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黎明のあやとりうた  作者: 緋水月人
1/7

東風に咲く出会い

2014年10月からpixivにあげている連載小説です。

明治大正あたりの日本を舞台のモデルとしています。

最初は恋愛要素が薄いですし、ものすごくシリアスです。きっとそのうち、恋愛要素が出てくる…はずです。

先は長いですが、お付き合いいただけると幸いです。



 こわいことがある

 のばした手に、気づいてさえもらえなかったら――




第一章 東風に咲く出会い



 ――大王(おおきみ)の問いに乙女答えたり。「我が力求められしとき――」


 異国の文化を取り入れて早幾年。日の本はいまだ変動の渦の中にある。老いも若きも文明開化をうたい、外国に追いつけ追い越せと躍起になっている。

 かつてあった武士という身分に変わったわけではないけれど、軍人と呼ばれる存在もまた、時代の波でもがくものの一つだった。

 舞台は陸軍本部。その廊下を五人の青年が歩いている。陸軍を学んだ仏蘭西に習った軍服は肋骨型と呼ばれる。濃紺絨で仕立てられ、九つのボタンが付いている。肩章の緋絨に、細い黄絨が三本入っていることから階級は准尉であるとうかがえる。

 この時代の日の本において、准尉という立場は微妙と言わざるを得ない。士官でも下士官でもない彼らは、士官に準じるものである場合と、少尉候補者である場合とがあるためだ。どちらも将校と同様の軍衣袴や軍装品を着用・佩用できるなど将校待遇がなされているも、その将来には隔たりがあった。

 幸か不幸か、肩章だけで相手がどちらの准尉であるかは判断できない。そのために問題になったこともない。結果、その複雑さには誰もが見て見ぬふりをした。――構っている余裕がないということもできるだろう。

 それ以上に気にかけねばならない大きな変化が、日の本を襲っている最中だから。

 急速な変化が、見て見ぬふりという態度が、大きな落とし穴を生むとしても。

「――近衛亘(このえ わたる)准尉、ならび他四名、参りました」

「――入れ」

 五人を呼び出した人物がいる部屋へとたどり着く。許可を待って順に入室した。

 部屋の主は悠然と腰かけて五人を迎える。彼の名は天地皇(あまち こう)。肩章は地質の緋絨よりもむしろ黄絨の面積が多く、黄色の布に三本の赤い線を引いたように見える。そして星章は一つ。それが示す階級は少佐。二十四、五と言った見た目の青年が就くにはいささか高い階級は、彼の立場が理由としてある。

 天地家は新制度において公爵位を授けられている。さらに現当主の祖母――皇にとっては曾祖母にあたる――は臣籍降嫁した内親王という生まれ。そして皇自身は現当主の四男だが、当代の東宮と年が近いために幼少期から傍近くにあることを許され、今もなお誼を結ぶ栄誉を賜っている。

 曾祖母ゆずりと賞賛されることの多い黒髪はやや長く、一つにまとめられていることが多い。細身だが脆弱さなどなく、その立ち居振る舞いには優美さと大胆さが共存している。社交界においてはそこにいるだけで人目を集められる稀有な存在の一人だ。

 あらゆる面で、立場が違う存在と言えるだろう。

 そのような存在に呼び出された五人の表情は緊張が強い。それでも礼を失することなく敬礼を取る――が、予想外のできごとに戸惑いが生じるのを止められなかった。

 五人のうち穏やかな顔立ちの青年と、おおらかさが感じられる青年ははっきりとその戸惑いを表情に出してしまっている。他の三名も、表情にこそ出していないが、内心は似たり寄ったりだろう。

 彼らが注目するのは着席している天地皇――ではなく、その前にたたずむ一人の少女。

 年のころは十三、四。京友禅と思われる振袖は若々しく、御所車の刺繍が少女のみずみずしさを活かしながらも品を保っている。背中のほぼすべてを覆う長さの黒髪は美しく、平安の御代であればそれだけで多くの男が歌を詠んだことだろう。ただし、もう少し長さが必要だが。その黒絹を鹿の子を施された絹が飾っている。色は桃色とやや幼さを感じさせるも、かえって「背伸びした少女」という印象で愛らしい。

 惜しまれるとすればその横顔か。入室した五人を見るために振り向いただろうそれは、緊張のためにか白く、表情もない。

 頬を淡く染めて笑みの一つも浮かべれば、それだけで。幼さを考慮してもなお見惚れてしまう美姫となるだろう。

 五人の戸惑いを知らないだろう少女。彼らを見る黒曜の瞳が不意に見開かれた。微かに揺れたそれは、しかしすぐに伏せられた。そして静かな挙動で正面――皇を見る。

 そんな少女の行動を――時間にしてごくわずか――知ってか知らずか。部屋の主は立ち上がり、五人を見据えた。

「近衛亘准尉、九条彪(くじょう ひょう)准尉。貴様たちは明日正午をもって少尉に任命する」

「――はっ」

「はっ」

「そして貴様たち二名と一条閃(いちじょう せん)准尉、二条頼(にじょう らい)准尉、鷹司佑(たかつかさ ゆう)准尉は同時刻をもって私の配下となり、特別班を作る」

 五人の声が重なる。

 返答を待ち、皇は礼を解かせた。続けて「特別班の役割だが――」と口を開く。怜悧な眼差しが動き、沈黙する少女を見た。

 少女は最初の位置から離れ、静かに目を伏せている。

「――今、帝都をにぎわせている『怪異』は、知っているな」

 紡がれたのは疑問ではなく断定。

 文明国をうたうべく異国の文化を取り入れ、新しい時代へと邁進する日の本。そんな彼らを嘲笑うような奇怪極まりない出来事が帝都を中心に起きている。

 川で魚が大量に死んだとか、墓地で死人が踊っているとか、誰それの家の前で火の玉が飛んでいたとか。

 流言飛語許さじと戒めても留まらぬのがうわさ。うわさをたどっても始まりは見つけられず、そうしているうちに新たな奇怪が生じるいたちごっこ。

 時間は解決してくれないと、誰が最初に気づいたか。

「そろそろ人命に関わりかねん。その前に対処したかったが、帝都に住む術者どもは帝のおわす地を守ること、邪気が帝都の外へ行かぬようにすることで限界という。うちに留めて、薄めることもできなければ悪化するのみというのにな。ゆえに、東宮は切り札を切る決断をなされた」

