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黎明のあやとりうた  作者: 緋水月人
2/7

その目にうつるもの

第二章  その目にうつるもの



 神社としてはこじんまりしていると思われる敷地。鳥居をくぐって参道を歩き、手水舎の前を通過すればすぐに拝殿にたどり着く、その程度の広さ。

 しかし拝殿の佇まいや松の木など、さまざまなものが歴史を感じさせる。

 その境内の片隅に、年齢も見た目も異なる四人がいる。正確には二人と二人、そう記したくなるほどに年齢や服装が違っている。

 片や軍服に身を包む青年。先日、天地少佐の指揮下に就いた五人の軍人のうち、亘と閃。もう二人は彼らが護衛を命じられた少女ではなく、その少女の従者という触れ込みの二人。

 一人は青みがかった黒髪の少年で、名を(せい)と言う。少女――淡紅よりもやや背の高い彼は、松の木に寄りかかり、拝殿を見ている。

 もう一人は清よりも小柄で、少女と見間違えそうな線の細さを持つ少年。木の根本に座り込んで書物を広げている彼の名は澤野(さわの)左近(さこん)

 二人とはこの日に初めてあった。淡紅の従者は四人いて、残りの二人とは槻川の一件を終えた後に会っている。


     *     *


 絡新婦(じょろうぐも)を調伏したことを当主に報告し、その後の段取りは皇を介することを伝えて屋敷を辞した。表に出た彼らを行きと同様に馬車に乗せ、御者はある小さな家にまで連れてきた。

 軍人も淡紅も怪訝そうなまなざしを男に向ける。男はわずかに頭を下げる。何か言葉を紡ぎかけた、そのとき。

「――ひめさまぁ!」

 幼さを残した少年の声が夕暮れに響く。

 弾かれたように少女が顔を向ける。その目に映るのは二人の少年と一人の青年。青年の正体はすぐにわかった。軍人の上官である天地皇その人だ。

 少年のうち、一人が走りだそうとする。しかしもう一人がすぐにその襟をつかんで止めた。

「ひめさばっ」

「なにいきなり鮨の名前をいい間違えてるんだ?」

「違うもんっ。姫様を呼んだのに久佐が襟を絞めたからだもんっ」

「おまえが飛びつこうとしたからだろう。ただでさえすごい勢いなのに、今の姫様は――」

久佐(くさ)(たける)

 周りが見えていないかのように――「ように」ではなく本当に「見ていない」のかもしれない――始められたやりとりに唖然とする五人。

 介入した少女になんとなく視線を向け、その横顔に息をのんだ。

 笑っていた。

 優しく、穏やかに、いとおしさを宿して。

「迎えにきてくれてありがとうございます、二人とも」

「! うん、おかえりなさい、姫様!」

「お怪我がないようでなによりです。た――少佐に言われて参りました。正直、助かりました」

 片割れの襟を離した少年の言葉を受け、淡紅は皇を見る。おそらく現状を一番把握しているだろう青年は、満足そうに笑っている。

「おまえの馴染みも把握していた方がいい話があるからな。呼びにいかせてもらったぞ」

「ちょうど猛がぐずりだしたところだったんです」

「だって! 片づけ終わったから姫様のお手伝いできると思ったんだもん」

 右も左もわからない帝都に飛び出しかねない勢いだったらしい。力づくで止めようとしたところに皇の使いが彼らの家にきたと、そういうことらしい。

 猛と呼ばれる少年の、無鉄砲を通り越した幼さに言葉を失う。護国の巫女たる淡紅が年齢にそぐわぬ落ち着きを持っているから、なおさらに。

 このような幼い子どもが本当に従者なのかと思ってしまう。

 そこまで考えた彪は、ふと亘を横目で見た。自分たちよりも先に護国の巫女とその関係者を見ていた同僚。目の前の二人が、その関係者なのかと問いたくて。

 彪の視線に気づいた亘は苦笑いで答える。

「猛って呼ばれている子は、昨日もいたよ。なにができるのかは知らないけれど」

 亘の言葉が耳に届いたのだろう。淡紅は一度振り返る。しかし言葉は紡がず、また三人に向き合った。

「左近と清は?」

「薬や医術書の整理はあいつにしかできませんから。で、猛がいないと力仕事ができるのが清だけなので。だから僕が猛のお守りです」

「おとめさんがね、重たいものは明日買いに行くっていってたよ」

「……申し訳ないことをしていますね」

「笑って送りだしてくれましたけどね」

「……それで、少佐。この家にはなにがあるのでしょうか?」

 淡紅と久佐と猛のやりとりを止めることなく眺めていた皇。淡紅は彼に水を向ける。

 皇はすぐには答えず、淡紅の右袖――絡新婦との戦いで破かれたそれにしばし目を留める。淡紅はなにも言わず、右腕を動かして袖を己の背後に回した。

 隠すには拙い動きに何もいわず、皇は視線を横の家に転じる。

 非常にこじんまりとしたその家は、みすぼらしくはないもののやはり小さい。軍部の近くにある中では一番小さいかもしれない。

「淡紅」

「はい」

「この家に、人間は私が許可した者だけ、妖怪はおまえが許した者だけが入ることができる結界をはれ」

「……今すぐにですか?」

「これからこの中で話をするからな。話が終わるまでにでいい」

 できるかとは聞かず、できないとも言わない。与えられた猶予もまたあってないようなもの。比較対象がないことも相まって、術の難しさも想像できない。

 槻川の一件で五人に分かったことなど、怪異が本当にあること、護国の巫女が本物の術者であること、その実力もかなりのものらしいということぐらいだ。

 淡紅は示された家の戸を見つめる。

「……家宅六神が一柱、大戸日別神(おおとひわけのかみ)のお力をお借りしましょう」

「門の神か」

「はい。――術を使います、お下がりいただけますか?」

「ああ」

 家の前に淡紅が立ち、久佐と猛は三歩ほどの距離を開ける。皇はというと、さらに離れて部下となる五人の前に立った。

「怪異が事実だということは理解したな。先にも言ったが、妖怪と戦えというほど私も非道ではない。貴様らはただ、淡紅が不自由なく役目を果たせるよう表に立って便宜を図れ」

