03.寵愛の形態
今や、妖魔領域全土が彼を祝福しているかのようだ。
雲を突き抜ける狂王の宮殿と、準備を終えて始まろうとしている結婚式。
そこに集い続ける招待客に、広大な会場周囲を覆い尽くす観衆。
挙式に先駆けて行われた前夜祭では、急な決定にも関わらず集まった妖族たちが、フォレルの結婚を祝って様々な演説や、演武などを行っていた。
そして今日、結婚式当日。ルフレート宮殿前の巨大な円形の屋外会場では、妖魔領域の多くの指導者や実力者たちが集結しつつあった。
飛び立った使い魔の中には、祝言を持ち帰ってきたものもいる。
妖魔領域の史上最も重要かも知れない催事が、行われようとしていた。
正午の開始まで、あと四時間。
そしてその主役であるフォレルと、仕掛人であるタルタスは、会場を一望できる塔の展望台に揃っていた。
妖族たちの有様を見渡しながらも、妖魔領域の英傑は恥ずかしげに口にする。
「タルタス、何かこう……むず痒いな」
「宿願の一つを果たされた兄上に於かれましては、これを全土にて祝わぬことはあり得ません」
「俺はお前さんが祝ってくれれば、それでいいんだがな……」
英傑らしからぬ独り言じみた声を、タルタスは勇気付けるように答えた。
「恐悦至極。しかしながら、国土を名に持つ一族に……妖魔領域を照らす次代の太陽となる方に、それは許されぬ贅沢というもの。大円卓の皆様方から下々の民草に至るまでが、それを望んでおります」
「そいつが嬉しくないとは言わんさ……なら、盛大に頼むとしようか」
そう言って展望台に背を向けて出口へと向かう異母兄に、タルタスは訪ねた。
「どちらへ」
「訊くなよ。分かるだろ」
苦笑して階段をおりてゆく彼の背を見送りつつ、タルタスは小さく嘆息した。
泣き喚く彼女が連れて来られて丸一日、その間の扱いは、丁重以外の何物でもなかった。
彼女を抱き上げたフォレル王子を出迎えたのは、正装した数十人もの妖族に、分厚い絨毯の床。
フェーアのような経緯でなければ、田舎に生まれ育った妖族の小娘の一人、たやすく舞い上げ、思い上がらせることが出来るだろう。
最初こそ頑なに反抗してはいたが、フォレルの部下たちのフェーアに対する姿勢は優しく言い聞かせるようであり、それは彼女にとってひどく意外なことだった。
彼女に不器用な求婚をしてきた青年を無残に切り刻んだ男の部下たちなのだから、粗野で乱暴か、ひどく冷酷な人々だとばかり、漠然と考えていたのだ。
だが、彼らは優しく(後から思えば主人の花嫁なのだからそれは当然だったのだろうが)、親切だった。それが、フェーアを戸惑わせる。
彼らにまで迷惑をかけては、良くないのではないか?
いつまでも洗いもしていない衣服を着ていてはいけませんよなどと言われれば、さすがにそれはと思えて、用意されたものに袖を通してしまった。その着心地は軽く、暖かい。
「(グリュクさんとグリゼルダさんを……殺した人のあつらえた服だけど……)」
こんな時、グリュクだったらどうしていただろう。フェーアの仇を取ろうと、憤ってくれただろうか? フェーアが死ねば、泣いてくれただろうか?
