EX.サルドル・ネイピアの物語3
その日の朝は、霧がやや立ち込めていた。
サルドルは白みがかった森の中を散策し、酸素と湿度を豊富に含んだ朝の大気を吸い込んだ。そうすることで、植物たちの持つ霊的な力を取り込めるような気もするのだ。
一つの村の住民をまるごと避難させるというやりがいのある仕事が始まって一週間ほど、今の彼は多忙だった。これはささやかな、一日が始まる前に許された彼だけの楽しみだ。
だが、どうやらその場にいたのは彼だけではなかったらしい。
「最初の御方の祝福あれ、翼ある人々」
背後からの声に振り返ると、そこには男が立っていた。比較的若く、中肉中背、曲の強い赤毛。かなりの長旅を想定しているらしい旅装だったが、その表情から窺えるのは旅路の厳しさなどではなく、人懐こさだった。少なくとも汚染種ではないのは、啓蒙者の第六の感覚で容易に感じ取ることが出来る。
サルドルは、邪推することなく――そもそも啓蒙者は余程の訓練を積まない限り相手を悪意的に見るということが出来ない――彼に挨拶を返した。
「最初の御方の祝福あれ。僕は宣教師サルドル・ネイピアです」
旅人は、ゆったりとした動作で身分証を見せながら名乗り返す。
「シン・ノンブレイと言います。村で食料を売ってもらおうと思ったのですが、どうやら司祭さまがたもいらっしゃるようですので、何があったのかと」
「……最近近くの村に汚染種が出たんです。汚染種は逃亡しましたが、住民は陸軍基地も近いこの村に避難することになったんです。元々登録抹消村落だったこともありますが、今はそれで色々と状況が進んでいます」
ヴォン・クラウスの住民たちにとっては不名誉な事実とは思うが、言っておくべきと感じ、サルドルは詳細を告げた。
「そうでしたか……村人たちの迷惑にならないよう、最低限のことだけを頼むようにしましょう。ありがとうございました、司祭さま」
「信徒ノンブレイ、道は分かりますか?」
「はい、存じております。それでは失礼をいたしました、司祭さま。良き信仰あれ」
「良き信仰あれ」
互いにそう言って、旅人は村の方へと消えていく。
朝の和やかな邂逅は何事も無く終わり、サルドルも自分の間借りしている家へと戻った。
信仰ある人々と話すだけで、彼の心には一輪、また一輪と花が咲き、優しいさざ波が波打ち際の模様を描く。
今日はいいことがありそうだ。
スウィフトガルド王国の国是の一つに、魔女の絶滅がある。
姿形は人間と同じだが、邪悪な術で害をなす生物をこの地上から永遠に根絶しよう、という国家の大計だ。
ゾニミア・フレンシェットは、その魔女だった。
そして、スウィフトガルド王国に住んでいた。
それでも彼女が異端審問に掛けられて死んでいないのは、国家の目の届きにくい辺境であること、彼女の住む地域では比較的魔女に寛容な傾向が残っていたこと、近くの村に十分な恩恵をもたらしていたこと。
何より、危険な大型妖獣の封印を管理し、それが解かれないよう見守っていたことが大きい。
先日、その封印は間抜けな資産家によって破壊された。
中から復活した妖獣は村の一部も焼いたが、奇跡的に通りがかった魔女の剣士によって殺され、村も彼女も、事なきを得た。
しかし、これからは分からない。
ゾニミアは台の上で調合した村人に売る薬を仕上げると、それを包に仕舞う前に飛んできたゴム鞠を迎撃した。
杢目の床に落ちたゴム鞠のような何かは、何故こうなるのかよく分からないといった表情で文句を言ってきた。
「ゾニミアさん……ボクはゴム鞠じゃないんですけど」
「何も言わずに人の胸元めがけて飛んでくる……それはゴム鞠のように扱っても差し支えないのよフォンデュさん」
フォンデュさん、と敬称まで付けて彼女が呼んだのは、ゴム鞠に簡素な人面を描き、その左右と下方から粗雑な手足を生やしたような、変わり種の妖族。
