守るために漂っている。

「つ、つや――」

「なによなんなのよ! なんでわたしがこんな目にっ」

「『血』も『霊』もありながらこの地をないがしろにしていた人間が、姫に近づくな」

「うるさいばけ」

 ――りんっ

 飛び交う声を制したのは清らかな鈴の音。それは淡紅の腕を飾る輪から響いた。全員の視線が集まったことを確認し、少女はもう一度腕を振って音を紡ぐ。

「……体中を走る痛みと夢。あなたのおっしゃる『こんな目』とはそのあたりでしょうか」

「っ……だ、だったらなんだと言うの!?」

「宮司、禰宜。あなた方の体は、どれほどの痣に覆われているのですか? 痛みにおそわれるようになったのと、同じ頃から現れ始めたと思いますが。そしてこの家に嫁ぐそこの方、あなたの耳を襲うのはこどもと女の恨みの声に間違いありませんか?」

「っ……」

 すべてを見通した巫女の言葉を平然と聞けたのは、清だけだった。

「その耐える力に敬服いたします。だからこそ、神もあなた方にはこれ以上の罰を与えるつもりはないのでしょう。――そもそも、本当ならばそれら全て、貴方への罰だったのですから」

「……う、そ……」

「――わたしはわたしの神と約定に従い、天表春命の神を鎮め、この地の気を払い清め――あれらを滅します」

 あれらと口にしたとき、少女の視線がなにを見たのか、軍人たちにはわからない。

「……神が定めた罰に自ら従うか、なおもあがくか。結末は変わりませんが、神を祀る家に生まれたものとしての矜持を主張するならば、考えなくてはなりません」

 静かな眼差しで艶子に告げる。艶子は座り込み、言葉を失っていた。

 数拍分の沈黙の後、淡紅は再び清を呼んだ。少年は心得た様子で馬車に走り出す。その間に少女はその細い腕を飾る腕輪を外し、取り出した袱紗でくるんだ。戻ってきた清が差し出した風呂敷包みを受け取る代わりにそれを渡す。

「宮司、着替えのために一室お借りします。舞殿の用意はできますね」

「は、はっ。かしこまりました」

「あの……お召し替えのお手伝いをいたします」

「結構です。貴方には琴を奏でていただかなくてはなりません。最後まで弾ききれるように、少しでも休んでください。禰宜、貴方も太鼓の用意を」

 青年とその許嫁に指示を出し、少女は社務所へと足を踏み出す。しかしすぐに立ち止まって。

「……艶子殿。一度は聞かなかったことにしますが、清はわたしの従者です。お忘れなきように」

 落ちた声に感情はいっさい宿っておらず――ただの諫めなのか怒り憤りもあるのか、分からなかった。


     *     *


 文字通り鳥居をくぐる前から起きた怒濤の展開も一息つき、閃と頼は舞殿が見える位置に用意された席へ案内された。着替えを手伝うことはさすがにできないので、清も彼らの近くにいる。

 神社の後継たる青年と夕夏という名の娘は舞殿に昇り、楽器を用意している。

 清めを終え、艶子を居室につれていった宮司は改めて清に頭を下げる。

「巫女さまの従者に対する娘の無礼、娘に代わってお詫び申し上げます」

「あー……別に。姫が怪我しないなら俺はそれでいいんだけど……むしろ、あんたはあんたの娘の言動が、姫の神の気に障らなかったかを気にした方がいい、と思う。護国の巫女を軽んじた発言ととれるから、まずいかもしれない」

「……さようですな。とはいえ、慈悲をこうことさえ、今の私にはおこがましく」

 宮司が自嘲の笑みを浮かべたとき、ささやかな衣擦れの音とともに声が降ってきた。

「案ずる必要はありませんよ」

「姫!」

「巫女さま……」

 行灯袴は緋色の袴に、袖が裂かれた小紋は染み一つない白の小袖に変わった。羽織った千早の胸元は青い紐で作られた水引が飾っている。髪をまとめた項には金と銀の水引があり、前天冠ではなく花かんざしがつけられている。花は蓮華を模しているのだろうか。

 誰もが想像する、清らかな巫女の姿。

「案ずる必要がないと言うのは……」

「言葉の通りです。……あの言葉に、わたしは傷ついていませんので」

 必要以上に責任を感じるなと。そう告げたように思えたのは気のせいだろうか。

 少女が再び足を動かしたとき、唐突に頼は決心した。本当はもう少し前に決めていたけれど、艶子の騒動で機会を逸していた。

「――っ、姫」

「……?」

「その、お願いがあるんだ。以前、槻川殿の家で使った、妖などが見えるようになる術、あれを今回も使ってもらえないかな」

「――おい」

 閃の声は届いていたけれど、撤回するつもりはなかった。少女に近づいて、まっすぐにその目を見る。

 黒曜石のような瞳が見返す。何か見透かされそうで内心動揺するも、逸らさない。彼の脳裏には、いつかのななの言葉が蘇っている。


 ――相手が何を見ているかさえわからないのなら、何を感じているかなんてなおのことわからないじゃないですか。


「僕たちの役目は、君がつつがなく儀式を終えられるように取りはからうことで、今この瞬間にはできることなんて何もないのかもししれない。だけど、君が対峙してるものが分からないままじゃ、本当に自分がするべきことがいつまで経っても分からない、考えられない」

 護国の巫女の護衛で、世間の目から護国の巫女という存在を隠す幕。それが彼ら五人の役目だと言われた――本当に?