グリゼルダだったら? 彼女の場合は明らかにグリュクに好意以上のものを抱いていたから、死に物狂いでここから抜け出そうとするだろう。
フェーアも、本来ならば転移で逃げ出しているところだが、フォレルの顔面に爆裂魔弾を叩き込もうとして以降、再びタルタス王子によって魔法毒を打ち込まれてしまい、妖術を使おうとすると右手首が引きちぎられるように痛むのだった。
時限で死ぬ毒ではないらしいのがまだ救いではあったが、大叔母の怨念に乗っ取られていたせいで脳が覚えているらしい妖術の呼吸以外は戦いなど全くの素人であるフェーアが、その妖術を封じられては、本当にただの小娘でしかない。
食卓に呼ばれ、席に着いても使い方も分からないような食器の数に戸惑っていると、尚更にそう思う。
「どうした、エルメール?」
「その……すみません、どう食べたらいいのか……」
「……席を変えようか」
フォレルはその反応を見るや、幾つかの皿と食器だけを取って、広い卓の別の場所に彼女の新しい席をあつらえた。
簡素だが香しいスープから立ち昇る湯気に、現在の自分の状況も忘れて食欲が湧いてきてしまった。そのせいか、食べずに断るのも良くないと思えた。
今度は食器も二つだけだ。匙を取って、よく煮込まれた野菜をすくって口に運ぶ。
そこで、大きな衝撃を受けたのが、彼が、フェーアにとって懐かしい味を知っていたことだ。
「これ……」
「君の好きなアディクテを入れてみた」
それは大叔母がまだ歩き回れた頃に、彼女に懐いていたフェーアに作ってくれた料理によく使われていた香辛料だ。
フェーアの両親はあまりいい顔はしなかったが、彼女はこの味が好きだった。
それを、この男は知っている。
「気に入ってもらえたかな」
「……あ、ありがとうございます……でも私、エルメールじゃありません」
「からかうなよ。俺が見紛うことはない」
「…………」
それ以上の反論は、フェーアの性根では出来なかった。
タルタス王子と組み計らってグリュクと、恐らく彼を庇ったグリゼルダを殺した、強大すぎる妖族の王子には。
何より、まだ知って一日でしかないが、それまでに垣間見た彼の心が恐ろしかった。
フェーアに語りかけているようで、彼女の大叔母であるエルメールのことしか見ていない。
狂王の子ならばいざ知らず、妖術の腕以外は普通の妖族と変わらないエルメールが、若い姿のままで何百年も生きていられるはずがないのに、だ。
だが、目の前でフェーアの食事を眺めているこの男には、そんな子供でも分かることを認めず、彼女のことを頑なに、今や忌むべき思い出となってしまった大叔母の名で呼ぶのだ。
同時に、そんな考えに囚われた狂王の息子に下手な口答えをしては、どうなるか分からないという恐怖があった。
もろともに自爆するつもりで顔面に直撃させた爆裂魔弾がいとも簡単に防がれたこともあるが、そんな事実も、本質的には臆病であるフェーアを萎縮させるには充分だった。
そして、十五分ほどの間、彼は飽きもせずにフェーアの食事を見届けると、匙を置く彼女に優しく語りかけた。
「どうだった」
「ご、ごちそうになりました……おいしかったです」
「それは何よりだ。疲れているだろう。部屋に案内させるから、そこでゆっくり休むといい」
「こちらです、エルメール様」
そうして自分だけのために用意された部屋に通されて、フェーアは誰も見ていないというのにおずおずと寝台に座り、考え込み始める。
「(どうしよう……どうすればいいんだろう……)」
彼女なりに、考えは巡らせ続けていた。
まず当てにできそうなのは、裁きの名を持つ霊剣。破壊されてしまった意思の名を持つ霊剣と異なり、彼はグリゼルダがタルタスの脅迫に屈する形で無傷のまま彼らの手に渡っている。グリュクの相棒同様に破壊されてしまったのでなければ、フェーアがその知恵を頼ることも出来るかも知れない。
「(もしかして……グリゼルダさんがレグフレッジさんを明け渡したのには、そういう意味もある……!?)」
本当の所は彼女に尋ねないと分かるまいが、彼女はグリュクを庇って共に死んでいる。記憶を共有しているらしい裁きの名を持つ霊剣に接触しない限り、その真意を知ることは出来ないだろう。
今はそれを彼女の遺志だと信じて、フェーアは扉を開き、外の様子を窺おうとした。
「……!?」
扉どころか、取っ手自体が微動だにしない。
「――――――――っ‼︎」
両腕で握り、限界まで力を込めると、取っ手が折れた。勢い余って、後ろに転ぶ。
「ふぎゃ!?」
一瞬のこととはいえ無様な結果に呆然としていると、声が聞こえた。
「フェーア・ハザク」
「!?」