ゾニミア同様、本来であればこの地には生存を許されない生物だった。
彼女自身としても、今は彼の生存を許したくない気持ちが強い気がするが、それはともかく。
「いやいやいや! 侵入者が来てるんですってば! ボクとしてはゾニミアさんにその危機を知らせつつ、あわよくば奇襲からの濃厚なアバンチュールをぎゃあああああああ!!!」
「結界を張ってるのは知ってるでしょう……やってくるのは一人、敵意もない、結界の外を多人数で固めてるわけでもない。そこまで警戒しなくてもいいはずよ」
靴の踵で卑猥なゴム鞠をグリグリと踏みつけると、ゾニミアは玄関へと向かった。
「(使命もなくなった訳だし、村のみんなには悪いけど逃げるべきなのかもね)」
玄関を出れば、木々の合間を縫う細道から、一人の男が彼女の小屋に向かって歩いてくるところだった。
僅かな手荷物だけを持った、中肉中背の、赤毛の男だ。人当たりの悪くなさそうな、垂れ目の造作。
「やあ」
明確な目的があってやってきたのだろう、足取りは確かだ。
加えて、魔女の知覚の作用で特に平坦で波もない彼の感情の動きが読み取れる。読み取れるということは、純粋人。だが村人ではない。
「(迷い込んだわけじゃなさそうだけど……ただの純粋人じゃ、ない?)」
「仮にギリオロックと名乗っておこう。察してるかも知れないが、魔女じゃない」
演技なのか元々の性格なのか、やや気障ったらしい仕草で胸元に軽く手をかざし、彼は続ける。
「でも、君の味方のつもりだ」
「……何のご用?」
「ゾニミアさんッ! ボクというものがありながらそんな色目が服を着て歩いてるような間男に心動かされるだなんてぐへああああああ!!?」
玄関で沈黙させたフォンデュさんが再び飛びかかってきたので、空中で足裏を当てて踏み潰す。
ギリオロックと名乗った男は、特に驚くことも無いようだった。
「警告しに来た。啓蒙者が村まで来ている」
「……!」
青天の霹靂だった。今までは、審問官が村に来ても村人たちが事前にそれを教えてくれた。それなりに深い森の中にある小屋も見つかりにくかったが、今は封印を解かれた灰の雪の妖獣が降らせた魔法物質の雪の影響で、広範囲の森が焼失している。
審問官ではなくその元締めの親玉である啓蒙者が来るのであれば、見つからないとはいえない。
「無論、逃げようと留まろうと強制はしない。だが、もしここを後にするなら、幾ばくかの力にはなれると思うよ」
「……あなた、連邦の間諜か何か? 訊いた所で肯定はしないでしょうけど」
「善意なのは自負するところだ。たとえ間諜だとしても、敵地に取り残された同胞の救助回収は連邦憲章にも記された基本政策だしね」
「考えさせて」
「なるべく早い方がいい。近くの貧民村が完全に潰されることになって、残っていた村民をここに移住させる話が進んでいるらしいから」
「……!? ……ああ、あのスケベ髭が残していった作業者用の簡易住居がいっぱい残ってたわね……」
額を抑えて、呻く。
あの王都から来たという成金も、余計なことばかりしていってくれたものだ。それだけで事足りなくとも、お誂え向きに森が焼けて広がった土地がある。
「そういうことだ。その妖族くんも、こんな土地で生きていけるってことは変わり種なんだろうが、見られたら言い訳が効かないだろうから、逃げないなら外に出さない方がいい」
「ゾニミアさんッ! ダメ! ボクとあなたを引き離すための陰謀に違いまふぁぁぁぁぁぁぁ!!?」
ゾニミアは足の下で叫ぶフォンデュさんを踏みつける足に、更に力を込めた。
「もし逃げるんなら、いい出国幇助業者を紹介する」
彼はそういうと、名刺らしき小さな紙切れを渡してきた。
ユーティスト私立興信所、連絡員ギリオロック・シュムナー。
