06.砂漠の刻印
カスカは戦闘に関しては不得手だ。
ただ、医学、生物学に関する知識は豊富で、妖術を用いた創傷縫合や、臓器の修復・再建を得意としていた。
そのため、フォレルとタルタスの二人に後援者ごと敗れた際にもその特技を買われ、嫡子部隊の一員として生き延びることが出来たのだ。
天船への乗り込みも、霊剣使いの追跡も何とか付いて行き、そしてついに、彼を包囲して追い詰めることに成功した。
これが成功すれば、嫡子部隊は解散、九人は再び、独立した継承権を行使することができるようになるのだ。
タルタスが、そう約束した。ああ見えて、守れない約束をしない男ではあるのだ。
カスカ自身はあまり野心といったものは持っていなかったが、部隊として共に幾つもの作戦を遂行してきた仲間たちに再び陽の目が当たるならば、力を貸すにやぶさかではない。
恋人を奪われ人格剣を失った霊剣使いには悪いが、ここは決める。
「我々には命令を遂行する義務がある。総員、霊剣使いグリュク・カダンを捕獲せよ!」
アークェネイの号令が聞こえた次の瞬間、カスカたちは全員が青ざめた。
霊剣使いが構築している魔法術の内容が、読み取れたためだ。
「(圧縮魔弾……!?)」
炸裂すれば半径数百メートルを消し飛ばす、妖魔領域でも使い手は少ない大威力の術だ。
こんな至近距離で放てば、行使者自身も熱で蒸発してしまう。
「(まさか、自爆――!?)」
だが、そこは最年長にして隊長、霊剣使いを挟んで彼女の反対側にいるアークェネイが素早く破術を構築し――
そして呪文を唱えて妖術を開放する前に、霊剣使いが投げつけた杖の、鋭く尖った石突きに口から延髄を貫かれ、断末魔すら残さず後ろに倒れた。
「え?」
圧縮魔弾を撃つと見せたのは、フェイント。
「(本命は、それを阻止できる速度で破術を行使できる術者を特定すること――!?)」
「飛ばしめ給いて、結べ!」
八人になった彼らが気づいた時には、既に霊剣使いは大きく跳躍、アークェネイの亡骸に突き刺さった杖に念糸を絡めて急速に手元まで引き戻していた。石突きの鋭く尖った鉄色の杖から赤い血が滴る。
そしてそのまま上空から再び杖を投げつけるが、狙われたグレーチャは間一髪でそれを回避。
ディットと双子のエニ、ファニが重力に従い落ちてゆく霊剣使いを無数の連続魔弾で狙い、仕留めようとする。
が、
「集まれ!」
霊剣使いは念動力場を発動し、三人の発射した何千発もの魔弾を目の前の一点に強制的に集め、止めてしまう。
「弾けろッ!」
それどころか、彼は受け身をとって着地しながら集めた魔弾を爆発的に跳ね返し、ファニを庇ったエニがその餌食になった。
「エニっ!!?」
自分たちの放った魔弾で全身にくまなく穴を開けられ、やはり彼女も絶命する。ファニが双子の姉妹の亡骸を抱き起こそうとするが、犠牲は無駄にはならない。その隙に、接近戦の得意なベールとグレーチャ、ハインハインが距離を詰めていた。
三人は一斉に複合加速を発動し、三条の稲妻となって霊剣使いに襲いかかる。
「研ぎ澄ませ給えッ!」
霊剣使いも加速。こうなっては援護などで間に割り込むことは出来ないので、カスカはディット、ハインハインと共に状況を見守っていた。
「鋭き目よ」
神経の交換間隔を加速させて、戦闘の状況だけは目で追えるようにすると、凄まじい戦闘の様子が見えてきた。
ちょうど、ハインハインの拳が霊剣使いの顔面を横殴りにする所だった。
だが、体勢を崩しながらも霊剣使いは両腕で跳躍、ベールの弦魔剣とグレーチャの投剣を回避しながら後退しつつ、爆音と共に何かを吐き出した。
折れた歯だ。
超高速の奥歯が、それをへし折ったハインハインの眉間に直撃、恐らくは頭蓋を貫通して脳を破壊する。
