05.自由変形
時刻は、午前八時に差し掛かろうとしていた。
広範囲を切り開かれた森の中に広がる街で、一条の土煙が西から東へ、太陽を目がけて直線を描く。
突進し続ける土煙の先頭にいるのは、一人の女。
鎧よりも重厚そうな靴を履いたその足は、一秒に二歩程度の頻度でしか動いていない。
しかし路面を蹴る足先の速度は音速を超えており、歩幅は一歩がおよそ二十メートルを超える、そんな非常識な走り。
「(時速130キロメートル……)」
アダは体内の速度計の数値を確認しながら、胸中でその数を口にしてみた。
高速道路を突進する自動車の速度であって、人間が生身で走った時に出て良い数値ではない。
全身の強度、駆動出力、さらに速度までもが、人間の肉体の数十倍から数千倍の強度を持つ素材で構成されている擬人体だからこそ、彼女はこうして無人の市街地の幹線道路を、このような速度で走ることが出来る。
だが、そんなアダを追う影が、二百メートル近い上空に一つ、二つ、いや、十以上。
箒にまたがり、携行兵器を構えた男女の姿。
魔女。音速で飛び回ることが可能な空中の歩兵といって良い存在だ。
アダもその気になればまだ走る速度を上げることも出来るが、障害物の多い市街地でそれは現実的ではない。
一方、魔女は障害物を気にせず、音速――時速1200キロメートル超――で彼女を追うことが可能だ。
(つまり圧倒的に不利ってことよね)
「(黙ってて!)」
前腕から聞こえる音ではない声を黙らせると、アダは急角度で家屋の外壁の角を蹴り潰し、反動で進路を左に曲げる。
そこにわずかに遅れて殺到した無数の実弾・魔弾が、狭い交差点を赤い染料で埋め尽くした。
ここは演習場、そして彼女は実戦形式の演習に臨んでいるのだ。
アダは彼女に集中する殺傷力のない火線を、それでも懸命に、全て回避して走り続ける。
だが、彼女を追い立てる魔女たちの攻撃は激しくなり、アダの着ている頑丈な戦闘服には既に近い距離で破裂した染料弾の飛沫が無数に飛び散っていた。
生身の人間の実戦での状況に例えれば、直撃こそしていないが破片などで全身が裂傷だらけになっているはずだ。
だがアダならば、たとえ飛び交う弾丸が実弾であろうと行動可能な状態なので、直撃を受けなければ撃破の判定は受けない。
彼女は足は止めずに両腕を脇に絞り、念じる。
「行くよ、もう一人の私――エスティエクセラス!」
(了解!)
彼女の前腕の中に収まった二振りの短剣に新たに銘じられた銘を呼ぶと、狭い歩道を備えた二車線の道路へと出る。
腕を勢い良く左右に突き出すと同時、二本で一対、鋭利な短剣が蝶番と往復機構の働きでばしゃりと腕の外へと飛び出し、両手首から先、それぞれの小指の外側へと、いわば手刀の延長のような配置になって固定が完了した。
この奇妙な武器について、アダは今でも少し、信じられなかった。
あれから、彼女の両腕のこの仕組みについて、カトラから説明はされていた。
「これは、”両の目”がベルゲ連邦から政治的な取引で手に入れた、特殊な材質で出来た武器です。中世の魔女が作った作品群の一つで、関係者には”霊剣”と呼ばれているようです。
本来ならば、製作時に既存の人物の人格を複写し、複数世代に渡って運用されることで、魔女の生理的寿命の限界を超えた超長期的な時間を通して戦闘経験を蓄積し続けるためのものだそうだけど……残念ながら失敗作らしく、硬度以外には取り立てて特徴がありませんでした」
(私失敗作!?)
