7.アウェイクニング・オブ・アフェクション
使い魔の情報によれば、レヴリスとセオの間で交渉をしていたという話だったが、それから僅かの間に、レヴリスが隙を突いて気絶させたのか。そうだとしたら、さすがにそれはどうなのかという思いもあった。
グリュクにはそれより、カイツに同行していたフェーアの消息が気になっていたが、一先ずは二人に呼びかける。
「社長!」
「レヴリスさん! カイツ!」
彼の秘書とグリュクの呼び声が重なる。やってきた三人の男たちの姿を見たトラティンシカは怪訝そうに小さく眉をしかめ、移民請負人の名を呼んだ。
「レヴリスくん。一体どういう事情ですの?」
「大叔父は、卿の……トラティンシカ様の天船を見た途端に逃げようとしました。親族の義務として対面を補助すべく、無礼ながら当て身を打ちました次第」
「昔からよく気が利く子でしたわね。あとでご家族にも会わせてくださるかしら?」
「喜んで。さあ、それでは……起きるまで少々時間がかかるでしょうが、お連れください。お幸せに」
「あぁ……セオさま……やっとお会い出来ました」
トラティンシカは恍惚の表情で、灯石の付いた杖を傍らに置くとレヴリスに背負われたセオの頬を撫でる。
「うぐ……」
「卿、まずは船に連れて行かれた方がよろしいかと。また逃げ出す恐れがあります」
目を覚まされてはまずいのだろう、レヴリスがトラティンシカに要請する。
交渉中に何があったかは分からないが、レヴリスがセオを引き渡すつもりなら、こちらもそれに応じて動かなければならないだろう。
「わたくし、多少強引な手は使っても、セオさまを監禁したくて追っているのではなくてよ、レヴリスくん。まずはこの手袋を……ちょっと支えててくださいまし」
彼女は姿勢を落とすと、セオの左手の黒い手袋を取り去った。その薬指には、金属のような、陶器のような、不思議な質感を放つ指輪が填まっていた。百年ほど前に、彼女自身が填めたものなのだろう。
「あとはセオさまの意思でこれをわたくしの指に嵌めて頂ければ。さあ、セオさま!」
「ちょっ……!?」
背負った大叔父を揺さぶるトラティンシカの暴挙に、レヴリスが激しく動揺する。
百年も逃げられたままでいながら、なお彼の心変わりを信じているのか、それとも天船が不時着しているのだから彼も観念するだろうという成算があるのか。
「わたくしセオさまを監禁して迫るようなことはしたくありませんの! セオさま! 観念して、わたくしと二十四時間耐久家族計画いたしましょう!」
「ペレニス卿、あまり揺らすと、その……!」
トラティンシカが更にセオを揺さぶると、意識を取り戻したらしい妖王子が声を上げる。
「ひっ……ト、トラ、トラティンシカ……!? レヴリス……俺を嵌めたなッ!?」
襲来した時からは想像もつかない弱気で、彼は尻餅をついたまま後ずさり始めた。
「セオさま、そんなに怯えないでくださいまし。わたくし迎えに参りましたの」
「大叔父上、その……良い機会でしょう! こうなったら態度をはっきりさせて、彼女と向き合うべきです。ペレニス卿はこんなにもあなたを思っておいでなのですから、あとは是非を明確になさればいい!」
予定が狂ったことに狼狽しつつ、レヴリスは即興で話を合わせているらしい。だがその台詞は、状況を傍観しているだけとなっていたグリュクにも突き刺さった。意識してみれば、隣にいるグリゼルダが彼のことを恨めしい目つきで注視しているような気もする。
それはともかく、黒衣の王子は何やら追い詰められたようで、のろのろと立ち上がった。あがこうともしないのは、実は潔い性格なのか、それとも。
「トラティンシカよ……」
「はい、セオさま!」
その瞳は期待に輝き、彼の発言を待っている。相手の態度はとても望み通りの言葉を聞けそうなものではないというのにだ。
以前のエルメール・ハザクのようにはなりはすまいか、それがグリュクと意思の名を持つ霊剣の不安だった。
「自由こそが我が花嫁……譬えこの身をすり潰されようと、我が心を縛ることは出来ん」
そうなるであろうと分かっていたことだが、それでも場が凍りついた。
妖族の令嬢がわずかに姿勢を崩すと、先ほど置いた長大な錫杖に足が当たる。錫杖はがらりと音を立てて転がった。
「……………………え?」
「俺はお前を、拒絶する……!」
