2.魔人と天船
太陽もだいぶ昇った時刻。
気温の上がった妖魔領域の中北部を、春の気配が覆う。
細い川の両岸は切り立った崖になっており、この川の成立が、地質学的には近年の出来事であることを示す。
桁を記せば数千年もの単位となるが、岩盤が流水や大気の浸食作用で風化し、裂け目に貯まった土壌から植生が顔を出すには十分すぎる年月だ。
そして、周囲にを埋め尽くす植物たちの葉の色が黄色いのは、ここが妖魔領域であることを実に端的に意味していた。
妖魔領域の生物はほぼ例外なく体細胞の内部に“変換小体”と呼ばれる細胞内小器官を備えており、これは黄色の色素を多く含んでいるために妖樹の葉は肉眼には黄色く映る。なお、妖動物の血中のものについては鉄の色素が非常に強いため、血液が黄色くなるといったことはない。
この器官が、妖魔領域の植物において葉緑体のような役割を果たし、天から降り注ぐ魔力線をエネルギーに変え、黄色い植物たちの生命を支えていた。
そして、その魔力の線によって生かされているのは、植物たちだけではない。
「腹が減らないっていうのはそれはそれで……複雑な気分だ」
遠慮がちに、呟く声。
一人の青年が、さしたる装備も無しに渓流に沿って歩き続けている。少なくとも、山歩きに向いた格好ではない。
彼、カイツ・オーリンゲンのその心境は、彼の現在の体の状態に起因していた。
簡単に記せば、彼はとある事故で生命を失い、その時起こった不思議な出来事――あるいは特異な巡り合わせによって、人間とは確実に異なる何かへと変貌を遂げていたのだ。
今や彼は、魔人へと変身する能力を備えてここに存在している。
「(もしくは、人間に化けて人目を欺く能力を持った怪物か……)」
意を決して己の皮を剥げば、下から雪のように白い怪物の表皮が現れるのかも知れない。ただ、膝を擦りむく程度の怪我であっても、体の中に潜んでいる彼とは異なる電気のような生命体がそう判断すれば、体のその箇所が反射的に変身した。うっかり岩場で足を滑らせでもすれば、自動的に体全体が変身してしまうのだ。
変化した自分の体の特性は把握しているつもりだったが、これにはさすがに閉口した。変身した状態の彼は、眼球や臓器ですら鋼鉄を凌駕する強度を持つ。
しかも、宇宙から降り注ぐ魔力線から生存に必要なエネルギーや代謝器質を合成する能力を持っているらしく、魔力線さえ十分ならば一切の食事を必要としない。水の摂取はさすがに必要なのか、一日に何度か喉が渇きはしたが、食事の楽しみ――それが学士時代に研究室で書類にまみれながら口にしたぼそぼそとした食感の非常食や、実験体だった頃の被験者食だったとしても――を失ったのは何とも味気ない。
以前は魔力線の密度が低い地域、例えばベルゲ連邦などにいると、魔力線合成が不十分になるためか食事が必要だったのだが、以前の事件でカイツの体には更に変化が起きており、今ではそれさえも不要になったようだった。
ちなみに、問題がなければこのような妖魔領域ではなくベルゲを通っても良いのだが、彼を取り戻したがっている国家からの指名手配を受けているので、無用のトラブルを避けるためにこうしている。
空しい再確認だ。己の状況をそう反芻しながら、カイツは渓流の見える森を下流へと歩いていった。
「ん?」
十メートルほど向こうで、不意に森が途切れているのに気づく。
やや足早に歩を進めて確認すると、そこは絶壁になっていた。
渓流は滝となってそこに向かって落ちていた。小さな滝だが、滝壺からは水煙が上がっており、そこには小さな虹さえかかっている。
ただ、それより目を引く物体が、滝壺より下流の緩やかな流れに存在した。
「(……船?)」
細い流れに不釣り合いなほど大きな船らしき物体が、停泊している。
舳先に衝角を備え、前後に長い船体を持つ船だ。帆は無い。カイツのイメージする帆船という物は木造の物だったが――元々雪の多い内陸国出身ということもあるが、彼にはあまり船に関する知識がない――、その胴には継ぎ目が一切無く、質感は磨かれた石に近いものを感じさせた。