 切り札と言いながら少女を手招く。

 少女は物言いたげな眼差しで数拍ほど男を見つめる。しかし言葉としては何も言わず、大人しく最初の場所へと足を進めた。そうして今度は五人の青年たちに相対する。

「彼女の名は藤原淡紅(ふじわら とき)護国(ごこく)の巫女と呼ばれる、公には名を残さぬ者。今の日の本一の神職者だ」

「……」

 淡紅と呼ばれた少女は微かに口を開くも、やはり言葉は出ず。どこまでも静かな動きで五人に対して頭を下げた。

 沈黙が落ちる。

 どうしたものかと視線を交し合う五人。情報に追いつけなかったからではなく、おおむね処理できたからこそ。

 特別班となるのは構わない。上司が、東宮の覚えめでたい皇ならばなおのこと。しかし示された任務内容はおいそれと頷けるものでもない。

 拒否権がないとしても。

 沈黙の意味など十分に悟っているだろう皇は、淡紅の横に移動すると机に寄り掛かり、薄く笑った。行儀悪い姿勢だが、その行動にさえも品を感じさせてしまうのが天地皇という男なのである。

「発言を許可しよう、九条准尉」

 現時点の階級で呼ばれたのは、五人の中で一番小柄な青年。文明開化の象徴とされる散切り頭ほどではないが短い頭髪。皇とは別種の優美さを持つ容姿は端麗と評するのがふさわしい。しかし瞳に宿る光は強く、硬い。

 名指しされた以上は口を開くしかない。彪は苦さを飲みこんで言葉を紡いだ。

「恐れながら。明日より我々はそちらの巫女殿と怪異にあたれとのことですが……ただのうわさに過ぎないものではなく、事実だとお考えなのですか?」

「――問いはそれだけか。違うだろう、一条准尉」

 ついで矛先を向けられた青年は、彪という軍人とは対照的な雰囲気を持っている。黒茶の髪はやや長く、項でゆるくまとめられている。身なりは整っているがどこか軽い空気。二枚目という表現が似合う顔立ちと空気だった。

「ではお言葉に甘えまして。我々が少佐の指揮のもと奇妙なうわさをたたくのはともかくも。そちらの神職者というお嬢さんが、こんな軍人と行動を共にしてよろしいんですか? よからぬうわさがたったり、うっかり危ない目にあったりしてしまうでしょう」

 命令とあらば守るように努めよう。それは義務だから。しかし言葉から守れるかと問われれば、否と答えねば嘘になる。

「他にはどうだ、鷹司准尉」

「あ……その、神職者ということですが、やはり女性が荒事に携わると言うのは……と、思いますが」

 三人目にまで口を開かせると、皇は笑った。腕を組み、真正面から五人を見据えた。

「貴様らの中で対人格闘がもっとも優れているのは鷹司准尉だったか。貴様からみれば、淡紅など赤子も同然だろう。要人警護という点では二条准尉に軍配があがったか」

 言葉を一度切り、短く笑う。

「だがそれは人間相手の話だ。貴様らに妖怪の相手ができるか? できないだろう。できもしないことをやれと言うほど、私は人でなしではない」

 調伏となるか浄化となるかは別にして、妖怪を相手取ることが出来て一番実力のある者――それが護国の巫女だと皇は言う。

 ただし、護国の巫女は帝都から離れたところで暮らしている。知識はあっても帝都の地理や人のやり取りには明るくない。佑が指摘した通りにどこまでも女でしかなく、身体能力は非力と言えるだろう。

 それを補うために選ばれたのが五人だと告げる。

「事実と考えているのか聞いたな、九条准尉。考える考えないの問題ではない、事実だ。異国の文化を取り入れようが文明国をうたおうが、奴らは消えない。今起きている奇怪の、すべての原因が奴らと言うつもりはない。だが大半はそうだ」

 人ならざるもの、妖怪、化け物――呼び方はどうでもいい。それらは昔からあるし、いる。そして人ならざるものに対処できるものは、昔から限られていた。

 日の本に昔からあるものが時代遅れと嘲られても、否定されても。それでもそれは変わらない事実。

 陰陽師、修験者、僧侶、神官、巫女――様々な呼び方をされる彼らだけが、対処できる。

 彼らは細くなりながらも確かに血をつないできた。そしてこれからも血をつないでいくだろう。

「政府で抱える術者どもでどうにかできるならばそうする。一条准尉の指摘ではないが、淡紅が余計なことに煩わされるのは私も本意ではないからな。それでもなお淡紅を召喚したのは、この娘にしかなせないことだからだ」

 皇の言葉を、少女は目を閉じて聞いている。

 どこをどう見てもたおやかでか弱く、まだ幼ささえ感じる少女。その少女しか、帝都に迫る何かに対応できないと言う。『護国の巫女』――それがどれほどの存在なのか、知識がないので想像さえもできない。

「もう一度言う。奇怪の相手などできない貴様らを私の下に置くのは、この帝都で淡紅が動きやすいようにするためだ。世の目をごまかすためでもある。世俗、そして人間からぐらい、守ってみせろ」

「たち――しょ、少佐」

 傲慢ささえ感じる皇の言葉を遮って、初めて少女が口を開いた。どこか呼び方がぎこちないのは、男がその傲慢さを許されてしまう立場だからなのか。

 けれどもぬばたまの瞳はまっすぐと皇を貫き、鈴のような声音には諌める響きが確かにあった。

 無謀、おそれ知らず。

 天地皇という男の立場を理解する五人の脳裏には、そんな言葉が思わず浮かんだ。しかし皇は機嫌を害することなく、むしろ楽しそうに少女の声を受け止めている。

 五人へ、留めの言葉を紡ぐ。

「私の指揮下に班を作ることも、その構成員も、東宮がお決めになられた」

 東宮――日嗣の皇子の決定に、一介の軍人が否やを唱えられるはずもなく。そもそも公的な人事ももう決定されていてあとは公示を待つばかりの状態で、できることもありはしない。