自身の死で複合加速が解除された彼の体は通常の時間の流れに復帰し、そして二度と動かなくなったかと思うと、すかさず霊剣使いはその遺体を盾にして掲げ、グレーチャの投擲した五本の短剣を全て受け止めた。
カスカは目を背けたくてたまらなかったが、出来なかった。
突進して斬りかかったベールが腕を絡めとられて空中に大きく投げ飛ばされると――落下の速度だけは加速されないため、複合加速を使用中の術者は飛び道具でも持たない限り空中に放り出されてしまうと無力化されてしまう――、彼女を無力化したと見たか、霊剣使いは残るグレーチャに接近、本来ならば彼の短剣のほうが有利であろう間合いにまで潜り込み、その手に握っていた杖の石突きを下にしてグレーチャの足の甲を突き刺した。
鋭く尖った石突きはやすやすと彼の右足を貫通して地面に縫い止め、霊剣使いは飛びのく。
彼はグレーチャの投剣が尽きたのを見破ったのか、大胆にも複合加速を解除し、爆裂魔弾の構築を一瞬で完了、呪文と共に解き放った。
「砕けろッ!!」
投げ飛ばされたベールが加速を解除して体勢を整え着地した時には既に、巨大な爆炎がグレーチャを飲み込んでいた。
「そんな……!?」
「結べ」
そして爆炎の中から念糸で杖を絡め取って引き戻し、手元に戻ったそれを振るってファニが放った狙撃の魔弾を苦もなく弾き返す。ベールとディット、イルシュスクが転移も併用しつつ必死で追いつこうとするも、既に遅く、次の瞬間にはごく短時間の複合加速状態から投げつけられた霊剣使いの杖が、妖術を防がれて後退しようとしたファニの頭部に横から突き刺さる。
カスカ自身を含めて九人いた嫡子部隊が、一分と経たずに四名にまで減っていた。
いずれも、治療妖術の専門家であるカスカであっても治しようのない、即死。
「(悪鬼……!)」
遅きに失した感もあるがカスカは神経の加速を解除して駆け出し、せめて囮にでもなればと、不得手ではあるが攻撃妖術を構築して放とうとした。
だが、そこにイルシュスクを体ごと投げつけられ、彼もろともにもんどり打って倒れ、咳き込む。
運悪く、見事に頭突きを腹に当てられた形だ。
「ご、ごめんなさい、カスカ姉様!」
衝突で傷めたのか首筋をさすりながら、イルシュスクが謝る。
偵察が主な役割であるイルシュスクは殺すのすら手間だと思われたのか、全身に数箇所の裂傷を作っただけで、生きていた。
だが、イルシュスクを生かして投げ飛ばしたのが不利に働いたのか、ディットの炸裂念動力場が霊剣使いに当たり、直撃でこそ無かったが、その体を大きく弾き飛ばしてダメージを与えたらしかった。
受け身も取れずに落着し、十メートルほども滑ってその体は止まる。
「やったの!?」
すかさずベールはその後を追い、素早く移動して霊剣使いからやや離れて弦魔剣を構えていた。死んだふりの可能性を考えているのだろう。遠くから魔弾を撃ち込もうとしても、意識が残っているとしたら霊剣使いが魔法術で反撃するほうが早い。
カスカはイルシュスクと共にそこに追い付いた。ディットはやや離れており、何かあれば魔弾を打ち込むつもりだろう。
「ベール姉様……タルタス兄様は生け捕りにと」
「バカか! こいつが仲間を! みんなを殺したのを見てなかったの!? もうタルタス兄上も継承権も関係ない、こいつだけは!!」
視線は動かさず、ベールが激昂する。カスカとて、兄弟を殺した霊剣使いが憎いのは同じだが、殺してしまっては五人の死が無駄になってしまうのではないかという思いも、またあった。
しかし、ベールは弦魔剣の弦を弾いて剣身を賦活化、一気に振り下ろす。
妖魔領域でも最上級の切断力を持つその魔具剣ならば、魔女にすぎない霊剣使いの体など、紙よりも容易く両断されてしまうだろう。
「……!?」
生き残った四人は、その光景を見て青ざめた。
霊剣使いが、素手で弦魔剣の刃を受け止めている!
