09.霊剣の咆哮
小高い丘の上の式場には、戦闘による破壊の跡が広がっていた。
だが、今は眩しく輝く金色の粒子で溢れている。
光と粒子の出処は、剣士の掴み取った剣。
柄に2つの穴が開いた、柄と刃を一体に成形された神秘の武器。
その銘を、意思の名を持つ霊剣と言った。
「ミルフィストラッセ……!」
ガラスや調度の破片の散らばる床に倒れていた青年が天へと掲げたその剣の刃には、断面を仮止めした痕があった。
だが、それも今や蒸発するように消え失せ、ここに、意思の名を持つ霊剣は復活を果たした。
「……復元しただと……!?」
「グリュクさん……!」
彼は立ち上がりながら、自分のために相棒を取り戻してくれた娘に礼を言った。
「フェーアさん……ありがとうございます。危ないから、今は離れていてください」
「は……はい!」
うっすらと涙さえ浮かべて頷く彼女が、たった二日を隔てただけにも関わらず、たまらなく愛おしい。
身構えたまま驚愕を隠せずにいるフォレルも、今だけは部外者同然だった。
やや名残惜しそうにそこを離れる彼女を見送りながら、グリュクは、夢から覚めた時の、現実との境界が曖昧な気分なのではないかと疑いつつ、再び健在な姿を取り戻した相棒に尋ねる。
「……ホントにお前なんだよな……?」
(御辺も疑り深いな。それよりも大切なことがあろう、今はまだ!)
「…………あぁ!」
止めどなく溢れる涙を今は拭わず、グリュクは意思の名を持つ霊剣を、フォレルに向かって構えた。
右手に霊剣、左手には砂漠の刻印の杖。
(不思議か、フォレル王子。グリュク・カダンの中に残っていた吾人の記憶が、呼び水となったのだ。互いに補いあい、蘇った! 砂漠の刻印の杖の中に、霊峰結晶から放出された魔力、即ち記憶の断片が残っていたこともあるがな……少しだけ、隕石霊峰の記憶も蘇った。太古の記憶也。興味があるか?)
「……随分と饒舌な霊剣のようだ」
「こいつは元々こういう性格でね!」
二刀流で斬りかかるグリュク、フォレルはそれを受け止め、弾き返した。
「フェーアさんのことは諦めてくれ! 彼女は俺との先約があるんだ!」
「くどい、エルメールだ!」
「あんたは、そればっかりじゃないか!」
念動力場と念動力場がぶつかり合い、干渉模様が光の渦となって周囲に渦巻く。
「こんなの不毛だろ! 彼女の気持ちを考えてくれよ!」
「恋人を奪われる俺の痛みの分からん、無神経な魔女が!」
「人を大勢呼んで、式まで挙げて! 彼女の名前を呼ぼうともしないくせに!」
「エルメールの名を忘れたことなど無い!」
剣と術との合間に、互いに譲らず考えをぶつけるために、どこか言葉の足りない応酬が続く。
グリュクは意思の名を持つ霊剣の金色の粒子で互いの内心を共有してしまおうとも考えたが、
(先ほど復元の勢いで粒子が溢れた際も、意識の共有は拒絶された。よしんば共有が起きたとしても、それで剣を収める可能性があるように見えるか?)
「……なら、決める」
フォレルの太陽の名を持つ霊剣が先程から一切発言していないのが気には掛かったが、グリュクは意思を固めた。深く踏み込んで繰り出されるフォレルの突きをかろうじて避け、そのまま薙ぎ払われた太陽の名を持つ霊剣を受け止める。
「(来る――!)」
意思の名を持つ霊剣を破壊した、あの一撃が。
一度受けた今だからこそ、その前兆が感じ取れた。相棒と共にそれを受け止めるべく、踏みとどまる。
「………………!!」
意思の名を持つ霊剣は、フォレルと太陽の名を持つ霊剣による記憶を削った極大の破術の引き起こす破壊に耐え、健在だった。
妖王子が呻く。
「……その杖の力か!」
「バレたか!」
(さすがは第二王子也!)
