十二個目の宝物
一面の緑の芝生。どこまでも続いている青く広い空。優しい日溜まり。
五歳のあたしは公園にいて、黒髪の男の子を追いかけながら一生懸命走る。
「まってぇ、エディー。まってよぉー」
あたしと同じ年くらいの男の子、エディ。彼はにっこりと笑ってこっちを向き、手を差し出す。あたしはその手を掴む。二人して芝生に寝っころがって笑う。太陽が眩しい。
遠くからエディのママの声がする。
「エディー、さくらちゃーん、お茶にしましょう。いらっしゃーい!」
「はーい」
あたしたちは起き上がって芝生を抜け、近所の家の前を過ぎてエディの家に向かう。どの家にも、庭先や玄関の前に大きな黄色いカボチャの怖そうな顔が並んでいる。
「あれなぁに? オバケみたい……こわぁ〜い……」
あたしが言うと、エディはくすっと笑った。
「ハロウィンのジャック・オ・ランタンだよ。まよけだから、こわくないんだよ」
彼の家の玄関にもカボチャがあった。でもそれはよその家のより小さく、マジックで描いたつぶらな瞳のかわいらしいカボチャで、二つ寄り添うように並んでいる。ひとつは布でできたスカートをはいた女の子で、もうひとつはズボンをはいた男の子。
「エディのおうちのは、かわいいねぇ」
「それ、ママがつくったんだよ。ひとつあげるよ」
「ホント?」
「うん。さくらちゃんがこわくないように、ハロウィンにはまいとしボクんちのをさくらちゃんにプレゼントしてあげる。一ダースたまったら、またあおうね、さくらちゃん」
ピピピピピ……。
目覚ましが鳴り、あたしは目が覚めた。
久しぶりに見た夢。あれはもう十年も前の出来事になる。パパとママと三人でアメリカに数日間滞在した時に出会ったのが、エディだった。
でも、まだ小さかったあたしは、エディや彼のママがどんな顔をしていたか、どんな声をしていたかなんて、ほとんど覚えていない。ただ、彼がすごく優しかったことだけは覚えてるし、幼心にカッコいいと思った。
一度っきりしか会ってないけど、エディはあたしの初恋の人。それは美化された思い出とか憧れ、そんな気持ちなのかもしれない。でもいつかもう一度彼に会って、本当の気持ちを確かめたいと思ってる。
部屋を見回すと、あちこちに置かれたあたしの宝物、カボチャたち。どれも可愛らしいスカートをはいている。数は全部で十一個。エディはあれから律儀に毎年これをエアメールで送ってきてくれている。あれ以来、一度も会ってないのに。ただ、三年前から彼の住所が記されていないのが気掛かりだった。今、彼はどこで何をしているんだろう。
あたしはベッドから起き上がり、クローゼットを開けて制服を出した。
「さくらーぁ!」
窓の外から大声が聞こえた。慌てて窓の下を見ると、ブレザーの制服を着て自転車にまたがった同級生、芹沢北斗がこっちを見上げている。
「なんなのよっ、北斗。朝っぱらから大声出さないでよっ!」
「っるせー! 今日は朝練で七時半までに学校に行くっつったろ。いつまで待たすんだよっ!」
「あ……、忘れてた! きゃー、ちょっと待ってて!」
あたしは大急ぎで制服に着替えて下に降り、ダイニングで卵焼きを二切れとドリップのコーヒーをお腹に入れた。
「なんなの、その騒々しさは。ゆっくり食べなさい」
ママが呆れた顔をして言う。
「朝練っ! 遅刻しちゃう」
言いながら顔を洗って、外に出た。
「ごめーん、北斗」
北斗はニヤリと笑った。
「帰りにサーティワンのアイスな」
「シングルなら」
「よし、それで許そう」
あたしは北斗の自転車の荷台に座る。
「乗ったか?」
「乗ったっ!」
「しっかりつかまれよ」
彼は勢いよく自転車を漕ぎ出した。
北斗とは中学の時からの同級生。中学に入学する時、お母さんと二人でうちの近所のアパートに引越して来た。
家が近かったあたしは彼の世話係みたいになり、サッカー部員とマネージャーっていう関係もあって、その頃からなんとなくツルんでる。その関係は高校一年の今も変わってないけど、学校が少し遠くなったため、あたしは徒歩通学圏なのに、道路を隔てた向こう側に住んでる北斗はギリギリ自転車通学許可ってのがとっても悔しい。
「マネージャー、遅いぞ!」
「すみませーん!」
グラウンドに着くと、案の定、監督に怒られた。あーぁ、帰りには北斗にアイス奢らなきゃいけないし、今日はツイてないなぁ……。
授業が終わり、部活が終わり、北斗とサーティワンに寄った。
「どれにしよっかな〜」