 暗に示される「それしかできないだろう」という言葉に気づけぬような愚鈍はいない。五人はただ是の言葉を返すことしかできない。

「私は淡紅を可能な限り軍部に近づかせない。今日だけにしたいくらいだ。あの家を淡紅の待機場とし、必要なときにあそこで待たせる」

 軍部から離し、同時に帝都で数少ない安息の場であるはずの仮住まいも荒らさないための手段。過保護と指摘したところで皇は笑って流すのだろうと予想できた。

 術を終えた淡紅が皇を呼ぶ。応えて男は家の中に全員を招き入れた。

 小さな卓を挟んで向かい合うように皇と淡紅が座る。淡紅の従者二人は少女の後ろに控え、亘たち五人は部屋に入らないで廊下に控えた。

 皇はまずこの家の役割を淡紅に説明した。内容は青年たちにしたのとほぼ同じだ。

「おまえに動いてもらうときは迎えをやる。だから常にこの家にいる必要はないし、人混みをかき分けてくる必要もない」

「……過保護ですね」

「おまえのために必要なことだ」

 五人の感想と同じ言葉を淡紅が口にした。それに対する皇の答えは予想通りで、いっそ笑いたくなった。

「それから報告の仕方だが――その前にそうだな。淡紅、その二人をあいつらに紹介してやれ」

「……久佐、猛」

「はい」

「はーい」

 少年二人がいざって位置を変える。少女も体の向きを変えた。

 まず小柄で幼い口調の少年を示す。少し髪の色素がうすいことに初めて気づいた。

「彼の名は猛。鬼熊(おにくま)という妖怪の先祖がえりであり、私の剣です」

「こんにちはー」

 猛はぺこりと頭を下げ、「ちゃんとあいさつしたよ」と訴えるように淡紅を見る。少女は笑ってうなずき、もう一人を示した。日の本の国の人間らしい髪と目を持つ、淡紅と同じくらい落ち着いた印象の少年。

「彼は奥上(おくがみ)久佐(くさ)。奥上家は代々護国の巫女の祐筆の役目を担っていて、久佐はわたしの祐筆です」

「お見知り置きを」

「その祐筆の力を借りたい」

「――と、おっしゃいますと?」

 割り込んだ皇の言葉に反応したのは久佐だった。淡紅もとがめることはせずに言葉を続ける。

「わたしの祐筆の力を借りたいというのはどういうことでしょうか」

「そう構えるな。目新しいことをしろというつもりもない。祐筆はいつも通り、護国の巫女の行動を記せばいい。それを一度借り受け、こちらで保存できるように書き写すだけだ」

 書き写したそれを見るのは護国の巫女を知るものだけだという。

特別班(こいつら)の動きについて疑問を持たれたときの対応や目くらましの任務ならば用意してある。お前が煩うことなどなにもない」

「……そういうことでしたら」


     *     *


「……私はこれでも柔軟な思考をしているつもりだったが、それでも驚くことばかりだ」

 回想に十分浸ってから口を開いた。

 なんの脈絡もない閃の言葉に亘は顔をしかめる。たっぷりと間をおいてからようやっと口を開いた。

「どれについて?」

「どれもこれもだ。妖怪も、巫女殿の術でそれが見えたことも、巫女殿の祐筆の力も」

「ああ……」

 亘も閃も、この場にいない三人の軍人も、妖怪だの幽霊だのを見たことはなかった。しかし槻川の家で起きた事件を解決する際、巫女の術――真澄の鏡の法と言っていた――でそれを目にしてしまった。

 下男の男に真実を示すには、おようの顔をくらった絡新婦とおようの双方を見せねばならなかった。妖怪などを見る力がないものに一時的に見る力を与える術、それが真澄の鏡の法だという。

 術の対象が個ではなく場のため、あの場にいた軍人たちにもその術は及んだのだ。

「いとこ殿のときは、いとこ殿が豹変したようにしか見えなかったし、確かに驚いたよ」

「ああ、狐に憑かれていたんだったか?」

「蝶よ花よと育てられたはずの令嬢が枕を投げたり奇矯な笑いをあげたりしていたのも驚きだったけどね。彼女――淡紅姫が祓った後は倒れて、その顔はまさに『憑き物が落ちた』って感じだったよ」

「……話を聞くだけでは信じられないな」

「だろうね。俺も実際に目をしたからまあ、うん」

 絡新婦も狐憑きも現実離れしすぎているからだろうか。どこかまだ遠い。むしろ祐筆という存在を身近にとらえられる分、その力の方が驚きをしっかり抱えられている気がする。

 報告方法を確認したあの日、皇はさっそく久佐に事件を書に記すように告げた。はじめからそのつもりだったのか、部屋にある箪笥の引き出しには紙が大量にあった。もちろん筆記用具も。

 久佐はというと嫌そうに顔をしかめると、わざわざ矢立を取り出した。携帯用の筆記用具を持ち歩いているのは祐筆だからなのか。

 用意を整えると少年は主を呼んだ。少女は当たり前のように久佐の隣に座り、己の右手を相手のそれに重ねた。そして顔を近づけて額を触れあわせる。

 近すぎる距離に青年たちは息を飲むけれど、皇も猛も平然としていた。

 百を数えるくらいで二人の額が離れる。淡紅がいざりで距離をおく。久佐は筆に墨を付け――ためらわず書き始めた。

とまどいも考える時間もなく一心不乱に書き進めるその姿は神懸かっているようで、鬼気さえも感じた。

 できあがった記録を見ても驚いた。そこには確かに護国の巫女の行動が客観的に書かれていたのだ。ただしあくまでも巫女の行動が中心であるため、たとえば巫女とともに行動した佑や彪の行動は多少記されているものの、単独で情報収集した閃の行動は一文字たりとも記されていない。そのため、巫女不在時の行動の補足がどうしても必要になる。

「どういう郷なんだか」

 ぽつりと閃が呟く。特に潜めてもいないので少年たちの耳にも届いているはずだが、二人とも反応しない。もっとも、清は明らかに無視をしているだけで亘と閃を意識しているのが分かる。完全に無関心を貫く左近の方が理解に苦しむので、いっそ分かりやすくていい。