ベールも妖族、腕力では魔女など比較にならない。だが、振り下ろされた刃は現に止められており、それどころか徐々に押し返されていた。
ベールが剣を握る手に力を込めつつ、狼狽する。
「っ……最高峰の切断性能を持つ弦魔剣の刃を……素手でッ!?」
「ベール姉様! 離れて!」
イルシュスクの悲鳴。カスカたちは誤射を恐れて妖術を放てない。血塗れになった霊剣使いが目を見開いて、呻いた。
「何が最高峰だ……!」
「死ね……死ねってばッ!!」
彼女が冷静ならば、武器を奪われる可能性は高くとも剣を手放して後退していたのだろう。だが、兄や妹、弟達の死で冷静さを失っているのか、ベールは霊剣使いを押し切ることに必死になっており、引こうとしない。
「俺の相棒の方が……この一万倍は鋭かったぞッ!!」
その声を呪文にして、解放される強力な念動力場。
ベールは至近距離でまともにその爆圧を受けてしまい、無残な姿となって吹き飛んでいった。
その光景にも怯むことなくディットが爆裂魔弾を放つが、霊剣使いは受け止めたまま手元に残っていたベールの弦魔剣を投げつけ、飛来したエネルギーの塊を両断。そして剣はそのままディットの頭蓋を断ち割り、彼の背後の樹に深々と突き刺さった。
「あ……あ……!?」
「姉様……!」
血塗れの杖を携えた霊剣使いが、今度はカスカとイルシュスクを見ている。
殺される。
仕掛けたのは彼女たちの方だが、しかし、それにしても、これは。
イルシュスクはもはや正視に耐えかねたか、カスカにすがりついたまま震えている。
霊剣使いが口を開こうとするのを見て、彼女はイルシュスクを後ろに追いやり庇った。
「……これ以上戦う気がないなら、何もしない。俺を生かしたまま捕まえようとしてくれてたみたいだけど、でも俺も捕まる訳にはいかないんだ。悪いけど、彼らは君たちが弔ってやってくれ」
霊剣使いはそういうと、彼女に背を向けて南東に向かって歩いてゆく。
もはや座標間転移などは使えないのだ。魔女の貧弱な変換小体の量では、先ほどのような魔法術の連発はかなり堪えたはずだ。全身に打撲も負っている今なら、攻撃術の不得手な彼女でも、あるいは。
「…………!」
だが、動けなかった。自分が妖術を放つ前に、イルシュスクもろともに消し飛ばされている末路しか想像できなくなってしまっていたのだ。
怯える弟を抱きしめながら、カスカは泣いた。
フェーアは偶然、糸口を見つけた。
やや遠くから聞こえる、リーンとタルタスの戦闘音。
妖族の男が、それを不審に思ってか、頑丈そうな鉄扉の中から広い廊下へと顔を出す。
「何だぁ……?」
彼には失礼かもしれないが、雰囲気からして、使用人や兵士ではなく、部屋に篭って何かを調べているのが似合う容姿だ。
「(チャンス……!)」
もしかしたら、裁きの名を持つ霊剣を拘束して調査しているのかも知れない。
そんな男が、厳重に閉鎖されているであろう場所からわざわざ出てきてくれた。
その瞬間に、運よく出くわしたのだとしたら。
「お邪魔しますっ!」
「!?」
相手が突進してくるフェーアに気づき扉を閉めようとするが、持っていた角材が役に立った。フェーアはそれを閉じようとしている隙間へとを投げつけ、鉄扉が閉まる寸前でその阻止に成功する。
相手が慌てて角材を排除して、再び扉を閉める前に、今度は全力で伸ばした彼女の両腕がそれを押し留める。
「だっ、誰なんだあんた一体!」
男も必死で扉を引っ張り、閉めようとする。
フォレルの妻のエルメールだと名乗れば、或いは彼も耳に挟んでいて手を休めたかも知れないが、それだけはしたくなかった。
「フェーア・ハザクです!」
「はぐッ!?」
