02.聖女の強襲
「坊ちゃん、おはようございます」
「おはよう、アダ」
あれから一ヶ月が過ぎて、気候は暑さを減じつつあった。ヴィットリオも、アダの身に生じた変化に慣れて来ていた。
最初は顔があるだけの服飾店の人形のようだったアダも、啓蒙者の協力を得て人間らしく見えるよう、様々な外皮装飾を追加されて行った。
顔の造作や髪や歯型は生前の彼女を参考に、啓蒙者の技術で十八歳になったアダのそれを精緻に予測して調整・再現された。
外見上はすっかり大人になってしまった彼女の姿に、自分が冷凍睡眠でもしていたとしたらこんな感覚かと、空想科学じみたことを考えるのだった。まあ、啓蒙者技術というものが、既に空想のような代物ではあるが。
とはいえ、彼女に振られた仕事は今までと変わりない。
例えば、ヴィットリオの自習の手伝いなどだ。
家庭教師もいるが、彼自身も啓蒙者の技術に興味を持っており、父親の助けもあって既に科学の素養は下手な専門家を上回っている。
教科書などでは補いきれない部分の知識と知見を得るために、父や彼の部下の研究員たちが使う大書庫に収められた論文集などを読むこともあるのだ。
もっとも啓発教義の国々においては、論文というものは大抵が、啓蒙者に与えられた技術を解析することに主眼が置かれているが。
『自然科学月報』、『工学解読』、『スキエントゥム・ヴィア・レリギア』、『季刊渉猟』。
論文集のタイトルを列挙した紙をアダに渡すと、彼女はそれを集めに行ってくれる。
その間、ヴィットリオは普段あまり読まない分野――土木建築や経営関係などの雑誌の表紙に軽く目を通す。時折、興味深い記事が載っていることがあるためだ。
アダが生身の肉体だった頃のその習慣を再開できたのが、彼には嬉しくて仕方がなかった。
擬人体になっても同じことを手伝わせてしまっていることを彼女がどう思っているかと考えると、その気持ちも萎んでしまったが、それでも彼女が嫌がる素振りも見せずに協力してくれるので、表面上は彼も、気にしていないように振舞っていた。彼女と母のレーダとの関係も、問題は無いらしいのは幸いだ。
二階で目当てのタイトルを漁り終えて、階下の閲覧室へと持って行く。
が、
「あっ」
物思いに耽っていたためか、階段を降りている最中、うっかり右足が左の膝裏に引っかかった。
バランスが崩れる。学問ならばともかく、運動などはあまり好まなかったヴィットリオには、立て直しが不可能な所まで!
両手で抱えた本のために、急速に迫って来る三つ下の段の角から顔面を防御することも出来ず、彼は自分のうなじのあたりに寒気が走るのを実感する。
「!!」
だが、気づけば彼は階段を転がり落ちて首を折ることもなく、アダの右腕に抱きかかえられていた。
「ご無事ですか?」
「ぅ……うん」
前のめりになったまま、頷く。アダの体勢を見ると、どうやら全力で駆け下りてきて彼を受け止めてくれたように見える。彼女はそのまま優しく、腕を動かして無理なく姿勢を戻させてくれた。
見れば、彼女の左手には彼が取り落とした本が全て載せられている。まさか、全て空中で受け止めたのか。
「……すごいね。それも擬人体の性能なの?」
「えへへ……博士は交感・運動強化機構って呼んでましたけど……加速装置とかって言う方が分かりやすいですよね。そう、加速装置。
一時的に演算脳の計算速度を上げて、冷却系も増強するんだそうです。普通の人の動体視力じゃ捉えきれない速さで動けるんですよ」
「すごいけど……アダは何だか嬉しそうに見える」
「嬉しいです。今度はちゃんと、坊っちゃんを助けられました」
そう言って、アダは自分で集めてきた論文集とメモを彼に渡してくれた。
喜ぶべき台詞を聞いたはずだが、ヴィットリオにはそれが堪える。
一度死んでもなお、アダは彼を案じてくれているというのに。