そこまで念を押す必要があったのかと危惧するほどに、その台詞には確固たる意思が籠もっていた。
「…………………………………………えっ……?」
彼女は硬直している。傍から見て、哀れなほどに。移動都市と彼女の天船が発するごく小さな振動音を除けば、小さく喉を震わせた彼女以外の、全ての物体と生物が沈黙していた。
だがその時、恐らくトラティンシカ以外のその場にいる全員の第六の感覚が、予兆を感知した。
転移の術で、誰かがここへとやってくる予兆。
「グリュクさーん!」
それはフェーア・ハザクだった。その、無自覚に空気感を乱してしまう存在の闖入で、場がざわめく。
だが、すぐに彼女もその場の雰囲気を感じ取って表情を強ばらせた。
「へ……? ……あ、あの、何か……あったんですか? 皆さん……?」
「嘘ですわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!!!!!」
どこまでも届きそうな、金切り声の絶叫。引き抜かれる際に聞いたものを殺す絶叫を上げる植物があるというが、実在するとしたらこういったものかも知れない。
そう感じさせるほどに、好意を対面して否定されたトラティンシカは、明らかに変調を来していた。
専属の職人が美しく整えたものであろう髪も無残に振り乱され、溢れて流れる涙は見る者の錯覚か、血のように赤く見える。
「セオさまが……そんなことを仰るはずが……絶対に……」
「ト、トラティンシカ……」
突然俯いてかすれそうな声音でそう呟く彼女をさすがに哀れんだか、セオが何か声をかけようとその名を呼ぶ。
だが、その時頭上の巨大天船から落ちてきた新たな光が、トラティンシカの真横に落着した。
吹き上がる土煙、その中から現れたのは、柄の長さだけで二メートルを超える長大な戦斧だった。彼女は美しく装飾を施されたそれを軽々と引っ掴み、石突を下にずんと突き立て、掲げてみせる。
「誰ですの。セオさまを騙して誑かしたのは」
「……!?」
明らかに状況を正しく認識していないその発言に、その場の全員が耳を疑った。
不安的中、グリュクや直接の関係者だったフェーア、その記憶を一時的に共有したグリゼルダなどは、ドロメナ村で出会った昔日の恋に狂える妖女、エルメール・ハザクのことを思い出していた。
「名乗り出ないなら、わたくしあまり器用なことは出来ませんの。確実に、一人ひとり誅殺申し上げますわ」
「正気ですか!」
もはや殺意は明らかだが、それでもグリュクは霊剣を抜かずに、尋ねた。あの時は怨念のようなものが相手だったが、今はそうではない。現実に、拗らせた恋心で認識を歪めてしまった、肉体を伴い生きている女なのだ。
「何の根拠があって、わたくしが正気でないと?」
「根拠というなら、あなたの恋心にだって論理が働いているわけじゃないでしょう」
「根拠なら、この指輪。後はセオさまがわたくしの指にこれを嵌めてくだされば、婚姻は成就しますのよ」
「……俺がそれをすると本気で思っているのか」
気圧されたように、セオが呻く。
「絶対に、させてみせますわ」
トラティンシカはそう言い放つと、戦斧を振り上げた。それが合図なのか、未だに移動都市の上空に居座り続けていた――移動は止まっていないので、都市の移動に合わせて動き続けていることになる――巨大天船の腹部が、口を開ける。
そこから落ちてきた、大きな影が二つ。大きい。岩のような質感の巨大な塊だ。
それがやはり落着し、今度は盛大に土砂を巻き上げる。その大質量の衝突に、さしもの移動都市も少々揺れた。
「も、もしかして……あれも」
(状況から見て魔導従兵)
長じに長じてはいるが、霊剣の記憶も所詮は七百年の間の剣士たちの見聞の集合にすぎない。森羅万象を知り尽くしている訳ではなく、巨大天船も、そこから落ちてきた巨大な岩塊も、全てが埒外だった。
「動地を砕く爆炎となれ!」
「轟火は巌を瓦礫に!」
レヴリスとグリゼルダの爆裂魔弾が発動し、魔導従兵に変形を始める前のそれに直撃した。
だが、圧倒的な質量の違いに、どちらも僅かにえぐったような傷をつけるにとどまる。
「無駄ですわよレヴリスくん。あなたがセオさまに妙なことを吹き込んだのかしら? 陸空の魔導巨獣が、セオさまを惑わす方が名乗り出るまで破壊の限りを尽くすことでしょう」
(何たる暴挙よ……!)