声に驚いて後ろを振り向くと、まるで不可視の液面から出て来るように虚空から姿を現しつつある青年が目に入る。
礼服をまとい、レンズの丸い色眼鏡をかけた黒髪の男。彼は壊れた取っ手を握りながらも立ち上がろうとするフェーアを見下ろしながら、せせら笑った。
「存外、転婆な面があると見える」
「あなたは……!?」
タルタス・ヴェゲナ・ルフレート。妖魔領域で、狂王を除けば第四の地位を持つ男にして、フェーアの体に毒の紋章を撃ち込んでフォレルの元へとおびき寄せた、彼女にとっては大叔母と同様に恨みのある相手だ。
「朗報だ。君の男……あの霊剣使いの魔女は生きているぞ」
「……本当ですか」
男と女の関係であるかどうかはともかく、その一言で、心の奥底がざわめき、ほのかな期待が火のように燃え広がろうとしているのが分かる。
だが、タルタスはそれをあざ笑うような表情で、続けた。
「辛うじて拾った命だ。彼とて有効に使いたいだろうな。私が言わんとしていることが分からぬほど愚かでもあるまい、君は?」
「……!」
グリュクの命が惜しければ、逆らわずにフォレルの女になれという意味だろう。しかも自分の口からは具体的な内容は言わず、決断の責任はフェーアに被せるつもりでいる。
「グリュクさんが生きていることを、証明してください」
「私にはそんなことをする義理も、義務もない」
「…………!」
フェーアの人生は、大半が平穏だった。暖かい家族、優しくしてくれる大叔母、気のいい村人たち。
だから、こうした悪意に一対一で接するのは、生まれて初めてのことだった。エルメールの狂気も恐ろしかったが、悪意には肝が冷える。
せめて一矢報いようと、彼女は苦し紛れの罵倒を、数少ない語彙の中から絞り出した。
「あなた……友達いないでしょう!」
「いたことはいたが、何百年も前に全員、隕石霊峰に逝った。以後は作らんようにしている」
「うぐ……」
「罵倒は相手の劣等感を的確に刺激して初めて有効になる。慣れないことはするべきではないな」
フェーアが言い返す言葉を見つけられないでいる間にも、タルタスの台詞は続く。
「兄上も同様だ。心を許せた友は、全て過去に残さざるを得なかった……だからせめて、エルメール・ハザクを欲された」
「……エルメールだって、死にましたよ」
「ここにいる」
「私は違います!」
「まだ分からないか。ならば、彼は死ぬ」
「そんなことで昔の好きな人を手に入れさせるのが、フォレル殿下の為なんですか!? おかしいでしょう!」
「……どの道、君の意思は重要ではない。妖術で強制して君を従わせても、そうしてエルメールの愛情が得られると思えるならば、兄上は容赦してくださる」
「(……この人は……!?)」
そこで、フェーアはこの男の内心にも潜んだ危うさを悟り、まだ喚きたい衝動を抑えて黙った。
これ以上に聞き分けのない女だという判断を下されては(こんな仕打ちに聞き分け良くすることなどとんでもないことだが)更に魔法毒を打ち込まれる恐れもあり、彼女は幼稚な打算ではあるが、表面上は従った振りをして機を待つ方に心が傾いていた。
そもそもこの男も、風聞はともかく実際はフォレルにも劣らない武闘派であり、一度はグリュクに消し炭同然となるほどの深手を与えている。
タルタスは苛立っているのか、何も言わないフェーアの襟首を右腕で掴んだ。そして引き寄せ、彼女の大きな耳に向かって言い聞かせる。
「ぅ……!?」
「いいな。君は、兄上の花嫁として生きれば良いのだ。それで何一つ不自由ない生活を送り、狂王フォレルの正室の座が手に入る」
「…………!」
「これ以上反抗的なようであれば……君の心に私の傀儡となる術を施す。よく考えることだ」
耳までこわばり何も言い返せない彼女の襟首を、王子は投げつけるように離し、フェーアは寝台に倒れ込んだ。
青ざめるその表情に満足したか、タルタス・ヴェゲナ・ルフレートはそれまでの饒舌が嘘のように黙ると、不意に大気へと溶けこむように姿を消した。
二人の王子の本質らしきものに間近で触れて、寝台に倒れこんだまま、フェーアは立ち上がる気力を失う。
そしていつの間にか、彼らに囚われた身だというのに眠りこんでしまっていた。
タルタスは、生意気な白耳の娘に釘を指したのち、霊剣の様子を見に研究施設へとやってきていた。
肩には外部との連絡を取り持つ道案内を兼ねたカケスの使い魔が停まっており、さえずり声で到着を告げる。
「こちらが研究室です」
入ってみれば、ついに入手した二振りの霊剣を分析する場所とは思えないような狭苦しさだった。極秘なので、あまり目立った施設が用意できなかったことはあるが。