 突然ゆえの戸惑い、怪異を処理しろという命令への迷い、護国の巫女という存在へ疑念――それらを「持つことだけ」許可されたのは、寛大なのだろう。

 すぐに最初の命令が非公式でくだされたので、本当に許されたのかは疑問だが。


     *           *


『ちょうどいい案件がある。淡紅が本物の術者であること、怪異が事実であることをその目に焼き付けてこい』

 示された命令は少女も知らなかったらしく、聞き返していた。『なぜそんなに急ぐのか』と疑問さえぶつけている。それに対する返答は『眉唾と嘲笑(わら)うものは多い。黙らせるために必要な根回しだ』というもので。

 事実を目に焼き付けるべきは、五人の軍人だけではないらしい。

 当の五人も少女も、暗に示された言葉を正しく理解した。五人は何も表現しなかったものの、少女は視線を落とし、諦めの溜息を一つこぼした。

 それから四半時もしないうちに六人は馬車に乗り込んでいた。乗合馬車ほどではないがそれなりに広い馬車は、少女のために皇が用意したものらしい。

 少女一人を案内するためには大きすぎる馬車の意味。つまるところ、最初から顔合わせを済ませたら命令を出すつもりだったのだろう。御者の男が青年たちを見ても眉ひとつ動かさず、次の行先を確認したことが推測を裏付ける。

 男は職務に忠実に馬車を操る。向かうはある華族の屋敷。伝統と爵位はあるが、財については先行きが怪しい一族。その家を、いかなる怪異が襲っていると言うのか。

「――とりあえず、あらためて紹介させてもらうね」

 口火を切ったのは昇級が決まった亘だった。

 出会って間もなく、華族ではないにしても大切に育てられただろう少女が軍人と相対して、すぐに雑談できるわけもない。男女七つにして席をおなじゅうせず――それがこの時代の常識なのでなおのこと。

 しかしながら沈黙が落ちるに任せていても、よろしくないと判断してのことだ。

 護衛を命じられたので、護衛対象である少女は進行方向を向き三人掛けの真ん中に座らせた。それ以外は男が座るので余計に息苦しいが、こればかりは容赦を願うしかない。

 その左側を亘、右側は頼が座った。少女の向かいは佑、亘の前には閃が座り、頼の前には彪が座った。

 自分の膝の上に置いた巾着か顔を上げ、発言者を見る。相変わらず表情に乏しいが、慣れない人間に囲まれていることを思えば無理もないだろう。

「俺は近衛亘。それと向こう側の愛想なしが九条彪。少佐の言葉を借りるなら、華族に関する面倒事はおおむね引き受けられると思うよ。――だから、少尉になったのかもしれないけど」

 近衛家と九条家の歴史は古く、現制度では侯爵位にある。前者は武家の流れを持ち、後者は公家の系譜である。歴史も財も確かな両家は、社交界の影響力も大きい。

 亘はその家の四男であり、彪は次男だ。

「……先代は、このことを見越して昨日、俺を分家に行かせたのかな」

「――っ……」

「どういう意味だ、亘?」

 黒曜石が見開かれる。動揺が響いたのか巾着が大きく揺れた。紐に手首を通していたので膝からは落ちなかったが。

 訝る悪友たちに、わざと軽く青年は言った。

「いとこ殿が狐に取り憑かれていたんだよね。昨日、先代の使いで行って初めて知ったんだけど。そこにこちらの――淡紅姫が来てね。見事に祓う様を見させてもらってるんだよね。だから、初めましてではないんだよね、厳密には」

 付け加えると、皇の言葉が事実であるということも理解している。その目で見てしまった以上、否定する方がばからしい。

「きつねぇ?」

 頓狂な声をあげたのは佑。少女――淡紅はというと何度か瞬いて、そして。

「……口にされるとは、思いませんでした」

「何を? あ、狐のこと?」

「隠したいことではございませんか。地位のある方ならばなおのこと」

 憑物は忌まれることが多い。術者が使う場合とて畏怖がついて回り、術者以外のものではあれば村八分になってもおかしくはない。むしろ村八分になれればまだ救いがあるのかもしれない。華族ならばなおさらに。

「近衛家の目線で言えばね。でも俺たちがこれから当たる任務を思うとね。きっと一つや二つじゃないんだろうし」

「――なるほど。動揺が少ないのは、前もって歴史の裏側の事実に触れていたからか」

「偶然――か、先代が仕組んだ必然かは知らないけどね」

「これで巫女姫が一瞬だけ動揺した理由も理解できたがな。言葉を交わしたかは知らないが、見覚えのある人間がいたらそれは驚くな」

 亘の様子に納得の声を挙げた彪に視線を向けた少女。話し手を見ようとするあたり、淡紅の礼儀正しさがうかがえる。たとえ目線が動く程度であり、見るのが胸元であっても。

 彪に続いた閃の言葉でさらにその目が見開かれた。首が動くのに合わせ、すぐに亘は自分の目の前を指した。

「こいつは一条閃。一条家は伯爵」

「私は妾腹なので、家の力は期待しないでくれ」

 さらりと伝えられた言葉は内容と裏腹の軽い響きだった。四人にしてみれば既知のことらしく、苦笑いすら浮かんでいない。

「その代わりというのも変だけど、妙な情報網は持っているよ」

「なんならご案内するのもやぶさかじゃないが」

「やめようね、閃」

 口の端を釣り上げて笑った青年をたしなめたのは、淡紅の右側に座る頼だった。五人の中で彼が一番穏やかな空気を持っている。

 髪の色は閃よりも茶が強い黒茶。長さは彪と同じくらいだが、襟足は頼の方が長いかもしれない。彼は苦笑を浮かべながら淡紅を見る。醸し出す空気も柔らかく、皇が言うように要人警護に秀でていると、にわかには信じられない。