恐らくそのまま受けていれば、意思の名を持つ霊剣は再び破壊されていただろう。
だが、今回はレヴリスの貸与してくれた、砂漠の刻印の杖があった。
そこに蓄積された大量の魔力線がグリュクの体を通して霊剣へと流れ、身代わりのようになって破術に分解されたのだ。そんな芸当が出来たのも、杖が移動都市を駆動させる強力な魔力炉からのエネルギーを一週間に渡って吸い続けていたからに他ならない。
「帰ったら、レヴリスさんに改めてお礼を言わないとな!」
(同感である!)
「何故こうも……!」
フォレルは震えながらも妖術を構築、それを怒りのままに、声に乗せて解放した。
「何故こうまでも! あらゆるものが! 俺の恋路の……邪魔をするのだ!!」
「護り給えッ!」
怨嗟と同時に全方位へと投射される眩い閃光と高圧電流の嵐を、グリュクはしかし、今や冷静に、漆黒の防御障壁を半球状に出現させて防ぐ。
「あんたがフェーアさんを拐わなきゃ、俺はこんなとこまで来なかったよ!」
その障壁を散弾に変えて撃ち出し、大きく隙が出来ていたフォレルは打ちのめされて吹き飛ぶ。
「研ぎ澄ませ給え!」
「真空の時間を駆けよ!」
再び、両者は複合加速。
二条の稲妻はぶつかり合いながらも大きく暴れ回り、戦いを避けるように遠くから見守っていた妖族の出席者たちも、戸惑いながらもそれから逃げる。
しかし、今は、そこに使い魔などで騒ぎを聞きつけてやってきたルフレート宮殿の警衛戦士たちが加わっていた。彼らは徐々に数を増しつつ連携を強め始め、状況や、全土に祝福されるはずのフォレルの挙式に乱入した魔女についての情報を整理しつつあった。
そこで彼らは目撃した。魔女の剣士と共に使い手の希少な複合加速を用いた戦闘へと突入し、空中から大地へと叩き落とされるフォレル・ヴェゲナ・ルフレートの姿を。
床の構造を吹き飛ばして小さなクレーターさえ作るその衝撃に、客も、兵士も、全ての妖族が驚き目を瞠った。
「……どうだ……諦めてくれる気になったか……!」
「何を……認めるものか……!」
魔女も傷つき、疲弊してはいるが、それを無傷で見下ろしているべきフォレル王子までもが同様というのは、どういうことなのか。
「あんたが諦めるまで、俺は止めないぞ!」
「間男が! 戦士になったつもりかァッ!!」
炸裂念動力場が、二発、三発と空中で激突し、大気を伝わって見る者の眼球さえもを一瞬歪ませるほどの衝撃波となって周囲に弾け続けた。
「甘く見るなよ。三十四人の先輩と、こいつが一緒にいるんだ。少なくとも――」
頭痛はもはや、張り裂けんばかりだ。指先が炙られたように疼き、足裏はナイフを踏みつけているかのごとく。
だが、相棒の饒舌が乗り移りでもしたのか、熱に浮かされたように、舌が止まらなかった。
「自分だけしか頼れないあんたなんかには!」
「束なっただけの魔女ごときになど!」
複合加速のような大きく連続して消耗する術を行使する余裕は、互いにもう無い。
グリュクは神経加速だけを、フォレルは身体統合強化だけを使い、互いに駆け出す。
主観時間が遅くなった世界で、グリュクは、涙さえ流しながら突進してくるフォレルの表情を見た。
彼もグリゼルダの前で、似た顔をしていたのかも知れない。
とはいえ、負けて死ぬ訳にもいかない。グリュクは砂漠の刻印の杖を彼の心臓目掛けて投擲し、フォレルに隙を作ろうと試みる。神経の交換間隔が増していないフォレルでは、それを目で追えても走る勢いは殺せず、霊剣で弾くしか無い。
だが、何とフォレルは防御を無視した。
妖王子の心臓を貫く砂漠の刻印の杖、だがその勢いは僅かに減じたに留まり、それでもなお、鬼気迫る表情でグリュクへと刃を突き立てようとする。
「変われ!」