「ああ、ごめんなさい坊っちゃん、もうそろそろお父様との約束の時間ですので」
壁掛けの時計を見て彼女が言ったその台詞に、自信が抱いた感情。ヴィットリオはそれが何なのかまだ分からないままだったので、彼はただ、尋ねた。
「また?」
「ええ……まだまだ司祭様たちも実際のデータが欲しいそうですから」
「……辛かったら言ってね?」
「はい。でも、ご心配には及びませんよ。今じゃ坊っちゃんだって――」
そう言うと、アダは正面からヴィットリオの両脇の下に手を差し込んで持ち上げる。
「うわ!?」
「高い高ーい!」
そのまま階段で彼を軽く振り回すようにアダは一回転し、自分よりも上方の段へとふわり、彼を下ろした。
ヴィットリオが驚いて抗議する前に、彼女が微笑む。いや、何をこらえきれないのか、笑っている。
「うふふふふ……」
「アダ!」
「ふふ……ごめんなさい、坊っちゃん。同い年の男の子の体重がこんなに軽いなんて、この体も意外に悪くないって思います。それじゃあ、失礼しますね」
そう言って擬人体の娘が足取りも軽く、階段を降りて書庫を出、施設の方へ向かう。
ヴィットリオはそれを、少しばかり釈然としないものを覚えながら見ていた。
アルセニア王国の港湾都市リァツゴーは、大内海中北部に位置する。
南極から海底を通って温度の低い海水が循環しており、これが寒流となって沿岸に昇ってくるため、この地方の夏を過ごしやすいものとしている。しかし逆に冬季の低温はそれなりに厳しく、建築や街路には雪の降る港町ならではの様式が見て取れる。
海面が凍ることはないので海運の拠点としてそれなりに栄えており、商用船以外にも神聖啓発教義領からの船が宣教師などを乗せて到着することがあった。
市有船渠は大型船舶も収容可能なものが四つ存在しており、中でも第一船渠は啓蒙者や啓発教義の関係者が使用することが多い。
そこに、宣教師船が到着した。優れた航空技術と大小入り混ぜて多数の航空機を持つ啓蒙者ではあるが、あまりそれらを誇示するような行為は望まない。またそもそも発着用の空港施設を広範に整備する力が人類にないことから、人類の技術水準に合わせた水上船舶を使って移動することも多い。
本来であれば、ここから啓蒙者の宣教師が降りて船渠を出て、市役所か教会に向かう。
だが、今回は、何時間経過しても誰も出てくることはなかった。
知る者が見れば、何か様子が違うと感じただろう。
だが、その宣教師船の内部に、本来積まれることのない聖別鎧が多数ひしめいていることなど、当事者たち以外には知る由もない。
仮想物質が微小な次元へと蒸発する時に残していったエネルギーが電力に変換され、暗がりの中で装甲と火器と推進器で押し固められた男たちが立ち上がる。
それに呼応するように、重い音を立てて、船渠の天井の遮蔽板が開いた。
正午前の港に溢れる活気を破り、聖別鎧をまとった騎士たちは爆音を立ててそこから垂直に飛び出してゆく。
港に溢れる人々は一瞬それを見上げ、目をみはった。
トンボかハチのように一直線に、ある場所を目指して十数の影が低空を飛んでゆく。
速度もあるが、巌のように重厚な戦闘用の機器で全身を覆われていては、それを着用している騎士の年齢はおろか、性別さえ外からは分からない。
いや、その中に一つだけ、やや華奢な女の姿があった。
他の重聖別鎧とは対照的な、華奢で、しかしそれらを上回る超先進の未来的技術で製造された優美な甲冑を纏い、後頭部には飾り編みをした燃えるような赤い髪。
装甲で覆われてもなお、すらりと伸びた四肢。
背からは金属製の翼らしきものが一対生えており、そこには幾つもの、素人目にもひと目でそうと分かる銃砲の数々が懸架されていた。
「あぁ、聖女さまが背教者を正しに行かれる」
それを見た敬虔な誰かが、そう呟く。
ハトロ・ヒルモアの研究施設にいた人間の内、最初にそれに気づいたのは誰だっただろうか?