岩塊が変形を開始し、それぞれが巨大な翼竜と、四足獣を模したらしい形状へと変貌する。
翼竜の翼開長は百メートルを超え、四足獣も前後は五十メートルを超えるだろう。大型とされる妖獣をはるかに上回る質量の岩で出来た巨大な獣が、素材らしからぬ生物的な動作で体を揺らし、本格的に動き出そうとしていた。
「(アヴァリリウスも灰の雪の妖獣も……ここまで大きくはなかった也)」
「グリュクくん、フェーアくん! 大叔父と彼女を見ていてくれ! 俺はこの二人と社員たちとで、あれを止める!」
「俺かよ!」
「しょうがない……」
愚痴を言いながらも、指名されたカイツとグリゼルダが先行する。レヴリスもそれに続き、周囲に集まってきた鳥の使い魔たちに号令をかけた。
「移民請負社の全戦闘部隊に告ぐ! 総力を以って、二体の巨大魔導従兵を破壊せよ!!」
陸空の巨獣を阻止しに、使い魔へと連絡事項を伝える鎧姿の屈強な魔女と、文句を言いつつそれに従う長く伸ばした黒髪の娘、神経質そうな青年が飛び出して行く。
既にセオの天船の付近では、移民請負社も破軛戦士団も無関係に、先ほどまで対立していた妖族たちが攻撃を集中していた。魔弾が、爆炎が、電流や念動力場が、巨大な質量を押しとどめようと嵐のように吹き荒れる。
そちらとは全く無縁な様子で、トラティンシカは淡々と、世間話でもするような調子でセオへと話しかけた。
「セオさま、ごめんあそばせ。わたくし、あのお船があるから、セオさまが空とお友達に夢中でわたくしに振り向いてくれないとも思いますの」
「何だと……」
その言葉に対するセオの焦りも、知覚してはいないようだ。
「ですから、あの子たちにはまず――」
「止せッ!?」
「あのお船を壊させますわね」
黒衣の妖王子にとって、天船と戦士団はかけがえの無いものなのだろう。トラティンシカの言葉に応じてセオの不時着した天船を踏み潰そうと飛び立つ、陸空の岩の巨獣。
「トラティンシカァッ!!」
主であろう彼女を殺せば彼らがただの岩に戻るというわけではないのだが、セオ・ヴェゲナ・ルフレートが激昂と共に突撃し、その拳――さすがに、レヴリスに敗北した時点で武装は取り上げられていた――を突き出す。
だが、妖術で岩石をも砕く強度を帯びた妖王子の拳も、彼女が振り回した長柄斧の刃の腹で受け止められてしまう。
見れば、彼が憎悪で睨みつけていたはずの、狂った女の表情は、いつの間にか涙で酷く崩れていた。
「何故ですの……? わたくし、こんなにもセオさまをお慕い申しておりますのに……かっこよくて、やさしいセオさまに……ほめていただきたいだけですのにっ……」
「……恨むなら、巡り合わせを恨め……!」
「でしたら……また巡り合いなおしましょう。わたくしが死ねば、隕石霊峰まで探しに来てくださいますかしら……?」
隕石霊峰とは、ここから更に遠く、妖魔領域の東の海に浮かぶ高山島だ。島がそのまま標高数千メートルの高山となっており、特定の宗教と呼べるような概念を殆ど持たない妖族が、唯一信仰する土地だ。
