06.天蓋
「来ちゃいました」
「来ちゃいましたじゃないでしょ!?」
グリュクはまず、妻に向かってそう喚いた。
「グリュクくん、静かに」
「アダの静養する部屋なんですよ」
「すみません……」
カトラとヴィットリオからそれぞれ咎められて、グリュクは意気を落として謝った。
場所は先ほどと同じ、エニレンメ市から少し離れたところにある拠点の、アダの病室として使っている車輌だ。
ただし、その今は近傍の上空に錐体の形状をした巨大な物体が横たわるように滞留しており、同様に巨大な影を西の森に向かって落としている。
大きな木の葉のような形状の耳をわずかに逆立てながら、フェーアは彼に反論した。
「待つだけでいるのは嫌なんです」
「これから危険な仕事に行くって説明しに戻ろうとしてたところなんですよ。水族館で連邦の人から話を聞いた時点で、少なくとも戦争に関わる荒事だっていうのは聞いてましたよね」
「そういうことだから、直接危険な目にあう仕事じゃなくても、出来るだけ近くで手伝いたいって思うんです」
「駄目です。フェーアさんの希望でも、それだけは認めません」
「……………………」
「な、何です」
グリュクは妻の視線に潜む、あからさまな不満を感じ取ってたじろいだ。しかし彼女の安全のためにはさらに言って聞かせなければなるまい。
だが、口を開こうとすると、フェーアの方が彼に先んじた。
「いえ、何でもないんですよ。でも……
そういえば、大戦の直後には色々な国で不倫が問題になったらしいですね……夫が前線に行ってる間、寂しさのあまりに妻はついつい――」
「脅迫ですか!?」
誰から吹き込まれたものか、冗談めかした口調ではあったがグリュクは場所も忘れて再び叫んだ。
「グリュクさん、あの、気持ちは分かりますけど少し落ち着いた方が」
「……ごめん……」
今度はアダにたしなめられて、グリュクは再び謝った。
フェーアはといえば、半眼で彼を睨んでいる。
「私はそんなことしませんけど、グリュクさんが不安なら、是非もなく一緒に行くのに……残念です……」
「そ、そんな脅迫をしなくてもすぐに帰ってきますから……長引きそうならちゃんと顔を出しますから……」
「グリュクさんの一存で切り上げたり出来る仕事なんですか? 結婚半年で未亡人なんて嫌ですよ私?」
「だ、誰も死ぬなんて……俺はただ君を危険な目に遭わせたくないだけで、それは分かってもらえるでしょ……!?」
抗弁するが、しかしフェーアは何としても首を縦に振らせるつもりなのか、まだ半眼で彼を睨んでいる。結婚前には考えられなかった表情だ。
「しかしそうは言うがな、霊剣の戦士よ」
背後からの声に振り向くと、青みがかった金の長髪をたたえた黒衣の美男子が立っていた。
「セオ殿下」
セオ・ヴェゲナ・ルフレート。
妖族たちにとっては神にも等しい”狂王”の息子であり、現在はその王位の継承権を第十二位に持つ男だ。
現在彼らの上空に滞空している巨大な天船の所有者でもあり、先日、ある事件の際にグリュクと知り合い、以降は協力的な関係にもある。
その彼が、グリュクに言い聞かせるように語る。
「妻帯者というものは愛妻家でもあるのが理想だ。だが愛と妻の身の安全、どちらを取るべきかというのは実に悩ましい問題ではある。
そうだろうトラティンシカ」
「はい、セオさま」
彼の腕に抱きつく細身の麗人は、トラティンシカ・ベリス・ペレニス。
セオの妻にして夫と同様の巨大天船の主でもあり、思慕を抱いた彼を百年以上追い回してきたが、つい先日、セオが彼女を受け入れたことで晴れて結ばれている。
そんなおとぎ話から抜け出してきたような存在である二人にそう言われても、グリュクは妻を啓蒙者たちの国に乗り込む作戦に連れて行く気にはなれなかった。