「二条頼です、よろしく。家は伯爵位だけど、あまり役に立てないかな」

「でも政商との繋がりはかなりのもんだよな」

 笑いながら言ったのは淡紅の目の前に座る佑。背丈は亘に負けるが、体格は一番しっかりしている。黒髪は短く、どこか荒く切り込まれた印象がある。彼は人好きのする笑顔で自己紹介した。

「俺は鷹司佑。本家は頼や閃と同じ伯爵だけど、俺は分家なんだ。あー……こういう口調はまずいか」

「……いえ、どうぞ、楽に」

「助かる。まあ、力仕事とかは任せてくれ」

 社交界では眉を顰められるだろう紹介。しかし命令で知り合った相手であり、どうも社交的な付き合いより実務的な付き合いが求められるらしい。

 五人が五人そう思ったかは不明だが、誰もが自分にできることを淡紅に告げていた。告げられた少女もまたそのことについては何も言わず、頭を下げることで応じた。

 馬車の窓から見える景色はまだ動いている。

「ところで淡紅姫? 昨日のふたりは?」

「ふたり?」

「そう。昨日、ふたりの少年といっしょにいたよね。背は……淡紅姫と同じくらいの子と、少し小さい子だったかな。あのふたりも術者ってやつなのかな」

 末尾に反応して彪の目が眇められた。沈黙を守り、会話が続くのを待つ。

 彪の反応に気づいた様子もなく、淡紅は軽く首を傾げた。

「あのふたりは私の幼なじみであり、私の従者です」

「従者?」

「――はい。私の郷でともに育った幼なじみであり、私を助けるものです。昨日のふたりは私の剣と盾。他に私の右筆と医師もおります」

 かすかに伏せられた目。しかしそこの宿る光は優しく、かすかにだが笑みも浮かんでいる。

 ようやく、初めて見た年齢相応の表情かもしれない。

「しばらく帝都に滞在しますし、本日は私ひとりで来るようにとのおおせでしたので。家の掃除を任せています」

「……一応聞くけど、こどもだけってわけじゃないよな?」

 佑がなんとも言い難い表情で紡いだ言葉への返答には、少しだけ時間がかかった。

「……どれほど怪異にかかりきりになるかわかりませんので。留守を任せる者として、郷の大人を連れてきていますが」

「ああ、それならよかった。いくらなんでも、こどもだけで暮らすなんて危ないものね」

「……」

 頼からも安堵の声が漏れる。それを受ける少女の表情は疑問に濡れていて、言葉の意図を掴み切れてはいないようだ。

 佑と頼らしい気づかいを察した亘は、こぼれそうになる苦笑を飲みこんだ。横目で探れば閃も似たような表情をしている。ただし呆れも含んでいるが。

 ならばと残る一人を見れば、社交界で女性たちに溜息をこぼさせる顔は、無機質に巫女を見ている。

「――巫女殿」

「はい」

 警戒ではない。冷たさもない。詰問でもない。

 ただひたすらに静かな声が『護衛対象』を呼ぶ。応える声も、高さが違うだけで静かさは同じだった。

「君の従者とやらも術者なのか」

「……異能を持つもの、人ならざる力を宿すものはおります。私の郷では、珍しいことでもないのですが」

「君は、帝や宮を謀ってはいないな」

 疑念ではない、確認。否定を許さない音。

 彪の言葉で馬車内の空気が変わるようなことはない。誰も、警戒を強めてはいない。だからといってとっさの反応ができないということもない。誰もが自然体のままで次の音に備える。

 狭い馬車だが、非力な少女を抑えることはたやすい。それを目的とした並びでは決してないのだけれど。

 その状況をどのように受け止めているのか。変わらない横顔からは何も読み取れない。そしてやはり真意の読みにくい声音で、護国の巫女は答える。

「帝も春宮(はるみや)も私の主ではありませんので忠義という言葉は当てはまりません。ですが、護国の巫女と天照(あまてらす)末裔(すえ)の間にある古の約束を違えることはありません。言霊にかけて、申し上げられます」