「気に病むことはないわ。ヒルモア博士がアダさんの体にあなたを組み込んだことで、擬人体の核になっている永久魔法物質と連動するようになったのか……とにかく既に、想定する機能を発揮するようになったようだし。恐らく、その際に物理的に最も近くにいたアダさんの人格を複写してしまったのね。銘は無かったけれど、表面に印刷なら出来るわ。こういうのはどう?」
その時、カトラが映写図面にして提示した名前が、特殊な印刷技術――本国を抜けだして行動しているカトラにも持ち出せるような、啓蒙者にとっては他愛もない技術らしいが――で以って、刃の腹に記入されている。物理的な凹凸を持つ刻印ではないので、厳密には銘ではないが。
アダと霊剣、両者の境遇になぞらえたのか、「既に復活を果たした」という意味を持つ形容詞。
すなわち、復活せし名を持つ霊剣の誕生である。
アダはそれを、右脇に立っていたバス停の看板へと突き刺した。
そして、命じる。
「防空退避殻に、なぁれっ!!」
染料の詰まった弾丸の群れがアダを真っ赤に塗りつぶす前に、彼女の手の指す先に傘のように広がった、直径3メートルの耐爆殻がそれを全て防いだ。
霊剣と擬人体とが共同することで発現した力、自由変形。
霊剣エスティエクセラスの刃を差し込んだ物体を、任意の範囲で一時的に変形させ、物性すらも変えてしまう。
今回はバス停の看板を変形させ、強固な盾としたのだ。
これで行動不能判定は免れたが、なおも足を止めず、アダは続けて集中した。
自分の腕と一体になっている霊剣エスティエクセラスを通じて、手指の組み方を替えるイメージを、更にその先の、束縛されない形状を念じて叫ぶ。
「対空機関砲に、なぁれっ!!」
元はバス停の看板だった耐爆盾が変形し、今度は彼女の右腕の肘から先を霊剣ごと包み込む火器となった。
一本の銃身を備えた、全長1.6メートルの重機関砲。
それが、空中を機動する魔女たちに向かって発砲する。
ただし発射されるのは、魔女たちの武器と同様、塗料を内蔵した弾丸だ。
常人の2000倍の分解能を持つ光学機器――目と、不覚筋動を生じない腕ならば、照準器や視覚拡大の魔法に頼らざるを得ない魔女たちよりもはるかに正確な射撃が可能となる。
塗料弾は通常弾頭よりも脆弱で初速も命中率も劣り、更に疾走中という難点はあるが、それでもアダの放った弾丸は、魔女たちの戦闘服の表面に幾つかの黄色い塗料の花を咲かせた。
実弾であれば、人体は当たった箇所からちぎれ飛んでいる状態。そうした判定を受けて、魔法術での防御が間に合わなかった者は着地して死傷判定を示す白い頭巾を被った。
そうして、徐々にアダが敵の魔女の数を減らし始めた時。
「――!?」
その演習場にいた全員が、異変の兆候を感知して市街の中心へと注意を向けた。
魔女と呼ばれる人種は純粋な人間に備わった五感以外の、第六の知覚を備えており、これによって魔法術が行使される際に発生する魔力線の像や波長などを感じ取ることが出来る。
彼らが感じ取ったのは、転移の魔法術が行使される前触れ。魔女や妖族の間で術を用いた戦闘の際には、行使に先立ってどうしても発生するこの予兆を、いかに早く感じ取り対策を取るかということが重要になる。
しかしその発動速度は、彼等の基準と比べてあまりにも素早かった。
「遷し給え!」
「行く先は風と共に!」
市街の中心である36階建ての高層建築の屋上に、二人の男女が出現する。
背の高い赤い髪の男は、アダにとっては先にも面識のあるグリュク・カダン。剣と円形の盾を構えている。
黒髪を腰まで伸ばした少女は、先程初めて知り合った、グリゼルダ・ジーベ。こちらは自分の背丈ほどの長さもある直剣を構えていた。
『抜かれました!』
アダを狙い撃っていた魔女たちの指揮官には、別働隊から無線で連絡が入っていたが、それももう遅い。
異変に気を取られて空中運動が鈍った魔女たちに、アダは更に塗料弾を浴びせて三人の撃破判定を奪った。
そして、市内を一望する位置に陣取った二人の魔女の携えた魔具の威力が発動する。
グリュクの盾は、塔の刻印の盾。
グリゼルダの剣は、巨神の針。
いずれも今は眠っているそれぞれの霊剣とは別に与えられた代替品だが、どちらも強力な探知能力を備えた魔法の道具だと、アダは聞いていた。
それが、効果を発揮する。
(来る、集中して!)