無論信じない者もいるが、妖魔領域では概ね、妖族の死者の魂は全てそこに集まって眠るとされている。
「俺は自由だ。隕石霊峰に還ろうと、お前のものにはならん」
その場だけでも同意してしまえばいいものを、セオは更に彼女の言葉を否定する。それは彼なりの誠実さというものでもあるのだろうが――
「ではセオさまを殺して、わたくしも死にます!!」
「思慕を拗らせ我が命さえを狙うならば、お前とはいえ生かしてはおけん!」
長柄の戦斧を構えるトラティンシカ、素手でもそれを迎え撃とうと構えるセオ。
見かねたのだろう、フェーアが彼に心配そうに尋ねてくる。
「グリュクさん、ミルフィストラッセさん、何とか止められませんか!」
(あれをやるか、主よ)
「……いや、その……」
あぁ、と言いかけて、グリュクは問題に気づいて躊躇した。
フェーアとの距離が近い今、この場でそれを、黄金の旋風を行使すれば、否応なしに今の自分と彼女も意識を共有してしまう。
今の自分の意識を、彼女に知られてしまうのはまずい。
ちょっとまずいので離れててもらえますか、などと告げるのも、良からぬ下心を隠しているようで良くない。
(躊躇っている場合ではないぞ! それともどちらかに与して遺恨を残すか!)
今までのやりとりを鑑みて、セオに味方して、トラティンシカを撃退した場合。
彼女を生かしておけば、いずれはまたセオを追って襲来するだろう。再び逃げまわる必要が生じたセオも、自らの船の燃料とするために再び霊剣やカイツを狙うだろう。
殺してしまえば、狂王の居城の宝物庫の採掘事業を任されているという彼女の実家や高位の妖族たちを敵に回す可能性が高い。
あるいは、トラティンシカに与してセオを引き渡してしまえば、天船を中心に陣取るセオの部下たちと、彼を擁立しているであろう妖族たちが黙ってはいまい。誤ってセオを殺すか、自害されるなどしてしまえば、それも無駄骨となる。
相討ちを待つなど確率も低い上、倫理的には以ての外だ。
そして、彼が個人的な打算も加えて情けなく逡巡している間に、トラティンシカが戦斧を振り下ろした。セオは辛くもそれを回避し、激情も露わにトラティンシカへと殴りかかる。
「うぅ……」
(この意気地なしめが! もういい、もう沢山だ! 吾人が今、直接彼女にチクって――)
「よせ、分かった! やるから!! 行くぞミルフィストラッセッ!!」
(応よ!)
そして、黄金の旋風が剣士を中心に溢れ出て、彼と、すれ違いから殺しあうこととなった妖族の男女、そしてあまり関係のない白耳の妖族の娘とを包み込んだ。
「(チクるって、何をかしら……)」
フェーアの素朴な疑問が自分の頭の中にも流れてきて、グリュクは自分の密かな思慕が終焉を迎えることを覚悟していた。
「見えざる手は我が前に!」
「跡形も残さねえッ!!」
グリゼルダの念動力場が四足獣型の大型魔導従兵の動きを鈍らせ、そこに体色を青く変化させた魔人の放つ魔弾の奔流が殺到する。扇状に拡散した威力の群はその前面を舐め、前半身を爆轟が埋め尽くした。
だが、破壊には到底足りない。
(推定重量七万トン! 無茶はしないでくれ、グリゼルダ!)