「古の約束?」

 馬車が止まる。

 御者台の男が動く気配が伝わる。

「――我が郷の存在を天照の末裔は保証する。天照の末裔の望みあれば、護国の巫女はその力の限り応える。そういう、約束です」

 だから当代の護国の巫女――藤原淡紅はここにいる。


     *           *


 馬車から降りると、いらいらした様子の男が目に入った。壮年と思われる、髭を生やしたその男は今回訪ねた槻川家の主人だ。

 彼はまず青年五人を視界に入れると顔をしかめた。

「近衛の四男まで天地の傘下に入ったか」

 苦々しさを隠さない声音は潜められてもおらず、軍人たちの耳にたやすく届く。不遜ととっても差し支えないその言葉だが、あえて誰もなにも言わなかった。

「今日――というよりもつい先刻、護国の巫女の護衛を命じられまして。まだなにもわかっていない状態です。どうぞお手柔らかに」

「……ふん。それで、その巫女は」

「――ご当主」

 静かで幼さを残した声音は、想像さえしなかった力を持っていた。

 華族の子息として槻川と話していた亘は思わず振り向く。彼だけでなく、他の四人も驚愕を浮かべていた。男に至っては唖然としている。

 声の主――淡紅は彼らではなく、屋敷の奥を見るように視線を逸らしている。そのため男たちの注目には気づいていないようだった。

「……あなたの家に降りかかった怪異を払うことを、あなたは天地家の四男――少佐を通じて護国の巫女に願った」

 語調が強いわけではない。威圧的でもない。早すぎず、遅すぎず。鈴の音を思わせる幼さを残した声は、感情の揺らぎもなく静かに言葉を紡ぐ。

 それにも関わらず、男たちから言葉を奪い、男たちの視線を集めることに成功している。

「つまり、あなたは私があなたの土地で力を使うことを許した。そうですね?」

「……あ」

 少女の手が動く。髪を飾っていた絹をほどいた。長い黒髪が風に揺れる。巾着に髪飾りをしまい、替わりに簡素な髪紐を取り出す。

 うなじで髪を一つにまとめると、今度は布を取り出してたすき掛けを始める。振袖であるために長い袖を手早くまとめ、たすきに巻き込まれた髪を払う。

 そうして初めて、護国の巫女は槻川を見た。

「護国の巫女としての力を、あなたの土地で振るいます。よろしいですね」

「あ……ああ……」

 か弱い少女に気圧される男を無様と笑うことはできなかった。それほどの存在感を五人もまた感じていたから。

 支配者ではない。君臨者でもない。しかしその言葉を無視することはできない、確かな存在感。

 幼さを残していようとも、どれほどに華奢であっても、自分たちとは違う存在なのだと、このとき確かに感じた。

 ぎこちない頷きをその目で認めると、少女は足を踏み出した。そこからは槻川の家の土地となる。

「――怪異の詳細をお伺いしたいところですが、あちらに妖怪がいます。よくないことをしているようですので、一時しのぎにしかなりませんが祓ってまいります。そのあとでお話を伺わせていただきます」

「な――!?」

 その日の予定を述べるかのように淡々と告げられたため、とっさにその衝撃を感じることができなかった。言葉の意味を飲み込んだときにはすでに少女は走り出していて。

 早く走れない着物であることを感謝しつつ、亘は男に問う。

「あちらにはなにが?」

「倉と、それに面して娘の部屋があるところだと思うが」

 淡紅がどこを目指すか言わなかったために行き先はあいまい。しかし家の土地の中であれば早々に見失うこともない。

 五人は視線を交わしあう。

「俺がいく!」

 淡紅を追ったのは佑。頼と彪は互いと男を交互に見た。そして彪が佑に続く。

 面識のある亘と、要人警護に長ける頼が槻川に付いたという事実があれば面倒になりにくい。そう判断したための分担だった。二人は男を屋敷の中へと促す。

 残る閃はというと、始めこそ亘たち同様に屋敷の中へと入った。しかし無言で方向を変える。末端の使用人から情報を集めるためだ。

 大股で走れない少女と軍人。どちらが早いかなど火を見るよりも明らかで。二人はすぐに追いついた。

「どこに向かう?」

「――あの倉です。あの中に妖怪と……おそらくですが人もいます」

 目的の場所にもすぐ着いた。

 倉の戸に佑が手を伸ばす。それを少女が止めた。

「結界を破ります。下がってください」

「け――」

「結界を破れば、(ぬし)もこちらを警戒するでしょう。どのような妖怪かわからないので、どのような攻撃がくるかもわかりません。お気をつけて」

 情報の少なさに佑は戸惑い、彪は柳眉を潜めた。青年二人は二歩下がる。彪はサーベルを抜いた。

 淡紅はというと、戸の前に立って大きく柏手を打った。

 高らかな音が二回鳴ると、空気が変わった。より正確に記すならば空気が軽くなったことで、それまでの空気が重かったことに佑は気づいた。

(いつから? つか、手を打っただけで?)

 何かのおりに神社に行くことはある。そのときに柏手を打ちもする。しかしこのような変化を感じたことはなかった。

 このときになってようやく気づく。これまでの考えが通用しないような出来事に、足を踏み入れているという事実。

「ひふみよいつむゆななやここのたり……」

 耳慣れぬ音が届く。

「高き尊き大神の恩頼(みたまのふゆ)賜りて、我は障りを神逐(かんやら)う」

 思わず息をのむ。彪の怜悧な横顔にも緊張の色が。

 声とともに左手が掲げられ、まっすぐ下ろされた。

 大きな動きはそれだけ。ただそれだけなのに、何かが割れたような感覚に見舞われた。

 戸惑いも疑問も何もかも頭を軽く振って横におく。分からないことだらけでも、今するべきことは辛うじて分かった。

 倉の戸に触れようとする淡紅の手を制し、佑は自分が取手に触れた。彪が構え直すのを確認し、力を込める。

「! ま――」

 動けばあとは早い。すぐに人一人が通れそうな空間が開いた。その、隙間から。

「な、に!?」

 扉が盾になった佑はともかく、彪がとっさに反応できたのは偶然に近い。少女の止める声など耳に入っていなかったのだから。

 とびのいた彪は、何が自分を襲ったのか分からない。隙間から白い塊が飛んでくるのが見え、考えるよりも先に下がった。見れば自分が立ってた場所は石段だと言うのに抉られている。

「……ま、……なぁ……」

 倉の中からくぐもった声が響く。

 いるのは「何」だ?

「――戸を開けてください!」

「! くっそ!!」

「其は荒ぶもの(にぎ)ぶもの。穢れごと忌みごと。我が前の不浄なるささがにを焼きつくせ」

 次の行動に悩んだ佑を動かした巫女の言葉。彼女はより開いた隙間の前に立ち、聞き慣れぬ祝詞とともに両の手を突き出した。

 直後、赤い炎が生まれて倉の中を走る。

 思わず思い切り戸を開け放った佑。彼は己の目を疑った。

 赤い炎はまるで意志をもっているように走る。壁を嘗めたそれは、置かれているさまざまな物に害を与えることもなかった。

「な――」

「佑! 奥にいる!」

 のんびりと驚く暇などない。彪が一喝とともに走り出した。

 倉の中をかけ巡った炎はその勢いを減らし、いくつかの火の玉へと形を変える。薄暗い場所はそれによって照らされた。明るくなった倉の中、確かに二人分の影がある。

 一人は佑たちと同年代と思われる男。炎の明かりが眩しいのか手で顔を覆っている。

 もう一人は彼らより一つ二つ若そうな少女。おそらく槻川の娘だろう。彼女は磔にされたような姿勢で空中に浮いていた。意識はないらしい。

 炎の揺らめきが、娘の手首から伸びる糸を照らした。

「いと……?」

 そういえば先ほど、淡紅も口にしていた気がする。「不浄なるささがに」と。「ささがに」が「いと」にかかる枕詞であることぐらいは佑も知っている。

 気づいているのかいないのか、男と距離をつめる彪。その、右上に――。

「前に飛べ!!」

 警告は怒鳴り声だった。さすがと言うべきか、見事な反応で彪の体が動く。

 勢いで止まることも戻ることもできないことを理解した指示に従い、大きく前に飛ぶ。サーベルが邪魔でバランスが崩れて膝を着くのが見えた。その後ろを、先ほどの白い塊が襲った。