彼の息子が廃教会で暴漢に襲われて以来、やや強化された警備体制の下、ある二人の警備員がヒルモア邸の敷地の外縁で警備に当たっていた。
「……?」
一人が気づいた、当初は鳥の群れとも思えた空中の黒点の集まり。それはぐんぐん大きくなり、二人目が気づいた時には既にそこから高速で弾体が射出され、彼らに襲いかかった。
「っ!!?」
弾体はほぼ同時に着弾し、二人は悲鳴も挙げられずに高速の接着剤弾に吹き飛ばされて行動不能となる。急速に変性して膨張・固化する鮮やかな水色の粘液によって、無力化されたのだ。
その二人の上空数メートルを、幾つもの聖別鎧騎士たちが高速で通過した。二人の警備員を気に留める者は一人としていない。
比較的脆弱とはいえ、大型の射出容器に封入されていた接着剤が高速で体に当たるのだから、二人は着弾時に体を強打し、更に舗装された路面を転がって打撲や擦り傷を作って呻いている。一発で人間一人を行動不能にする量の接着剤がもしも口や鼻を塞いでしまえば、窒息の危険さえある。
だが、啓蒙者に大切なのは即死をさせないことだ。
背教と判断された事案の関係者は厳重に拘束し、地上をやってくる後続の回収部隊に任せる。そのために、制圧用の接着剤は大抵の地形で目立つよう明るい青で着色されている。
それが聖女と、それを守る聖別鎧部隊の今回の任務だった。
続いて、背教容疑者の逃走を防ぐため、先ほど同様に警備要員を無力化しつつ、退路を断つ。
屋敷の正門を除いた裏口に向かって、ずんぐりとした重装の聖別鎧騎士が空中から破砕榴弾を撃ちこんだ。
接着剤弾の使用とは矛盾するようだが、この時裏口の側から出てきた使用人らしき不運な老婆も同時に破砕された。
関係者を殺さず捕らえることは教義上大切なことだが、逃げられる可能性を潰すことは更に重要なのだ。
背教容疑者である、ハトロ・ヒルモア博士を捕らえるための優先順位。
『北研究棟を制圧』
『南東の第二研究棟を制圧』
『陸上騎士団から、敷地の包囲を完了したと報告がありました』
耳元の通信機に、淡々とした制圧の報告が立て続けに届く。
啓蒙者によって祝福・生前列聖された聖女、宣教師マグナスピネルは、ヒルモア博士の私邸の正面玄関から五十メートルほど離れた舗装路でそれを聞いていた。
王都で製造された未熟な通信装置による音声通信だが、啓蒙者の製造した聖マグナスピネルの通信装置はその雑音に補正を加えて聞き取りやすくしてくれる。
『私邸屋上から一階までを制圧』
『地下通路を発見、これより突入を開始します』
王国からヒルモア博士に与えられたこの敷地内は、既に爆音と銃声で半ば戦場と化している。制圧の過程で容疑者から数名の死者を出しているとはいえ、基本的には接着剤弾で非武装要員を無力化しているだけのこの場所を、戦場と呼べるならばだが。
聖女は無闇な殺傷はしない。
地上に恒久の王国を作るという、使命のためだから。
作戦は極めて予定通りに進行しており、新たな指示を出すまでもない状況だった。そのまま、完了することだろう。
報告を聞く限り、制圧した場所にはヒルモア博士はいないらしい。ならば、僅かに研究員などが抵抗しているらしい私邸の地下にいることになる。秘密の地下通路などといった脱出経路が存在しないことは確認済みだ。
聖マグナスピネルは、地下の制圧にかかる大体の時間に見当をつけ、そこへ向かった。
あと数分ほどもかからない筈だ。
地下の広く頑丈な実験室で、アダは最後の調整を受けていた。
腕の内部の調整らしく、ハトロは配慮したのか彼女に眠るよう指示し、アダも既に擬人体の機能に慣れつつあったため、すんなりと眠れてしまった。