「言われなくても、敵の船をそこまで全力で守ったりしないっての!」
こうした巨大な敵は足場を崩すという手があるが、その四肢の一本一本が、十数メートル。先ほど相手にした永久魔法物質製の大型魔導従兵の背丈並みの長さだった。半端な威力ではすぐに抜けられてしまうだろうし、身動きを奪うほどの深さの崩落を起こしてしまうと、今度は足元に広がっているレヴリスの移動都市に深刻なダメージを与えてしまう可能性もある。先ほどの大型魔導従兵相手での崩落もそうだったが、全長九キロメートルの超巨大構造物とはいえ、慎重になるべきだった。
「おっと!」
魔弾を斉射した青い魔人はそう呟くと瞬く間に体色を銀色に変化させ、空中に飛び上がった。
「黒焦げにしてやるッ!」
その瞬間、自然ではありえない方向に雷が飛んで、翼竜型の魔導従兵を打った。青白い閃光と爆音で、妖族たちも一瞬怯む。旋回しながら爆風を地上に向かって打ち付けていた岩の翼竜は直撃を受けて一瞬高度を失ったが、すぐに体制を立て直して飛び上がった。
そして、その腹が両開きになったかと思うと、そこから円筒状の物体が数十個も投下された。
(爆弾!?)
「見えざる手は我が前に!」
「そっくり返すぞ!」
「己に返る……呪いとなれ!」
三人の術者が展開した三重の念動力場が、運動エネルギーを得ていた合計数十トンにも達する対地攻撃用の投下爆弾を上方へと跳ね返し、落下時に劣らない勢いで叩きつけた。
恐らく魔女国家から入手した爆弾なのだろう、魔導従兵に術を使わせるのは難しいので、火力を持たせたければこうした方が手軽ではある。
爆弾はほとんどが爆発し、不発のまま再び落下した物は空中に飛び上がった銀色の鎧姿の男二人が破壊した。
翼竜は堪らず体勢を崩し、三人の魔法術の矛先がそちらに向いている間にセオの天船へと突進しようとしていた陸の巨獣へと、上手い具合に衝突した。
そこへすかさず、
「天は罰を速やかに!」
「岩だろうと!」
移動都市に倒れ伏した二体の巨大魔導従兵を打ち据える、二条の雷。
レヴリスはセオとの戦いで相当に神経を酷使したのか、膝をついて全身の神経の痛みに呻いていた。グリゼルダも限界が近い。
凄まじい絶縁性能を持っていた永久魔法物質製の巨人であれば通用しなかっただろうが、それでも電気抵抗を容易く貫く落雷レベルのエネルギーを持つ一撃だ。
永久魔法物質ではない、岩石と大差のない組成であれば、いかに巨大な魔導従兵といえど、絶縁破壊を起こして内部の命役符にダメージを与えることなど造作も無い。
そこに、両陣営の妖族たちから次々と、魔弾や電撃が殺到する。数百人の全員が全員、攻撃の妖術を得意とする訳ではないが、それでも双方を蹂躙しようとした巨大な敵に、怒りの反撃が豪雨の如く叩きこまれた。
そして、空中高くに飛び上がってい魔人が、さらに体色を変化させる。色は土色だ。
(グリゼルダ! あの右腕は……)
「あぁ、あれで突撃するのね――ってマジで!?」
鈍く輝く右腕の削岩錐を下方に向けての、自由落下。
土色の魔人は魔導従兵の表面に衝突し、破壊した。
セオ・ヴェゲナ・ルフレート。
狂王位継承第十三権者である彼は、継承順位にはあまり興味が無い。
だが、自由を維持するためにはそうした下らない背景も必要であるということは知っていた。彼の母親の故郷であり、彼の擁立地でもあるサーク・リモール辺境伯領も、一応は彼が次の狂王になる目を持っているからこそ、彼を擁立しているのだ。世間はそうした打算で動いている。
天船アムノトリフォンで移動と戦いを繰り返す生活を共にする彼の部下たちも、中には純粋に彼の強さと人格を慕って付いて来てくれている者もいるが、そうでない者も多いに違いない。
実際に問い質したことはないが、もし彼が、数百人を数える狂王の直系として継承権第十三位という高位になければどうだったか。
あるいは、気まぐれに臨んだ宴の席で彼に接触を試みる女達。彼女たちも、セオに近づくにあたって全くの打算抜きでそうしている訳ではあるまい。
彼とて、そうした打算を自分でも行って生きてきたのだから、それについて不平を漏らしはしなかった。
だから、せめて自由でいたかった。自由のためには、それ以外の点で最低限の妥協はした。
それを奪おうとする者は、敵だ。
だから、古代魔具まで用いて彼の人生を縛ろうとするトラティンシカも、敵。
そう思っていた。
(セオさま……わたくし、セオさまに近づくためなら、何だってしてまいりました。セオさまに知れたら嫌われてしまうようなこと以外の、わたくしに出来る全て、やるべきと思った全てのことを……昨日までは)
だが、打算以外を許さないこの世界で自分の望みだけは頑なに曲げず、貫き通そうとするこの娘の何と純粋なことか。
そもそも、赤い髪の剣士の掲げた剣から吹き込んできたこの、黄金の粒子の旋風は一体何か。
目の前で彼を殺そうとしてきた娘の心の内側が、手に取るように分かってしまう。
意識が、繋がっているのか。
(……いや。ならば何故、俺を殺そうとした……!)