帆がない代わりに見張り塔のようにも思える複雑そうな構造物が天へと突き出しており、その内部や甲板と思われる場所では妖族の男たちが動き回っている。距離にして三百メートルほどを隔ててはいるが、その雰囲気からは何か、苛立ちのようなものを感じ取れた。
「(あいつらは何だ? そもそも、こんな小さな川にあんな大型船が入れるのか?)」
それもまた、不思議だった。川を遡上してきたにしても、無理矢理滝の上から落としたにしても、カイツの素人目からして不可能に思える。いや、素人目には不可能でも熟練の技を以てすれば可能なことなのかも知れないが。
茂みから小さく顔を覗かせて観察していると、しかし妖族たちの様子が変化を見せた。何やらざわついている。超人となったカイツの耳ならばこの程度の距離を隔てていても音声程度は問題なく拾うことが出来るが、とはいえ複数人が同時に喋っているのを聞き分けるのは難しい距離でもあった。
ただそれでも、ヴィジウム、という単語が何度か聞き取れる。
「(永久魔法物質……?)」
彼にとっては、悪縁ある概念だった。
だが、それが聞き間違いではないのかと再び聞き耳を立てる前に、彼らの指揮官らしきマントを羽織った男が船から伸びてきた昇降階段を下りて、静まった妖族たちの前で宣言する。
「よし、何者かは分からないが、可能ならば捕らえろ。貴重な供給源に繋がるかも知れん」
そう命じられて、妖族たちが歓声で応えた。
カイツの背筋に嫌な感覚が走る。供給源!
「(……もしかして俺のことか!?)」
“供給源”とは、まさかそれは、永久魔法物質のことか。
彼がもう少し己の生態について把握していれば、妖族たちにとって強烈な魔力線を代謝・発散し続けているカイツの存在は狼煙を上げながら歩いているようなものだと分かったかも知れない。
だが、彼と彼の体内に共存する知性を持った電磁生命体は、そのことについては無知も同然だった。
二ヶ月前まではただの学士と、ただの“物を考える電流”だったのだから。
カイツは己の胸のあたり――普段、電磁生命体はその辺りに集中している――のざわつきを感じ取り、呻いた。
「(こいつらも……あれを危険だと感じてるのか!?)」
電磁生命体、そしていくつかの永久魔法物質の結晶と一体化している彼は、必要と判断すれば、装甲と怪力と大魔力をまとった魔人の形態を取ることができる。
だから、カイツは変身した。小さな轟音がわずかに森を揺らし、小さな妖鳥たちがぴいと囀り枝から飛んで逃げる。
「(向かってくる奴を適当に倒しつつ……逃げだ)」
計画としてはその程度を念頭に、雪のように白い魔人が黄色い森の中、落ち葉を蹴って離脱を始めた。
だが、追ってきたのは妖族の歩兵では無かった。
「!?」
音も気配もなく、更に変身して飛び去ろうとした彼の眼前に現れたのは青みがかった金髪を伸ばした男。黒いマントを羽織り、まるで物語に登場する海賊のような出で立ちをした、野性的な美男子だ。
「ほう……妖族でも、魔女でもないか。ますます興味が湧いた」
「…………」
おかしな男だが、隙が見えない。カイツは素人だが、彼の中に潜んでいる電磁生命体は、目の前の男にかなりの脅威を感じているらしい。それが彼の精神にも影響を与えて、目の前の男の隙の無さとして映っているのか。
思わず、彼は再変身した。
「……ほう?」
だが、この男もさすがに、目の前でカイツの身に生じた現象については予想してはいなかったようだ。客観的に見れば、彼の体の胸部を中心に急速な変色と細部の変形が起きている。
そしてカイツは、超電磁魔導生命体アルクースはその体を急速に作り変え、熱の魔人と名づけた深紅の姿へと再変身を遂げた。驚異的な加減速と熱源の生成が可能となるこの形態は、逃げ足に関してもかなり優れている。これで森の中を逃走すれば、そうはおいつけまい。
そこまで考えた矢先、カイツの背後の崖下から何か大きな気配が重々しくせり上がってくる。
林冠の切れ間から見えたそれは、先ほど小川に停泊していた船に見えた。威圧感と共に、何かの爆発の余波なのか、強い風が彼らのいる森を揺らす。
「一瞬とはいえ俺の目を奪った礼だ」
その背後に、先ほどまで川に停泊していた船と同じ色合いの巨大な影が出現した。下部が濡れて水を滴らせており、恐らくあの船に間違いないだろう。