擬人の体であるアダが眠るというのは、つまり脳に当たる中枢演算機能や身体の平衡維持に割くエネルギーーー人間で言えば起きているだけで消費してしまう力を、擬人体の修復管理に振り分けるモードだ。
人間と違うのは、必要があれば即座、かついつまでも眠り、そして必要な時に起きることが出来るという点。
「アダ、施術は終わったよ。もう起きて構わない」
「はい」
もう一つは、よほど重度に疲弊していない限りは自分の意思で好きな時に覚醒可能な点だ。
施術用の寝台から身を起こし、両腕をゆっくりと動かしてみる。
骨格の軽量化が行われたのか、筋繊維をより出力の高いものに交換されたのか、腕が軽くなっているのを感じた。
「旦那さま、今回は……?」
「……前腕を交換した。これから、使い方を説明する」
使い方。確かにそう聞こえた。
腕というものに、説明を要するような何かの用途があるというのか? アダには分からなかった。
そう訝っていると、ハトロが説明を始める前に、
(危ない)
何かが彼女の耳元で、そう囁いたような気がした。
誰の声かとも思ったが、反射的に気になったのは内容だ。
「(何が危ない……?)」
周囲を見回す前に、地下室の空気を爆発的に撹拌する大きな衝撃が彼女を襲った。思わず両手で顔をかばう。
音と爆風と破片が室内を跳ね回り、研究員たちを吹き飛ばすが、アダだけは九十キログラム近いその自重のために煽られただけで吹き飛ばずに済んだ。
「旦那さま!?」
横から消えたハトロは、大きく吹き飛ばされて壁際で呻いていた。駆け寄って容体を見るより前に、爆発の起きた方向を確認する。
すると、薄っすらと漂う噴煙の向こうから熊じみた影がとてつもなく機敏に滑り出てきて、彼女に何かを向ける。
「(危ない……!?)」
アダは咄嗟に、何かに突き動かされるように転がって寝台から落ちて、頑丈で重い擬人体の調整用の寝台の手摺りを掴んだ。
そして、投げ飛ばす。
接着剤を封入された弾頭はそれに阻まれて弾け、撃った者――粘着剤弾を放った聖別鎧騎士――へと激突する。
ずんぐりとした強固な装甲に包まれていても、自重と同等に近い重量の擬人体用の寝台が不意を突いて高速で激突してきたなら、転倒は必至だ。平衡維持装置にも限度がある。
不運な騎士はもう一人の聖別鎧も巻き込んで、重い寝台と二人揃って接着剤まみれになった。
他にも闖入者がいるのか、拡声器を通したような雑音混じりの声が噴煙の向こうからきこえてくる。
『何事だ!』
「旦那さま!!」
アダはそちらは無視して、ハトロに駆け寄り、声をかけた。体の各所を打ってはいるが、大きな骨折や裂傷などは見当たらない。
ただ、呼吸が弱まり過ぎていた。頭を打ったか。
彼は仰向けになって、絞り出すようにか細い声を出す。
「アダ……離れなさい」
「早く手当てを……!」
「無理だ。このままでは……私は啓蒙者に捕縛される。いや、私だけではない……研究に関わった者は全員、恐らく脳だけしか持たない擬人体に記憶を移動させられて……知っている全ての情報を吸い出されるだろう。それだけは駄目だ」
「そんな……啓蒙者って……何が起きてるんですか!分からないままじゃ、何もやりようが……!」
ハトロがそれに答えようとして口を開く前に、爆音の残響を黙らせるような凛とした声がそれを遮った。
「そこまでです、ヒルモア博士」
飛び込んできたのは女の声。
威力を備え、反論を許さない厳かさを伴うその声を発したのは、華奢な鎧に身を包んだ赤い髪の女。
接着剤まみれになって吹き飛んだ仲間を助け起こしている聖別鎧騎士たちの隙間からいつの間にか現れて、そこに美術品のように佇んでいた。
聖女が構えた重そうな火器の銃口は、アダたちに向かって指ひとつ分ほどもぶれずに照準されている。