(今生でセオさまに愛して頂けないならば、こうするしかありませんわ……セオさまを殺して、わたくしも死ねば、せめて隕石霊峰に還って一緒には成れましょう? わたくし……セオさまに愛して頂けるのなら、他には何も要りませんでしたの)
(……それほどまでに、俺を求めるというのか)
もはや、自分がこの地に両足で立っているのか、旋風に導かれて本当に隕石霊峰に辿り着いてしまったのか、金色に染まる視界のせいでそれすらもが分からない。
金色に染まりはしたが、それでも彼女と分かるトラティンシカが、ふと目を伏せて呟く。その声も肉声か、魂の声なのか、今の彼には定かではない。
だが不思議と、それが腹の底からの言葉であるとは理解できた。
(お許しあそばせ……わたくしがセオさまをお慕いしているのと同様に、セオさまもご自身の自由を求めてらっしゃるのですものね……トラティンシカは浅はかでした。セオさまのお気持ちを尊重しているつもりで、これっぽっちも理解できていませんでしたのに……この金色の風で、それに思い至ってしまいました)
(待て、トラティンシカ……!)
悍ましくばかり思っていたその心の体温に触れて、セオは思わず去ろうとするそれを追いかけた。
小賢しい計算など無く、金色の旋風の中を、駆け寄ってゆく。
折り重なってもがく巨獣の土手腹に突入した土色の魔人は、がりごりと耳障りな音を外部にまで轟かせた。異様にせわしない道路工事を思わせる掘削音は、土の魔人が再び巨大魔導従兵の内部から出てきたことで唐突に終わった。
巨大な岩の翼竜と巨獣は、痛々しく苦しむ獣のような動きを見せていたが、ついに力尽きて、ただの岩石の巨像に変わる。
(勝負あったね)
天船を守っていたセオの部下たちも、一時的にそれに協力していたレヴリスの部下たちも、等しく喝采を叫んでいた。
さすがに疲れたのか、元の青年の姿に戻って膝を突くカイツ。その傍に鎧姿のままのレヴリスが降りてきて、兜を脱ぐと肩を貸して立ち上がらせた。
「あとは――」
「あっちだけだな」
二人の視線の先には、離れたやや高い位置で渦巻く、金色の竜巻。
「(外から見えるとあんな感じなんだ……)」
前回巻き込んだ際、レヴリスは全身をあの鎧に包まれていて、作用を受けなかったようだ。
魔人は、そもそも居なかった。
三人の中ではその作用を唯一実感で知るグリゼルダとしては、セオとトラティンシカの関係の顛末よりも、内部にいるであろうグリュクの状況が気になった。旋風が維持されている以上、死んでいるといった事態は考えにくいが。
「グリュク……」
(心配かい)
「当たり前でしょうが。ていうか、あれ……フェーアももしかしてあの中!?」
(……だろうね)
「ダメそれは駄目ーッ!!」
慌てて黄金の旋風の渦巻く地点まで転移しようとするが、時既に遅く、粒子の結界は辿り着いた彼女の目の前で小さな爆音を立てて消えた。
グリゼルダがそこで見たものは、固く抱きしめ合う男女。
「トラティンシカ……もう離しはしない」
「セオさま……セオさまぁっ……!」
そして、口元を抑えて俯きながら佇んでいるフェーア・ハザクと、酷く赤面しながら意思の名を持つ霊剣を鞘に納めるグリュク・カダンの姿だった。
「こっちも終わったよ、グリゼルダ……うん……本当に終わった……」
「…………?」
その声はどこか、震えていた。
未電化地域の村で、ブラットの調査は手詰まりとなった。
「そう言われても、ねえ、アイル」
「そうだね……すみません。これ以上は、僕達も何も知らなくて」