 今回の任務に当たるのが閃と亘でよかったのかもしれない。なんだかんだでお人好しな頼や佑の場合、どうにか場を持たせようと清たちに話しかけるなどの苦労をしただろうから。

 職務に忠実になれる彪か、亘や閃のような人間のほうが割り切れていいのだ、きっと。

 筋肉をほぐすように首を回したとき、正面の拝殿に動きがあった。弾かれたように清が一歩踏みだし、左近が書物を閉じる。青年二人もさりげなく意識を切り替え、身構えた。

 拝殿の戸が開く。ご神体を納めているそこから人影が出てくる。

 護国の巫女という名から思い浮かべる巫女装束ではなく、水干装束に身を包み、手には榊の木を持っている。この時代、神職者はほとんど男であり、巫女はあくまでも祭祀補助者にされることが多い。

 だが「護国の巫女」は違う。皇も「神職者」と称していたように、主として祭祀に携わるものなのだという。

「姫!」

「……清、あなたの水を貸してください。左近、宮司を連れてきてください」

「はい、ひい様」

 疑問を挟むことなどなく、主の言うとおりに動くのが当たり前だとでも言うかのように。二人は前置きのない言葉にすぐ従った。

 左近は今いる神社の宮司が待つ社務所へ駆けていく。清は竹筒を取り出しながら淡紅の元へ走る。拝殿から降りようとする淡紅に手を差し出した。

「……ありがとうございます」

 呼吸一つ分の間を開けて少女がその手を取り、数段の(きざはし)を降りる。

 清から竹筒を受け取ると少年を下がらせ、亘たちが動かずに様子を見ているのを目で確認する。

「――とおつかみ、えみたまえ」

 祝詞を唱えると同時に竹筒の中の水を地面にまく。

 ――清は竜と人の間に生まれた半妖である。父たる竜はかつてある湖の主であり、付近の村々からは神として祠られていた。したがって妖怪であると同時に神としての側面を持っている。

 その子である清は父の血を濃く継いでおり、水を操る力を持っている。父のような神性は持たないが、淡紅に使える意識は、彼の水に清めの力を持たせる。

「そは清め、そは境」

 己に捧げられた水の意味を言霊に乗せる。

 淡紅が地面にまいた水は清めの力を持ち、境目を作ることができる。

「我は護国の任を持つ者。我が神の赦しをもって掛けまくも畏きこの地の神に斎主恐み恐みももうす」

 竹筒を地面に置き、右手に持った榊を高く掲げる。

「――天つ罪、国つ罪――」

 祝詞が続く。

 亘と閃の目に映る光景は変わらない。しかしながら空気が研ぎすまされていくのが分かる。さて、巫女や竜の子の目には何が映っているのか。

「――五百枝(いおえ)真榊(まさかき)を捧げ奉る」

 榊を両手で持ち直すと膝を突き、捧げるように腕を上げて頭は下げた。

 その光景を正面から見る形になっていた亘は、左近と一人の老人が近づいてくることに気づく。老人は足が悪いのか杖をついている。

「――亘」

 抑えた声で閃が呼ぶ。その声に驚きが宿っているのを珍しいと思い、焦点を淡紅に戻して納得する。

 榊が巫女の手を離れ、宙に浮いている。そして縦に向きを変えると静かに地面へと降りていく。落ちるのではなく降りたその榊は、見えない力が加えられているのか、倒れることなく地面に軽く刺さった。

 少女が柏手を二回叩き、深く一礼し、また一度手を叩いた。

 深々と息が吐かれた。

「――宮司」

「……なんと申し上げるのがよいのやら……」

 おぼつかない足取りで宮司が足を踏み出す。膝を着こうとするのを止めて淡紅は口を開いた。

「あの榊を失われたご神体の代わりとすることを神が許してくださったのは、ご神体がないにも関わらずこの地の力を保ち続けたあなたの努力が認められたからです」

「――っ……もったいないお言葉です……!」

「神体を守れなかった罰を受けたその足も、一月ほどで元に戻るとの仰せでした」

 それが、今回の任務だった。

 限定していた異国との交流が強制的に広げられてから今日(こんにち)まで、日の本を襲った動乱は一言で表せないほどにすさまじかった。流された血も失われた命も数えきれず、もはや何を義と呼ぶのが正しいのかさえ分からぬありさまで。今上帝がが立つ今の世に残っているものが正義となされている現状。

 各地にある神社仏閣も、当然ながらその動乱の波に襲われて。廃れた寺社も少なくはない。

 彼らが今いる神社は、社家の血筋こそ続いているものの肝心要の神体が失われていた。より正確に記すならば、動乱の最中は欠けながらも残っていたのだ。しかし時代も制度も変わった頃になって失われてしまった。

 能力者であった宮司は神体を守れなかった罰に足の機能を奪われ、それでおなお神社としての力を保ち続けた。だが肉体と力を老いが襲い、その負荷に耐えられなくなった。

 規模は小さいながらも帝都を守る結界の一角であることを理解していた宮司は、己の意地を捨てて上に助けを求めた。

 それに東宮が応え、皇を通じて護国の巫女を遣わした。

 淡紅は神社に足を踏み入れると早々に拝殿にこもった。事前に聞いた話だと、神社の主祭神を改めて勧請して非礼を詫び、今一度土地を守ることを講うのだとか。

 本来ならばその土地の「血」と「()」を継ぐ能力者が行うのが筋だが、宮司の子に(かんなぎ)の力はなかった。孫には異形を見る見鬼の力こそあるもののまだ幼く、修行を初めてもいない。