「それに不貞の恐怖に怯えるよりも切実なことが、啓蒙者だ。史上初めて、奴らは最終戦争を宣言している。前大戦で謎の撤退行動に出たことと関係があるのかも知れんが、大陸を消し飛ばす兵器の実用化も進めているのではないかという疑いがある」
そう言うと、彼は懐から封筒を取り出し、カトラへと渡す。
彼女は封筒を開くと、疑問を発した。中から出てきたのは、一枚の大判の写真だ。
「……これは?」
セオは頷き、それに答える。
「サーク・リモール辺境伯領の……つまり俺の艦隊が、二日前に啓蒙者たちの海域のぎりぎりまで接近して、ベルゲ連邦の偵察部隊に撮影させた。海中の機械クジラに阻まれかけたものの、何とか盗み撮ることが出来た」
カトラは写真を卓に置き、グリュクが横からそれ覗くと、グリゼルダ、ヴィットリオもそれに続く。アダは寝台から身を起こしたまま、無理に見ようとはしてこない。
「海の風景を撮ったんですか?」
グリュクはそれがにわかには理解しがたく、セオに尋ねた。
そこに写っているのは、一見するとただの海でしかない。
何の変哲もないような波打つ海面に、雲の群れる青空。
「そう見えるかな?」
「まさか、それだけじゃないんでしょう?」
連邦の魔女兵を艦隊に連れ込み、危険を冒して本当にただ海の風景を撮っただけならば、それはただの無駄でしかない。
しかし、擬似的に七百年分の、しかも様々な立場の魔女たちの価値観や経験が複雑に編み上げた高度な洞察力を持つ二人の霊剣使い。
即ちグリュクとグリゼルダは、写った景色に潜む異変に気付いた。
「もしかしてこの雲……」
「魔法術の爆発雲……かなり大きな?」
かなり遠方の空、つまり焼刻に写っている水平線上――つまり実際の距離としてはここに写った水平線よりさらに遠くの空に、不自然な形状の雲が写っているのだ。
雲というものはその外見から、数百、数千メートル単位で誤差はあるものの、それでもそのおおよその高度というものが判別できる。
そこに写った他の雲と比較すると、その不審な雲は水平線の向こう、恐らくは海面付近から数万メートルに渡って大きく立ち昇っているように見えた。
写真の中の小指の爪の先ほどもない面積なので、恐らくはグリュクたちのように世代を重ねた霊剣使いか、気象や海運に詳しい者でなければ気付けなかっただろう。
「これが、大陸を消し飛ばす兵器ってことですか?」
「その可能性があると、艦隊の妖術使いたちは言っていた。それから半日ほど経って、その影響で起きたのだと仮定すると丁度よいタイミングで、ヴェゲナ東部の沿岸地域の幾つかの港の我々の船が高波を記録している。
その波の来た時間差と我々の知る海流の流れを逆算すれば、恐らくは妖魔領域のはるか東、啓蒙者大陸の西方の海上で、奴らが何か大掛かりなことをやったのではないか……とな」
「さすが海軍強国サーク・リモール」
グリゼルダが挙げたのは、妖魔領域極東の群島に設置された、セオの拠点でもある辺境伯領の名だ。今でこそ天船に乗ってはいるが、彼も昔は船舶を操って海を渡っていたという。
「それにしても、これが本当に戦略級の爆発だとしたら……啓蒙者の科学力なら、術者がいなくてもそれを起こすことが可能だということですか」
「何せこの距離だ。憶測以上のことは分からんよ」
爆薬・爆弾などは魔女諸国でも実用化されて久しいが、写真に写るこの規模となると、いったいどれだけの爆薬を集めたものか想像が難しかった。
圧縮魔弾であっても、この規模を実現するには数百名を要するのではないか。いずれにせよ、もしそうした制約を省いて戦争で実用に供しうる手段になっているのであれば、これは危険極まりないことだ。
「俺も電気機械のことはよく分からんが、大気が妙にピリピリすると肌に感じていた者もいた。妖魔領域の標準時間で二日前の午前九時頃、魔女諸国の電波関係の施設に何か異常がなかったかどうか、調べてみるのも一興かも知れん」