魔女たちの第六の知覚を微弱な電流のように刺激する念動力場の波を、アダも復活せし名を持つ霊剣を通じて感じ取っていた。
アダが市街地を走り回って魔女たちを引きつけたからこそ、彼らはあそこまで無防備な状態で、魔法の道具の操作に集中できるのだ。
なおも攻撃はしてくる魔女たちの射線を回避しつつ――反撃で人数を減らしているので、それも若干容易になった――、いつでも次の行動に移れるよう、意識を切り替える。
「(アダ!)」
その時、復活せし名を持つ霊剣とは違う、しかし同様に音ではない声がアダの脳裏に届く。
あらかじめ練習はしていたが、肉声と同様のイメージで聞き取れるこの声は、グリュク・カダン。
アダの位置からは角度の関係で姿は見えなかったが、市街の中心にそびえ立つ高い建物の屋上で、盾を構えているはずだ。
「(特定できた! 42丁目の1番地、ワニの看板の劇場の中!)」
「了解っ!」
アダの脳――演算装置の中には、彼女と魔女たちが演習を行っているこの市街地の地図が全て入っている。本番の際にはエンクヴァルの地図を入れることになっているが、擬人体の力はこれだけではない。
プラウツ公国ゼビゴ県エニレンメ市、42丁目1番地。
そこに所在する劇場を特定すると、彼女は”交感・運動強化機構”――加速装置を起動した。
同時、彼女は走りだし、蹴った地面が爆音を上げた。
音に近い速度で走り始めた彼女の耳には、その音も相対的な音程が低下して、やたらと低く聞こえる。
外部からは、アダが突然、見えない巨大な指にでも弾き飛ばされたように見えただろう。
だが、これは彼女が意図して起こした現象だ。
全身の機能を一時的に強化し、演算装置も一時的に速度を上げる。これにより、人間の動体視力では捉えることも困難な亜音速で走ることが可能になる。
それはつまり、地上でも魔女たちに劣らぬ速度で走り、目標に近づけるということだ。
道路の舗装に足型を刻みこみながら、アダは劇場まで一直線にたどり着ける大通りに出た。
街は無人、更に障害物のない直線道路。これならば、亜音速まで加速することが出来る!
擬人体の少女が、土煙を巻き上げつつ一気に加速する。半世記の間放置されて古びきった舗装はその衝撃で砕け、飛び散っていった。
彼女の履く靴が頑強な作りの特別製になっているのは、この衝撃で靴を壊さず、足裏の摩擦保持力を保つためでもあるのだ。
彼女を後ろから追う魔女たちの射撃は土煙で乱され、当たらなかった。
あらかじめ自分たちの守る標的の位置を知っていた魔女たちは、先回りをして懸命に迎撃をする。
だが、
「惑わせッ!」
「キャンバスは色とりどりに!」
今度は探知を終えて転移してきたグリュクとグリゼルダが、煙幕や着色弾、更には念力の魔法を放って魔女たちを撹乱し、アダを援護してくれた。
加速開始から客観時間にしてわずか15秒で、劇場までの距離は700メートル。
アダは復活せし名を持つ霊剣で形成していた機関砲を更に変形させ、彼女の肘から先の右腕は、新たに四連装の噴進炸裂弾発射筒に包み込まれた。
街全体がそうなのだから、劇場も当然無人だ。
遠慮なく照準をつけて引き金を引くと、先端からは四発の噴進炸裂弾が、肘の付近からは彼女の体に当たらない角度で高熱の後方排気が吐き出された。
演算速度を上げたことで主観時間が加速しているアダが見ても、炸裂弾は後方に噴射煙を吐き出しながら、かなりの高速で飛翔していた。
そして、あの日のヒルモア邸で見たような爆発を起こして、劇場の外壁は破壊された。
アダは演習開始前にグリュクたちと話した内容を反芻し、自分で作った穴に突入すべく路面を蹴る。
「(これで中の目標を確保できれば、私たちの勝ち――)」
だが、そこで予想外のことが起きた。
「(体が……めちゃくちゃ熱い……!?)」
戦闘に伴う興奮で火照っている、などといった次元ではない。
擬人体の自己診断を参照すると、頭部の温度が600度を超えて、危険な領域に入っていた。
擬人体を構成する合金や化合物は、基本的に熱に強い。
だが、今の彼女は断熱性能の高い体表からではなく、演算装置などもある頭部が高温になっているのだ。この上まだ温度が高まり続けるならば、体表にまで熱が伝わって衣服が発火や分解を起こしてもおかしくはない。
(冷却が全然追いついてないよ!?)
「(何で……)」
以前加速した時とは、明らかに異なる感覚。
身体の平衡が怪しくなり、加速が強制的に解除される。
体が重く、熱い。熱すぎる!
「(まさか、これが……恋?)」
(絶対違うと思う!)