 だから護国の巫女が動くことになった。

「……次がどうなるかは、わかりませんが」

「誠にございます。私としては、孫に神職としての素質があることを望むばかりです」

「……」

 苦く笑う宮司に何も言わず、新たなご神体である榊のことを任せるに留めた。

 少女は目を閉じて呼吸を数度繰り返し、何かを考えるように己の前髪を指でいじる。それから亘たちを見た。

「お待たせいたしまいた」

「お疲れさま、で、いいのかな」

 亘が苦笑とともに迎える。それに対して淡紅は静かに頷いた。清と左近は相変わらず青年たちを見ない。

 日はまだ高い。しかし今日の任務はこの一件のみである。

「巫女殿の祐筆は」

「今日は屋敷にいます。なので報告は後日になってしまうかと」

「わかった。なら、今日は俺から口頭で伝えておくよ。なにか伝えておくことはある?」

「……特にはありません」

 少し悩むも頭を振る。

 皇が用意した家に戻り、淡紅はそこから馬車で自分の家に戻るのだが、恙なく終わりそうで何よりである。


     *           *


「――妖怪の調伏が四件、『場』の清めが三件、神の勧請ないしご神体の改めが二件。淡紅を喚んでまだ二十日程度だと言うのにな……」

 ため息混じりに漏れた言葉。それを聞かされる形になった頼は沈黙を保った。理由は簡単、発言を許されてはおらず、意見を求められてもいないからだ。

 二人がいるのは淡紅が控えるための家。ただし中ではなく家の前に佇んでいる。皇は壁に寄りかかり、頼はその斜め前に立っている。何かあればすぐに対処できる姿勢だ。

 人目に触れれば奇妙としか言えない状況。しかし皇は頼の懸念を鼻で笑った。

 曰く、淡紅の結界の効果により許可されていない人間の目に留まることはない、と。確かに二人がこの姿勢を取ってから数人が通り過ぎたが、誰も足を止めなかった。

 本当に気づいてもいないのだろう。

「二条准尉、貴様はこれを多いとみる、少ないとみる?」

「……恐れながら、先ほどの少佐のお言葉から、多いのだろうと感じましたが」

「そうだな。それもただ多いだけではない、奇妙だ」

 切れ長の目が剣呑に細められる。その目に頼は映っていない。

「近衛分家と槻川の件は別にして。他の二件の妖怪は確かに淡紅だからこそ速やかに、後の影響もほぼなく治められた。残りも失敗する心配が一番少ないのは淡紅だけだった」

 結界の修復とも言い換えられる『場』の清めと神の勧請、ご神体の改め。これらは一見すると妖怪退治のような派手さも危険もない。しかしながら一歩間違えば神の怒りを買いかねず、そのときの罰はまさに神の胸三寸で決まる。

 帝都が、ひいては今上帝の身が危うくなることすらもありうる。

「淡紅は見事になした。その結果、帝都を包む結界は力を取り戻し、蝕み始めていた汚れも薄まった。現状維持が精一杯とほざいた術者どももわずかばかりの余力ができ、多少ならば改善のために動けるようにもなった。――が、どうにも不快だ」

 見えない何かが動いているように感じられてならない。東宮も同じようなことを話し、淡紅も考える様子を見せて否定はしなかった。

 天照の末裔と護国の巫女の両者が感じている以上、杞憂ということはない。

 試しに淡紅に占わせてみたが、結果はでなかった。それは見えない意図の存在を肯定し、かつ狙いが護国の巫女にも関係がある証。

 淡紅は己に深く関係ある事柄を占えないから。

「……二条准尉、貴様――」

 言葉が途切れた。皇は壁から離れ、閉じている玄関を振り返る。

 一つの気配が近づいてくる。それはためらわずに玄関を開けた。

「……お待たせいたしました」

「いいや? 女人の準備を待てないのは余裕のない小者だけだから気にするな。それよりもっとしっかりと見せくれないか、実によく似合っている。ありふれた矢絣もお前が着ると実に愛らしい。やはり朱ではなく紫苑にして正解だった」

「……」

 浴びるように賞賛を受けた淡紅は微かに眉を潜める。つきあいの浅い頼でも困っているとわかった。

 少女は今、小袖に袴という帝都で流行の「葡萄茶式部」な女学生の格好をしている。男たちが外で待機していたのも、家の中で淡紅が着替えていたから。

「たち……少佐、この袴は」

「ああ。それは行灯袴(あんどんばかま)というものだ。娘が男の袴を履くのは優美さに欠けるということでな。これが作られるようになった。気に入らないか?」

「気にいるとかいらないとかではなく、私が持っている袴と違うので、少し奇妙な感じがいたします」

「そうか。ならば二、三作らせよう」

「……橘の兄様(あにさま)?」

 怪訝な表情を浮かべた少女の口から、耳慣れない言葉が飛び出した。

 しかしながら耳慣れないのは頼だけであり、皇と淡紅は話を続けていく。

「言っただろう? 娘が男物を履くのは優美さに欠ける、と。帝都を歩くならば女学生と思われる装いが好ましい。したがって行灯袴をまとった方が悪目立ちしないですむ。もちろん、お前が好まないなら袴を履かなくともよいが」

「――いえ。正直、妖怪と対峙することを思うと袴でいられるほうが助かるのですが……」

 淡紅が扱う術には祝詞だけではなく足の運びが意味を持つものもある。普通の着物では正しく足を運びにくい面がある。

「そうだろう? ――槻川の一件で着られなくなった物の代わりとして別の振袖を仕立ててもいいが?」

 にやりと、あまり性質のよくない笑みを浮かべる男に対し、少女は大きなため息で答えるしかなかった。

 笑みを消し、皇は少女の髪に手を伸ばした。艶やかな黒髪は上半分をまとめ、青を貴重とした結紐が飾られている。皇は無言で一房つかみ、すぐに払った。細い肩を叩いた黒絹は、主が首を傾げたことでさらに滑る。

「たちば――少佐?」

「どちらでも構わないがな。本日は半分が任務であり、半分はお前の休暇だ」

「……」

「帝都に来ておよそ二十日。急ぎの案件はおおむね片づいた。しかしまだ帝都に留まってもらう。足は用意してやれるが、滞在する以上は右も左もわからないままにするわけにはいかないだろう。ほんの数刻で回れる場所は限られてしまうが……まあ、銀座のあたりを歩いておいで」

