第一話 覚醒者シュウイチと転校生ナナミ
まず「ゲーム」があった。この世の誰も、正式名称など覚えていない、人類に普遍的に行き渡った睡眠時没入型VRMMO技術。かつて仮にUnderground 2ch Onlineなどと呼ばれていたそのゲームは、人類全体を完全に取り込み、一つの仮想世界を作り出していた。
まさに一炊の夢の故事の如く、加速されるゲーム内時間。人々は夢の中で学び、夢の中で出会い、夢の中で働き、夢の中で遊んで、喜びと悲しみ、辛さと苦しさを味わった。
この時代、全てはゲームの中にあった。リアルの肉体はオマケ。覚醒――つまり現実を生きること――はバカがすること。食事と排泄。そんなものは苦痛と憂鬱の元凶にして、過ぎ去った時代の遺物。そんなふうに言われている未来。
シュウイチは数少ない「覚醒者」の一人だった。
この街には、「古い」遺産や慣習がたくさんあった。たとえば自分の好きな、リアルのインテリアやリアルの書籍が置ける「自宅」とか、勝手に自動巡回運転される「バス」とか、かつて勉学の中心であった「学園」とかだ。
単にVRMMO施設だけがあれば事足りるこの時代に、俺は興味本位で「通学」という行為を行っていた。数十分かけて学園に通い、学園のVRMMO施設を利用して「学習」し、そしてまた数十分かけて帰宅する。まったく、極めて非効率的だ。
だが、俺はその行為が、なんだかとても気に入っていた。バスの後部座席で、いまでは希少品となったリアルの書籍――ライトノベルと言われている――を読んでいると、誰も知らない百年前の暮らしを追体験しているようで、不思議と心が落ち着くのだった。
「学園」は極めて妙ちくりんな施設だ。まるで千人もの人間がそこに収納されていたかのように――実際収納していたというのだから驚きだが――巨大な威容を誇っている。俺は門をくぐり、下駄箱でシューズにはき替え、廊下を歩き、階段を昇り、VRMMO室へと向かう。そこには数名の人間が既に眠っているはずだ。この時代、学園に通学することは、かつてのピアノやそろばんと同じように、一種の習い事というイメージが強かった。もしあなたがそうしたいなら、そうしなさい、と両親は俺にそう言った。
「おはようシュウイチくん。今日も元気に通学かい?」廊下で出会った学園内を永遠に周回する「先生」と呼ばれるロボットが、俺に声をかける。
「おはよう先生。何か変わったことは?」
「今日は晴れ。明日は雨だそうだ。他には特にこれといったニュースは無いね」予想通りの回答。俺はいつものように先生を無視してVRMMO室へと向かおうとする。
「いや、待てよ?」先生の発言に俺は振り返る。
「そういえば転校生を紹介していなかったね。ついてきなさい」
転校生! ライトノベルの中では定番中の定番。人生にそう何度も無いというレア・イベントに遭遇した俺は、歓喜に舞い上がった。学園への通学者――生徒――自体が極めて少ないというのに、別の地区から人が来るなんて! 一体どんな奴がやってきたのかと、俺は宇宙人でも見るような心持ちで、先生の後についていく。
着いたのは「保健室」だった。VRMMOのプレイ中、万一気分が悪くなったときのために存在する施設だ。消毒液の匂いが漂う、真っ白い部屋。そう何度も訪れる場所ではないそこは、ある種の神秘的なイメージに包まれていた。
その保健室のベッドに、彼女は眠っていた。かわいらしい顔をした、茶髪、ボブカットの眠り姫。俺はすぐに彼女に釘付けになった。まるで魔法の世界に迷い込んだかのようである。
「ナナミさん。起きなさい、ナナミさん」先生が無粋にも、その魔法を解こうと試みる。
「ふあーあ」彼女は起き上がりながらあくびをしたあと、瞳を開け、俺の顔を見て言った。
「誰?」
「俺はシュウイチ。この学園の生徒の一人だ。もしかして君も通学者?」
「違う。私はナナミ。私はここで目覚めたの。だから『学園』で暮らしているの」
その言葉に、俺は衝撃を受ける。
まず、学園は住む場所ではない、という印象が先に来た。
だがよくよく考えてみれば、この時代、食事について文句を言わなければ、学園に住むことは確かに不可能ではなかった。俺はふと座敷童子という妖怪を思い出し、しかしすぐに却下する。彼女は古めかしい妖怪ではない。学園に住むという一風変わった選択をしただけの、ただの人間の女性だ。
「そっか。俺は通学してるんだ。よろしく、ナナミさん」
俺が差し出した手を、彼女は優しく握った。その手は白く柔らかく、強く握れば壊れてしまいそう。全部ライトノベルにあったとおりだ。転校生は美少女で――俺は完全にナナミに一目惚れしたのだった。