その、さして広くもない書類だらけの部屋の中央の卓の上に、発掘された古代の土器のそれの如く、浅い木箱の中に金属とも石ともつかない質感の破片が並べられていた。
古の魔女によって鍛え上げられた、隕石霊峰の欠片。
その銘を、意思の名を持つ霊剣といった。
本来であれば口やかましく彼を罵ったことだろうが、刃の中ほどから破断されて人格を形成し続けることが出来なくなったのだろう、それは沈黙したままだった。
研究を任せている妖族が、簡潔にそれを説明する。
「修復は、フォレル殿下にお任せする他ありません。ただ、それが出来ても人格と記憶が復旧するかどうか」
出来れば無傷で霊剣を手に入れたかったタルタスとしては、それは痛手だった。
創製者ビーク・テトラストールならば修復方法も知っていると思っていたのだが、タルタスは早くから道標の名を持つ霊剣にその記憶が存在しないことを知り、さらに今回裁きの名を持つ霊剣までもが同様であることを知り、愕然とした。創製者によって、削除されたか。
あるいは最初の霊剣である意思の名を持つ霊剣ならばという期待も、フォレルによって破壊されてしまっていた。
そのためにも、存在が確実であろう彼の相棒以降の霊剣を探し出すためにも、複数の霊剣による限定収束は必要となる。
だが意思がこの状態ならば、まずは裁きとの記憶の統合を行ってしまうべきだろう。可能性は低いが、霊剣の修復を可能とする新たな知見も生まれるかも知れない。
「準備が整い次第、裁きの名を持つ霊剣の継承を行う」
「この曲剣の反抗は明白です。何が起こるか……」
「兄上の新霊剣と、我がパノーヴニク……二振りあれば、一振りの霊剣などねじ伏せることなど造作も無い」
彼の懸念を打ち消し、タルタス。
以前は敵側の加勢もあり、意思と裁きに後れを取ったが、今回は立場が逆だ。彼の相棒が、意思の名を持つ霊剣の置かれた木箱の隣で同じように横たえられた裁きの名を持つ霊剣に語りかける。
(嫌でも協力してもらうぞ、同胞よ)
(しつこいぞ。裏切り者の卑怯者の、永久魔法物質のクズめ!)
こちらは破壊せずに回収が成功したが、代わりに人格と思念会話能力も健在で、タルタスや研究員がその傍を通るたびに口汚く罵倒してくる、困った性質があった。
(その減らず口も、いずれは叩けなくなる)
「パノーヴニク、もうよせ……ところで、兄上はどこだ。新霊剣の力もお借りせねばならん」
相棒を諌めるタルタスがそう尋ねると、ムクドリの使い魔は困ったようにぴぃと呟いた。
「その……エルメール様のところです」
「そうか…………」
妖魔領域においても、古今において度の過ぎた寵愛で身を滅ぼした実力者は枚挙にいとまがない。
戦と政に倦みつつあった兄の心を癒やすためと思って計画したことではあったが、その両道において優れた彼が、女にうつつを抜かして消えていった間抜けたちと同じ道を辿ってしまいはしないかと、不安になるのだった。自室にたった一人であれば苦り切った表情を作ったところだが、タルタスは堪えた。
そこに、ムクドリの使い魔が別の使い魔から異状の情報を受け取ったのか、表情を変える。
「!」
「どうした」
「……重要なご報告です」
研究員などに聞かれては、都合の悪い情報という意味だ。
「転換する時空よ」
呪文を唱えて妖術を開放し、タルタスは内容を聞きに別の場所へと転移した。
感じたことのない軽やかで柔らかい着心地に、フェーアは大いに、戸惑っていた。
「どうだい、エルメール」
目の前で微笑むのは、フォレル・ヴェゲナ・ルフレート。
短い眠りから目覚めた彼女は、すぐにフォレルに連れだされ、ルフレート宮殿の広大な一室に案内されていた。
そこで彼女を出迎えたのが、所狭しと並んだきらびやかな衣服の数々と、宮殿で召し抱えられているらしい妖族の娘たち。
「よくお似合いです、エルメール様!」
「え、えーと……」
彼女が着ているのは、夕日のように赤いドレスだった。彼女の周囲で色めき立っている娘たちが、複雑な着付けを手伝ってくれたものだ。
暖かで柔らかい生地は羽のように軽く、唱和するように賛美してくれる彼女たちの声も――ドレスの首から胸元にかけてが大きく開いているのもあって――酷く気恥ずかしかった。
妖魔領域の田舎で育った彼女には、恐らく一生、触れる機会など無かったであろう施設に、人々に、品々。
フォレルが手近なラックから服を取り、フェーアに見せるようにしながら言う。
「気には入らなかったか? 俺はどうも、そういったセンスはあまり自信が無くてな……好きなものを選んでくれ。挙式の時には、それを着てもらう」
「…………」
伏し目がち、照れ臭そうに言う王子に、頷くことは出来なかった。