「船が、飛ぶ……!?」
「然り……初めて見る者は誰もが、我が天船に目を奪われる」
そう告げる男を見ると、腰に帯びていたらしい片刃の蛮刀を抜いていた。カイツにも、両腕の手首から肘にかけてに備わっている有機的な形状の短剣がある。それに手をかけると一気に両方を引き抜き、彼は飛びかかってきた黒尽くめの男の刃を受け止めた。
開けた造成地に、硬い何かの打ち合う音。
小気味良いようでいて、そこには戦意と緊張とが入り混じっている。
やや背の高い赤い髪の青年と、長い黒髪を背に垂らした少女とが、互いの得物を手に駆け寄り合っては切り結び、数撃を打ちあっては離れる。
その動きの速度はともかく、剣の捌き方は常軌を逸していた。
蛇のようにうねる太刀筋がグリュクの持つ木剣に絡みつき、弾き飛ばそうとする。
「(術の加速も無くここまで速い――!?)」
同時に襟元まで伸びてきた彼女の小さな手を打ち払うと、霊剣使いグリゼルダは僅かに後退して舞うように左に回り込み、グリュクの剣が間に合わない速度で木剣を突きつけ――だが彼も同様、ただの剣士ではない。左脇を通して後ろを目掛けて木剣を突き出し、彼女の剣を弾いた。
振り向くついでに左手で彼女の肩を突き飛ばそうとするが、更に懐に入り込もうと体勢を低くしていたグリゼルダには当たらない。そこから両腕をバネに放たれた両足の蹴りを、全身で左に転がることで回避した。
少女は小さな捕食動物のように一旦距離を離すと、呼吸を整えながらこちらの様子を見定めているようだった。
「やっぱり強いね……!」
「少しは……認めてくれるかな」
初めて出会った時、自分よりもずっと年下の少女に頼りなく扱われたことについて、不本意がなかった訳ではない。だからこそ、今では尊敬に値する使い手だと理解できるグリゼルダ・ジーベが、たとえ模擬の試合であっても自分をそう評してくれることが、グリュクには嬉しかった。
だが、彼女はやや俯き、木剣の剣先が僅かに下がる。
「ごめん、あの時は……まさか継承して二ヶ月経ってなかったなんて知らなくて」
「ああ、いや……こっちこそ、そういうつもりで言ったわけじゃないんだ」
慌てて補足すると、少女はすぐに微笑んで言った。
「分かってる。続き、しよ?」
「あぁ」
促す彼女に応じて、木剣を構え直す。
通常、至近距離での戦闘となれば手足の長さや体重、筋肉量などで大きく勝るグリュクが圧倒的に有利だ。
だが、霊剣使いと霊剣とが七百年蓄積してきた戦闘経験は、そうした差を些細なものへと変えてしまう。
体格差は技術の前に意味を減じ、重量でさえ要素としての重要性を失い、そこで必要になるのは己の肉体をどこまで意図するままに操作できるか、その限界を知るか、そしていかに機転を働かせるかとなる。
グリュクの意思の名を持つ霊剣の記憶の中で形成された剣術は防御を重視し、どちらかと言えば後の先を、つまり相手の出方を見極めてからそれを的確に迎え撃つ方向を伸ばしてきた。
だがグリゼルダの裁きの名を持つ霊剣が培ってきたらしい剣術はかなり攻撃的で、一見防御を軽視しているようにさえ思える傾向がある。
グリゼルダの体重が軽いこともあるだろう、反り返ったやや細身の木剣で繰り出す彼女の太刀は、疾風を思わせた。捉え所が無いようでいて、確かな鋭さを宿した気流。
連続して放たれるのは肘から先だけを使った牽制かと思えば、そこから更に踏み込んだ高速の一撃が繰り出される。
「(互いに霊剣を握ってたら……俺は何度死んでた?)」
木剣越しに伝わってくる、軽やかだが確かな太刀筋。もし何かの間違いで彼女と刃を交えるようなことになれば、これがいかなる金属結晶であろうとバター同然に切り裂く霊剣の刃で繰り出されるのだ。
当たっても骨折で済む木剣とでは脅威の度合いが違う。
「ねぇ、フェーアの手首が治ったら――!」
「……毒を打ち込んだのはあの王子だ、指定通りの町に来た俺たちに何もしないはずが……ない!」
太刀筋を裁き、或いはこちらから反撃に転じながら、グリュクは少女の問いに応じた。
「あの悪趣味な異空間に吸い込まれる前に……“特異能”を使うんでしょ! その練習もさ、しないと、ねっ!」