記憶に間違いがなければ、七年前、彼女が連邦からこちらに移住する際に使った業者のはずだ。
ただ、そこには手書きの追記があった。
「……?」
ここから南東の小都市に行けば、連邦側の間諜が彼女のような魔女を迎え入れる準備を整えている旨が書かれている。
「ありがとう。あなたも気をつけて」
「仕事帰りに寄っただけさ。それじゃあ」
本当にそれだけの用だったのか、間諜らしき男は歩き去っていった。
ようやく春が訪れようかとする季節、サルドル・ネイピアは改めて、十分に温まった真昼の空気を肺に送り込んだ。
昨日に比べてやけに暖かい今日は、白く重厚な法衣を脱いでも良いかも知れない。
ここは純粋人の国、スウィフトガルド王国の極東。汚染種との戦いの最前線に近い場所だ。
緩衝諸国や属領の住民などからは、王国本土ともなれば全土が爛熟した大都市であるように思われていることも多いが、彼の所感ではそうではない。
啓蒙者の新人僧、サルドル・ネイピアは、そんな東部の自治体で、とある廃村の住民たちの住居移転が滞ること無く行われているかどうかを監督・指導する仕事についていた。
実際の作業にあたっているのは周辺の大都市から少数派遣されてきた官吏や報酬を確約した移転先の村の住民たちだが、彼らとサルドルの外見は大きく異なっている。
彼らは人間で、サルドルは啓蒙者。啓蒙者は人間に比べて肌の色が暗く、髪の色が鮮やかな原色をしていることが多い。何より解剖学的、決定的な違いは、啓蒙者の肩口からは鳥のような翼が生えているということだ。人間は手足を合わせて四本の肢があるが、啓蒙者はそこに翼を加えて六本となる。
サルドルのそれは一般的な啓蒙者よりもだいぶ小さく、彼はそこに密かな劣等感を持っていたが。
「一先ず、仮設住宅は人数分確保できたね」
サルドルがこうして人々の移住を仕切っているのは、先日、ここから東の貧民村であるヴォン・クラウスに汚染種が出現したためだ。
法的には登録が抹消された自治体にも関わらず残っていた住民たちも、魔女が再び襲来することを恐れて近くの自治体に避難することになったのだった。
それがここ、ソーヴル。
規模の大きな村ではないが、移転支援に協力してくれることとなった自治体だ。しばらくは、サルドルたちが定着の支援をしていくことになるだろう。
「何だか出来すぎのような気もするけど……」
「これも最初の御方の思し召しってものでしょ、サルドル」
疑念を漏らすサルドルに話しかけてきたのは、ヴォン・クラウスから共に着任してきたオリョーシャヤという娘だ。彼と同様啓蒙者であり、同じような白い法衣をまとっている。
自分よりも年上で市民学校を出たのも早いのだから、サルドルは彼女が指揮を執るべきだと思っているのだが、オリョーシャヤはあくまで補助に徹するつもりのようだった。
彼女は彼女で作業監督などをこなしてくれているのだが、サルドルは必死で装甲端末を繰りながら、移転計画の修正と問題点の解決の案を練り続けていた。十七歳とはいえ、無翼人を導く使命を持つ種族である啓蒙者であれば、そのようなこともしてみせなくてはならない。
オリョーシャヤには無翼人に操作させる訳にはいかない機器の操作を全て受け持ってもらっているので、分配としては公平ではあった。
それに、大変なばかりでもない。
「妖獣が出たのも思し召しかな……?」
「そうでなくて、何なのかしら。それじゃあ、私は自動整備機の保守があるから、あとはよろしくね。ほらそこに」
彼女はそう言ってそそくさとその場を離れ、それと入れ替わるように、駆け寄ってくる声があった。
「サルドル!」
「ペーネーン」
娘だ。年の頃はサルドルと近く、首筋のあたりで切りそろえた癖のない栗色の毛を振り乱しながら辿り着く。
ペーネーン・アールネ。ヴォン・クラウスの村で知り合った、無翼人の少女だ。