正直に名乗りながら全力で頭突きを当てると、相手が怯む。その隙に両腕で掴んだ扉の取っ手を支点に飛び上がり、彼の腹めがけて両足で飛び蹴りを放つと、今度は壮絶な悲鳴を上げて研究者は部屋の奥へと吹き飛んでいった。
「ほげぇぇぇぇぇ!!?」
「ごめんなさい!」
彼が見た目通りにさほど鍛えてはいなかったことも幸いしたのだろう。
フェーアは謝りながら、書類ばかりの部屋を見回し、そして、すぐにそれを発見する。
卓の上の底の浅い木箱の中に、怜悧な輝きを片刃に宿した小振りな曲剣が置かれていた。
「レグフレッジさん!」
(フェーア!? どうやってここに……)
「ミルフィストラッセさんも……!?」
その隣の木箱の中には、刃の中ほどがひびだらけになった両刃の長剣。
最後に見た時は破壊されていたのだが、接着剤か何かで仮止めをされたらしい。
裁きの名を持つ霊剣が、苦々しく呟く。
(……彼はもう、どうにもならない)
「二人とも連れて行きます! グリュクさんも、グリゼルダさんも生きてますから! 絶対に、あなたたちを二人の所に戻してみせます!」
(気持ちは嬉しいが、危険だ。グリゼルダもグリュクも、君の安全を望むだろう。私も、恐らく生きていればミルフィストラッセもだ!)
「そんなの――」
だが、反発を口にして伝える前に、上方から破壊が降り注いだ。
「!?」
悲鳴も上げられず、破片と噴煙の奔流から反射的に耳と両手で顔を覆うので精一杯だった。
いつのまにか上階に移っていたリーンとタルタスの戦いが、ここまで移動してきたのだ。
「逃さねぇっつっただろ!」
「野獣が!」
真上から天井を破壊して落ちてきた二人の戦いで、二振りの霊剣はどこかへと吹き飛んでいってしまった。
周囲を破壊し尽くす荒々しい戦いの渦中に再び飛び込んでしまい、今やフェーアは自分が生きていることの方が不思議だった。運は良いのだろう。
だが、こうも猛烈な威力が高速で荒れ狂っていれば、妖族の小娘一人が一振りの剣を探して動くには厳しすぎるものがあった。
暴れる心臓を胸の上から押さえつけながら、必死に目を凝らして状況を確かめる。
戦いに関しては素人だが、リーンの方が優勢らしい。白金の稲妻が、礼服姿の妖王子を翻弄しているように見えた。
だが、不可解な点が無くはない。
「(あの青い鎧を着ないのは、何故?)」
元より何もないところからいくつも武器を取り出すような男ではあったが、こうも押されていながら圧倒的な魔具であろうあの鎧を呼び出していない。
どのような事情かは分かりかねたが、ともあれ、そうした状況だった。他の妖族がタルタスの増援に来ない理由も分からなかったが、巻き添えを恐れているのか、リーンも王女であるからうかつに手向かえないということか。
「!」
助走を付けたリーンの一撃がタルタスを捉える。
タルタスは二振りの魔具剣でそれを防御、だがそこで、リーンの懐から何かが飛び出した。
ドレスから元の姿に戻った従者アーノルドが、リーンの突進を受け止めて隙の出来た妖王子の胴に飛び蹴りを見舞って態勢を崩し、その反動で再びリーンの懐に戻ってドレスへと変形する。
「アーノルドッ!!」
リーンは手中の双剣を投げつけながら従者を呼び、ドレスに変形していた彼は瞬時に巨大な剣――フェーアが先日見たのと同じ形態だ――になって振り下ろされた。
「!!」
髪飾りだった双剣はそのままタルタスの両肺を貫いて背後の壁に縫い止め、更に従者の変形した大剣が深々と胸郭の中心に突き刺さって骨肉を抉る。
無言のままに妖王子は動かなくなり、リーンは喝采した。
「ッッッッシャアァァぁぁ!!!! 仕留めたぜぇえぇぇッッ!!!!」