会話を交えながらも、二人の霊剣の主は鞘に収まったそれぞれの相棒を腰に帯びたまま、木剣で斬り結んでは離れ、離れては斬り結ぶ。
確かに彼女の言う通り、その必要はあるだろう。
そして、二人の霊剣使いは何を合図とするでもなく、互いの急所に木剣を突きつけあってぴたりと止まる。
グリュクの木剣の先端はグリゼルダの腹部に。それより僅かに早く、彼女の剣がグリュクの首筋へと。
「…………」
「…………」
肩で息をするほどではないが、二人とも、少々汗をかいていた。
グリュクは先んじて切っ先を少女から離しつつ、呟く。
「まだ……勝てないか」
もしもグリゼルダが持っているのが木剣ではなくその腰に帯びた裁きの名を持つ霊剣だったとしたら、グリュクの頸部は切断されて宙を舞っていることになる。
それを実行できるであろう少女は、彼の首筋から木剣の刃先を下ろしながら提案してきた。
「まだ行けるって。首だけになっても舌打ちの音を呪文にして術を撃てば相討ちくらいには」
「怖いから!?」
グリュクが抗議すると、グリゼルダは木剣を後ろ手に回してくすくすと笑う。
「まー、あんまり実用的じゃないだろうけどね」
本当に恐ろしいのは、先日の戦闘で両手首を故意に切断させたこの少女ならばやりかねないと言うことだった。恐らくはある程度、グリュクなどの術者による治療を期待していた筈だが、治療が期待出来ない状況でも実行したかも知れない。
同じ霊剣を受け継ぐものとして尊敬もしてはいたが、彼女の闘志にはそうした底知れなさがあった。この少女が、その細い首を切断されてなお舌を動かして死に際の反撃に魔法術を使おうとするような事態は、絶対に防がねばなるまい。
「それで、なんだけどさ……グリュク」
「……何?」
木剣を肩に担いで一歩、グリゼルダがこちらへと距離を詰める。かなり近い。
「あたしがレグフレッジを受け継いだ動機は……知ってるよね」
「……ああ」
目を伏せがちにそう切り出す彼女に、グリュクは頷いて先を促す。
「でも、あたしの場合はもう……復讐は終わった。後ろによく分かんない黒幕がいたわけでもないみたいだしね。だから、フェーアの手首のことが済んだら――グリュクがそうしたいっていうなら、彼女を落ち着けるところまで送り届けたら……」
そこでグリゼルダが、言葉を切る。
「裁きの名を持つ霊剣を受け継ぐ次の魔女を、探しに行こうと思うの。出来れば…………あなたと一緒に」
「……」
その提案に対する適切な返事がすぐには思い浮かばず、グリュクは戸惑った。
自意識の過剰でなければ、それは彼女の遠回しな告白だったかも知れない。そうなら、その好意はありがたいが――
「その、グリゼルダ」
「あ、ほ、ほら! 今すぐ決めることじゃないしね! それより、あのカッコつけ王子がまた何やらかすか分かんないし! 粒子の練習しよう!? ねっ!!」
「う、うん……?」
急激に調子を変えたグリゼルダが別の提案をしてくるのにたじろぎながらも、それに同意する。同意しつつも、グリュクは胸中で悩んだ。
グリュクが自分の意思を表明すれば、彼女は傷つくだろう。短い間とは言え苦楽を共にした少女の情熱を踏みにじるようなことに、なりはしないか。
彼からやや離れて勢いよく相棒を鞘から抜き放ったグリゼルダの声には、焦りとも恥じらいとも取れる甲高さがあった。
「行くよ、レグフレッジ!」
(まぁ、若いうちはよくあることさ)
「うっさい!!!!」
(主よ、優柔不断は許さぬぞ)
「お前もそういうこと言うんだ……」
グリュクは嘆息しつつ、同じように相棒を構える。
意識して気持ちを切り替え念じれば、その力が膨れ上がってくるのを知覚できた。
「(でも、今粒子を出すってことは……)」
互いの考えが完全に知れてしまうのではないか。
その疑念とは裏腹に、意思の名を持つ霊剣の刀身から光が溢れ始めた。それは金色の粒子の旋風となって周囲に渦巻き、彼らとその一帯を包み込む。
そして、彼と差し向かいに構えた少女が掲げた小振りな片刃の剣からは、赤い光が迸る。こちらは上空へと噴出して広がり、そこから赤い雨のようなものを降らせた。
(彼奴、タルタス王子の異空間を操る術は、相手を誘う性質上、あらゆる術と同様に必ずや前兆、発動準備を伴うはず!)