その村にサルドルが移転の勧告に訪れた一週間ほど前、そこで知りあい、多少の紆余曲折を経て、今では元々のソーヴルの住民と、新しく移転してきたヴォン・クラウスの住民との仲介役のようなことをやっている。
スウィフトガルド王国では啓蒙者というのは基本的には畏怖を持って接される存在なので、サルドルやオリョーシャヤが直接話をするのが難しそうな村民たちとの橋渡しとしては、物おじしないペーネーンは適役だった。
「おはよう。新宅地を見て回ったけど、やっぱり来て一週間じゃ順調とは行かないみたい」
「そうだろうね……」
彼女には、彼らが仮に”新宅地”と呼んでいる、ヴォン・クラウス村の住民を受け入れる仮設住宅のある一帯を指していた。村からわずかに離れており、これは先日起きた第二の妖獣事件で封印を破壊してしまった王都の富豪が鉱山町を開くために作ったものなのだと、サルドルは聞かされていた。
ソーヴル村の反対も金で抑え、自分の鉱山を開こうとした資本家が汚染種の兵器が存在するという重要性を軽視し、破壊して封印を解いた。
そして、ほぼ時を同じくして、そこに出現した何者か、恐らくは別の汚染種の手によって、大型汚染種は駆除された。
「(それが、無翼人たちの見解だけど)」
「それはそうとサルドル、今日は審問が来るってホント?」
「うん。十一時にはつくそうだから、そろそろ出迎えに行かないとね」
「でも何だか、ソーヴルの人たちの様子がおかしいのよ……妙にそわそわしてるっていうか、審問が来るって聞いてから余計に」
「考え過ぎじゃないかな。僕達だって、新しい家族が増える時は不安だって覚えるものじゃないか」
「…………そうかな」
サルドルは、ペーネーンの微妙な表情に気付けていない。
啓蒙者とは基本的にはどこまでも善良な種族だが、人間種族の低俗な感情の機微には、専門家でない限り驚くほどに鈍感だ。
元々全く生活レベルの違う、彼らから見れば乞食と大差ないかも知れないペーネーンたちが、本意や経緯はどうあれ啓蒙者という強力な後援者を伴って一緒に住まわせろと言っているのだ。何も感じない方がどうかしているし、それを家族構成の変化と同列に考えるサルドルたち啓蒙者も、やはりどこか相容れないところがあるのではないか。
実際には、ペーネーンの考えも半分は的を外していたが。
三十分ほど経って、サルドルはオリョーシャヤと共に、村の入口でその審問騎士団の到着に立ち会った。
「ようこそ、ソーヴルへ、歩く人々。宣教師のサルドル・ネイピアです」
「はじめまして宣教師サルドル・ネイピア。非常勤審問官のクォート・エクイッシュです」
背丈こそさほど高くはないが、審問官の制服を隙なく身にまとっており、灰色がかった金髪も櫛を入れてあるのが窺えた。そして、男というよりは少年といったほうが近い歳だろう。童顔なだけなのかも知れないが、サルドルやペーネーンと大差ないのではないか。
「審問官、お連れの人数は随分少ないように見受けますが……」
「ここ数ヶ月、東部から騎士団領にかけての地域に汚染種の出現が集中しております。本来であれば大部隊でお邪魔したい所ですが……今回は身軽さを重視しました」
「それは何故ですか?」
「相手が身軽だからです」
彼はそう言うなり、サルドルの第六の知覚に感が生じ、それは目の前のクォートという青年が、純粋人には絶対に扱えない筈の力を行使しようとしていることを意味した。
「そこだッ!!」
鋭い声と共に仮想物質の弾丸が生成され、空気を切り裂いてサルドルの後方の民家の鳥小屋の中に着弾して大きな土煙を巻き上げた。その衝撃で鶏たちが激しく騒ぎ出す。
「な、何を……!?」
「敵を逃さず狙う!」
驚くサルドルに目もくれず、クォートは弾丸を連射する。彼は、汚染種なのか?