 標的を失った塊は床を抉る。すぐに跳ね上がって彪を貫かんと動く。

 反射だろう。彪はサーベルで白い物をないだ。それは鋭い先端を持つ五つの槍のように形を変える。

「くっ……!」

 二つはどうにか払った。三つ目が彪の獲物に巻きつく。焦りを覚えるよりも先にヒビが入り、あっと言う間に折られた。

 五つからさらに細くなり数を増やしたそれが青年に襲いかかる。

 それを視界の端に捉えてしまい、思わず佑は足を止めた。男まであと数歩というところなのに。

「っの、ばか……!」

 彪の声が耳に届いた気がした。失態に気づき、視線を戻す。男は爛々とした目で佑を見る。

「じゃま、するなぁ……!」

 そのとき、凛とした声が響いた。

「――しなとのかぜ、禍事を祓い給え!」

 直後、目を開けていられないほどの突風が彪と佑の周りに吹き荒れた。思わず目を閉じる。青年の耳に何かが切れる音が届いた。

「な……」

 どうにか目を開けると、ばらばらになった糸が落ちていくのが分かる。そして磔にされていた娘の体も床に。

 思わず巫女を探す。彼女は倉の中央に立ち、男を見据えている。深い呼吸を二度行い、柏手を同じ回数打つ。

「――其は荒ぶもの和ぶもの。駆けるもの――!?」

 奇妙な祝詞を止めたのは再び現れた糸の槍だった。槍に襲われた少女は辛くも身をよじったが、右袖が犠牲になった。さらに姿勢を崩してその場に倒れる。

 その隙を突いて男が動いた。槻川の娘に手を伸ばすが、すでに動いていた佑がそれを払う。そのまま男を捕らえようとしたが糸が邪魔をした。

 その隙に男は走って倉から逃げ出した。

「……まずいな、逃がしちまった」

「娘の身を守ったとはいえ、誉められた成果じゃないな。――佑、サーベル貸せ」

「あ? ああ、折られたもんな。なんだこれ、糸だよな?」

「触ってみたが、蜘蛛の糸に似ている――」

「蜘蛛の糸ですよ。ただし、妖怪の蜘蛛ですが」

 いつの間にか二人の近くに来ていた淡紅が正解を伝える。佑と彪は驚いて少女を見た。同時に「ささがに」が「蜘蛛の糸」を示すことも思い出した。

 淡紅は倉の床に横たわる少女に手をかざす。

「ひふみよいつむゆななやここのたり。ふるべゆらゆら、ゆらゆらとふるべ」

 言葉とともに手を揺らす。最後の一音を紡ぐと何かを握るように拳を作った。さらに手首にかけたままの巾着から一枚の紙を取り出す。それは人をかたどっている――形代だった。

 紙に軽く息を吹きかけ、眠る槻川の娘の額に触れさせる。

「その身に降り懸かりし穢れ、禍事、みなみな引き受けん。こはなが形代なり」

 用は済んだのか、額から形代を離して立ち上がる。さらに懐紙を取り出すと形代を包んで懐にしまう。

「妖怪に捕らわれたことによる穢れは払いました。すこし休ませれば障りはありません」

「え……今ので、か?」

「はい。それに……正確に申し上げるならば、この方を捕らえたのは妖怪に力を借りた人物ですので」

「――あの男か」

「あいつはなんだ? この家の使用人か?」

「そのあたりは亘たちが聞いていることを期待したいな。とりあえず彼女を連れていくとしよう。頼んだぞ、佑」

「へいへい。っと、姫さん。けがはないか?」

 気を失った人間を軽々と抱え、危なげなく歩き出す。一歩踏み出したところで思い出しように振り返った。

 少女は奇妙な間をおいてから答えた。

「……は、い。袖は裂けましたが、あとは別に」

「けが、ないんだな? 転んでたが、足もくじいてないな?」

「……はい」

「そっか。ならいい」

 からりと笑って歩き出す佑。一つため息をこぼして続く彪。二人は、淡紅がどんな表情をしているか見なかった。

 二人にやや遅れて歩き出す少女。倉を出ると、その歩みはすぐに止まった。

「……」

 視線を転じると竹林が見える。そこもこの家の土地らしい。


     *           *


 日の光を遮るように広がる竹林。一人佇む少女。

 その視線は地面に向けられている。

 何かを見透かそうとするかのように凝視し、不意に閉じられた。

「……分かりました」

 つぶやきは風にさらわれる。

 少女――巫女は踵を返して歩き出す。その足取りに迷いはない。

 小さな花が寂しげに揺れていた。


     *           *


 娘が妖怪に襲われていたこと。その情報は当主を動転させるのに十分だった。彪のサーベルが折られていたことも、男の恐怖を煽ったらしい。

 おかげで関与している人間を取り逃がしたことで責められることもなかった。文字通り「嫁入り前」の娘が無事であっただけで、男は安心できたらしい。

 男は妖怪を祓ってほしいと亘に繰り返し頼み込む。現場を見ていない男にとっては、「護国の巫女」という冠があろうとも所詮はただの小娘で。軍人のほうがよほど頼りになるのだろう。

 護国の巫女である淡紅は特に気にした様子もなく、聞きたいことがあると男に言った。

「最近、この家に関係のある人で亡くなった人はいらっしゃいますか?」

「それがなんの関係があると言うんだ?」

「……些細と思われるようなことが、思わぬ因果に結びつくこともございます。それを正しく読み解かなければなりません。――特に、望まずして妖怪と縁を結んでしまったときは」