「トリノアイヴェクス、調べさせてもらって良いのですか?」
「そうだ」
カトラが尋ねると、セオも頷く。
トリノアイヴェクスとは、グリュクたちの頭上に浮かぶ天船の名だ。搭載されている装置の中には未知の機械も多く、それらに記録が残っているならば、カトラの持つ啓蒙者の知識で解析しようということなのかも知れない。
「いまだに天船に関しては、トラティンシカも全てを理解できてはいないから……機密を漏らさぬよう約束できるなら、是非とも頼みたいところでな。破軛の戦士たちは例え両の目とはいえ啓蒙者の立ち入りは認めまいから、機を見計らう必要はあろうが」
妻の肩に手を置きながら、黒衣の貴公子は再びグリュクに視線を向けて話題を戻す。
「まぁ、つまりはだ。グリュクよ。
此度の戦が伯領や県の一つさえ軽く吹き飛ばしてしまうような終末的なものになった場合、世界のどこに居残ろうとも危険度は前線と変わりないのではないかと言いたいのだ」
「そういうことですから、近くで何かを手伝いたいんです。妖術の心得だけならありますし。ねえグリュクさん」
「うぅ……」
もしや、セオやトラティンシカがそのようなことをフェーアに吹き込んだのか。
例えそうであっても、謎の戦略級兵器の存在を見せられてはセオの言うことももっともらしく思えて、グリュクはしばし悩んだ。
「いいですよね、ね!」
以前からは想像もつかないような積極性で以って、フェーアは体全体を彼に近づけてくる。
上背が高い部類に入るグリュクと彼女がここまで近くに並ぶと、ほとんど見下ろす格好だった。
「おほん」
グリゼルダが、わざとらしく咳払いをして場を仕切り直す。
「いいんじゃないの? あたしが言うのも何だけど、家族っていうのは出来るなら一緒にいた方がいいと思う」
「…………うん……その通りだ」
過去に家族全員を失った身の上である彼女に言われると、フェーアを移動都市に残してゆけば、それが不幸を呼び寄せる行いになる気もする。
過去に自分が袖にしたに等しい娘に気を遣わせたことを恥じたこともあり、グリュクは降参した。
「分かりました……もう止めません」
白い木の葉のような両耳を平常の高さよりわずかに落として、フェーアが言う。
「ごめんなさい。あなたの心遣いは分かっていて、それでもわがままを言わせてもらいました。
グリゼルダさんも、援護してもらって、ありがとうございます」
「いいって」
礼を言われたグリゼルダは、素っ気もなく視線をそらして呟いた。
元気づけるつもりで、妻の手を取って両手に包む。
「ただし、何かあったらすぐ、俺や誰かに相談してください。俺も出来るだけ、君に心配をかけないようにします」
「はい、私も……」
だが、
「ほらほら、死亡フラグ立っちゃうわよ」
「いいかげんアダさんの病室なんだから」
「そういうのはその辺りまでにしておけ」
二人きりでもないのにそのような視線を交わし合ってしまっていたか、カトラとグリゼルダとセオが三人がかりで彼らを引き離し、話に区切りをつける。
「それでは、結成されて二ヶ月と経たない急造ではあるが……天船トリノアイヴェクスは多国間特務戦隊フォンディーナの母船として、作戦行動を開始する」
船長としてのことだろう、セオが宣言すると、カトラがそこに続いた。
「改めて確認しておきましょう、目標は首都エンクヴァル。
あとで正式に関係要員を集めて作戦を説明するけど、まずは大陸中部の戦線まで移動して陽動を行い、同時に気圏内での最大速度を得るための助走距離を確保します。
そして一気に転舵して最大速度まで加速、衝撃波による被害が最も少ない北極経由で神聖啓発教義領の防空圏を突破、本土中枢に突入して始原者メトを押さえる!」
高揚してきたのか、彼女の話し方は徐々に早口になって語気も強まる。