「汝を掴み、寄せる!」
だが、青年が干渉念場を生成して解放すると、土煙の中から空中を進み出てくるものがあった。
それは、サルドルが今朝出会った赤毛の男だった。
「信徒ノンブレイ……!?」
クォート・エクイッシュの行使しているらしい干渉念場の力で空中に固定され、引きずり出されてきたのだ。シン・ノンブレイと名乗っていたその男の表情は、苦悶に歪んでいる。
「ネズミが潜んでおりました。恐らくそれは偽名でしょう。お恥ずかしい話ですが、王国の諜報部門では多少知られた男です。”どこにでもいるギリオロック”という通り名のね」
サルドルは、彼のその説明に衝撃を受けたが、それよりもまず、汚染種では無いはずなのにこうした力を行使する青年に、その素性を尋ねた。
「それよりも審問官、あなたは一体……!?」
「ご説明が遅れました、司祭様。審問官クォート・エクイッシュ、より正確には特務審問官……位は一等戦列騎士にあります。この男のような、汚染種の血を引かない純粋人種でありながら汚染種に味方する間者を見つけ出し、始末をやるための権限が与えられております」
「う、うぁぁああああぁぁぁぁ……!!」
悲鳴。彼と今朝方言葉を交わし合ったサルドルは、クォートの主張を忘れて彼を止めようとした。
「待ちなさい、まずは話し合いを――」
「そしてこうした事態において私の権限は、あなたを含めた多くの宣教師の皆様に優先します。この男は、危険だ」
淡々と述べるようでいて、サルドルの意見を遮り話させない。
その言葉が事実かどうかは確証がないため分からないが、クォートがその発動している念場に力を込めると、空中に浮揚されたシン・ノンブレイ――いや、ギリオロックという名だったか――は更に身を捩る。
だが、目は敵対する金髪の青年を睨みつけていた。
「よく分かってるじゃないか……!」
彼の不敵なつぶやきと同時に、クォートの舌打ちも聞こえた。
「発動!」
短い単語が発音されて、サルドルの知覚にもう一つの干渉念場が発動するのが感じ取れる。
行使したのは、干渉念場で絞り殺されようとしている間諜ギリオロック。よく見れば右手に淡く発光する長方形の紙のようなものを持っている。
二つの念場がぶつかり合って生じる光の縞模様が村の中心に生じて大きな音だけの爆発とともに消え去ると、そこから人口密度の低い地方自治体にざわめきと混乱が広がっていった。
赤毛の男は輝きを失った札を懐に仕舞うと同時に左手でもう一枚を何処かから取り出して構え、審問官は
それを迎え撃つためか集中した。
「無翼人の皆さん、避難してください! 戦闘状態が広がる恐れがあります!」
オリョーシャヤが、まだ周囲に留まっている村人たちに避難を呼びかけ始めた。
「サルドル、私が村人を避難させる! あなたは事態を見極めて!」
「わ、分かった……!」
そうは言うものの、サルドルは審問官が万が一汚染種であった場合を疑ってしまい、事態に介入などできそうにない。本来啓蒙者という生物は「嘘」と「疑う」という概念を知らずに進化してきたとされており、何かを疑う、という心の働きは訓練を受けていない啓蒙者の精神に大きな負担を掛ける。
オリョーシャヤもその場を離れてしまい、サルドルには問いかけることしか出来なかった。
「審問官! あなたのその力、一体何なんです! あなたは……汚染種なんですか!」
忌々しげにこちらを睨み返すクォートの表情に驚いていると、彼に相対しているギリオロックが
「一応彼の名誉のために言っておくとね、司祭さま。こいつは純粋人です、アブない薬を飲んで魔女と同じ力を一時的に使えるようになってるだけの、ね!」
「特務用強化薬液だ! 誤解を招く表現は止めろッ!!」
怒鳴り声と同時に出現した秘跡――信仰ある者が行使するならば、それは秘跡だ――の弾丸が飛び、しかしそれを横転して回避したギリオロックは再び札のような長方形を取り出し、反撃に移る。
既に村の住民も、クォートが連れてきた少数の教会関係者も遠くに避難している。
だが、彼はその場から動けなかった。
動いて目を背けては、許されない気がしたのだ。
「こんな……!」
サルドルは知らなかった。汚染種を絶滅させるための啓蒙者たちの政策に協力してくれている無翼人たちが、汚染種と同じ力を使えるように、そのような薬物を開発していたなどということは。
しかも、使用しているのは審問官。つまり、無翼人たちが勝手にやっているのではなく、啓蒙者の指導的地位にいる大司祭たちが許可を与えたということだ。
キリエ・アールネのような幼くして信仰のある娘ですら処分の対象となるというのに、それは許されるのか?