 意図していようといなかろうと、ただそこにいただけだろうと、それがきっかけとなることもある。人ならざるものとの関わりでは特に。

 ただ石を投げただけ、ただ笑いかけただけ。それだけで祟られもするし加護を受けたりもする。

 伏し目がちに語られた内容に男は息をのむ。慌てた調子で若い女中が亡くなったと話す。

「その方のご家族は?」

「帝都から離れたところで農家をしている。特に怠けている様子もなかったからな。働いていた間の給金は、遺骨を引き取りにきたときに渡してやった」

「……そうですか。それならば問題ありません」

 下男が一人行方しれずであることも確認し、少女は話を終えた。

 事態の収拾をつけるまでと一室を借りることができた。五人の青年と一人の少女を一室に収めるあたり、早く終わらせたい気持ちが見える。

「いなくなった下男が、二人の見た男と見て間違いないだろうね」

「佐貴子嬢を襲った理由は?」

 一般的に考えるならば身分違いの恋の果て、思いあまってというところだが。

 その一般論を閃が否定する。

 彼は使用人たちから巧みにこの家の事情を聞き出していた。

「この家の一人娘である佐貴子嬢には許嫁がいる。相手は成金の次男で、まあよくある話だ」

 格式がないことで侮られる新興の家。金がないことで見下される古い家。互いにないものを求めて両者が婚姻を結ぶのはよくある話。

「ところがこの次男が心奪われたのは、懸命に働く素朴な奉公娘のおよう。家の決定に逆らえないくせに、何かと娘に贈り物をする半端者だ」

 佐貴子は控えめに言って気が強い。気位の高さも手伝い、その事態を黙って見過ごせるはずもなく。奉公人風情がとおようにきつく当たるのはこれまたよくある話。

 おようが亡くなるきっかけというのも、雨上がりの竹林から花を持ってくるよう命じられたことにあるらしい。運悪く足を滑らせ、頭部を強く打ちつけてしまったのだと。これにはさすがの佐貴子も衝撃を受け、しばらくはろくに食事ができなかったらしい。

「残された家族に給金をきちんと渡してほしいと頼んだのはお嬢様らしい。さすがに良心がとがめたんだろう」

 では件の下男はというと。

 下男もまた亡くなったおように想いを寄せていたらしい。おようが亡くなったときはひどくふさぎ込み、ある日気づいたら姿を消していた。

 家を怪異が襲うようになったのはそれからしばらくしてのことだという。

「おようさんが亡くなった悲しみに妖怪がつけこんだ――そういうことか」

「……おおむねはあっています。ですが、足りないところもあります」

 佑が口にした推論に対して、控え目に口を挟んだ少女に視線が集まる。淡紅は居心地悪そうに身じろぎする。

 実は軍人たちを代表して亘が淡紅に注意している。曰く、勝手に行動しないでほしいと。槻川の家に着いた直後もそうだが、倉の一件を片付けて槻川から話を聞いた後もふらりと姿を消したのだ。幸いすぐに見つけたものの、護衛を任じられている側としてはありがたくない行動である。

 護衛される身としての自覚を持ち、最低でも一人を同行させるようにと。

 少女は戸惑って考えたあとに謝罪してきた。

『申し訳ありません。郷を出ることはほとんどなく、郷では護衛と呼ばれるような方などいなかったので』

『従者がいるのに?』

『私の幼なじみは確かに私の従者ですが、常に付き従うわけではありません。有事に私を助ける力と役目を持っている存在ということです』

 つまるところ、大切に育てられている様子はあるが、常に誰かが付き従うような生活はしていなかったらしい。それならばまあ、突然つけられた護衛の扱いを知らなくても仕方ないのだろう。

 だがそれは淡紅の事情である。残念ながら軍人たちの事情ではない。

「足りないところ?」

「……先ほど、竹林に行ってまいりました。おようさんが亡くなられた場所に」

 言葉に間が生じたのは、単独行動中のことを話すからなのか否か。

「亡くなった場所って……どうしてわかったの?」

「……強い想いが残っていましたので」

 しばし目を伏せる。すぐに開かれたそこに悲嘆の色はなく、静かな光が宿っていた。

「黄昏にかかる前に終わらせます」


     *           *


 日が傾き始めた刻限。徐々に薄暗くなる竹林。

 まだ珍しい洋装に身を包んだ娘がおぼつかない足取りで歩いている。その足はある場所で止まった。そこは先日、槻川家の奉公人が亡くなった場所。目に見える痕跡はないけれど。

「……」

「――おまえの、せいで……!」

「……っ!!」

 乱暴な声と足音が届いたとき、すでにそれは背後に迫っていた。

 声の主――男は、勢いよく娘に近づいて手の中の刃物を思いっきり突き刺した。声もなく崩れる娘。

「お前のせいだ、おまえの――っ!?」

 うわごとが止まる。虚ろな目が驚愕に見開かれた。

 確かに刃物で刺したはずの娘――佐貴子がいない。地面には一枚の紙が落ちていた。紙は人の形をしていて「つきかわさきこ」と書かれている。

「なに……っ!?」

「――っと、暴れないでね」

 罠と気づいたときには遅かった。視界が回り、地面に組み伏せられていた。刃物も手の届かない位置へ投げられる。低くなった目線でも、それを拾う手を見ることはできた。

「さすが頼。あいかわらずの早業」

「軽口はやめろ」

「――っ、じゃまするな! これは、おようの、おようの望みなんだ!!」

 必死でもがくが相手は軍人。まったく効果がない。

 だが諦めるわけにはいかない。これは無念の死を遂げた娘の願いなのだから。

「おようが言ったんだ! 俺に、恨みを、晴らしてくれと!」

「――いいえ。おようさんは誰も恨んでいませんよ」

 声の大きさだけを言えば男よりもずっと小さくて細いのに、なぜか耳に届く声。土の感触を不快に思いながらどうにか首を動かす。

 声の主には見覚えがあった。昼間、せっかく佐貴子を捉えたのに邪魔をした娘だ。身に纏う京友禅の片袖が裂けているのは、妖怪へと身を落としたおようが彼を助けるためにしたことだ。

「何も知らないくせに勝手なことを言うな! おようは俺のそばで俺に言ったんだ! 恨めしいと、悔しいと!! そうだろ、およう!!」

 いつもならばすぐに応えてくれる声が聞こえない。訝りの声を上げようとしたそのとき。

「――縛! ……見つけましたよ、絡新婦(じょろうぐも)