 ならばなぜ皇は意味深長な問いを投げかけた。ななはどうして何も分かっていないと頼を評した。

 答えはない。答えにたどり着くための手がかりも少ない。

 しかし手がかりを得るためにできることはあるはずだ。

「……佐伯は、あなたになにを」

「彼女の言葉が関係してないとは言えない。でもね、それだけでもないつもりだよ。これでも考えていたつもりだよ。考えていたつもりだし、考えなくちゃいけない。言われるまま動くだけのでくの坊になる気はないよ、僕も」

 そのためにまずは考えて、試さなくてはいけない。たとえ最初は的外れでも。

 考えることを放棄した無能には成り下がりたくないのに、このままではそうなってしまうことに、ようやく気づいた。

「だからまず、姫が見ているものを見せてほしい」

「……」

「……えっと、もしかしてすごく大変な術なのかな? これから行う儀式に影響するとか」

「いいえ。ただ、あの術は対象が個というよりも場なのです。どんなに範囲を狭めても――」

 少女の瞳が頼の後ろを見た。そこにいるのは閃。

「……なるほど? 例の術を使った場合、希望した頼だけではなく、私も見えるようになると」

「はい」

「…………閃、お願いだ」

 悩み癖がでていない表情が青年を見る。別の場だったら感心するが、今回はやっかいである。決心した直後に悩んでしまうことが多い頼だが、悩み癖がでない場合とても頑固になる。

 対岸の火事ならばまったくもって構わないのだが。

「……本当に面倒だ。非常にやっかいな仕事だよ」

「……」

「二つ分の貸しにさせてもらうぞ、頼」

「――ああ、ありがとう」


     *     *


 淡紅は二回ほど深く呼吸をし、舞殿を見据えた。確かめるような足取りで階まで進み、草履を脱ぐ。そしてまた同じような足取りで段を昇った。

 護国の巫女が舞殿に上がるのを待ち、夕夏と言う名の娘がいざり寄る。恭しい手つきで五色布をつけた巫女鈴を差し出した。淡紅は右手で柄を持ち、左手に布を持ち上げる。それを確認すると、娘は琴の場所まで下がる。その隣には太鼓があり、青年が座っている。

 巫女鈴を持った右手と五色布を支える左手を胸の高さで維持しながら少女の歩みが再開される。まずは場の四隅を順に巡り、一度ずつシャンと鳴らす。

 音が鳴る度に空気が澄み、張りつめてくような気さえする。

 四隅を巡ったあとは中央に立ち、右手を高くして鈴を三回鳴らす。そうしてまた胸の高さへと戻す。五色布を持つ左手はずっと同じ高さにあった。

 三拍ほど空いただろうか。鋭い呼気の音が鳴る。

 ――フッ、ヨーォー

 声が消えないうちにバチが上がり、太鼓を打つ。続いて琴の音が響いた。

「いーにーしーへーのー」

 高く澄んだ声が歌を紡ぐ。同時に両の手が大きく円を描く。慣れた手つきは鮮やかに布と鈴を裁き、絡まることなく従う。

 太鼓がゆったりと響き、琴の豊かな音色が続く。その合間に舞手の足拍子や鈴の音色が空気を彩る。

 ――シャン……シャンッ……

 妖を見ることが可能になる術――真澄の鏡の法(ますみのかがみのほう)をかけられた二人の軍人。目にする非日常に絶句していた。

 舞殿の正面、その欄干。そこには身の丈二尺(約60cm)ほどの人が腰掛けている。足下まで届く長い髪は白く、その目は竜胆色。明らかに人ではないその存在こそ、この神社が祀り、怒りに震える神なのだろう。

 目が捉えるのは異界の存在だけではない。護国の巫女が振るう鈴、五色布、何よりその身から、彼女の霊力が舞うさまさえ映し出した。それはさながら柔らかな花吹雪のように神に降り注いで癒し、優しい清流のように境内を流れて穢れを清める。何より、神社を守る結界の外側にあったおぞましい邪気、怨念を捉え、一カ所に集めていくのだ。

 集められた場所がこの神社の鬼門であり、その先には曰く付きの林があることには、さすがに気づけなかった。

 歌は続いている。高く澄んだ声音は、どの音にも負けることなくあたりを満たしていく。


 幸あれ奇魂 言祝ぎたまえ幸魂

 御身の許し賜らば 千年万年の祈りを捧げましょう


 怒りに濡れていた神の表情が和らぐ。同時に、宮司たちの体から黒いもやが抜け出ていく。その結果だろう、彼らの顔色も良くなっていくのがわかった。

「これが……神楽舞」

 感嘆の言葉が漏れる。怪異を解決し、鎮魂を成す少女の力は理解してきたつもりだった。けれど、こんなにも美しく舞い、それによって成される浄化は初めてだった。

 どれほどの時間が経っただろう。おそらくそこまで長くはないだろうに、とても長い時間を経たような錯覚を覚える。

 護国の巫女が鈴を強く三度鳴らし、太鼓と琴が強く短く響いた。奏者の二人は楽器の前から体をずらして平伏する。巫女も丁寧な手つきで神楽鈴を置いてから居住まいを正し、頭を下げた。

 欄干から降り、淡紅の近くに歩み寄る神。その表情は穏やかに見える。

『――見事であった。百四十人余りいる護国の巫女の中でも屈指といわれるだけのことはあるな』

「過分なお言葉にございます」

『事実だ。……そなたの献身、ただ受け取るだけでは我が名が廃るな。……護国の巫女』

「はい」

『我が弓を――三度(みたび)、三度貸そう。あれと、あの林にある穢れを払うのに使うがよい』

「――お心遣い、ありがたく賜らせていただきます」

『呼ぶがよい。銘は――』

 神の顔が淡紅の耳に寄せられる。その動きは閃たちにも見えた。しかし――。

(読めない?)