赤毛の男、ギリオロックは純粋人でありながら東部の叛乱勢力の諜報員だという。彼が使っている札のようなものは、純粋人でも使えるように汚染種が作った武器なのだろう。
同じ純粋人で、しかも王国の審問官という地位にあるクォートでさえ、あのような薬物を服用して汚染種と同様の力を行使している。
いや、サルドルは審問官の力が薬物に由来することを知って、それを自分たちの扱う秘跡と同じものだと認識を変えた。
汚染種たちの使う魔法術・妖術とやらと、啓蒙者の使う秘跡。呼び名が違うだけで、それらの本質は同じものなのではないか?
啓蒙者と汚染種、純粋人。それを識別するはずの境界線は、こんなにもたやすく揺らぐものなのか?
もっとも、サルドルの動揺をよそに、二人は巧みに互いの攻撃を回避し、何やら言い合っていたが。
「今日こそ、その微妙な二つ名ごと葬ってやる!」
「さすが十代、若さがあるじゃねーか!」
互いの攻撃が激化し、村の中心部でたった二人の諜報員による本格的な戦闘が始まるかと思われたその時、不意にギリオロックの方が煙幕を張った。
恐らく、拡散しにくい仮想物質の煙。サルドルは市民学校である程度までの戦闘教練しか受けていないが、視界を遮ってここから脱出するつもりなのだろう。
どちらがより信頼できるかと言われれば、審問官の任命証明書まで見せたクォートの方だが、やはりサルドルは動けない。
しかし、悶々と迷う己に苛立っていると、煙の中から風船が飛び出してきた。
「(あれは……孤立した汚染種が救援を求める時に使う気球索……?)」
ということは、近辺に彼を回収するべく潜んでいる汚染種がいるということだ。それに気づいた時、空中を飛んでサルドルの視界に飛び込んできた影があった。
「……!?」
箒にまたがった汚染種が高速で飛来したのだ。
わずかに減速したかと思うと、汚染種は索を掴んで急加速。気球の付いた索ごと、その下でその端を掴んでいたギリオロックを曳いて飛び去って行った。
クォートが秘跡で強風を起こして煙幕を凪ぎ払った時には、既に汚染種とそれに味方する諜報員は指先よりも小さく見える距離まで逃亡している。
事態を放置することになってしまったバツの悪さを覚えながら、サルドルは秘跡を行使して緩やかに飛翔し、佇む審問官の元へと近寄った。
「すみません、審問官。僕は決断ができなかった……司祭として能力に欠けたことをお詫びします」
「汚染種たちはそうやって、あなた方を戸惑わせるために、純粋人を諜報員として使っているのです。そうした手合を相手にする際は、あなた方を頼ってはならないと指導されています」
無翼人を教え導くのが使命であるはずの啓蒙者だというのに、サルドルは己の葛藤にかまけて事態の打開を彼一人に任せてしまった己を恥じた。ただ、今朝方言葉を交えたギリオロックを汚染種生存幇助の罪で処断することも、サルドルはキリエ・アールネを思い出してしまって実行できなかったのは事実だったが。
「……これから追うんですか、彼らを」
「罠の可能性があります。逃げる汚染種を深追いはしない方針ですが……」
ため息をつきながら答えるクォートの表情には苦々しさもあったが、サルドルへの気遣いのようなものも感じられた。恐らく、本来は年齢相応に感受性も高く、優しい青年なのだろう。