「ご自分にかかった容疑はご存知ですね?」
「…………」
「あなたがその擬人体の少女を叛乱地域に引き渡そうと企てた計画は、業務上横領、技術基準擾乱、過失叛乱幇助、電波法違反、外患誘致……総合して、悔悟級の背教と判定を受けています」
「悔悟……!?」
「ですがあなたは貴重な、教義と技術の代弁者。既に悔悟から減刑され、懲役だけで赦されるとのことです。
確かな更生のために、この宣教師マグナスピネルが、あなたを逮捕、拘束することでしょう」
啓発教義には独特の法体系があり、司祭によってその容疑者が啓発教義という宗教文化の上でどのような位置を占めることになるかが判定され、量刑までが行われる。
反省を要するだけであるのか、懲役が必要か。教えに基づく戒めを受けるべき行為であったのか、あるいは教義の根本を脅かす敵であるのか。
背教は、異端や原理的反教義(|汚染種おせんしゅ》と比べれば啓発教義の大系上、罪状としては比較的軽度に属する。
聖女の言葉によれば減刑されたらしいとはいえ、啓蒙者科学の解読に尽力し、人格的にも優れた信徒であったハトロ・ヒルモア博士が、なぜそのような容疑を受けることになったのか?
見れば、ハトロの顔は苦渋に満ちている。
「なお――」
再び口を開いた聖女の傍らに、手錠をされた少年が現れた。
「坊っちゃん……!?」
「あなたの息子さんにも、ご協力を頂いています」
「人質を取るのが、始原者メトの教義か……?」
ハトロが呻いた。健康であればもっと苦々しげに吐き捨てていただろう。
「発言にはお気をつけなさい。減刑が縮小されることもありえます」
「あ……」
聖女は毅然としてそう告げ、一方のヴィットリオは怯えた声を発するのみだ。
ハトロはアダに向かって、なおも呻く。
「聖女の詭弁に惑わされてはいけない。アダ、魔女の国へ逃げて……"両の目"を探しなさい」
彼が言葉とともに、何か小さなものをアダに渡してきた。
小さな、手の平に収まる箱。
それを見て、アダは”両の目”といった言葉よりは、その紙巻煙草の包装のような有様が気にかかり、尋ねる。
「……これは?」
「聖女の前では言えないが、いずれ君にとって大切になってくる。持っておきなさい。それと――」
「……? ……それと?」
気になって先を促すと、ハトロは悲しそうに呟いた。
「息子は何も知らないが、私という背教容疑者の血を引いているから、追求はまぬがれまい。ヴィットリオを……連れていってやってくれ」
そこまでで言うべきことを言い終えたのか、彼女の雇い主であった科学者は懐から何かを取り出した。
握りに押しボタンのついた、何かの遠隔装置にも見える。
「強化機構の使い方は分かっているね。君を今日付で解雇する。私はここを爆破する。君だけなら、ヴィットリオを連れて脱出することが出来るだろう……」
(自爆する。彼は本気よ)
「誰なのよあんたは!?」
どこから聞こえるのか分からない誰かの声に向かって、思わず叫ぶ。
だが、アダにも何故か、確信が出来てしまっていた。
彼は、ボタンを押す。彼女が加速しないのならば、アダもヴィットリオも巻き込む覚悟なのだろう。
装置を起動すると、アダの主観が爆発的に加速した。
擬人体の機構全てが活性化し、周囲の全てが動きを止め、世界は加速する主観の後ろに置き去りになる。
「――――っ!!!」
何と叫んだのかは、覚えていない。
だが、飛び出す。
アダは一秒を数えずに亜音速へと達し、聖女へと突撃した。体重90キログラム、時速1200キロメートルに達する超重量の弾丸と化した擬人体が、動けない聖女を大きく吹き飛ばす――
(ダメ、右に跳んで!)