挙式。
この男は本気で、彼女を花嫁にしようとしている。本来であれば、望んだところで到底得られない名誉ではあるのだろうが。
俯くフェーアの垂れ下がった耳に、声が闖入する。
「失礼、フォレル殿下!」
「何か」
服を使用人の娘の一人に預け、やってきた妖族の戦士――腰に帯びた剣でそうと感じただけだが――の報告を聞くと、彼の表情が僅かに、恋人の所作を暖かく見守るそれから別のものへと変わる。
自身の大きな耳を澄ませて内容を聞き取ろうとしたが果たせず、フェーアはやや落胆した。自分が脱出するのに活かせる情報だったかも知れない。
「すまんがエルメール、急用が出来た。また後でな」
フォレルは優しくそう言うと、素早い足取りで伝令の男と共に広間の外に向かう。
「……フォレル殿下!」
「何だい」
その言葉を口にすることは、フェーアにとって多少の勇気を要した。
「あの……で、殿下のいらっしゃらない間の……話し相手が欲しいです」
エルメールがフォレルを相手にどのような喋り方をしていたのかは想像もつかないが、たった一日とはいえ今まで支障がないのだから、これで良いのだろう。
ただ、問題はそこからだった。
「それで、その……レグフレッジさんと……会わせていただけないかなぁ、と……」
「すまないな。あれは弟が研究に使っているのだ、俺と君との未来をよりよく保つための。我慢をしてくれ、エルメール」
「ど、どうしても駄目でしょうか……?」
「そう言われてはな……」
使用人の娘たちや伝令の戦士には、王子に甘えるわがままな花嫁と映るだろうか?
だが、気にしてもいられず、彼の好意を利用するようで嫌悪を覚えながらも食い下がった。
「仕方ない。こちらのウィルカを貸そう」
「えっ」
そう言うとフォレルは剣帯を外し、鞘に収まった新霊剣――太陽の名を持つ霊剣をフェーアに渡してくる。
それを受け取るべきか大いに迷っている彼女の胸中を知ってか知らずか、王子は相棒であろう人格剣に語りかける。
「彼女の話し相手をするんだ。いいなウィルカ」
(引き受けよう)
「えっ」
剣の承諾を得ると、彼は更に深く、こちらへと鞘を差し出してきた。
「君に預けよう。ただし、くれぐれも無為に抜かないように」
「は、はい……」
グリュクの意思の名を持つ霊剣、グリゼルダの裁きの名を持つ霊剣に相当する存在だ。考えてみれば彼女の知っている二人の霊剣使いは、少なくともフェーアに霊剣を預けるような事はしていなかった。
彼女が信用されていなかったというような話ではない。フェーアの知っている例といえば、グリュクとグリゼルダでさえ短時間互いの相棒を任せたことがある程度で、つまり、恐らく本来ならば仲間の霊剣使い同士ですら、自分の相棒を他者に任せることは無いということだ。その必要がなかっただけなのかも知れないが――
これはフォレルと太陽の名を持つ霊剣の関係が他の霊剣とその主のものと異なっているのか、単に彼女が異常なまでにフォレルに信用されているからというだけなのか。憶測は尽きないが、彼女はひとまず新霊剣を受け取った。
(よろしく、花嫁よ)
「……はい」
今までに見た霊剣たち同様、心に直接響く声。ただ、それはフォレルの肉声とそっくりに感じられた。
見た目ほどには重くなく、金属のような、石のような質感だ。しかし不思議と、その柄は冷たくはない。
「(……グリュクさんの両腕を切り落としたのも、この剣で……)」
そう考えるとおぞましさがあったが、取り落とすことはしなかった。
何とか笑顔のようなものを形成して、フェーアは王子に礼を告げる。
「ありがとう……ございます」
「では、な。また後ほど、二人で話そう。皆、エルメールを頼む」
「はい、フォレル殿下!」
彼は使用人の娘たちの返事に穏やかに微笑むと、やや足早にその場を去った。
「エルメール様、お召し替えをお手伝いいたします」
「……はい」
ドレスは足元が少々動きづらかったので、他者に着替えを手伝われるということにまだ抵抗があったものの、フェーアは承諾した。
使用人達に見繕ってもらい、動きやすそうな、それでいてある程度の装飾は施された、高貴な妖族の普段着とでも呼びそうな服装へと着替えた。元の服にも愛着はあったが、仕方ない。
「では、エルメール様、お部屋にご案内いたします」
「いえ、一人で戻れますから――」
「お一人でお戻りになられるとしても、必要なのです」
「は、はい……」
フォレルの態度ならば、部屋に施錠をされて何も出来ないということもないだろうという楽観も手伝い、フェーアはやや不本意ながら二人の従者に案内されて、部屋へと向かうことにした。