「あ、パンプキンプリン新発売だって。あたし、これにするっ!」
「おまえ、新発売とか季節限定とかに弱いのな」
北斗がからかうように笑った。
「いいじゃん、美味しそうだし。あたしが払うんだから、何食べたっていいでしょ」
「へいへい。じゃ、俺はこのゴーストワールドってやつな」
「なによぉ、結局北斗だって一緒じゃない」
「へへっ」
アイス片手に、北斗と向い合せに座った。
「どお、それ、美味しい?」
「んー……、甘い」
「アイスだもん、甘いに決まってるでしょ。他の言い方ないの?」
「うまい! 部活の後のアイス、サイコー!」
彼は子供のような顔で笑って満足そうにアイスを舐める。
「もぉっ……」
あたしはあきれ顔で北斗を見た。でも彼のくったくのない笑顔って、なぜか癒されるのよね。真っ黒い瞳をキラキラさせて、ホントに幸せそうに笑う。だから思わずこっちまで微笑んじゃうの。
北斗の笑い顔を見てると、時々エディを思い出す。エディも高校生くらいのはず。こんな感じになってるのかなぁ……。
ぐるっと店内を見回してみると、カウンターにはカボチャの人形があったりオレンジ色のグッズが並んだりして、すっかりハロウィン仕様になってる。もう十月だものね。
「今年もジャック・オ・ランタン来るかなぁ……」
「なに? アメリカから?」
「うん」
「毎年送ってくれてるんだろ。今年も来るさ」
美味しそうにアイスを舐めながら、北斗が脳天気に言う。
「でも、ここ何年か住所書いてないから……」
「十年もくれてるんだから、大丈夫だよ」
北斗はそう言って元気づけてくれたけど、あたしは心配だった。エディに会いに行くには、住所が必要だもの。それがわからない場合、どうやって彼の居所を知ればいいんだろう。どうしたら彼に会えるだろう。
以前の住所に手紙を出したって、宛先不明で届かない可能性が高い。引越してすぐなら転送してくれる可能性はあるけど、住所不明からもう三年も経ってるし……。そもそも、アメリカの郵便局って、日本みたいに親切に引越し先に転送してくれるのかなぁ。
「なぁにシケたツラしてんだよ。早く食っちまわないと、溶けるぜ」
「ん……、うん」
すっかり暗くなったその帰り道、家のすぐ近くで、北斗のお母さんに会った。
「あら、北斗。さくらちゃんも。こんな時間まで部活? 遅くまでなのねぇ」
「は……はい」
北斗のお母さんは、とっても美人で優しい。こんな人がママだったら最高なのにな。うちのママって、怒ってばかりだし……。
「今日は仕事で遅くなっちゃって、今スーパーに行って来たとこなのよ」
「遅くなっちゃってって、お袋、また晩飯は鍋、とかじゃないだろうな」
「正解! 今夜はチゲ鍋です。さくらちゃんも食べてかない?」
「おう、鍋は人数が多い方が旨いって言うし。食ってけよ、さくら」
北斗の笑顔と優しいお母さんと、おまけにチゲ鍋に手招きされて、思わず「はい」と言いそうになったけど、そこはグッと我慢、我慢。
「ありがとうございます。でも、うちでも私の分用意してると思うんで……」
「あらそう? 残念ねぇ」
北斗とお母さんに別れを告げて、あたしは家に帰った。
北斗からあたしの携帯に電話があったのは、その翌日の夜だった。
「さくら?」
気のせいか、北斗の声が少し震えてるような気がした。
「どうしたの?」
「今、病院にいるんだけど……」
「病院?」
「お袋が、車に跳ねられて……死んだ」
「え……?」
あたしはすぐにパパとママに知らせて、三人で病院に向かった。
病室に入ると、北斗のおばあちゃんとか伯父さんなんかが来ていて、みんな沈痛な顔をしながら、慌ただしく病室を出入りしていた。
制服のままの北斗は、あたしを見つけると渡り廊下まで連れて行き、事の経緯を教えてくれた。
家に帰ってしばらくしたら、警察から電話があって、お母さんが病院に運ばれたと知らされた。急いでおばあちゃんの家に電話してから病院に駆けつけたけど、お母さんはもう意識がなくて、それから数十分後にお医者さんから死亡を告げられた。その後、おばあちゃんや伯父さんたちが来て、今、葬儀の手配などをしてる。
薄暗い夜の病院の廊下で北斗が教えてくれたことは、そんな内容だった。
あたしは、北斗が淡々と話してることに驚いた。お母さんと二人だけの家族で、とっても仲が良かったのに、どうしてこんな、他人事みたいに冷静に話せるんだろう。あたしだったら、ママが死んじゃったら、きっと取り乱して泣き叫んじゃう。北斗って、こんなに強かったの?