脈絡のない妄想を巡らせたそこで、彼女の意識は途切れた。
それから一時間ほど経った。
グリュクは、既に他の演習参加者たちと共に、演習地となったエニレンメ市の中心から10キロメートルほど離れた小さな町に来ていた。
演習は中止になり、グリュクがグリゼルダと共にアダの様子を見に来た直後のことだ。
擬人体の娘は、連れの少年が必死で看病――というか、原因究明が近いか――をしている最中に目を覚ました。
そこは様々な機械が並べられ、やや手狭になった部屋。
正確には、大型輸送車を改造した、アダのための移動施設の内部。
その中央、普通のものでは彼女の体重がやや負担になるのだろう、しかしそれでもしっかりとシーツなどで設えられた頑丈そうな寝台で、アダ・オクトーバがゆっくりと体を起こす。
「あれ、坊っちゃん……ここは……?」
「カトラさんが用意してくれた治療施設車だよ! 心配したんだぞ!?」
「ごめんなさい、走ってたら気が遠くなっちゃって……」
グリュクたちが先ほどまで参加していたのは、神聖啓発教義領の首都に突入後、啓蒙者の神であるという”始原者メト”を探し出すための訓練演習だった。
戦災保存地域として指定された、現在では無人の街をエンクヴァルに見立て、今は休眠している霊剣の代わりに貸与された魔具を用いて広範囲を検索、目的とする特定の器物を探しだし、それを確保する訓練だ。
段取りとしては、アダが敵の役を負ってくれた魔女たちを派手に動いて引きつけ、グリュクとグリゼルダが魔具を使って目標を探知するための隙を作る。
そしてその間に、グリュクたちが目標の位置を特定し、今度は霊剣の力で加速と火器の即席製造が可能なアダがその座標に突撃し、対象を確保することになっていた。
だが、結果的にアダは最後の段になって意識を失い転倒、こうして連れの少年に気遣われながら目を覚ましたのが、今。
呆れ半分、賞賛半分といったところだろうか、彼の傍らのグリゼルダが話しかけた。
「ていうか、アダさんて本当に頑丈なのね……亜音速のままずっこけて瓦礫だらけの劇場に突っ込んでも埋もれただけで、肌どころか髪の毛まで無事だし。すごい音してかなり血の気が引いたんだけど」
「体中そういう作りなのでしょうがない訳です」
既に彼女もアダの出自は聞いており、アダの方もさして気になってはいないのか、答え方はぞんざいだ。
そこに、扉を二回叩く音と、声。
「お邪魔するわよ」
入ってきたのはカトラだった。本来この地にいるはずのない啓蒙者の女は、全く変わらぬ飄々とした空気を引き連れて、グリュクたちに尋ねる。
「アダさんはどう? 目が覚めたようね。気分はいかが?」
「今はいいと思います」
答える擬人体の娘に、カトラはにっこりと頷いて火のついていない煙管を小さく振った。
「何より。今回の訓練で問題が発覚したのも、本番でこうなる事態を考えてみればはるかに良いことだったわ」
グリュク自身は、王国にいた頃は啓蒙者とは何度か話をしたことがあった。
大抵は、身の上に哀れを催されての事だったが。
しかしそうした記憶や、霊剣ミルフィストラッセから受け継いだ大戦時代の敵としての啓蒙者に対する記憶を総合すると、このカトラ・エルルゥクという啓蒙者はどうも、彼らとはどこか違っているところがあるように思われた。
感性が純粋人や魔女に近いということなのだろうか、幾分と”普通”に感じるのだ。
「(いやいや……)」
意思の名を持つ霊剣の記憶を含めても、彼が人となりを知ってる啓蒙者は十人に満たない。
参考に出来る例がその程度の数しかない状態でどうこうと独断を固めてしまうのは危険なことだと、彼はその思考を振り払った。
カトラはそんな彼の邪推じみた胸中を知る由もなく――知って欲しくもないが――、アダに話し続けていた。
「アダさんの体温が大きく上がっていたのは、無人観測機の装置でも捉えていました。順当に考えれば、演算と運動の量が爆発的に増加したことによる排熱不良だと思うけど……これは色々とデータがいるわね。もしかしたら、昨日色々と設計図を読んでもらったことと関係があるかも知れない」
設計図とは、カトラがどこからか用意したいくつかのベルゲ連邦製の携行火器の図面だ。