感無量といった様子で、妖王女は従者を大剣状態から元に戻しながら――と、そこでフェーアと同時に、異変に気付いたようだ。
絶命したはずの妖王子の死体は、いつの間にか人体の形状をした黄色く巨大な根菜に化けていた。
「……分身!?」
いや、根菜がタルタスに化けて、そう振舞わされていたのか?
魔具剣だけは本物のようで、その両脇に転がっていた。
「リーン。お前さん、まだこんなことをしてるのか」
その声に、思わずフェーアも振り向く。
「……!」
そこには、タルタスやその偽物などではなく、本物のフォレル・ヴェゲナ・ルフレートがいた。
フェーアが池に投げ捨てたはずの太陽の名を持つ霊剣を携え、悠々と佇んでいる。
偽物であったらしいとはいえタルタスを相手に嬉々として戦いを挑んだ妖王女が、その姿を見て硬直すらしている。
「タルタスの影人参を倒したようだが……まさかエルメールに手出しはしてないだろうな。俺は後継闘争などくだらないことと思ってはいるが、彼女に危害が及ぶならば話は別だ」
彼が静かにそう告げたかと思うと、半ば廃墟と化した宮殿の一角に暴威が吹き荒れる。
フェーアがそれに為す術のある筈も無く、白金の色の凶暴な花が、ただただズタズタにされて行くのを見守るしかなかった。
鎧を着たレヴリスを一方的にいたぶるほどの戦闘力を持つ筈のリーンが、全身に打撲と裂傷を負い、所々から湯気のようなものさえ立ち昇らせながら、立っているのもやっとという様子でフォレルを睨んでいる。
「反省したか。タルタスが帰って来る前に、アーノルドを連れて逃げておけ」
「く……そ……がぁ…………」
彼女はしかし、ぐったりとして動かない、自分よりもかなり背の高い従者を背負い、よろめきながらも撤退することを選んだようだった。
それを見送るフォレルの視線は優しく、身内相手であるとはいえ、弱肉強食の教えに盲従することのない英傑であると信じられた。
「すまないな、エルメール。良くないものを見せてしまった」
怯えるフェーアの胸中を察してくれたか、フォレルは気遣うように声をかけてくる。
だが、その表情はとても明るく、まさに太陽のようだ。
フェーアは、何故かその時、道行く旅人の外套を脱がそうと北風と競った太陽の話を思い出していた。
そう、彼はまさしく太陽。
「ようやく婚儀の準備が整った。行こう」
だがその眩しさのあまり、照らされた旅人は外套を脱ぐ前に焼き尽くされてしまうのではないか。
「今度こそ、必ず幸せにしてみせる」
一人の男の真摯な誠意を表現されているはずなのに、フェーアはそれに、何一つ反応らしい反応を出来ないでいた。
広大な宮殿の外れ、小高い丘へと延びた一角。
そこにある背の高い塔は、一部がガラス張りになっており、構造を支持する内部の梁を除けばほとんどが中空だった。永久魔法物質を大きな負荷のかかる一部に用いたそこは強度も高く、妖魔領域でも名高い建築の一つだ。宮殿に比べて決して広くはないその内部に、フォレルとタルタスの招待した有力な妖族たちがひしめいている。
彼女の望まぬ花嫁姿を、見届けるために。
今日、彼女はそこで、フォレル・ヴェゲナ・ルフレートとの式を挙げるのだ。
鮮やかな赤いドレスに包まれてうつむく彼女の姿を、そのフォレルが見守っていた。
既に式は始まっているのだ。
今更予定を変更など出来ないのだろう。リーンの来襲も、それをタルタスの影武者が迎え撃って宮殿に少なからぬ被害が出たことも、フェーア自身の意思も名前も、何もかも、無かったことになっていた。
「行こうか、エルメール」
それが、恐ろしかった。
いっそ、ここで見苦しく暴れ、殺されるまで抗ってみるべきではないか?