(君たちの黄金の旋風が情報を共有し、我々の赤い雨の因果を抽出する相乗効果で、異空間の出現する一点を探し出す!)
(さすれば――むぅッ!?)
そこに、意思の名を持つ霊剣が呻く。
(これは……!?)
黄金の旋風と赤い雨の相乗効果は開けた周辺に及び、効果を発揮した。
吹き荒れる金色の粒子はその範囲の中にいる者全ての意思を一時的に共有化させ、降り注ぐ赤い粒子はそこから因果を抽出する。
重なり合わさった二振りの霊剣の特異の能力は、その広場に展開していた高度な隠蔽の妖術を暴き出した。
「……!!」
気づけば、グリュクとグリゼルダは囲まれていた。
彼らを取り囲んでいるのは、妖族。朝にグリュクを襲って自害した襲撃者たちと似たような、彩度の低い動きやすそうな服装で全身を覆っている。金と赤の粒子で偽装を見ぬかれたことを察し、一時的に困惑しているようだった。同じ所属か、それとも。グリュクは彼らを十五人までは数えたが、金色の粒子を媒介にその目的を知って、やめる。
彼らは、グリュクたちの持つ霊剣を狙っているのだ。
「(しかも、こんなに接近されてた……!?)」
町中にいるときから、移動都市に侵入を果たした彼らに追尾を受けていたのだろう。霊剣の加護を受けたグリュクや、幼い頃に霊剣を受け継いで八年が経つグリゼルダの魔女の知覚を持ってさえ気づけなかった、高度な隠蔽の術、あるいは魔具を使用しながら。
グリゼルダと共に粒子の嵐を発動するのが遅れていたら、二人はあっけなく殺されて霊剣を奪われていたかも知れない。
その事実に戦慄を覚え、どちらが先んじるでもなく粒子が止むと、グリゼルダが口を開いた。
「あんたたち……さっきまでの会話、もしかして聞いてた……!?」
「……!?」
向こうも状況が変化して、このまま霊剣を奪いにかかるべきか躊躇しているらしかったが――そもそも、彼らにしてみれば粒子の力による一時的な意識の共有で混乱している――、グリゼルダの台詞に困惑を深めたらしい。彼らにも、どうやら怒っているらしいこの少女が先ほどまでグリュクとどのような会話をしていたか、聞こえていたことだろう。
「聞いたんだ……?」
「……?」
二種類の粒子の作用で返事がなくともそれを悟ったらしいグリゼルダが、長い黒髪をふわりと舞い上がらせて激高する。
「聞いたなぁぁぁぁぁぁ!!!?」
「!!?」
暗い色の装束の妖族たちとて霊剣が目的であり、グリゼルダの発言を盗み聞きしたかったのではないだろう。特に恥じるようなことを言っていた訳でもないはずだが、本人にとってはそうではないらしい。
「死ねええええええっ!」
凶暴な怒声と共に霊剣を掲げたグリゼルダが、その声を呪文に複合加速を発動させて敵中に突進する。
(主よ、好機だ!)
「と、研ぎ澄ませたまえ……」
連携して粒子を放出する行為に、魔具や魔法術に対しても大きな効果があることが立証できたのは、偶然とは言え福音だろう。フェーアの手首の毒に対しても、効果があるかも知れない。
グリュクは何となく乗り切れないものを感じながらも、相棒の助言に従って複合加速を発動した。術者の神経の交感間隔が爆発的に増加し、主観の上では周囲の時間の流れが急激に遅くなったように感じられる。身体能力とその強度も増強されているので、遅くなった主観時間の中でも通常同様に動くことが出来る状態だ。
客観的な時間にして二十秒を待たず、二人の霊剣使いはその場にいた襲撃者全員を叩きのめした。
「……あれは」
移民請負人レヴリス・アルジャンは、遠くに巻き起こった金と赤の嵐に気づいて声を上げた。
記憶に間違いがなければ、霊剣使いたちの技のはずだ。社員たちや使い魔の証言によれば、内部に入った者の記憶や過去の因果を共有させてしまうという、中々にとんでもない機能を持つという。場所は確かに、彼が提案した”船尾”の未造成区画だ。
単に練習が必要なのか、それとも必要に迫られて使用しているのか?