しかし、それは病室の扉を鋭く叩く音で中断された。
「どうぞ」
折角テンション上がってきたのに――という表情でカトラが返事をすると、セオの兵団に所属しているカモメの使い魔が姿を見せて、やや窮屈そうに翼をたたみ直しながら報告した。
「失礼致しますセオ殿下、ただいま妖族の女が使者を名乗って参りました。用件は以下です」
使い魔の口にした用件と、その伝え主の名を聞いて、その場のほぼ全員に緊張が走った。
使者の名は、チェフカ・マリ。
妖王子タルタス・ヴェゲナ・ルフレートからの、救援要請を携えてやってきたという。
その妖族の女チェフカは、グリュクたちと面会してまず最初に、自分が逃走や隠遁を試みず、身柄と話せる限りの情報の全てを彼らフォンディーナに預けると宣言した。
彼女は以前グラバジャにやってきた際にもタルタスに随伴しており、またグリゼルダによれば、フェーア奪還の際に彼女がタルタスを追い詰めた時も、彼を助けて逃走したのがそのチェフカだということだった。
グリュクがグラバジャで見た印象は、まさしく高等な教育を受けた秘書官、と言った風情だったが、さすがに今はやや、憔悴をきたしているように思えた。狐のような両耳が、今はやや力なく垂れている。
「正確には、我が主タルタスの救援ではなく、妖族の魂の故郷である隕石霊峰、ドリハルトの防衛に力を貸して欲しいという要請です」
タルタス・ヴェゲナ・ルフレートとは、妖魔領域の神にも等しい絶対者である狂王ゾディアックと呼ばれる存在の、現在では三番目の子である。
セオが十二番目なので、千才を超える彼よりも更に過去の生まれということになる。
だが、彼は以前、グリュクたちの霊剣を狙って彼らを陥れたことがあった。
更には自ら手引きを行い、兄であるフォレル・ヴェゲナ・ルフレートにグリュクの恋人であったフェーアを略取させてもいる。
結果として霊剣も一度は奪われ、グリュク自身に至っては一度全身をほぼ炭化させられ、更に一度は両腕を切断されるという重傷を負わされている。
この場の面々に関して言えば、グリゼルダとセオも剣を交えたことがあり、そもそも面識のないであろうカトラやアダ、ヴィットリオ以外は、彼の名を聞いてもいい気分にはならないというのが正味の所だろう。
タルタスに挑んで船を半壊させられ、自身も痛めつけられたセオが尋ねた。
「その前に、どうやってここまで来た。タルタス兄上は……まさかドリハルトにいるのか」
彼の言葉には、タルタスが現地で危険に身を晒すとは考えにくいといった響きが感じられた。
「彼の地にて、指揮を取りつつ抗戦中です。既にあちらでは戦闘開始から4時間が経過しようとしていますが、偶然所要で連邦に来ていた私は、彼から啓蒙者の攻撃を知り、魔女便などを乗り継いでここまでやって来ました。
どのようにしてセオ殿下方の居所を知ったかという意味でお尋ねでしたら……こちらでも殿下の船を中核に多国間戦隊を作るという動きは察知しておりましたので。そしてタルタス殿下の持つ大陸規模の使い魔のネットワークがあれば、あのような巨大な浮遊物体が、どこの領土の上空にあるのかということが分からないはずはありません」
「まぁ……目立つしね」
グリゼルダが、他人事のように茶々を入れる。
「……現地の状況は分かるか」
半信半疑といった様子ではあったが、腕組みをしてセオがそう尋ねた。
それに答えて、チェフカ。
「不明です。今となっては使い魔の情報も届かなくなっていますので……ただ、啓蒙者もドリハルトはあまり傷つけずに手に入れたいようです」
「ドリハルト守るべしという考えに依存はないが……タルタス兄上は、妖族の殆どが反対している霊峰の採掘事業を、亡きフォレル兄上の後ろ盾で強行していたはずだ。彼の権益を守るために何かを貸し出す余力はないぞ」