そこで、加速している主観の中でタイミングを見極めたグリュクの神経加速の魔法術が、連鎖していた魔法術に変形した。
急速に凝固した防御障壁に自ら激突してしまい、フォレルは大きく体勢を崩す。
同時に身体統合強化の妖術も制御を失って消失し、グリュクはそこへ、決定打を放った。
意思の名を持つ霊剣の刃が、左肩から突き刺さった砂漠の刻印の杖の下を通って右の腰まで、フォレルの胴体を大きく切り裂いた。
そこで、グリュクの神経加速も、フォレルの強化も解除される。
迸る血液、フォレルは大きく体を痙攣させて呻いた。
「ぐぅッ……」
飛び退くグリュクから視線を外して、何かを探しているようだ。
傷は脊髄までは切断しておらず、かろうじて立つことは出来るらしかったが、妖族であっても倒れて死ぬしかないような状態で。
やがてその視線が、近づいてきていたフェーアを捉えた。
「エ、エルメール……傍にいてくれ」
「……私は……!」
彼女も、今やフォレルを哀れんでいる。
フェーアならば、血に塗れるのも厭わず手を差し伸べて最後にエルメールだと名乗り、優しく抱擁をするかも知れない。
少なくとも、そうしても何を言うつもりのなかったグリュクは、驚いた。
「……頼む……俺は、俺は……!」
「ごめんなさい、殿下。私は……私の名前を呼んでくれる人の所に行きます」
グリュクどころか意思の名を持つ霊剣まで驚いていたが、彼女としては、譲れない部分なのだろう。その態度はどこか、毅然とさえしていた。
「そう……か……お前、らしい……」
そこで力尽きたのか、フォレルはそう呟くと、血だまりの中に倒れた。
「フォレル殿下……!」
「第三位継承権者が……!」
そこで、二人はざわめきに気づいた。
式場に集まっていた妖族たちが、フォレルに制されて介入しては来なかった妖族たちが、酷く動揺している。
(……無理もなかろうな)
事情はあったが、魔女が、衆目の前で狂王の息子を殺し、花嫁を奪ったのだ。
「フェーアさん、行きましょう」
「え、えぇ……痛みますか?」
「死ぬほど痛いです……でも、良かった」
二の腕まであらわなドレス姿を見た時から気づいていたが、彼女の両手首に施された毒の紋に似た模様を見て、グリュクは以前のものほど厄介な物ではないと判断し、それを分解しようと魔法術を構築した。
彼女が妖術を使えるようになれば、座標間転移の繰り返しで脱出が可能なはずだ。
「うぅ……」
「グリュクさん!」
(主よ!)
だが、一度緊張が途切れてしまった今、激痛を堪えて魔法術に集中するのが難しい。
体が全力で神経に溜まった毒素を分解している最中なので、これ以上は本当に壊死の可能性がある。
「何なんだあの魔女は!」
「魔女が、後継闘争に介入する気か!」
徐々にその負の熱気は高まってゆき、更に指数関数的に溢れて逃げられないグリュクたちを圧殺するはずだった。
「ちょっと待ったぁ!」
その場の誰にも聞き覚えのない声が、そこに闖入してきた。
声のする方を見れば、男の魔女が箒にまたがり、降下してくるところだった。
黒髪を肩まで伸ばしており、服装は、色こそ違うが以前グリュクが出会ったベルゲ連邦空軍の少佐、ミドウ・ユカリを連想させた。
「ご参集の皆さん、申し訳ないが、二人の身柄はベルゲ連邦空軍が保護する! 活かすも殺すも、まずは連邦空軍と話をしてもらいたい!」
大勢の妖族の有力者――つまりはその気になれば大妖術を連発して一方的に彼らを消し炭に出来る者たちを相手にまくし立てる、この男は誰なのか。グリュクの疑問は尽きないが、ひとまず、彼らを守ろうとしてくれてはいるらしかった。
霊剣も、さすがにこの距離では口を噤んでいる。
この軍の魔女は、今のこの場をどう切り抜けるつもりなのか。