そんなことを夢想してもみるが、一方で、タルタスの言っていた、グリュクが生きているという情報が気にかかった。
彼がもし、本当に生きているのだとしたら……
「(……お姫様になった気でいるっていうの!)」
都合よく彼が助けに来てくれるのではないかという虫のいい発想に、フェーアは強く嫌悪を覚えた。
こうして拉致されて始めて、彼の好意に応えたいという気持ちが強まっているのを実感する。
両腕と相棒を失ってまで彼女を取り戻そうとしたのも、ひたむきな恋心のあればこそ。彼が傷つき倒れ、死ぬのを――少なくとも、あの時は彼が本当に蒸発してしまったと思い、絶望した――見ていることしか出来なかった。
だからこそ、生きているかも知れない彼のために、何かをして、その気持に応えたい。
あの巨大な根菜を自分に化けさせて影武者にしていたのだから、タルタスは留守のはずだ。グリュクたちに何かを仕掛けに行っているのかも知れないという可能性は、今は考えまい。
リーンもいなくなったのなら、彼女が暴れるのを止める者は、いないのではないか?
だがもしも、フォレルが万が一、フェーアを害する気になったとすれば、彼女は死ぬしかないだろう。
「……エルメール?」
フォレルの問いかけに、フェーアは怯えつつも、何とか決心して立ち上がった。
式場が沸いた。
現代の妖魔領域で最も支持を集める英雄、フォレル・ヴェゲナ・ルフレートが、長年の独り身の状態から一転、大々的に妻を迎えるというのだから。
いよいよ彼が本格的に後継闘争の終結と、狂王位の継承に向けて活動を始めるのだという不安と期待の入り混じった無数の視線を浴びながら、新郎新婦が入場を開始した。
「エルメール、聞こえるかい。この鬨にも似た祝福の声が」
「戦場のようだ、ということですか」
「そうでもあるが……俺は戦い続けてきた。お前さんという安らぎを得るために」
「……」
「お前さんさえいてくれれば、辛い戦いでも続けることが出来る」
その寂しげな表情に、フェーアは思わず絆されそうになる。
そうなるほどに、意外な顔だった。
だが、驚いている間にも、二人の歩みは宣誓の台へと近づいてゆく。
全身に無数の儀礼用の武装を施した老齢の司儀が、その到着を待っていた。武力こそを貴ぶ妖族の上位者は、こうした戦士の魂を象徴する存在によって庇護されながら、繊細な儀式を遂行するのだ。
そして、司儀の嗜めるような仕草でためらいがちに喝采が止む。
厳かに、宣誓が始まった。
「ゾディアック狂王陛下の威と理と、その確かな武の世におわすこと。その事実の下に、畏れ多くも代理を務める某が、この度のめでたき取り決めを導きまする」
長い口上が始まった。妖族は多くの場合何事も手短に済ませることを好むが、こうした行事については当てはまらない。彼らの王である狂王ゾディアック・ヴェゲナ・ルフレートは、実在する生きた指導者であると同時に神でもある。神の後継者候補が妻を娶るのだから、これは国事であり、神事でもあるのだ。
司儀の背後には、フォレルの太陽の名を持つ霊剣を含め、意思の名を持つ霊剣、裁きの名を持つ霊剣、道標の名を持つ霊剣。
四振りの霊剣が、参集者たちに向けて誇示するように飾られていた。