「……採掘事業の本当の理由から、お話しなければなりませんね。協力を仰ぐためにそれを語り伝えることも、私の使命の一つですので」
タルタスの秘書はそう区切ると、語り始めた。
隕石霊峰ドリハルト。
妖魔領域の極東沿岸、そこから更に東へ1000キロメートル近く離れた所に、その島は浮かんでいた。
地理的には標高1200メートルほどの高山島で、南北に幾つか妖族の住む島があり、これらを総じてドリハルト群島と呼ぶ。
しかしドリハルト本島はそうした周囲の兄弟島と比べて異様に際立った急峻であり、樹木などがほとんど生えていない多数の絶壁を備えたそれは、ともすれば海から生えた牙のようにも見える。
妖族や魔女の地質学者によれば、その山体の表面は火山岩で覆われており、長年の風雨によって分解された火山岩に由来する土砂が麓の表面を覆ってはいるが、かつては活発な火山だったのではないかと考えられている。
ただし、それ以上学術的な調査が進展することはなかった。
なぜならばその島は、現代においても武断主義に生きる妖族たちにとって、ほとんど唯一とも言えるほどの神聖不可侵の土地であり、また現在は、タルタス・ヴェゲナ・ルフレートが地下深くに埋蔵されている希少鉱物である霊峰結晶の採掘事業を展開しており、許可のないものは採掘調査などの行為が出来ないようになっているためだ。
そしてそうした調査研究に許可が降りることは、決してなかった。
ただし、観光事業地としてはそれなりの体裁が残っており、採掘地に立ち入るのでなければ霊山に登ることは自由とされている。
観光地によくある特産品の商店や宿屋などが立ち並ぶ麓の町に、中腹まではたどり着ける登山道といったものも整備されていたが、今は妖族たちの賑わいもなく、静まり返ってしまっていた。
今は、タルタスが兄を失って後も彼自身の命令に従う数少ない兵団を組織化した防衛部隊と、彼に雇われた魔女の傭兵団、そしてタルタスのことを疎んではいても妖族の魂の故郷であるドリハルトを守ろうという気概で集まった義勇戦士団たちだけが、そこに残っている。
「チェフカは首尾よく助力を頼めただろうか」
自分の秘書がいくつかの囮と共に飛び立っていった西の水平線を見ながら、独り事のようにタルタスは呟いた。
その背の低い展望台には彼と、”遠隔視”と呼ばれる検知の妖術に長けた妖族が二人いた。
しかし、彼の声に反応したのはその二人ではなかった。
(使い魔の連関網も、電信装置も妨害されている。今は遠隔視たちの腕前に期待するしかあるまい)
音ではない声が、タルタスの脳裏に直接聞こえてくる。
彼が腰に帯びた剣、道標の名を持つ霊剣だ。
五百年前に継承して以来、彼は自分自身以外に一人の剣鍛冶、十六人の為政者の記憶や経験と共に生きてきたことになる。
「(政治や統率力に関して特化した魔女を生み出そうとする系譜だったというが……私は結局、人心を掴んで臣民から慕われる支配者になることは出来なかったな)」
それは、兄の役割だった。
タルタスが道標の名を持つ霊剣を継承した時には既に、フォレルという巨大な太陽が彼の前に存在していた。その巨大な重力にも似た求心力に、遂には二代目の狂王が誕生するかと、タルタスを含め、妖族の誰もが期待していたのだ。
タルタスは、その影に隠れて霊剣を通して受け継いだ政治力を行使していた。
だが、フォレルの精神の静かな破綻などの様々な要因が重なったとはいえ、結果的にはそれが裏目に出た。
「(……私の慢心で兄上は死に、私は築き上げてきた全てを失うところだった)」
(だが、啓蒙者たちの不意の第一撃からドリハルトを防衛したことで、少なくとも本土の妖族たちの最低限の信用は勝ち取ったわけだ。フォレルの死を受けて汝を討ち取ろうとやって来た兄弟たちも、汝の働きを見て矛を収めた)
「……今の所は、だがな」