「俺も混ぜてもらおうか!」
今度は、記憶に新しい声が聞こえた。
二つに割れた妖族たちの向こうから姿を表したのは、青みがかった金髪を伸ばした、黒衣の美男子。
「セオ殿下……!」
「何だと……!?」
グリュクが彼の名を呼んだことで、まだ名を知らない軍の魔女が狼狽するのが聞こえる。無理もないが、まずはあの妖王子が、大きな助けとなってくれるだろう。
多少の手傷は残っているが、タルタスに負わされた怪我の多くは部下たちが癒してくれたはずだ。
「すまんな。追いつくのに時間がかかった上に、天船は修復中だ」
「そんなことありませんよ……ありがとうございます」
「うむ」
フォレルは小さく頷くと、懐から紙を取り出し、妖族の有力者たちに向けて高く掲げてみせた。
「見ての通りだ! 皆! この度は俺が、客人への危害を理由にフォレル兄上に決闘を申し込むはずだった! それをタルタス兄上が横槍を入れたがために、こうして彼を代理に指名したものだ! ここに血判もある!」
「何と――セオ殿下が――」
「タルタス殿下は確かに――そうしたことを――」
何も事情を知らない彼らにとっては仕方のない事だが、グリュクは苦々しさのあまりに口の端が引きつる。
天船を操り領域全土の空を駆ける、やや変則的ではあるもののこちらも妖族の英雄として名の知れたセオが味方についてくれる。それにしても良くそこまでこの状況で口が回ると、感嘆さえしてもいい。
だが、安堵が加速したためか、グリュクの頭痛は更に悪化した。
「おいおい、大丈夫か!」
「はい……ていうか、あなたは、痛って……!」
(主よ、気を確かに持て!)
「ん? 誰の声だ今の、て、おい! グリュク・カダン!」
全身をくまなく刃物で刺され続けているようで、ついには体重を支えられず崩折れそうになったグリュクを、フェーアと名を知らない魔女が両脇から支えてくれる。
「グリュクさん、しっかりしてください! あ、ほら! あれは――アムノトリヌスじゃありませんか! トラティンシカさんの船ですよ――」
(主よ! 死ぬな! 吾人を置いて行く気か!)
「……分かってるよ。分かってるから、今は……」
グリュクの意識が途切れようとするのを、更なるどよめきが聞こえて邪魔をする。
「何だあれは――」
「えっ――」
フェーアとセオに、空軍らしき魔女までが、未だ昼をわずかに回ったばかりの西の空の彼方を見ている。
グリュクも、何とか首をもたげてそちらを見る。
『あ、あの浮遊兵器! まだ生きてましたの――!?』
グリュクも、忘れるはずがなかった。合体天船で式場へと向かうグリュクたちを襲った、巨大な浮遊城塞。
遠目にも分かる大きな損傷を負っており、動きも鈍重で今にも墜落しそうだ。だがそこから火砲と魔弾が迸り、防御障壁を張るアムノトリヌスに火力を投射する。
『カイツさん! お疲れの所申しわけないけれど、もう一度炉に――』
『無理に決まってんだろ! あれ一発で俺の体はボロボロだ! 一日二日であんな力が戻るかよ!!』
『お、落ち着いて二人共!』
アムノトリヌスの拡声装置から、トラティンシカだけでなくカイツやグリゼルダの声まで聞こえて、グリュクは再び涙が滲むのを感じた。
だが、浮遊城塞から発射された火砲の一部がは、グリュクたちのいるルフレート宮殿の外れまで飛んできている。
いくら妖族たちの首都とはいえ、あれを今すぐ落とすために使える火力はないはずだ。
グリゼルダも疲労しているのだろう、グリュク同様に圧縮魔弾までは打てない状態であろうし、何よりあの弾雨に晒されては反撃に船外へ出るのも危険だ。
グリュクは、両肩を支えてくれる二人の手を静かに拒んで、歩き出した。
(主よ、どうした!?)