「……己の行動に影響されるものを、この目に映してこいということですか」

 疑問ではなく断定的に言う少女の言葉を、皇は笑って否定した。

「お前はそう思ったほうが楽だろうがな。言っただろう、半分だと。二条准尉を共につける。――二条准尉、貴様の今日の役目は淡紅の案内だ、いいな」

「――は、はい」

 口を挟まないだけで意識は向けていたので、話の内容は理解していた。それでも急に水を向けられると驚かざるを得ない。

 任務内容そのものは非常に簡単だが。

「昨今はレースのリボンも流行り始めている。気に入るのがあれば買うといい。貨幣の使い方は教えただろう?」

「……一応、覚えてはおりますが」

 淡紅は無償で動いているわけではない。その働きの対価はきちんと支払われている。とはいえ必要なものはあらかじめ皇がそろえ、食材なども同行した世話役が買い付けているので自分で使う機会はなかったのだが。

 気の進まない様子を見せる淡紅。しかし固辞するには「半分は任務」という言葉が邪魔をする。おそらく彼女が遠慮することを見越しての言葉なのだろう。

 清たちがいないのは危険を避けるためだろう。帝都に不慣れなのは淡紅も少年たちも同じ。そんな子どもが連れだって歩き、拐かしにでもあったら目も当てられない。


     *           *


 引かぬ姿勢の男に抗弁するつもりはなく、淡紅はおとなしく頼と控えの家を離れた。

 何も話さないのは気まずさを避ける意図も持ちつつ、頼はこれ幸いと疑問を口にした。

「あの……さっき、少佐を別の呼び方をしていたよね?」

「……ああ、『橘の兄様』ですね」

「うん。それは」

「――(とき)じくの(かぐ)()()はご存じですか?」

「え? えっと、古事記とかに出てくる、不老不死の霊薬だよね」

「はい。そしてその古事記ではそれが橘であると定められています」

 やや目を伏せながら語る少女。

 古事記で言う『橘』が現在で言う『橘』と等しいかはわからない。しかしながら『タチバナ』という音が等しい。そのために『タチバナ』という音は相応の意味を持つ。

「さすがに不老不死の力は持ちませんが、霊木としての力を持っています。西の都にある御所に植えられているのも、守りの意味を込めていると聞いています」

 隣に植えられているのが桜なのは、かつてニニギノミコトが此花咲耶姫(このはなさくやひめ)を娶ったからだとか。

 では本題の、皇を『橘の兄様』と呼ぶことについてはというと。

「あの人は橘の木との相性がよく、『タチバナ』という音が持つ力はあの人の守りになっています」

 皇の血筋も立場も帝の一族に近い。したがって青年自身の守りが強いに越したことはない。

 だから少女は言霊を発する。皇の守りが強まることを願って。言うならば(まじな)いの一つ。

「……もっとも、このような仕組みを正しく理解したのは私が物心ついたあたりですが。始めは、橘の加護が強いことしかわからなかったですし」

 ただ『兄』がわりとするには近く、名前で呼ぶには遠い関係、それが淡紅と皇だった。

「物心……って、姫と少佐はいつから」

「あの人は、私が生まれる前から私の郷の存在を知っていましたし、足を踏み入れてもいました」

 つまり、淡紅のことはそれこそ生まれたときから知っている。淡紅が生まれたとき皇は十一。一人前とは言えないがだいたいの分別はつき、すでに東宮の傍付きであり学友であった。

 気づけば二人はにぎやかな通りに足を踏み入れていた。自分にぶつかりそうになった相手を避けてからそのことに気づく。慌てて頼は少女を見下ろした。

 淡紅は微かに目を細めている。その横顔から負の感情は見えない。そうはいってもこの人の多さ。気をつけないと人酔いをしてしまうかもしれない。

 どうしたものかと頬をかく。

「なにか目当ての店って言われても困るよね?」

「……申し訳ありません」

「ああ、ごめん。別に責めるとかじゃなくて。ただ目的もなく歩くと、すぐに疲れちゃうだろうなと思って」

 少女の体力がどれほどのものかわからないが、軍人基準で考えてはいけない。しかしながら若い女の子が好みそうな店などすぐには浮かばない。

 閃ならばすぐに思い浮かぶだろうが、あいにくと不在だ。そもそも淡紅に過保護な皇が、少女と閃を二人きりで歩かせるとも考えにくい。

 同期の誼でかばっても無理が生じる程度には、素行がよくないので。

 思考がそれたところで、不意にある店が思い浮かぶ。驚くかもしれないが、甘いものが平気ならばつれていってもいいかもしれない。

「ええと、姫。甘いものは食べられる?」

「――は、あ、……はい、一応」

「よかった。最近、あんパンっていうのを作ったお店が少し先にあるから、よければ足を運んでみないかな。そこに向かいながらいろいろと眺めればいいと思うよ。……いやでなければ、だけど」

「……あん、ぱん……」

 まったく検討がつかないのだろう。奇妙なところで言葉が途切れている。

 提案したものの、詳細を説明できるほど頼も詳しいわけではない。

「ええと、あんこが入ったパンなんだけれど、パンって言うのは、なんて言うかな……」

「……わかりました」

「え?」

 突然の了承に思わず視線をおろす。突然の凝視に少女の肩がはね、顔が逸らされた。

「目的と呼べるものもありませんし。なにもわからないよりは二条さまがご存じの場所に向かう方が、不便も少ないでしょう」

 自分でも情けないと思うほどに苦し紛れの提案だったが、了承してもらえてほっとした。

 店がある場所を目指して歩き始めつつ、改めて思う。この場にいるのが閃や亘でなくてよかったと。女性の機微を察して動くことが苦手なのは自覚しているが、如才なくできる二人に見られて何か言われるのもごめん被る。