人類側の兵器は予測よりもはるかに性能を増していたが、それでも無数の魔具を身に付けて知覚能力を高めたタルタスは、飛来する超音速の飛行爆弾の群れを精霊万華鏡で異空間に閉じ込め、その内部で爆発させることに成功していた。
タルタス独自の異空間妖術である精霊万華鏡は、本来は一瞬だけ入り口を広げ、自分と少数の対象だけを異空間に移動させるという使い方をする。全く想定していなかったわけではないのだが、ドリハルトの上空を覆う直径2000メートル以上の入り口を一時間近く形成し続けるという今回のような運用は、思いの外負担が大きかった。
この上同じような攻撃を二度三度と畳み掛けられれば、恐らくはタルタスの神経が限界を迎え、このような防御は不可能になる。
(だが、敵は馬鹿ではない。効果がないということを観測してもいるはず)
「(次の手は強行上陸か、もしくは――)」
強靭な肉体と物理法則を蔑ろにするかのような妖術を併せ持つ妖族たちと同じ境遇にありながら、啓蒙者たちは彼らとは比較にならない巨大な工業力を持っていた。
彼らの文明の発展の過程はよく分かっていないが、少なくとも、魔力を持たない人類たちにあれ程の飛行爆弾を製造する能力を与えているのだから、少なくともそれらで以って反逆されたとしても、それを封じ込めるだけの優位を残していると見るべきだろう。
ならば、次の一手は霊剣の智慧を得たタルタスであっても、予想もつかないものである可能性もある。
”遠隔視”が二人とも異常を捉えたか、警告を発した。
「飛行爆弾群、来ます!」
敵は同じ手を試すつもりらしい。何らかの手段で精霊万華鏡の限界が露見している可能性も考えられたため、タルタスは焦った。
「(敵を異空間におびき寄せる前に力尽きては、味方はおそらく物量差ですり潰され、ドリハルトは陥落する……!)」
だが、やらねばならない。
最初の先制攻撃で、採掘事業は中断している。この上各地に放った数少ない援護要請が間に合わなければ、妖族の魂の帰る場所は占領されるだろう。
それだけならばまだいいが、啓蒙者に対抗する手段になりうる霊峰結晶を奪われる事態だけは避けねばならない。
今はこの霊峰を占領するために手心を加えているように思える啓蒙者たちだが、彼らは永久魔法物質を工業的に生産できるという。手に入らないようであれば、天然の永久魔法物質の塊であるこの隕石霊峰を、何のためらいもなく破壊する方針に切り替えても不思議ではない。
半日以内に援軍到着する見込みはかなり低く見積もらざるを得ないが、タルタスは何としてもこの射程外からの攻撃を耐え抜き、援軍を待たねばならなかった。
接近してくる者は精霊万華鏡で異空間に取り込み、潰す。
飛行爆弾の雨を凌ぎつつじわじわとそれを続ければ、あるいは勝機が出てくる可能性も、淡い希望としてはあった。
それもこれも、タルタスの持久力にかかっているというのが、作戦としてはかなり杜撰さだったが、この戦力では致し方のない所だ。
彼の相棒が、呟く。
(来る。速度は推定で音の十五倍)
「それがどうした!」
精霊万華鏡を展開し、東の高空の雲間から落ちるように飛来する飛翔体を異空間に飲み込む。
そろそろこの手際にも慣れたかと感じたところに、しかし、異変が生じた。悪寒と言ってもいいかも知れない、うす気味の悪い感覚。
「ぬ……!?」
精霊万華鏡は、妖術としては極めて特異性が高い。
空間というものを作り出すという効果は無論だが、様式においても一風変わっていた。
それが、魔具に近い結晶構造を生成し、それによって半自動で維持を行うという点だ。
タルタスの感じた異常は、先日その特異妖術の中枢を成す特殊な結晶体を、妹の作り出した巨大な上半身だけの甲冑に破壊された時のそれに似ていた。
同時、精霊万華鏡で生成した異空間への回廊は消滅し、取り込みきれなかった何十発もの飛行爆弾が地表に炸裂した。