彼女が暴れた後、全て回収されたのだ。
一振りだけ、刃の中ほどから破壊された意思の名を持つ霊剣は、破断部分を何かで仮止めされた姿のまま。
フェーアがフォレルに伴われて入場する直前まで、司儀とは別の高位の妖族が、霊剣を四振りも集めることが如何に偉業であるか、妖魔領域にとってどのような意義があるかを演説していたところだ。
「この巡り合わせを定めと心得、歩む。意は既に凝りしか、気は既に漲りしか」
そもそも、どこから歯車が食い違ったのか。
ドロメナ村で、何処かに移り住むまでグリュクの世話になろうと決めてからか。
「(私がそう望まなければ……こんなことにはならなかった……?)」
自分は、後悔している。
そう自覚してしまうと、目尻に熱と、涙が溜まり始めた。
「然りてこの地この時、汝配偶者フォレル・ヴェゲナ・ルフレート。この女を妻とし、力と命を分かち合うべし。違意あらんや?」
「無し。狂王ゾディアック・ヴェゲナ・ルフレートの名の下に」
「善し。汝配偶者エルメール・ハザク。この男を夫とし、力と命を分かち合うべし。違意あらんや?」
フェーアが逡巡し、その沈黙が一秒過ぎ、二秒過ぎた。
フォレルがそんな彼女に声を掛けようとした時、破裂するような音が響いて会場の全員の耳を打った。
「有りだ! フェーアさん!!」
その声を聞かなかったのはたった二日のことに過ぎないというのに、フェーアは弾かれたように、誰よりも早く、彼の方へと振り向いた。
両腕こそ揃っていたが、既に全身は傷だらけになっている。あの時切り刻まれた後、執念で復活して彼女を追ってきたのだと言われても、信じられた。
赤い髪の剣士が、凛として叫ぶ。
「結び給え!」
「させるか!」
フェーアの背後に飾られた意思の名を持つ霊剣へと、魔法術の弦が飛ぶ。
だがそれはフォレルが同じく、妖術の糸で絡め取って引き寄せた太陽の名を持つ霊剣の軌道に弾かれた。
念の糸すら触れただけで断ち切る、霊剣の刃。
司儀は既に飛び退いており、さしもの妖族の有力者たちも突然の事態に動揺を隠せずどよめいたが、フォレルは何ら取り乱さずに、命ずる。
「狼藉者が乱入した! エルメールと霊剣を後ろへ!」
「エルメール様!」
「あっ……グリュクさん!」
すぐさま、というよりは予期していたのか、数名の妖族たちがフェーアを拘束し、霊剣を壇上の飾り台から取り外して袖へと走る。
「留めよ!」
「やらせん!」
そこを拘束しようと狙った念動力場はフォレルの破術に掻き消され、今度は逆にフォレルが、グリュクに向かって斬りかかる。それを彼が、鉄色の杖――移動都市の心臓に突き刺さっていたものだ――で受け止めたところで、フェーアは完全に通路へと押しやられ、二人の姿が視界から消える。
「エルメール様! 早く! 危険と申し上げております!」
「グリュクさんっ!!」
彼女がフォレルでない男の名を叫んでいることに、彼らは気づいていないのか。
妖術も使えず、複数の妖族に抱え上げられ、運ばれてゆく。
裏手へと通じる扉が閉ざされ、その向こうから爆音が聞こえた。
自分を想ってここまで辿り着いたグリュクの戦いを、彼女はまた、見届けられないのだろうか。