宿場町から始まった、一人の魔女の消息を追う彼の調査任務は、比較的順調だった。
ごく短期間所属していたという商会から、目的の魔女が個人の運営する下請商社のトラックに乗って東へと向かったという証言が得られたからだ。
一人で運営している零細企業で、運営者の氏名はアイル・トランクリオ。彼が住むドロメナという小さな村まで辿り着き、そこで更に証言を得た。
何と、小村とはいえ自治体をひとつまるごと結界で封鎖する妖族を、実力排除する以来を受けたのだという。
村にほど近い町の警察関係者からも裏付けは取れており、確かに妖族への対処に熟練の魔法術技能者を加えた小隊が出動、空振りに終わって後処理に終始していた。
問題は、肝心のグリュク・カダンがそこで消息を絶っていることだ。
強力な攻撃術の応酬となったことは、明け方に複数の爆音を聞いた他の村民たちの証言でも明らかだが、彼はそこで、恐らく妖族の女の殺害には成功したのだろう。
だが、村に報告をしに帰ってきてはいない。妥当な筋書きを描くならば、相討ちとなっての死亡。遺品の一つも発見できない死亡例というのは、魔法術を使った戦闘であれば決して有り得ないことではない。
綺麗に掘り返された、元は森だったはずの開けた荒れ地を見たブラットは、確かに自分が、恐るべき魔女の足跡を追っているのだという実感を強めた。
「彼には、本当に申し訳ないことをしました」
「うん……」
夫婦だというやたらに犯罪臭のする歳の離れた男女――トランクリオ夫妻はそう俯いた。
「(……何か……隠してるな)」
最初は、彼らが妖女に関わる何らかの情報をグリュク・カダンに対して隠しており、彼の行方不明の一因となったのではないか、ということを考えた。
だが、どうも違うようにも思える。
グリュク・カダンと妖女が共謀して村から金を騙し取ろうとしていたのではないかという意見も、カウェスから彼の足取りを追ってきたブラットにとっては、何やら不自然だった。
「(空軍の金払いの渋さは筋金入りだしな。妖虫退治で大した報酬も受け取れなかったんで金に困って、村人たちに利用されたか……?)」
いや、そこまで実力のある魔女がその体たらくというのも考えにくい。
「……ご協力ありがとうございました。また何か思い出しましたら、お手数ですが麓の軍関係者までお知らせください」
「分かりました、お気をつけて」
こうして、ブラット・ボスク一等巡視兵の捜査は、五日目にして早くも行き詰まりを見せつつあった。一先ずは途中経過を報告、麓のダンスタークで目撃情報が他にもないかどうか再び聞き込みを行って、それも駄目なら、妖魔領域で件のエルメール・ハザクとやらの情報に当たってみるしか無い。そこまでの捜査が必要となれば、空軍も諦めるだろうが。
彼が去ったあとで、夫妻は周りを確かめ、こっそりと言葉を交わした。
「グリュクさん、何かやったのかな……」
「いい人だったし、そんなことはないと思うけど。今はどこにいるんだろうね」
――使い魔に盗聴行為をさせることは、連邦法で禁止されている。
だから、ブラットが雀の使い魔を使って二人の隠し事を知っても、隠していた二人は罪に問われない。
どうせ行き先を知らないのだから、隠し事を出汁にゆするのも時間の無駄だ。
「(こうなったら、意地でも面を拝んでやるぞ)」
生きていると分かれば、捜査の方針も変わってくる。
彼は村から離れた場所で使い魔と合流すると、箒にまたがり離陸し、滑るように山肌近くを飛んで下山した。