 幸い、後ろにいるのは自分と同じくらいにそういうことが苦手な人間だ。からかうようなことはしないし、するとしたら言い返されることを承知でするだろう。


     *           *


 頼と淡紅が歩き始めたのを見て佑は軽く首を回した。

「行くところが決まったか?」

 佑がいるのは二人から離れた建物の影。佑の基準で、有事の際にすぐに駆けつけられるぎりぎりの距離を置いている。

 淡紅は気づいていないが、頼は当然気づいているはずだ。本日一度もを顔を合わせていないが、それが可能な実力をもっていると知っている。

 人混みに紛れそうな二人の背中を、距離を保ちながら追う。軍人と女学生姿という目立つ組み合わせなので見失う心配はなさそうだ。

 皇がそこまで見越していたかどうかはわからないが。

「……どうもあの人、姫さんのことに関してはあっさりと公私混同をするみたいだしな」

 家を用意したこと、行灯袴を用意したこと、帝都を散歩させること。どれも護国の巫女にとって必須ではない。しかしあるに越したことはない事項だ。

 皇の場合、任務としてだけではなく自分の都合も隠さずに伝えるから、いっそ清々しささえ感じてしまう。

 部下にならなければ――部下になっても、淡紅に関する任務に当たらなければ知らないですんだだろう。

 そして淡紅に向ける感情もどのような名前を付けているのか、正直よくわからない。

 並々ならぬ感情を向けていることは確かだと思う。それでも、男女の情とくくるには何かが違う気がしてならなかった。


     *           *


 後方の佑の気配を意識しながら歩く。もちろん隣の淡紅にも気を配る。

 目的地に向かいながら、あんパンがつい最近売られるようになった食べ物であり、近いうち今上帝に献上される予定であると話す。

「……二条さまはもうお召し上がりになられたのですか?」

「一回だけね。僕はおいしいと思ったし、おもしろいとも思ったよ」

「そ――」

「あ、巫女さま」

 淡紅よりもやや高い声が降ってきた。

 さりげなく警戒を強めながら前を向く。数歩先にある小間物屋から出たばかりの少女がこちらを見ている。年の頃は十六、七といったところか。

 呼び方からすると淡紅と面識があるらしい。視線のみで隣を確認すると、少女の表情に変化がない。したがって感情もわからない。

「お散歩ですか? ちゃっかり流行の格好もなされてますけど」

「……己の振る舞いが影響を与えるものを実際に目にせよと、少佐の仰せですので。佐伯、あなたは」

「あたしは散歩ですよ。新しい便箋が発売されたって聞きましたので。それと、うわさのあんパンを食べに行こうかなって思いまして。――巫女さまの話からすると、お隣の方が例の軍人さんですか」

 笑顔を浮かべながら距離をつめてきた少女は、淡紅よりもやや背が高い。丁寧な言葉を用いて明るく話す彼女は、どこからどう見ても普通の少女だ。

 それなのに違和感がついて回る。

 さりげなく呼吸をして平常心を保つ。同様に警戒しているだろう佑の位置も探った。

「こちらは二条さま。春宮(はるみや)と少佐の命の下、ご助力くださっている方の一人です。二条さま、こちらは――護国の巫女ならびに私の郷に協力する佐伯家の娘、なな(・・)です」

「どうも、初めまして」

「……初めまして。姫に協力ということは、奥上くんたちと同じ――」

「いいえ」

 静かな声の強い否定。

 驚愕とともに淡紅を見る。少女は頼とななを交互に見てから視線を逸らした。

「帝都に住み、郷に協力する家は佐伯だけではありませんが――みな、天照とその末裔への敬意でもって動いています。久佐たちとは違います」

「まあ、そうですねー」

 示された明確な線引き。それが何と久佐たちを分けているのか、とっさに悩んでしまった。

 それほどの強さを感じてしまった。

 頼の戸惑いを察しているのかいないのか。ななが分かりやすく話を変える。

「ところで巫女さまたちはどちらへ向かうつもりだったんですか? もしも目的が重なるならせっかくの縁ですし、ご一緒させていただいても?」

 珍しいほど明確に、疑問の表情を淡紅は浮かべたのだった。

 一人を加えた奇妙な道のり。目的地まで後少しというところだったのは幸いだったと思う。

 ななという少女はどこまでも明るくにこやかに話しかける。しかしながらどこか違和感があり、淡紅の淡々とした返答をより強調することになったので。

 何かがかみ合わない。そこに気づけても、かみ合わせを邪魔する『何か』の正体まではわからなかった。

 ――「久佐たちとは違います」という言葉、そこに手がかりがあるのだろう。しかしその先に想像を広げることが難しい。

 結局、頼はさまざまな疑問を横に置いた。問いつめても漂う空気がよい方向に変わると思えない。一人で考えるより、情報を共有して同期と検討した方が建設的な意見が生まれるだろうと勝手に期待した。