「(!?)」
またも謎の声。しかしアダは悪寒を覚えてそれに従った。
彼女が一瞬前までいた場所を、装甲に包まれた聖女の前蹴りが通り過ぎていく。
(止まっちゃダメ!)
蹴りを外しつつも、聖女の視線は鋭くアダを追っていた。
アダはぞっとしつつも聖女の機械の翼へと掴みかかり、これを引っ張って態勢を崩そうと試みる。
だが、彼女が引っ張った細長い部品は鈍い音を立てて外れた。彼女が装備していた銃を、懸架箇所から取り外してしまったのだ。
「(うげ!)」
(それでぶん殴っちゃえ!)
謎の声が再度の助言をくれる頃には、既に聖女は恐るべき反応速度で体全体をこちらに向けつつあったが、アダは破れかぶれでその獲物を思い切り振り抜いた。
「でやぁっ!!」
聖女は片腕でそれを防御するも、前蹴りを放ったために片足しか接地しておらず、たまらず吹き飛ぶ。
そこでようやく、アダは加速を解除した。
「坊っちゃん!」
「アダ……!?」
彼からすれば、アダが消えていきなり聖女と入れ替わったように見えたことだろう。
聖女は既に、体勢を立て直しながらアダを追いかけようとしていたが、そこへ更に聖女の翼からもぎ取った獲物を――その時初めて、猟銃のような形をしていると気づいた――投げつける。高速で投げ付けられた銃が聖女に衝突してその体制を更に崩して、アダはヴィットリオを抱き上げ、再び加速した。
加速度で彼が怪我をしないように、慎重に速度を上げていかなければならない。
ただ、その前に。
「(旦那さま……)」
アダは最後に、彼女の恩人であるハトロの姿を探して振り向いた。
彼女が加速装置で息子を奪還したのを見届けたのか、既に自爆装置のスイッチを握って安堵の表情を見せている。
アダは強く足に力を込めた。追いつかれてはならない。
最新の注意を払って階段を駆け上がり、時間が止まっているかのように動かない騎士たちの間をすり抜けて館の外へと抜け出る。
「(まだ敵がいる……!?)」
やはり、駆け抜けた。
屋敷や研究棟を結ぶ舗装路に、背の高い塀で囲まれた緑の多い敷地。
見慣れたはずの庭園には青白い液体のようなものがそこかしこにちらばり――非致死制圧用の接着剤弾だが、さすがに彼女に知る由はない――、それにまみれた屋敷の使用人達が広場に集められ、拘束されている。
その中には、彼女の母のレーダの姿もあった。
「(お母さん……!?)」
聖女を出し抜いたアダの加速装置なら、取り囲んでいる騎士たちを排除して、母や屋敷の人々を助け出せるのではないか。
こちらにいるのはただの軽装鎧を着た従士たちだ。出来るに違いない。
だが、彼女の手の中には今はヴィットリオがいる。
このまま暴れれば、十二歳の彼の体はバラバラになってしまう。
安全なところに待たせて、皆を助けに戻ればいいではないか?