 読唇の真似事ができる閃だが、天表春命の神の唇の動きが読めず、神が貸与すると言った弓の銘だけが分からない。

 そしてもう一つ。

「巫女殿の従者、彼女は弓をたしなむのか?」

「……鳴弦の儀とかがあるから、弓に慣れるために小さい頃から久佐と練習してる。礼射だって言ってた」

「梓弓とか言ったか? それもこなすとは芸達者なことで」

「閃」

 同輩の咎めは軽く肩を竦めて流す。軽口でも叩かないとやっていられない。

「それで? その弓であのなんだかおっかないものを払うと? さっき滅するって言ったのはあれのことだろう?」

 視界の端で群を成したおぞましい黒の塊――障気や邪気はああいうものを指すのだろう――が蠢いている。正直なところ直視したいものではない。頼も軽く視線を向けたがすぐに逸らしている。

「払うというか、姫は一気に清めるつもりだと思う。あそこまで膨れたものは、払っただけだとすぐ他に悪い影響を与えるから」

 清の言葉が聞こえたわけでもないだろうけれど、少女が舞台の上に立ち上がる。神に背を向けると、奏者の二人には舞台を降りるように伝えた。

 舞台の上にいる人が彼女一人になるのを待ち、ゆっくりと呼吸を始める。そして柏手を二回打つ。

「我は護国の巫女の任を受けし者。高き尊き大神の恩頼(みたまのふゆ)賜りて、我は障りを神逐う(かんやらう)

 柏手が再び鳴る。

 その視線は舞台の後方――神社の結界の外で凝集させられた邪気に向かう。

「赦しを持って我呼ばん。――来たれ『青花(せいか)』! 我が前に在りし穢れ禍清めるために力を貸したまえ!」

 ピシリ、と。

 何かに罅が入ったような音が聞こえた直後、護国の巫女の前には一張りの弓が浮いている。ためらわず手に取り、基本通りの流れで構える少女。けれどつがえるべき矢はない。

「矢は――」

「姫の場合はいらない。姫の霊力が矢になるから」

 言われてよく目を凝らすと、確かに矢があるべき場所は、何か気配が濃い気がした。

「――とおつかみ、えみたまえ。我が前にありし穢れ禍、この矢をもって清めとなす!」

 『はなれ』と同時に弦が鳴った。直後、風が強く吹く。思わず目を閉じた彼らの耳にも、老若男女問わないうめき、叫びがかすかに届いた。驚いて目を開けて直視を避けていた空をみる。