それらは、音速の十五倍以上の速度で隕石霊峰の地表に激突し、破片と炸薬、爆炎と土砂を撒き散らして爆発する。
その数、推定50発以上。
海岸にあった船着場や市街は破壊され、至る所から噴煙が吹き上がる。
島の反対側にいたタルタスには直接その状況は見えていなかったが、足元から伝わる振動は嫌でもこちらの不利を実感させた。
恐らくは、今の直撃で二桁以上の数の死者が出たことだろう。
「(まさか……たった今精霊万華鏡内部に突入した飛行爆弾の中に……隠蔽された核晶を暴き出して破壊する……不動華冑と同じ真似が出来るものがあったというのか!)」
(恐らくは、そのまさか)
評価していたつもりで、侮っていた。
その超越的な技術力でこちら側に空間を操る能力を持つ者がいると察知でもしているのか、すぐにその対抗策をぶつけてくる。
「ならば……!」
今度は奥の手として残しておいた防壁の魔具を起動する。採掘した霊峰結晶の実に5パーセントを消費したが、隕石霊峰全体を覆って防御する規模があり、瞬きをするような速度で生成されたその透明度の低い半球状の天蓋が、続けて飛来した飛行爆弾を遮った。
その一方でタルタスは、懐から小さな筒状の物体を周囲に放り散らす。
落着したそれは跳ねずに展望台の石畳に飲み込まれるようにして消え、そこから10秒と経たずに人間大、人間に近い形をした石の人形が百体ほど生成された。
「ドリハルトに展開する全ての戦闘単位に伝達。敵の特殊攻撃で精霊万華鏡は消失した。"天蓋"も長く飛行爆弾を遮る事は出来ない。各自速やかに、地上へ突入してくる戦力への迎撃準備!」
使い魔も無線装置も使えない以上、こうした魔具に頼るしか無い。
本来ならばこうした魔導従兵は戦闘や簡単な雑用をやらせることしか出来ない程度のものだが、タルタスが手を加えれば、発声が可能な口を備え、伝えた内容を復唱しながら移動することも出来る。
「ドリハルトに展開する全ての戦闘単位に伝達。敵の特殊攻撃で精霊万華鏡は消失した。"天蓋"も長く飛行爆弾を遮る事は出来ない。各自速やかに、地上へ突入してくる戦力への迎撃準備!」
彼に似た声で全く同じ内容を復唱しながら整列し、石の魔導従兵たちは展望台の出口を続々と降りていった。これにどれほど従う者がいるのかは分からないが。
やはり、彼も前線で戦闘に参加すべきだろう。
本来はこうした状況で前に出るのは愚策だが、道標の名を持つ霊剣に深海色の鎧、そして多数の魔具を同時制御可能な彼が戦闘力を行使しないというのも適切な配置とは言いがたい。
「(力の強い者がより多くの権限を司るべきだという妖族の考え方も、啓蒙者のような連中を相手にすると弱みしかならんな……)」
妖族の社会では単純に、ただの兵士よりも兵士長が、兵士長よりも城主が、城主よりも領主が、将軍が、権力だけでなく戦闘能力の上でもより強力なのが普通だ。戦となれば、雑兵は一人の名将の前に物理的に蹴散らされるもの、という通念が支配的だった。
その延長の終点にいるのが、妖族たちに現生神として崇敬される半神的存在、狂王である。
タルタスも、そしてフォレルも、狂王の息子として、妖族たちの上に立つ者として、並ぶものなどそう多くはない強大な戦闘の資質を持って生まれはしたが、やはりこのような状況では、戦闘指揮者は安全な場所に閉じ込めて、それに専念させておくべきだろう。
(それは汝が、出来ることならそうしていたいという意味かな)
「ほざけ。私も椅子に座って謀など巡らしているより、こちらの方が楽だっただろうにな。
……ここは放棄する。お前たちは状況に応じて移動し、手近な戦闘部隊と合流して行動しろ」
自嘲しつつ、二人の”遠隔視”に指示を出す。
「転換する次元よ」
タルタスは妖術を構築して呪文を唱え、島の東側の前線に転移した。