しかし、今度はそこまでの大勢を守って、脱出することが出来るかが問題になる。
聖女は”背教”と言っていた。そこまで大きな容疑が、ハトロ・ヒルモアには掛けられていたのだ。
ならば、アダが一人で暴れたところで、それは背教容疑――ハトロが最後の悪あがきに擬人体を暴れさせたのではないかという疑いを深めてしまう。
レーダたちにも、累が及ぶかも知れない。
本来十二歳の小娘にしか過ぎないアダは、自分がそこまで気を回せることに違和感を覚えていなかった。
元々短慮な性格で、助けを呼ぶより自分で強盗へと挑みかかったアダの思考にしては、冷静すぎるのだ。
擬人体になったからだろうか、加速しているためか?
いや、今はどうでもいいことだ。
アダは決断した。
「(さようなら旦那様、お母さん……!!)」
お母さん、みんな、どうか無事でいて。
アダは足を止めずに一気に駆け抜け、敷地の外へ出る。
その背後ではハトロが起動した自爆装置で大きな爆煙が上がっていたが、彼女は今は振り向かない。
高ぶる感情と共に体全体が熱くなっている気がしたが、それさえも振り切るために走った。
「(騎士のいない所へ!)」
すり足のようにして街路を走りながら、人気のない裏路地を見つけて入り込んだ。
そこで、少しずつ減速、急な制動でヴィットリオに怪我をさせないよう、慎重に加速を解除して停止した。
手加減したとはいえ、脱出時の風圧と方向転換で相当に滅茶苦茶にされたであろうヴィットリオ。
綺麗に櫛の入っていた髪はぼさぼさに跳ね上がり、また明らかに目を回していた。
アダが通り抜けた際の突風で何か手荷物を飛ばされたらしき人の悲鳴が建物の向こうから聞こえてくるが、この際しらばくれるしかない。
彼を優しく下ろして家屋の壁に背を持たれかけさせながら、告げる。
「坊っちゃん、切り抜けました」
「あぁぁ、あ、アダ……目が、回る……」
ヴィットリオが回復するまではあまり積極的には動けないだろうから、アダは他の気がかりに注意を向けた。
「さっきから私に聞こえる声、誰なの。返事をして」
(ごめんね。でも実はよく分からなくて……今はあなたの左右の小手に収まってる)
「!? じゃあ旦那さまの言ってた交換って……!?」
アダは少し青ざめながら己の両前腕を見つめ、手の平を結んでは開いた。
(ねえ、あなた擬人体でしょ? ちょっと怖いかも知れないけど、自分の両手がハサミみたいに開くさまを想像してみてくれる?)
「(うん……?)」
蟹だか裁ち鋏のようになったと思ってみろということだろうか、アダはあまり深く考えず、言われるままに念じてみた。人差し指と中指だけを立てるのとは違うのだろうが、ともかく。
「……!?」
ばしゃりと鋭利な摩擦音がしたかと思うと、アダは絶句した。
肘から手首にかけて、皮膚の一部が何かの部品のように分割線で割れている。
そこに現れたのは、刃渡り二十センチメートルほどの刃。金属とも石ともつかない質感が、裏路地の影で僅かにきらめいた。
今のアダは、小指の外側に沿うように飛び出した刃を持て余して絶句している状態だ。
状況が、理解を拒む。
(私……さっきまで自分のことをあなただと思ってた。ヒルモア博士の屋敷で働くメイド見習いなんだって。でも、違うみたいね)
その声は、アダの精神に直接響くかのように聞こえていた。
だが同時にその台詞が、彼女の前腕からせり出してきた二本の小剣からのものであるということも、実感できてしまっていたのだ。
(まぁ、私が誰かは後で考えましょう。今は坊ちゃんを無事に安全なところまで送り届けることが先決、でしょ?)
自分がもう一人いるような話し方に気味の悪さを覚えつつも、アダは頭を切り替え、提案の通りに逃走路についてを考えるようにした。
屋敷からは抜け出せたが、いずれ警戒がリァツゴー市内の全域に及ぶだろう。市外へと出ることが、出来るだろうか?
正午の鐘が鳴り、最初の存在がもたらした昼餉への感謝を捧げる放送が始まった。