 ――そこにはもはや何もなかった。先ほどよりも空が鮮やかに思えるのは錯覚だろうか。

 残心ののちに構えを解いた少女の手に神が触れる。

『銘は教えた。呼べば行くのだから、持ち歩く必要はあるまい』

「……お気遣い、痛みいります」

『残りは二回だ。よく考えて使え』

「はい」

 神に頭を下げ、舞台から降りる。

 すかさず清が階段まで駆け寄って手を差し出した。地面に足をつけると少女は二人の青年を見る。

 その口から言葉がこぼれるのを遮るように、紙で折られた鳥が飛んできた。瓶覗色(白に近いごく薄い藍)のそれを手に取り、丁寧に広げる。

「……」

 中に何が書かれているのか、淡紅の眉がひそめられた。深いため息をついた後、その紙を従者たる清に預ける。

「申し訳ありません。本日の任務として少佐から申しつけられたものはこれまでですが、もう一件、追加となりました」

「……げ」

 淡紅が言葉を紡いでいる間に手紙を呼んでいた少年の口からうめきが漏れる。彼は嫌そうな表情のまま軍人たちに文を渡す。


 ――嫌な予感は見事に的中

  鬼門、裏鬼門に挟まれた林にて、少し遅い鬼やらいをなせ――


 流麗な筆跡と裏腹に簡潔な内容。書き手は皇なのだろうが、常の余裕さが感じられない。

「……内容はさっぱりと想像できないが、巫女殿が言っていた『気になること』というのはこれか?」

「……はい。外れてほしかったのですが」

「確信したのはいつか、聞いても?」

「閃」

 問いつめる口調の閃。頼は止めようとするが少女は静かに見返していて、動揺は見られない。

「神が、弓を三度、お貸しくださるとおっしゃったときですね」

「……それまでは、あくまでも予感だったと」

「はい。……まあ、邪気が鬼門の方角に集まったのを見て、甘い期待は捨てましたが」

 言葉を切り、視線を軍人から宮司にずらす。

「後かたづけをお願いしてもよろしいでしょうか」

「はい、お任せください」

 宮司が応じ、禰宜たちもうなずいたのを見て淡紅は体の向きを変える。その動きに従いながら清は預かっていた袱紗を返す。

 袱紗から取り出した腕輪を身につける際、鈴が軽やかに鳴る。

 花簪を外しながら告げる。

「感じていた予感、何が起きているのかについては道すがらお話させてください。できうる限り急ぎたいのです」

「ほかの三人も迎えにいく?」

「――いえ。少佐に依頼した調査の結果に応じてどのように動くかは伝えてあります。私の従者はみな、己がなすべきことをして向かっているでしょう」

「――どこへ?」

 足が止まる。それは問いかけに答えるためではなく、『そこ』を見るため。

 舞殿の後方、この神社の鬼門にあたる方角を見る娘。つられて見るとある部分だけ空気が淀んでいるような気がする。

「朝に訪れた神社の裏鬼門、この神社の鬼門の方角にある、かつては森であった林。もとより溜まりやすい性質があったことに加え、この神社に連なる娘の振る舞いによって集まった邪気が溜まってしまった場所です」


 馬車に揺られながら淡紅は今朝の夢のことから話し出す。

 少女は四年前、ある荒魂を鎮めた。祭礼こそ担ってきたものの、身の危険を伴う対峙はそれが初めてだった。

 すべてがそうというわけではないが、術師が見る夢の多くは意味がある。夢が持つ意味に気づき正しく読み解けるかは、完全に術師の力量次第。

 今回の淡紅は読み解きに時間がかかったが、手がかりは座敷童の雪乃がくれた。淡紅の家に憑いていないというのに。

「この腕飾りは橘の(あに)さま――天地少佐にいただいたものです。古来より鈴には魔除けの力があります。それに加えて橘の加護を持つ兄さまの願い、私の気に馴染んだこれは、装身具であるとともに守りとしての力もそれなりに持ちます」

 腕輪を見たとき、直感がすべてを結びつけた。理屈はなくても確信がある。

 鬼門と裏鬼門は方角を示しているが、夢を合わせたとき、もう一つの意味を宿す。

「意味って……まさか、鬼やらいは比喩じゃないの?」

「――巫女殿が四年前に鎮めた荒魂っていうのは――」

「始まりは妖怪でした。けれどもその存在を畏れた人々が神として祀ったために神格を得、元が妖怪であるために荒魂に転じやすいという性質に変じたもの――それが、四年前に私が鎮め、これから相対せねばならない存在――鬼です」

「……」

「犬も猿も雉もいないぞ」

 さすがに立ち直りが遅れているらしく、閃の軽口も切れ味が悪い。

 驚いている二人には悪いが、説明はまだ半分しか終わっていない。それをどう切り出すか悩んでいると、運よく頼がそのことに気づいた。

「待って。その鬼がいるって確信したのはついさっきなんだよね? じゃあ少佐には何を調べてもらったの?」

 そう、夢と直感で既知の鬼と対峙することを知った淡紅。けれどなぜ鬼がそこにいるのかがわからなかった。

「あの林に行けば、荒魂に転じやすいかの鬼が、邪気に影響されて荒ぶることは確実です。けれどかの土地に足を踏み入れなければそれは防げます。そのため、少佐にはあの地に誰かが足を踏み入れる可能性があるかを調べていただきました。もちろん、こちらの予想として鬼のことも加えて」

 淡紅の夢見と直感はほぼ外れない。それは皇も知っている。けれども最初から決めつけるのは危険なので、多数の情報を集めたのだ。

「なぜ少佐が調べ――……あまり、聞きたくない予想が一つ、できあがったんだが」

「え? ……え、まって、まさか」

「……その鬼は、どういう経緯があったのかは不明ですが、今は人に化け、軍人に紛れていると聞いています。不測の自体に備え、天地少佐の権限が届く場所にいさせている、とも」

 長い沈黙の後、閃と頼はそろって頭を抱えた。

 皇の権限が届く場所――つまるところ皇の部下であり、正体は鬼ですと言われても納得したくなるくらい人間離れした人物が一人、確かにいる。

 できることならば関わりたくないその人物には、つい先日同期が補佐についていた。


     *     *


 閃と頼が衝撃から立ち直るのと、馬車が止まるのはほぼ同時だった。

 馬車から降りると、森よりも木が少ないはずの林は、なぜかやけに鬱蒼として見えた。

「ひい様!」

「左近。お水は?」

「そろっています。少佐の命令であの人も来たので」

「頼、閃」

「彪、情報はどこまである?」

「この林に邪気が溜まっていること、この地の見聞の命を受けた部隊の隊長――荊木大尉が実は鬼だってことなら少佐よりうかがった」

「十分だ」

 すばやく状況確認する軍人たち。その無駄のなさはさすがと言える。

 水――力のある神社から分けてもらった神水の量を聞き、左近から竹筒を一つ受け取る。参拝と同じ要領で両手と口を清める。さりげなく壁になってくれた左近が差し出した手ぬぐいを受け取りながら妖気を探る。