 目的のあんパンは運良くすぐに手に入れられた。あまりの人気で一人一個ずつと購入数を限定していたが、三人とも買うことができた。

 店内は満席だったため、やむを得ず店から少し離れたところで食べることにした。

 佑や閃とは別の意味で華族らしさがない頼は立ち食いを気にしない。少女二人は気にするだろうと思いきや、結果は逆。

 淡紅の郷に食事処などなく、それこそ道ばたに座り込んで木の実を食べることさえあるらしい。ななも、家はそれなりに裕福な呉服屋だが堅苦しさはあまりないとか。

 世間的な評価は別として、いわゆる「買い食い」状態をためらう理由はなかった。

「これがあんぱん……」

 小さな声で呟きながら二つに割る。中に粒あんがぎっしりと詰まっているのをみて、吐息をこぼす淡紅。

 少し悩む様子をみせたのは、もう少し小さくちぎりたかったのかもしれない。しかし卓がない外では難しい。そのため右手に持った半分のパンをそのまま口元に運んだ。

「……おいしいです」

「――そっか、よかった」

 苦し紛れの提案。どのような反応が返されるかまったくもって不明。それだけに悪くない感想が来てほっとした。皇にもそれなりの報告ができる。

 安堵とともにあんパンをほおばる。粒あんの甘みが疲れをいやしてくれるような、そんな気がした。

「……二条さま」

「――え」

 ほんの数拍。和んだ空気があっさり消える。

 見下ろすと、少女は目を細めて前方の道を見ている。視線を追っても何を見ているのかわからない。ありふれた人の流れしか頼には見えない。

「この道の向こう側ぐらいまで離れてもよろしいですか?」

「……理由を聞いても?」

「傷ついた妖怪が向こう側にいます。放っておくと、妖気が淀んでよくありませんので」

「えっと、退治――」

「いいえ」

 視線は道の向こう側、頼には見えない妖怪に固定されている。

「退治する必要はありません。悲しみのあまりその妖怪としての本質を失わないように手助けするだけです」

 すべての妖怪が退治する対象ではないと、護国の巫女は言う。竜の息子、妖怪の先祖返りなど、純粋に人とは言えない存在と共にある少女は。

 一度も青年を見ない眼差しにかすかな焦りがはしった、ように見えた。思わず大丈夫だと応える。

 実際、淡紅が示した距離は頼だけでは危険でも、佑がいるからなんとかなる範囲だ。

 頼の了承を待ち、少女は歩きだした。周囲が不自然に思わない程度の歩調で。

 その背中をなんとなく見送る頼。人一人分の空間をあいて隣になった少女が口を開く。隙間はもちろん、淡紅が先ほどまでいた場所。

「軍人さんは、巫女さまに慣れました?」

「え? ……えっと、慣れるというか、やっぱり違うんだなって」

「……違うって?」

 背中を追っているために、ななの表情が目に入らない。

「同じ場所を見ているのに、姫が見ているものなんて僕には見えない。やっぱり、護国の巫女は僕たちと」


「誰もが同じものを見ていると思っているんですか」


 はっきりと込められた嘲りに驚く。驚きを隠さずに振り向いた。剣呑ではないとはいえ、軍人の凝視を真っ向から受け止める少女。

 表情に笑みの面をかぶせてななは続ける。

「誰もが同じものを見て、同じものを感じるとでも思っているんですか。だから違うものが見えているものは異物ですか、護国の巫女だからと片付けますか」

「そういう、つもりじゃ――」

「ああ、誤解なさらないでくださいね。別に友を異端視されて怒っているとか、主を侮辱されたと感じているわけじゃないですから。巫女さまも言いましたけど、佐伯の家が忠義を向けるのはあくまでも天照大御神と帝なわけでして、護国の巫女に対してじゃありません。それにあたしと巫女さまは友じゃない」

「……」

 絶句した。

 主従でも友でもないと言い切ったことに対して驚き、つきまとっていた違和感が消えたことに気づいたから。

「巫女さまの生き方を否定しかできないあたしと、あたしの否定をただ聞くだけの巫女さま。けんかにすらならない間柄じゃあ、友になんて到底なれませんよ」

「――否定って」

「でもね、何もわかっていないのにわかったと思いこんで、目の前にあるものがすべてだと思って、それを役職で片付けて、向こう側にあるものにすら気づいていない人間が、訳知り顔するのは腹が立つんです。あたしの勝手な感情です、ごめんなさい」

 立て板に水の勢いでまくし立てられる言葉。無礼と咎める権利も頼にはあるのにその考えすら浮かばないのは、突き刺さるものがあるから。

 ななは手の中のあんパンに視線を落とす。残り一口分くらいの大きさ。

「あんパンをおもしろいと感じる人もいればどうなんだろうって思う人もいる。食べて気に入る人もいれば気に入らない人もいる。実際に見て、食べたって受け取り方は人それぞれなんですよ。身分も立場もそこには関係ない。その上相手が何を見ているかさえわからないのなら、何を感じているかなんてなおのことわからないじゃないですか」

 ななの目にも妖怪の姿は映らない。人ならざるものが見えるということを、彼女は永久に理解できない。

 逆もまたしかり。目が開いてからずっと、淡紅の目には人ならざるものが存在している。それが彼女の当たり前。そのために彼女はそれ以外の世界を決して理解できないだろう。

 目に映るものが違うのは事実。彼女が護国の巫女なのも事実。けれどそれが全てではない。護国の巫女だからといって、すべて他人と違うわけではない。すべてがそれで片付けられるわけではない。

 ――生まれが、信じるものが違うことを理由にすべてを片付けてきた歴史は確かにあるけれど。

「食べ物の好みとか、自分が理解しやすいものの違いは受け入れられるのに、異能とか理解できないものになるとわかったふりをすることで拒否するなんて――」


「佐伯」


 静かな声。

 ことさら大きいわけでも荒げられているわけでもない。そうでありながら場を支配するその音は、槻川の家でも聞いた。

 ぎこちなく首を動かすと、少女が無表情で佇んでいる。無機質な黒曜石が静かに動いて頼を捉えた。

 思わず息をのむ。その瞳に責める感情などないのに責められていると感じてしまうのは。

「佐伯が何か失礼を申しましたか」

「あ、えっと……いや、別に」

「べっつに間違ったことなんて言ってませんけど」

「あなたの視点の話でしょう、それは」

 他意はないのだろう。ななの言葉をかわしただけなのかもしれない。だがしかし、それは頼にできなかったことだ。

 個の視点に意識を傾けるなど。

『何もわかっていないのにわかったと思いこんで――』

 頼は、彼が見て受けた印象だけで『違う存在』だと、『護国の巫女』だからと片づけようとしていた。淡紅の目に何が映っているかなんて、確認してもいないのに。まして少女が何を感じているかなんて考えもしない。

 ただそういうものなんだと、わかったつもりになっていた。

 それがわかった「つもり」なのだと、言われて気づいたくらいだ。

「まー、そうですけどね。――っと、ずいぶん時間が経ってしまいましたね。あたしはここで失礼させていただきます」

「……」

 にっこりと、場違いな笑みを浮かべてななは立ち去る。その背中を最後までは見送らず、少女は青年に視線を向けた。

「――あらためておうかがいいたしますが、佐伯はなにか失礼を」

「彼女と」

 言葉を遮る形になったが、止められなかった。聞かずにはいられなかった。

 きっと自分はひどく強ばった表情をしているのだろう。

「彼女と、姫は、友ではない、の? 彼女は、君を否定しかできない、と」

 会ってから先ほどまでつきまとっていた違和感。どんなになながにこやかに振る舞っていても、ななと淡紅の間に親しさなど感じられなかった。

 それは淡紅の表情が乏しかったからだけではない。ななのほがらかさに、奇妙な薄っぺらさがあったからだ。

 年が近い少女二人。普通ならばもう少し穏やかな空気があってもいいのではないか。頼の価値観ではそう思う。

「――そうですね、友ではないですし、彼女は私の生き方を許容できない。複雑な気持ちを抱いてしまうのでしょう」

「複雑な気持ち……」

「……数代前、佐伯の家に護国の巫女の弟が婿入りしたと聞いています」

「――え?」

「……護国の巫女は護国の巫女からしか生まれません。ですが護国の巫女が生むのは護国の巫女だけではありません」

 言われてみれば当たり前の話なのかもしれない。

 生まれるのが必ず娘とは限らないのだから。護国の巫女と呼ばれるのは娘だけのようだが。。

「その人物が里で何を感じていたか、今となってはわかりません。ただ自分で望んで郷を出て佐伯の家に婿入りしたそうです。……彼女は佐伯家の長女ですが弟がいることもあり、別の家に嫁入りすることが決まっています」