「北斗、これからどうするの? お母さんと二人暮らしでしょう? おばあちゃんの家に行くの?」
「いや。……今、親父がこっちに向かってる」
「親父?」
北斗からお父さんの話を聞いたことがないあたしは、彼のお父さんはいないのだとばかり思ってた。
「俺の親父、アメリカ人なんだ。今、向こうで暮らしてる。俺とお袋と親父でしばらく向こうに住んでたんだけど、お袋は英語が得意じゃなかったし、向こうでの生活に馴染めなかったみたいでさ。だんだんストレスが溜まって、ちょっと精神を患うようになって……。結局離婚して、俺を連れてこっちに戻って来たんだ」
「そうだったんだ……」
「伯父さんがアメリカに電話したんだって。そしたら、親父は俺を引き取りたいって言ったって」
「えっ……。北斗、アメリカに行くの……?」
じゃあ、転校して、引っ越しして、もう会えなくなっちゃうの? 心を病んだお母さんを見捨てて離婚したお父さんと暮らすなんて、北斗は大丈夫なの……? そんな事が、頭の中をぐるぐると駆け巡った。
「そんな顔するなよ、さくら」
北斗は小さく笑ってそう言った。
彼のことを心配してる筈なのに、逆に気遣われてしまったようで、あたしは戸惑ってしまった。
「だって……」
「さくらは、親父が無理矢理俺を引き取るって言ってると思ってるだろ」
自分の不安を言い当てられたことに驚いて言葉が出ず、あたしはただ彼を見ていた。
彼は、薄暗い渡り廊下に設けられた長い手摺に肘をついて、体を預けた。病院の廊下の緩やかな光が、彼の黒い髪とグレーの制服の肩を静かに照らしている。
彼はあたしから視線を移し、ガラス張りの渡り廊下から、既に真っ暗になっている病院の中庭に目をやった。そして穏やかな笑みを浮かべながら、ゆっくりと口を開いた。
「お袋と離婚したって言っても、親父はいいヤツだったよ。本当に俺とお袋を愛してくれてた。ガキだった俺にもわかるくらいにさ」
彼ははどこか遠くの、懐かしい物を見るように、僅かに目を細めた。
「親父は会社を経営してたから、家にいる時間は多くはなかった。でも、ほんとに家族を愛してたよ。お袋と離婚したのは、親父なりの考えがあったんだと思う。多分、みんなのためにそれが一番いいと思ったんだろ」
それを聞いた時、あたしは気づいた。北斗の笑顔があんなに素敵なわけ。彼の笑顔に癒されるわけ。
彼は長い間お母さんと二人暮らしだったけど、でも、小さい頃から両親にたっぷり愛されて育ったからなんだ。愛されて育った子供は、人を愛することを知ってるって、誰かが言ってた。笑顔をたくさん見て育った子供は、素敵な笑顔をふりまくって。北斗は、きっとそういう時を過ごして来たんだ。
その時、あたしの心は北斗で一杯になった。彼の笑顔をもっと見ていたい。彼の傍にいたい。でも、もしかしたらもうそれはできないのかも。
外を見ていた彼が、ふとこっちを向いた。
「さくら」
あたしを呼ぶその声は、今まで聞いたことがないほど優しくて、あたしの心に沁みこんでくるようだった。北斗の真剣な二つの目がじっとあたしを見ている。
「俺は、できればこのままここにいたいと思ってる。でも未成年だから、自分の思い通りにはならないんだってさ。俺、すぐにでも二十歳になって、保護者のいらない身になりたいと思うよ」
北斗は、いつもの人懐こい顔で笑った。でも、その笑顔はどこか寂しそうで、あたしは北斗を抱きしめたい思いに駆られた。
「明日の今頃には、親父もこっちに着くだろうな。多分、親父が帰国する時に、一緒に付いて行くことになると思う。親父は、俺のために一番いいと思って引き取りたいって言ってくれたんだと思うから。日本にいられるのも、あと一週間くらいかな」
「そんなに早く……」
北斗はもう自分の運命を受け入れ、自分の将来を決めてるんだ……。
「いや……」
あたしは思わず首を振った。
「行かないで、北斗。アメリカなんかに行かないで……!」
そこまで言うと、涙がポロポロと出てきた。
「いやだ……」
言いたいことはたくさんあるのに、それ以上言葉が続かなかった。
「さくら……」
彼は戸惑ったようにあたしを見つめた。
その時、背後から男の人の声が聞こえた。
「北斗くん、ちょっと」
北斗は顔を上げてその人を確かめた。
「今行きます」
そして、笑顔を作ってもう一度あたしを見た。
「出発の日が決まったら連絡するよ」