 清も竹筒を一つ手に取り、自身の力と神水との相性を確かめている。

「――あれ? 入り口に戻っちまったぞ」

「うわ、本当だ」

「見事に弾かれましたね。――姫様」

「久佐、説明を」

「猛と一緒に四家(よんけ)を回るつもりでした。佐伯、平の家が終わったところでこのお二人と会いまして。こっちに来るというので、僕が付き添うことにしたんです」

「で、まあひりつくような感じはしたけどものすごくだめな感じもしなかったから、試しに足を踏み入れてみたんだよな」

「が、結果は見てのとおり。狐にでもつままれた気分だよ。相手は鬼らしいけどね」

「そうやって軽口をたたけるところは見事だな」

「……っていうか、亘は狐を話の種にしていいの?」

「ああ、別に? 分家のことだしね」

 軽口をたたきながら調子を戻していく青年たち。おそらく神格を持つ妖怪と相対することの意味を実感できていないからこそかできるのだろう。

 すぎた楽観視は危険だが変に怯えられるよりいい。

 手ぬぐいを左近に返しながら少女は林を見つめる。

「……四家は無事に結界を張れたようですね」

「え?」

「……あの、林を覆う幕のようなものか?」

「はい。ならば間もなく猛が」

「姫様ー」

 名前が出るのを待っていたかのように最後の従者が現れる。彼の後ろには娘が一人。その娘に見覚えがあるのは、軍人の中では頼だけだった。

 様子をうかがいつつ、亘は閃になぜ幕――すなわち結界が見えているのかを聞く。閃が自分たちの経緯を説明している間、淡紅は猛と娘、ななに相対する。

「佐伯、なぜあなたがここに?」

「巫女様の従者が弟を呼びにきたときに居合わせまして。正直に言って興味本位ですが、危なくなったらとっとと避難しますのでお気になさらず。それに結果的には伝令役を担えましたのでご容赦いただきたいですね」

「伝令?」

「弟が言ってました。結界張りの呪具を発動したとき、抵抗を感じたと」

「……佐伯の家が担うのは金属性(ごんぞくせい)。まさか……」

 淡紅はしばらく考え、佑筆を呼ぶ。久佐に結界を張ったときの手応えを問う文を書かせた。小さい紙を受け取ると素早く折って息をかけ、北方に向けて放つ。

 巫女の霊力を受けた紙はあるまじき早さで飛んでいく。

「言ってくれれば僕が走ったよ?」

「鬼と相対するにあたり、あなたにはがんばってもらわなくてはいけませんからね、わたしの剣。少しでも休んでいてください」

「はーい、まかせて」

「あー、姫さん。ある程度話がまとまったらこっちとも共有させてくれ。それと、できれば頼たちに使った術、俺たちにもかけてくれると助かる」

「――、お待ちください」

 佑の声かけに対して少女が反応しかけたとき、式紙が戻ってきた。数刻前、神社でしたのと同じように紙を広げて内容を確認する。

「もしかして(たいら)に式紙を飛ばしたんですか?」

 ななの問いに肯定を返し、少女は青年たちと向き合った。

「あらためてお話いたします。今、この林の中には邪気が溜まっています。そして、偶然にも命令によりこの地に足を踏み入れた軍人の中に、人に紛れることを選んだ神格を持つ鬼がいます。その鬼は荒魂に転じやすく――ほぼ間違いなく、溜まった邪気の影響を受けて荒魂に転じているでしょう」

「――っ、待ってそれじゃあ加々美たちは」

「頼。ごめん、淡紅姫。続きを」

「この地に溜まった邪気を払い清め、鬼を鎮めるために足を運びました。そこにいる佐伯の家を含め、天照の末裔に仕える四家に林を覆う結界を張らせましたので、邪気がこの地の外に逃れることはありません」

 佐伯、平、不二、真壁の四家は天照の末裔に忠誠を誓い、護国の巫女に協力する役目を背負っている。その血筋に生まれる全員が異能を持つわけではない。しかし彼らが使える呪具がある。今はそのうち、結界張りの呪具を用いている。

 四家が張る結界は四神の力を用いたもので、それぞれ白虎、玄武、朱雀、青竜を借りている。

 ななの言葉はすなわち、白虎が司る金属性に相手が抗ったことを意味する。そこで玄武が司る水属性を担う平に、呪具を発動したときの手応えを尋ねた。返ってきたのは「特に抵抗なし」という答え。

 このことから、鬼は火の属性を持っていると考えられる。

 生まれ持った五行は淡紅にももちろんある。けれども護国の巫女であり八百万の神々の助力を得られる少女には些末な問題。

「……無傷かは不明ですが、この林から黄泉への(みち)が開いた様子もありません。みなさまのご友人は無事と思われますし――奪わせません」

 少女の宣言はいつも静かで、けれど力がある。どこか、誓いのようにも思えるのはなぜなのだろう。

 淡紅はななに目をやり、報告を労う。

「他に用がないのならばお戻りなさい」

「そうさせていただきたいんですけど……大丈夫なんですか、巫女様」

「……」

「僭越ながら、四年前のことは四家の耳にも入っています。三柱(みはしら)の神々の助力を得て、巫女様は荒魂を鎮められたとか。詳しいことは知りませんが、今、その方々のお力はお借りできないのでしょう?」

 鎮められるんですか?