先の訓練演習で塗料弾を発射した機関砲や、劇場の壁を破砕した四連装噴進炸裂弾発射筒などについてのもので、一種類あたり仕様書を含めて数十枚から数百枚に及ぶ。
それを読み取ることで、擬人体が記憶した構造の情報が復活せし名を持つ霊剣を通じて魔法術として発動し、魔法物質で形成された兵器として出現するのだ。
生物を変形させたり、無生物を生物に変形することは出来ないが、理論の上では造花の束や体全体を包み込む衣服のようなものであれば形成、維持が可能だという。
通常の魔法術では、噴進弾のようなある程度以上に複雑な部品で構成された器物を生成するのは非常に困難なので、これは擬人体という高度な機械と霊剣との連携があってこその、驚くべき技能と言える。
「今まで幾つかデータは取らせてもらっているけれど、もう少し情報が欲しいから、エンクヴァルへの突入は何日か先に延ばして訓練を続けてもらいたいと思う。どうかしら?」
だが、グリュクやアダが答える前に、カトラの懐から音が鳴る。
その露出の多い服装のどこに仕舞っていたものか、小鳥のさえずりのような音を立てる手の平大の何かを取り出して指先でつつき、彼女はそれに語りかけた。
「はい、カトラ・エルルゥク」
無線機のようなものなのだろう。
しかし、そこからどんな内容が聞こえたのか、それまで穏やかというほかなかった彼女の表情が、険しく急変する。
「……承知したわ。すぐに対応します」
無線機を懐に仕舞うと、カトラは軽く一息を吐き出して、その場のグリュクたち四人を見渡して告げた。
「今しがたの発言は訂正しなくてはね……みなさん、啓蒙者とそれに従う人類の国々が、侵攻を開始しました。我々は、急ぎエンクヴァルへと向かいます」
「ちょっと待って。啓発教義が攻めてくるなら、西からじゃ無いんですか? そっちは大丈夫なんですか?」
グリゼルダが小さく挙手をして尋ねると、カトラが答える。
「その通り。陸海空を取り揃えた、西からの大攻勢です。ただ、我々の目的を忘れないで。彼らの首都に突入して始原者メトに接触するのは、この機を置いて他には無いわ。何より、東からも啓蒙者の別働隊や、前大戦時より大きく強化された啓発教義連合の艦隊が来ていることでしょう。妖魔領域はいまだ、それを迎撃する準備を整えきってはいません。
我々がエンクヴァルに突入して神聖啓発教義領の動きを鈍らせることが出来れば、魔女と妖族の連合軍はその分楽になるはずです」
それは、グリュクにとっては戦略・戦術として正しいように思えた。
準備が出来ていないというのは、恐らくは半年前、彼の妻であるフェーアを奪還するために、グリュクが妖魔領域で最も支持率の高かった王子、フォレル・ヴェゲナ・ルフレートを決闘の末に殺しているからだという可能性が高い。
彼が今も生きて妖族たちをまとめあげていたなら、このような急な事態にも、妖族たちは一丸となって立ち向かえていたかも知れないのだ。
現在、グリュクはヴェゲナの妖族たちから特に何か追求をされてはいないが、もしも啓蒙者の攻勢を支えきれずに妖魔領域の諸国が大きな被害を受けた場合、残った妖族たちがフォレルを殺したグリュクに対して、非難するだけに収まらない何かをしてくる恐れもある。
だが。
「(……俺は自分のやりたいことを成し遂げたけど、その間に八人の狂王の子を殺した。これがその後始末になるって言うなら、そういう意味でもやらなくちゃいけない)」
意思の名を持つ霊剣も、彼の腰に帯びられていればそう言っただろう。
無論、グリュクにとっては妻と暮らしているこの移動都市が活動している大陸東部が焦土になっては困るという理由も大きかったが。
グリュクとしては、特に迷うことも無さそうだった。
ただ、出発するにしても妻に伝えられる事情は全て伝えてからにしたいという心残りがあった。
「こちらの突入の準備が整うのはいつ頃になりそうですか?」
「既にセオ・ヴェゲナ・ルフレート殿下に遺跡船の使用を打診していました。今の通話で、彼の承諾を得たことも判明したわ」
「じゃあ、もうすぐか……今の内に家内に話をしておきたいんです。一度ヴィルベルティーレに戻ります」
「……そのことなんだけどね」
「?」
カトラが言葉を濁した意味は、この後すぐに理解出来た。