「……何だか……出来るような気がする」
それは強いて言えば、酩酊の感覚に似ていた。強烈な、自分でもその正体がよく分からない衝動に突き動かされ、痛む足を一歩一歩、踏み出してゆく。
どくどくと暴れる心臓の鼓動も、今は心地よくさえある。
(……何故かな……吾人にも、やれそうな気がしてきたのは)
その剣身から静かに金色の粒子が溢れだし、天へと立ち昇る。歩みは止まらない。
気のせいだろうか、その本流にすっかり包まれたグリュク自身の体からも、粒子が放出されている気がする。
「おい、止まれ! 何する気だ!」
「グリュク!」
「グリュクさん!」
名も知らぬ魔女だろうと、セオだろうと。
例え命を賭して助けだしたフェーアであろうと。
黄金の旋風を引き連れて、満身創痍の霊剣の主は、誰にも止められること無く、歩いてゆく。
「ミルフィストラッセ」
(グリュク・カダン)
人剣一体、記憶は同一。
「行くぞ!」
(いざ参る!)
音であろうとなかろうと、呼応する二つの叫ぶ声と共に、意思の名を持つ霊剣が変形を開始した。
刃が中心線から真っ二つに割れ、柄の側を軸に、切っ先の側が大きく広がり、弓のように広がる。
グリュクの左手に握った柄がわずかに傾き、そして霊剣ミルフィストラッセは、まさに弓のような形状へと変貌を遂げた。
矢は無い。だが、グリュクがあたかもそれが存在するかのように振る舞い右手を引き絞ると、彼の周囲に渦巻いていた金色の粒子がそこに群がるように集まってゆき、巨大な光の矢とも取れなくはない形状を取ったまま、滞流を始めた。
そして、霊剣の主が右手を離すと、その全ての金色の粒子が、空を引き裂く光の瀑流となって空を突進し、浮遊城塞を直撃する。
光の矢、いや、地上に出現した天の河に飲み込まれたその古代の遺産は、爆風も、飛散物も残さず、ただ静かに消滅した。
後には嘘のような静けさが残ったが、それも暖かな春風にかき消される。
「……出来た」
(見事)
意思の名を持つ霊剣は再び変形し、元の剣状の形態へと戻る。
やっと相棒を、元いた鞘に戻すことが出来た。
「……ていうかお前、まだそんな機能があったんだなぁ……」
(容赦してくれ……吾人も……知らなかった)
呟いてみると、自分も霊剣も、互いに熱に浮かされたようになっているのが分かる。
だが、危機は去り、彼に出来ることは、今は残っていないように思えた。
今度こそ、守りたいものを守り切った。
そう感じてしまうと、ますます力は抜け、神経の痛みが鬱陶しい耳鳴りのように全身にこだましてゆく。
フェーアたちの呼び声が近づいてくるのを感じつつ、グリュクの意識と平衡感覚は徐々に薄れていった。
タルタスは目覚めてまずその報を聞き、絶望した。
「……兄上が……嘘だ……!!」
だが、使い魔は首を横に振る。
彼が目を覚ましたと聞いてやってきたチェフカも、同様だった。
「残念ながら、フォレル殿下は亡くなられました……」
彼女も、タルタスが本気で事実を否定していると思っている訳ではないだろう。
タルタスとしても、事実はそれをありのままに弁えなければならないと、理解はしていたつもりだが、それでも兄の死を知って出たのは、子供じみた先の言葉だった。
「………………!」
悲しみを切り離して考えても、問題は山積みだった。
まず、隕石霊峰の採掘事業の継続が困難になる。
フォレルの高い支持率を盾に強行していた状態だったが、彼を失って残った部下たちだけでは、とてもその代わりには成り得ないだろう。
そして、妖魔領域で支持率の低い彼――部下は大勢いるが、純粋に信頼しあえる者は殆どいないと言っていい――が次に隠れ蓑にすべき兄弟で適任な者が、他にはいないということ。