「……っお、まえ……!」

 言外の言葉を読みとった清がななにつかみかかろうとする。久佐と左近が二人がかりで止めた。猛が動かないのは、淡紅の手が肩にあるから。

 静かに見つめ合う二人の少女。それに割り込んだのは彪だった。

「悪いが俺としても懸念事項がある。君が鬼と呼ぶ存在をどのようにとらえているかはわからない。だが――荊木大尉のことは知っている。あの人は……俺たちにとって鬼神と呼びたくなるくらいの、規格外の戦闘力を持つ人だ。どうにかできるのか?」

「…………わたしは護国の巫女です。わたしの剣は猛で、わたしの盾は清です」

 言葉の意図が読みとれず、怪訝な表情が青年に浮かぶ。

「護国の巫女は神の従者。従者として神の意に従い動くもの。天照の末裔の(かげ)であり、求められればその力を奮うもの」

 話しながら胸の前に両手を掲げ、二度打ち鳴らす。ささやくような声で「青花」と呟くと、目映い光が走った。すぐに収まり、彼女の前には弓が浮いている。

 頼と閃は、それが先ほど神より借りた弓だと気づく。

 弓をしっかりと握りしめ、護国の巫女は顔を上げる。

「できる、できないの話ではないのです。それがわたしの役目である以上――成します」

 がんばりました、でもできませんでした、ごめんなさい――など通じない。結果がすべて。

「三柱の神の力が遠くても?」

「四年前よりできることは増えています、わたしも、わたしの従者も」

 弓の弦を一度鳴らして具合を確かめ、林へと足を踏み入れた。


 先行するつもりだった亘、佑、久佐を弾いた結界は少女の手で簡単に解かれた。直後、林の中の空気が一変する。

 言いようのないざわめきと獣の咆哮が耳を襲い、視界の端々に黒いもやが漂って空気が重くなる。

「……この地に己の領域を重ねることで邪気が外へ漏れることを防いだ……? 何かを守ろうと――? ……失礼ですが、あなた方が知る、軍人としての姿はどのような人物ですか?」

 歩みを止めないままの問いに五人は顔を見合わせた。

 軍人としての荊木大尉はとにかく規格外である。鬼神と呼ばれるほどの噂は数えられないほどあるし、書類の期限を守らないために皇からは睨まれている――正体を知った今は書類だけが原因とも思えないが――。自分自身を基準にして発言をするので結果的に部下には無茶ばかりを言う、上官にはほしくない人物。だが。

「悪い人でもないとは思う」

「暴君だけどな」

「強さだけを言えば憧れを持っているやつはいるな」

「任務は必ず達成するし」

「書類を出さないのは問題だが」

 彼らとしても上官にはほしくないが嫌ってもいないということがわかる解答だった。

「……かつて人を喰らい、恐怖ゆえに祀りあげられた妖怪も、時を重ね人と交わったことで何かが変わったのかもしれませんね」

 歩みが止まる。

 いくつかの樹が折れた結果として開けた場所。その中心で吼える異形――鬼。六尺(約180cm)をゆうに越える背丈と二本の角を持つそれは血走った目で腕を振り回し、ひどく伸びた爪でもって邪気を斬り裂く。しかし邪気は消滅せず、鬼の体にまとわりついていた。

 鬼と邪気から離れたところに倒れている複数の人物。荊木とともに任務に当たった彼の部下だろう。

 同期の顔を見つけて飛び出ようとする軍人の前に、華奢な腕が出された。

「なにをっ――」

「わたし、猛、清が邪気と――鬼神の対処にあたります。あちらの方々は邪気に当てられて気を失っているのでしょう。『大尉』が庇ったので大きなけがはないはずです。集めてきた神水に浸した布を額に乗せれば応急処置になります。それは左近に任せますが……一人では時間がかかってしまいますので、ご助力をお願いしてしまうやもしれません」

 戸惑いの表情を浮かべる青年たちを振り返らず、弓を構え直す。

「我が声は神の声、我が吐息は神の吐息、我が言霊は神の言霊」

 真澄の鏡の法をかけられた軍人たちの目には、少女の言葉とともに淀みが薄まり、清らかな気が集まって矢の形になるのが見えた。

 猛が静かに――といっても足音も気配も完全には消えたわけではないが――淡紅から距離をとる。その目線は鬼から外れない。清も竹筒から水を呼びだし、いくつもの玉を作って浮かべる。