「――」

 その家もまた郷の協力者であり、家同士のつきあいは長い。そして当事者同士のつきあいも。悪い縁談ではない、

 客観的には。

「男であるために生家を出て婿入りした先祖。女であるために嫁ぐことになり、役目を継がない己。そんな彼女の目に、同じ女であっても役目を継いでいる私が、ある意味で近い血を持ちながら真逆の道を行く私が、どのように映っているかは想像しかできませんが――複雑なのだろうと思っています」

「……君は、いいの? 彼女の葛藤があるにしても、君はずっと否定を――」

「……特に何があるわけでもありませんし、私は彼女が私に向ける感情をそれしか知りませんので」

 虚勢でもなんでもない。本当に静かな返答がまた言葉を奪う。

 少女の姿をしているけれど、普通の少女ではない。目の前にいるのは『護国の巫女』という存在なのだと、そう思った。思ってしまった。

 それで片づけるのは愚かと突きつけられたばかりなのに。

 目の前の存在はとても遠い場所に立っているのだと、決して理解できない存在なのだと。

「――二条さま」

「――っ、あ、なに?」

「……案内をしていただきありがとうございました。また、こちらの事情で惑わせてしまったこと、心よりお詫び申し上げます」

「……」

 明確な線引きに気づかないほど鈍感ではない。しかしながらそれに対して何を口にすればいいのかわからない。

 ただ、頷くしかできなかった。

「……そう、いえば」

「なんでしょうか」

「えっと、姫が見かけた妖怪は」

「――つつがなく。今頃は自分が安心できる場所へと戻っているでしょう」

「……そう」

 護国の巫女を理解できる日など、来るのだろうか。


     *           *


 自分の『家』と定めた場所に帰ると、『母』が驚いた顔で迎えてくれた。

 曰く、落ち込んで帰ってくると思っていた自分が明るい表情なので驚いたらしい。

 確かに落ち込んでいた。座敷童として初めて憑いた家。その家の住人に、それも数年前には友だった人間にないがしろにされた事実は少女――月乃の心をいたく傷つけた。

 人の心は移ろうもの、自分が離れたことで家は廃れる。それがわかっていてもなお、悲しくて恨めしくて仕方がなかった。

 座敷童としての存在が危うくなるほどに。

「優しい子に会ったの」

『初めての出来事に傷ついていることはうかがえます。悲しいでしょう、恨めしいでしょう。けれどあなたを裏切った人間のためにあなたが歪む必要はありません』

 優しい言葉をくれた。慰めてくれた。甘いものをくれた。月乃は歪んで本質を失いかけていたのに臆することなく、調伏することもなく。とても優しい子。

『そんなにも恨みたくなるくらいに好きだったのですね。だからこそないがしろにされてとても悲しい。責任はあなたにはありません』

「あの家は廃れる。あたしをないがしろにしたからだ、当然の報いだって笑って、終わりにしていいって。これからいろんな人に会えるのに、あいつのせいでその機会をなくす必要ないって!」

「……その子のことが気に入ったのね」

「うん!」

 月乃よりも年長で母役を務めてくれる座敷童は優しく笑う。

 月乃よりも長く生きているその妖怪は、月乃が味わった悲しみも怒りも恨みもよく知っている。それを消化するのがどれほど大変であるかも。それをいやすのは結局、新しい出会いなのだ。歪んで落ちる前にもっと好きな存在に出会えれば、自分たちはたやすく割り切れる。嫌いは嫌い、好きは好きと。

「そんなに気に入ったのなら次はその子の家にする? あなたの話だと見鬼で、私たちの性質をよくわかっているみたいだし」

「あたしもそう思ったんだけど……」

 憑こうと思ったのだ。実際、着物の袖を掴んでお願いしようとしたくらいだ。

 袖を掴んで、口を開いたそのとき、気づいた。

「すごく大きくて、強い方がいたの。その子、護国の巫女だったの」

「まあ……」

 どんなに望んでも、護国の巫女やその家には憑けない。彼女たちはすでに別の守りがある。なぜならば彼女は神に仕えるものだから。

 そしてその立場ゆえに名前を聞けず、月乃も名前を言えなかった。縛られる関係は望まないから。

(あ、そうだ。こんどお母さんにあたしの名前を書いてもらおう。それを持っていけば教えられる、呼んでもらえる)

 そう、今度。

 そのときに名前を教えて呼んでもらうのだ。そして自分も呼ぶのだ。護国の巫女は特別な存在だけど、そんな呼称で呼びたくはない。

 彼女に名前を呼んでもらえたらきっと幸せだ。だってあんなにも優しい存在に呼んでもらえるのだから。

「でもね、遊びにきていいって言ってくれたよ。しばらく帝都にいるからって。だからあたし、少しの間はどこにも憑かない。あの子のところに遊びに行く」

「そう。じゃあ、そのときにはこの子をつれていってあげて。新しい家族、あなたの妹よ」

 月乃は八つほどの少女の姿を持つ座敷童。実際の年齢は三百歳ほどであり、妖怪の中では若手に分類される。座敷童に限ってしまえば一番年下だ。

 そんな自分に妹ができるという。うれしさで顔を輝かせる。

 十二ほどの姿をしている母役が、二つほどの幼児をつれてきた。

「雪乃というの。まだ力が安定していないから、気をつけてあげてね」

「――うん!」

 彼女に会えてよかった。本質を失わなかったから、歪まなかったから。

 うれしいことが、もうあった。

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