あたしの肩をぽんと叩くと、彼は病室のほうに向かって歩いていった。
取り残されたあたしは心と頭の整理がつかなくて、長い間そこに立ち尽くしていた。
北斗はしばらく学校に来なかった。
彼の言った通り、翌日の夜にはお父さんが来て、お通夜があり、その次の日に葬儀が行われた。彼は辛そうだったけど泣くことはなく、逆に葬儀ではあたしのほうが泣いてしまって、あたしは気丈に振る舞っている彼を見直した。
六日目の朝、学校に行こうと外に出ると、制服を着た北斗が自転車のサドルにまたがっていた。
「よっ」
「北斗……」
「乗れよ」
「うん……」
久しぶりに制服の彼を見て、妙な照れくささを感じながら、荷台に座った。
「そうだ、これ」
彼はポケットをごそごそと探り、一枚の紙切れを取り出して渡した。
「なに?」
受け取ると、そこにはボールペンで一行、黒い文字が記されていた。
成田 10/20 Sat. 17:25 JL62
胸がドキンとした。
成田空港発、十月二十日土曜日、十七時二十五分、JAL六十二便。
この飛行機に乗って、北斗は行ってしまうんだ……。あと三日しかない。あたしは心が痛くなるのを感じた。
「見送りに来いよな。約束だぜ」
本当は、泣きそうだった。でも、当の北斗がこんなに頑張ってるんだもの。あたしが泣くわけにはいかない。あたしは努めて元気よく言った。
「うん、必ず行く!」
金曜日、彼はクラスの友達に挨拶をし、部活の仲間に挨拶をして、学校を後にした。
土曜日。
広い空港のターミナルでは、大きな荷物を抱えた人がたくさん行き来している。北斗を見送るために、クラスメイトや部活の仲間が何人も来ていた。
「メール書くね」
「うん」
「また遊びに来いよ」
「うん」
お父さんの傍らにいる彼は、たくさんの友達に囲まれ、見慣れた笑顔でみんなの声に応える。あたしは、クラスメイトの後ろに隠れるようにしてその様子を見ていた。もうこの顔を見ることができなくなるのかなと思うと、切なくてたまらなかった。
「さくら」
北斗がふいにあたしのほうを向いて、手招きした。
彼の前に進むと、彼は鞄からオレンジ色のリボンの付いた箱を取り出した。デコレーションケーキの箱みたい。
「これ、向こうから送ろうと思ってたんだけど……。帰ったら、開けてみて」
「うん……」
何か言わなくちゃ。
「元気でね」
「うん、さくらもな」
「うん……。寂しくなったら、いつでも帰ってくんのよ」
あたしが言うと、北斗はとびきりの笑顔をあたしに向けた。
「大丈夫。心から信頼できる人がひとりでもいれば、人間、頑張れるもんさ」
その言葉は優しさと力強さが溢れ、あたしを包み込むようで、胸に響いた。北斗は向こうでもちゃんとやっていけるね。ずっと、北斗らしく……。
その時、彼のお父さんの声が耳に入った。
「Eddie, we gotta go.」
瞬間、ずっと前に、全く同じ声を聞いた気がした。デジャ・ヴ……?
彼を乗せた飛行機は、小さなライトを瞬かせながら、夕方の薄暗闇に紛れていった。
「行っちゃったな……」
「うん、行っちゃったね……」
家に帰ると、あたしはすぐに北斗がくれた箱のリボンを解いた。蓋を開けると、そこには花模様のスカートをはいた、つぶらな瞳のカボチャがいた。
「え……? これって……」
あたしはすぐ自分の部屋のカボチャたちを見た。
同じ大きさ、同じ顔、同じスカート……。
カボチャの横に、封筒が添えてあった。あたしは急いでそれを開けた。レポート用紙に、決してキレイとは言えない北斗の文字が並んでる。
「さくらへ
Happy Halloween!
これは、お袋が最後に作ったジャック・オ・ランタンなんだ。
これで十二個揃っただろ?
一ダースたまったら、また会う約束だよな。
冬休みに遊びにおいで。
Hokuto Edward Hamilton」
名前の下には向こうの住所と電話番号、そして手紙と一緒に、クリスマスの日付の、ロサンゼルス空港までの往復チケットが入っている。
北斗ったら……! 北斗ったら、北斗ったら!!
北斗がエディだったなんて……!
明日、ロスに電話しよう。
今までずっと黙ってたことを、とっちめてやらなきゃ!
そう思いながら、あたしはカボチャと手紙を抱きしめていた。
END
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