「――とおつかみ、えみたまえ。我が前にありし穢れ禍、この矢をもって清めとなす!」

 霊力で作られた矢は鬼の足下に刺さり、力を解放した。その場――否、林に集まったすべての邪気を捉えて清めていく。

 足下に攻撃を受けた鬼はすばやく下がり、攻撃した人物をすぐに見つけた。

「邪魔するな!」

「くっ――」

 腹に響く怒号とともに暴力的な気がぶつけられる。それを見越していた淡紅はすばやく弦を引き鳴らして不可視の矢を放った。

 矢は見事に鬼神の攻撃を相殺した。その一瞬を逃さずに水の玉を紐に変えた清が鬼の四肢を捉える。駆けていた猛は尺の差も構わず体当たりし、二歩下がらせた。

「これで少しでも正気に返っていただきたいですね」

 独り言とともに巫女を腕を飾る鈴を鳴らす。神に許された三度の仕事を終えた弓は消えている。本来の主の元に戻ったのだろう。

「――く、くくく……」

 一つ一つは小さい鈴の音が重なってあたりを満たす。合わさるように鬼の笑い声が大きくなり、和音を乱していく。

 水を操る清の表情に汗が滲む。巨体を押さえ込む猛の顔は真っ赤だ。

「――とおつかみ、えみた――」

「きさま、か――久しいなぁ!!」

「っ!!」

 再びの怒号に祝詞が止まる。暴力的な気が場を乱し、腕輪の糸を切った。か弱い音とともに鈴が落ちる。

 清の水も振り切られ、猛の体は軽々と投げ飛ばされる。二人とも諦めず体勢を直したとき、その鬼は口を開いた。

「淀むがままだった帝都の空気が変わったとは思っていたが、なるほどな、お前が動いていたか、護国の巫女」

「……」

「あれはもうどれくらい前になる? あのときの小娘がよくもまあ育ったものだ。つまらぬ邪気に興ざめしていたが……悪くないなぁ」

「……こちらとしては、そのまま鎮まり、お帰りいただけると大変嬉しく思うのですが」

「――すると思うか、この私が? お前という玩具(がんぐ)を前に、なにもせずに帰ると思うか?」

「……残念です」

 苦笑いを浮かべながら構える淡紅。その体を上から下まで眺め、鬼は言う。

「ふむ。せっかくの座興だ、一つ賭でもするか。私が勝ったら――」

「っ――!」

 鬼の言葉を封じるために大きく柏手を打つ。

「結果の分かりきっている賭など意味がないと思いますが――荊木の神」

「――く、は、はははははは! よくぞほざいた小娘! その言葉、我が名とともに紡いだことを後悔するがいい!」

 荊木が何を言おうとしていたかはわからない。しかし彼の言霊が成立してしまうと、少女はそれに見合うものを、自分が勝ったときの報酬として求めなくてはいけない。鬼とはいえ神格は神格。神との不要な取引は避けたい。

 倒れている人々の介抱に当たっている従者たちを視界の端に収めながら思案する。

 糸が切れてばらばらになった鈴は淡紅の足下。それを拾うだけの猶予を作れるだろうか。

 ちらりと空を見上げる。夕日はだいぶ傾き、まだ細い月が昇ろうとしている。

 逢魔時、黄昏――そう呼ばれる時刻。妖怪たちの力が強まる狭間の刻限。鬼であっても神、神だが鬼である荊木にしてみればとても力を奮いやすい時間だろう。

 淡紅は深く呼吸をする。猛が立ち上がったのが見える。怪我はしているだろうが。まだ動けるらしい。ならば頼る。

 猛が身構え、巫女が声を紡ごうとした――そのときだった。

「天地少佐旗下特別班所属、鷹司准尉」

「同じく二条准尉。荊木大尉、お相手願います!」

 二人の人間が、割り込んできた。


     *     *


 時間を少しだけ遡る。淡紅、清、猛の三人が荊木に向かうのを待ち、左近も動き始めた。「助力を願うかも」と曖昧に言った少女と対照的に、少年も補佐する久佐も容赦なく軍人たちをこき使った。少年の体格では鍛えた軍人を運べないので無理もない話なのだが。

 荊木の部下たちはみな顔色こそ悪いが脈は正常だった。少女の言葉通り、神水で濡らした布を額に当てるとそれだけで血色もよくなるので、不安はすぐに消える。

 不安は消えても疑問は消えないが。

「……天地少佐は、大尉が鬼だと承知で加々美を副官にしたのか?」

「この人だからこそ、副官にできたんですよ」

「どういうことだ?」

「この人、『加々美斎』でしょう?」

 皇はきちんと全てを知っていた。軍人として大尉にまで昇格した荊木が鬼神であること、淡紅と因縁があること。彼が荊木を気に入らない表向きの理由は書類の不備が多いことであり、それも嘘ではない。しかしその素性、ならびに愛し子たる少女との関わりこそが理由の大半を占めると言っていい。

 だからこそ青年は鬼神を自分の傘下においた。監視がしやすいように。長らく副官をつけられなかったのは、荊木が持つ異形の気に耐えられるものがいなかったからだ。

「荒事を好み、荒魂に転じやすい人に、守りの少ない人間はつけられません」

「――加々美は、守りが多いと?」

「この人、わずかですけど鏡造(かがみつこ)の血を継いでいるんですよ」

 鏡造――石凝姥命(いしこりとめ)を祖とする鏡作りに従事する一族。神代の時代、石凝姥命は伊邪那岐(いざなぎ)伊邪那美(いざなみ)の二柱に鏡を献上している。そのこともあり、鏡は魔除けの力を持つ。

 そして「斎」という名。清らかさを意味するこの名を持つ青年は姓と合わさって強力な呪いをかけられていると言える。

「少佐のお話ですと、気性もしっかりしているとか。今いるなかでは最適な人材だと、春宮とひい様のお墨付きです」

 彼らの知らない話ではあるが、鬼神と呼ばれる荊木に対して臆さない斎を男はそれなりに評価している。だからこそ邪気に満ちたこの土地で、斎を初めとする部下が命を失わないように戦った。