「しかし、村で調査をしなくてはいけませんね。汚染種と敵国の諜報員が二人も潜んでいたとなると、別の村からの転入者たちも含めて洗わなくては」
「洗う……? 審問官、汚染種と物理的に接触しても、それで汚染されるわけでは」
「……捜査を行うことを、無翼人は俗に”洗う”と表現するんです」
苦笑を交えたその指摘に、事態の意味する深刻さを一瞬だけ忘れて、サルドルは赤面した。
もう村に潜んでいる汚染種がいないかどうか、オリョーシャヤやクォートたちと連携して調査をしなくてはなるまい。
一度騎士団が調査したというヴォン・クラウス側の住民は問題ないだろうが――その点に思考が及ぶと、サルドルはどうしても、やはりキリエのことを思い出してしまった。それに付随して、クォートの使っているという薬物の是非に、汚染種に与する純粋人との出会い。
目の前以外にも、サルドルの心には問題と矛盾が積み上がっていた。
「サルドル!」
一先ずは安全と、オリョーシャヤが判断したのだろう。避難させられていたペーネーンが駆け寄ってきて、サルドルの安否を気遣ってくれた。
彼女にならば、この悩みを打ち明けられるかも知れない。
正午の近づく空に、汚染種の残した航跡雲が一条、東に向かって伸びていた。
ギリオロックは、ゾニミアと共に彼女の箒にまたがっていた。彼女がクォートの死角の方向から発光信号を打ってくれなかったら、あのまま審問官や、下手をすると啓蒙者たちまで敵に回して戦わなければならなくなっていただろう。
初めてだろうに、回収用の気球索に気づいて適切な行動をとってくれた彼女の機転も素晴らしい。
しかし春とはいえ、防寒も固めずに魔女の箒に同乗するにはまだまだ厳しい気温だ。現に、ゾニミアはかなりの厚着をしている。
それを紛らわすため、ギリオロックは気流にかき消されないよう大きめの声で彼女に話しかけた。
「事前の打ち合わせもしてないのによく回収してくれたもんだ。もしかして君、回収魔女にいたことがある?」
「おだてないで! どうせやるんなら、って教練を受けたことがあるだけ、すぐに脱落したわ」
「それで助かったんだから、俺の命もそこそこお買い得だったってことか」
「冗談はいいから! 緩衝諸国の飛び方は正直良く分からない、あなたが教えて!」
「分かってる、しばらくは真っ直ぐ谷にそって進んで問題ない! ところで……」
ギリオロックは、先程から彼にちまちまと物理的なダメージを与えてくる存在について言及した。
「くぬっ! くぬっ! ドサクサに紛れてゾニミアさんの体温を味わおうたぁふてぇ野郎だ!」
顔と簡素な手足の付いた人間の頭程度の大きさのゴム毬じみた生物が、怨嗟と共に彼にまとわりつきながら執拗な攻撃を加えていた。それなりに痛く、下手をすれば青あざになるだろう。
「ゾニミア、このフォンデュさんを何とかして欲しいんだけども」
「好きにしちゃっていいわよ、たぶん無理だと思うけど」
「死ねッ――死ねッ――――!!!」
不気味さを増してきたその殺意の塊を試しに引き剥がそうとすると、”フォンデュさん”は強靭な、人間の指一本程度の太さと長さしか無い手足で強烈に彼の腕へとしがみついてくる。
ギリオロックは愕然としつつ諦めの境地に達して、引き続きゾニミアにこれからに関する説明を始めた。