 娘が手を振り、ある場所を見据える。男の耳に悲痛な叫びが届いた。

「やめろ! お前までおようを苦しめる気か! 許さないからな!! おようは――」

「あれがおようさんの姿をしているのは、おようさんの顔を喰らったからですよ」

「――、――え?」

「頼」

「わかってる」

 銃を構えた軍人が誰かの名を呼んだ。それは男を押さえている男の名だったらしい。

 呆然としている男の動きを封じたまま、姿勢だけが変えられる。彼の眼に、見えないなにかで動きを封じられているおようの姿が見える。

 おようだ。どこからどう見ても、およう以外の何物でもない。たとえ蜘蛛の妖怪に身を落としていても――。

「かけまくも畏き――」

 その場に響く娘の声。

 静かに言葉が結ばれ、柏手が二回打たれた。直後、鋭い痛みが目に走る。思わずつぶって、恐る恐る開ける。

 その目に、映ったのは――。


「おようが、ふたり……?」


 先ほどと同じ位置にいるおよう。そして娘の横にもおようがいた。なぜか娘の横にいるおようの方が悲しそうだ。

「……なんだ、これ……、それに、もう一人のおようはなんでそんな……」

「おようさんの足元を見てください」

「え?」

 思わず言葉に従った。それを見て、目を疑う。

 なぜかおようの足には縄が絡みついていて、それは彼の胸から伸びている。思わず縄を掴もうとするけれど手は動かない。身をよじろうとしてもやはり無理だ。

「前もって聞かされていても驚く光景だな」

 軍人の一人が何かつぶやくが耳に入らない。

「はなせ、なんだよ、これ。なんなんだよ!」

「……強すぎる想いはときに呪縛にもなりうるそうです」

「は――?」

「……おようさんは、疲れていた」

 それは、この地を離れられないおようの魂から、淡紅が聞いた事実。


『疲れてたんです。そりゃ、男の人に好かれていい気持ちになったこともありました。でも、お嬢様のお怒りを買ってしまって……。だから贈り物をお断りしても聞いてくれなくて……』

 元々は家のためを思って奉公に出た娘。身にあまる恋情は重荷となるだけだった。

『痛かったけど、でも、これで終わるって、思っちゃったんです』

 故郷には帰れない。でもこれで終わる、楽になる、と。そのことで地獄に落とされるとしても、人の思いの渦に巻き込まれる方が辛かった。

『終わると思ったのに、なのに、離れられないんです。この縄が外れないんです。これが、あたしの罪なんでしょうか。死んでもなお、あたしはここにいなきゃいけないんでしょうか』


 おようの魂の嘆きを聞いてすべてが分かった。

 おようは誰も恨んでいなかった。男がおようを想っていたのは事実だろう。だがおようが死んだことによる男の嘆きは重すぎた。おようの魂を縛るほどに。その想いに絡新婦がつけこんだ。

 火葬が行われるようになったのはこの数年のことで。用意が整うのに時間を要した。その隙間を縫って、ご丁寧におようの顔を喰らって。

「……恨んで、いない……?」

「慈悲と呼ばれるものではありませんが。おようさんが誰も恨んでいないのは事実です」

 男の身体から力が抜ける。

 それに気づいた頼が閃を見る。閃は用意していた縄で男の腕を縛る。幸か不幸か佐貴子に怪我はなく、妖怪の影響もないらしい。したがって男を捕える理由はない。

 だがある意味で残酷な真実に自棄を起こされても困る。それを防ぐための処置だ。

「おれ、は……じゃあ、どうしたら……?」

「――花を」

「――?」

「花を一輪添えて、きちんと向き合うことです」

 不思議な力で真実を見せた少女は、言葉とともに縄に手を伸ばした。おようと男をつなぐ、あってはならない縄。

「――よくない縁は絶ちます。そうしなければ二人ともどこにもいけませんから」

 そうしてまた耳慣れない祝詞が紡がれた。

 縄は、まるでか弱い糸のようにたやすく切れて消えた。少ししておようの姿も。

 男の目から涙があふれる。悲しいのか、悔しいのか、恨めしいのか。そのどれも違うようで、どれもが正しいように思う。おようの気持ちだと思っていたのは、実のところすべて男の気持ちだった。

 男は静かに泣き続けた。

 頼は他の四人と視線のみで確認し、男から手を放した。それでも警戒を解けないのは、もう一つの元凶が目の前にいるからだ。

 妖怪の相手なんてできないけれど、警戒せずにはいられない。

「……むごいことをするねぇ……術者のお嬢さん? 知らない方がその男は幸せだっただろうよ」

「……」

「だんまりかい? あんたが何者かくらい話してくれてもいいんじゃないのかい?」

 絡新婦の動きを封じる術は、術者である淡紅が別の術をいくつ使っても緩まなかった。

 それは淡紅が同時に複数の術をたやすく操れるほどの力を持っているということ。だがその場にいる誰もそれを知らない。

 そのため、軍人たちはなぜ絡新婦が諦めているのかが分からなかった。

「……当代の護国の巫女です」

「ごこく……あはははははははは! そうかい、あんたが!! とんでもない大物が出てきたものだよ。悪くない終わりだね!」

「――其は荒ぶもの和ぶもの」

 護国の巫女と呼ばれる神職者が祝詞を唱え始める。

 絡新婦の笑いは止まらない。それは自棄のように見えた。

 出会ったばかりの軍人たちは何もわからないまま、ただ役目だからとそれを見つめる。

「穢れごと忌みごと」

 絡新婦の周りに火が浮かぶ。

 柏手が鳴り響く。

「我が前の不浄を焼きつくせ」

 ひときわ大きく柏手が鳴り、火が燃え上がった。

 絡新婦は最期まで笑っていた。


 すでに護国の巫女という存在に触れていた亘はもちろん、彪も閃も頼も佑も思い知った。

 自分たちが足を踏み入れた世界の、その不可解さを。

 護国の巫女という存在の異質さを。


 彼らをとりまくさまざまなできごとの、これが始まりだった。

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