 元が妖怪であるために引きずられてしまったのは、不幸な事故と言えるだろう。

「他の人が重症にならずにすんだのも、まあこの人のおかげですよ。生きたお守りってところですかね、この人」

「――」

 全てに納得できたわけではない。けれども考えがあっての配属であり、すぐに危険が及ぶわけでもないと理解した。だから――頼は立ち上がった。申し合わせたわけでもないのに佑も同時に。

「頼? 佑?」

「とりあえずこの場は安全で、僕たちができることもそう多くはないよね?」

「――大尉のところ(あっち)にいくつもり?」

「鬼の相手はできねーけどさ。でもあの荊木大尉の相手は、俺のほうが適任だろ? 女の子より、軍人のほうがさ」

 彪と亘の問いにそれぞれで答え、すぐに行動した。閃の無言にどんな評価があったかはわからない。

 ただ――呆れられても無謀と評されても、間違いだとは思わない。


    *     *


 角を持つ異形と巫女の間に割り込む。前方からは無粋な乱入への怒りが、後方からは驚愕が向けられる。

 では自身の中から沸き上がるものはと言うと――。

「賭けるか、頼。どっちが長持ちするか」

 三割の恐怖と。

「明日の昼食あたりでどうかな」

 七割の高揚だった。

「なっ――」

「どいつもこいつも邪魔をするな雑魚が!」

 思わぬ乱入者を止めるより先に怒号が轟いた。吹き荒れる風に思わず目を閉じる。

 その一瞬の隙をついた荊木が足下の木を拾って無造作に振り回す。先に頼が低い姿勢で踏み込み、懐に飛んだ。佑は素早く荊木の背後に回り込む。

「だっ」

 五人がそれぞれに武術的な強みがあることは聞いている。具体的な知識がない少女は、己の知識から危機感を抱いた。

 荊木の五行は火。知らないだろうが佑の五行は金で頼は木。火は金に()ち、木は火を生む。相性は決してよくない。

 だが――と思考を巡らせる。それを伝えて意味があるのかと。二人の行動に迷いが生じてしまったら。その責任が取れるか。

 最善を考えなくてはいけない。それが己の役目なのだから。

「――っ、風神招来!」

「うぉっ」

「すみません、お下がりくださいっ。雷神招来!」

 風で荊木の動きを封じる。一声投げてから雷を男の頭上に落とした。ほんの一瞬でも意識を失わせられたはず。

 落ちていた鈴をまとめて拾う。爪に土が入るが構わない。霊力を込め、荊木に向けて投げた。鈴は荊木を囲んだ状態で浮く。

「清! 鈴よりも一回り大きい円で水の境を」

「はいっ」

「軍人さんたちは下がって」

 やや早口ながらもやはりのんきさな口調で猛が青年たちの腕を引っ張る。戸惑いながらも従う頼と佑。大きな怪我はなさそうなのでやや安堵する。

 呼吸を整えてから柏手を二回鳴らす。

「とおつかみ、えみたまえ――」

「――くっ、おの、れっ」

 意識を取り戻した荊木がもがく。抵抗の力は場を築いた術師たる淡紅に伝わる。まずは腹部への圧迫という形。

「斎主恐み恐みももうす。この場を満たす五行、相乗(そうじょう)を示す。即ち木は土を失わせ、土は水を吸いつくし、水は火を消し去り、火は金を溶かしつくし、金は木を斬りつくす。故に我が前の(みたま)、荒魂から戻ることかなわじ」

 淡紅の言霊を受けて鈴が鳴り始める。一つ一つならば小さいそれは、連なって確かにその場を満たしていく。

 圧迫感が減る。素早く息を吸って言霊を続ける。荊木の抵抗する力の強さは変わらない。けれども清められ、護国の巫女の霊力が行き渡った場は淡紅に利する。

「故に我、わが神の赦しを以て申し上げる。この地を満たす五行はあるべき相生と相克を示したまえ、我が前に在りし荒魂は和魂に成りたまえ」

「やめ、ろと……言っている!」

「ふるべゆらゆらゆらゆらとふるえ!」

 荊木の怒声は最後のあがきだった。

 最後の一音とともに柏手が打たれ、鈴がひときわ高らかに響く。光が視界を白く灼いた。

 術の成功を確信して淡紅は安堵の息を吐いた。しばし目を閉じて額を押さえる。その状態で深呼吸を繰り返す。

 足音が近づいてくるのに気づいて目を開ける。猛と清がすぐ近くにいて、久佐と左近も駆け寄ってくる。見慣れた光景に表情が緩む。手で軽く汗を拭う。

 荊木も彼の部下も意識がないまま倒れている。そちらの対応まではさすがにできない。

 皇がぬかりなく手配していると信じ、頭の隅に置く。

「……すず……」

 一つを隅に置いたら別の懸念が浮かぶ。魂鎮めに用いた鈴を回収しなくてはいけないし、清めも必要だ。紐か糸はあっただろうか。このことを理由に、皇がまた何か贈ってこないといいのだが。そう、それよりも先に頼と佑に礼を述べなくてはいけない。彼らの行動が隙を生み、鈴を拾うことができたのだから。

「――きみに」

 まとまらぬ思考を止める声。それは青年という年頃にしてはやや高い音だった。

 ぼんやりとしたまま顔を上げる。いつのまにか頼と佑以外の三人も近づいていた。

 言葉を紡ぐのは彪。

「君に、誰かの助けなどいるのか――?」


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