「(ラキュソー兄上は未だ行方不明。ヤクネ姉上が私を近づけるとも思えん……)」
嫡子部隊などというものを秘密裏にとは言え運用していた彼に従う弟や妹に、有力な者が残っているとも考えにくい。
そこに加えて、ローエンボウ伯と彼に移植した大量の霊峰結晶、そして彼から鹵獲した“もう一つの宝物庫”から出土したという浮遊城塞が失われた。
フォレル亡き今ではその調査・採掘権も、セオの妻となって大円卓での発言力が増したトラティンシカ・ベリス・ペレニスに奪われてしまうかも知れない。
霊剣使いとしても、意思の名を持つ霊剣に生じたという弓状形態への変形という現象を直に見られなかったのは痛手だった。未知の脅威が、また一つ増えたのだ。
フォレルという強力な支柱を失い、彼の企ては大きく巻き戻されることとなった。
「ウィルカも失った……! パノーヴニク……私はどうすればいい!」
(それこそが、他者の上に立つ苦しみ。真に理解したようだな、余が主よ……)
最後に頼るべきその声が、今はどこまでも虚しく聞こえた。
フォレル・ヴェゲナ・ルフレートの死は、妖魔領域を揺るがした。
所在の知れない最長男であるラキュソーに、第二位でありながら秘境に閉じこもっている最長女のヤクネを除けば、二代目狂王を襲う者として最も有力だったのが、フォレルだったのだ。
次がタルタスではあるが、彼は権謀術数を好み、また妖族唯一の聖地である隕石霊峰で霊峰結晶の採掘事業を行っており、政治や司法の枢要に食い込む有力な豪族たちからはすこぶる評判が悪い。
その次が、何組かいる双子の嫡子のうちの最上位、ハナルースとマナルースの姉妹だが、どちらを立てるのかという問題が噴出しかねなかった。更に下っていけばそれなりの器を備えている者もいるだろうが、基本的にはフォレルの次として妖族全ての期待を集めるのは厳しいといったところだ。
第十三位であるセオが第十二位のパピヨンと協力体勢を模索し始めたが、妻を迎えても衰えを知らない彼の風来坊気質は賛否が別れ、パピヨンも近年まではグラバジャ辺境伯領に守られたまま冷凍睡眠で闘争をやり過ごしていたこともあり、声望を得るには時間がかかるだろう。
ごくごく乱暴に総括してしまえば、妖魔領域は再び混乱するかも知れない、ということだ。悲しむ者も大勢いたが、歓迎する立場の者もまた多かったのは間違いがない。
変わった所では、彼ら。
「フォレル殿下に続き、更にアークェネイ殿下以下八人の継承権者がお亡くなりになったことが判明いたしました。それぞれ信頼できる情報を再審査し、継承権順位の再整理と周知を、厳粛に遂行されますよう」
「はい」
「その通りです」
「全力を尽くしましょう」
埃一つとして無い広大で静かな書庫の片隅で、年老いた妖族たちが小さな灯石の明かりの下、静かに合意した。
彼らの名は、継承権順位考証委員会。
闘争や病気などで嫡子が死亡すると、彼もしくは彼女を除いて長子から順に継承権順位がどう変わるかを確認し、関係各所に通達するのが役割だ。
一応は大円卓の承認を受けた公的組織であり、関係各所の数が膨大であるため、一人が死亡するだけでも何ヶ月も費やす大仕事となる。
まして、今回はフォレルを含めて実に九名が死亡した。
タルタスから下の嫡子は継承権順位が一ずつ繰り上がり、二十位だったアークェネイより下は更に一つ、といった具合だ。
初期の作業は夜を徹して行われるだろう。彼ら無くしては、嫡子たちは己の継承権順位を正確に名乗ることが出来なくなるのだ。何より、仕事が出来て暇つぶしの種を探す必要がなくなるのが嬉しい。不謹慎なことだが。
そうした、割とどうでもいい使命感を胸に、彼らは自分たちの戦いを開始したのだった。