レヴリスは彼の会社で使役している使い魔を適当に三羽呼び、状況を確認するよう命じて解き放った。後者であれば、由々しき事態だ。
そしてその直後、一キロメートルも離れた金と赤の嵐の正反対の方向から、大きな爆発音がレヴリスたちの耳に届いた。
「……今度は何だ」
区画の復旧について概ねの打ち合わせを済ませた直後だ。彼らの移民請負事業を妨害する兵団との戦闘が終結して三日目、無関係とは考えにくい。やはり諦めきれずに襲撃をかけてきたか、それとも双方が疲弊した時期を見計らった別口か。
音の聞こえた”左舷”側からは噴煙が立ち上っており、移民請負人は戦闘に向かない社員たちに適切な指示を出しながら遠ざけ、用心のために自分の鎧を召喚する。
「来陣!」
似たような轟音と共に彼の背後の虚空に銀灰色の全身具足が出現し、それはばんと音を立てて部品ごとにばらばらに分解、一斉にレヴリスへと殺到し、それぞれが彼の体の適切な部位を覆う。
それが終わると、銀灰色の鎧は半壊したままの街を走り出した。
内部にレヴリス・アルジャンを収めたまま背中の開口部から光を噴射し、噴煙の生じた方向へと飛ぶと、着地。
そこで彼は、魔人を見た。
「(……あれも、俺のと同じ鎧なのか……?)」
建物にはさほどの被害は加わっていないようだ。舞い上がる土煙は収まりつつあり、その中心で膝を突いている、雪のように白い、人間の形をした存在。その瞳のない碧眼は釣り上がっており、頭部や四肢にあしらわれた鋭利な意匠は、見るものによっては邪悪さを感じさせたかも知れない。
ただ、レヴリスはそこに、表情を見た。彼のまとった全身具足”シクシオウ”は硬い素材で形成されており、表情を作る機能はない。だが、膝を着いた白い魔人は何か、鎧を着込んでいるにしては、痛みや焦燥といったものにその顔を歪めているように思えたのだ。そしてその視線は、レヴリスを睨んでいる。
意を決して、名乗った。
「俺はレヴリス・アルジャン。こうして鎧をまとっているが、敵対するつもりはない」
「…………アルクース」
その口元は動かず、しかしぼそりと漏れたその単語は、名前だろうか? 警戒しているとはいえ、積極的な敵意など無いことは、理解してくれたと考えるべきだろうか?
「敵意がないなら、味方と思っていいか。俺は何も持ち合わせていないが、助けが欲しい」
淡々と、魔人は続けた。言葉が通じるのなら、まずは心配が一つ減った。少々言い方が回りくどいが、これは弱みを率直に伝えたくないためか。
「我々は、移民請負会社ハダル。依頼に応じて移民を行いたい人々を助け、この移動都市・ヴィルベルティーレの機能を貸し出している。人助けはするに吝かではないが、君はどういった助けを欲している? 君を助けて我々に振りかかるリスクも、あるならば教えて欲しい。それを鑑みつつ、出来る限り力になろう」
「…………」
レヴリスはそう告げて、魔人の反応を待った。まずはこの正体不明の相手の心理の傾向などを見極めてからでも遅くはない。
ただそれと同時に、”シクシオウ”の機能が告げてもいた。
この魔人は、“容量”が大きすぎる。魔女でも、妖族でも有り得ない。
レヴリスは魔女であり、彼らの部下はほとんどが妖族だ。どちらの種族も、空間を飛び交う高エネルギーを秘めた魔力の”線”から、細胞中の”変換小体”と呼ばれる細胞小器官でエネルギーを取り出し、それを魔法術や妖術として行使しているのだ。
この魔人は、魔力線から取り出しているエネルギーの量が大き過ぎるのだ。並ぶ者があるとすれば、それは彼もわずかに血を引く狂王の一族くらいだろう。
レヴリスがそのように思索を巡らしていると、魔人から返答があった。
「……気が変わった。やっぱり、無関係の奴らを巻き込むわけには――」
だが、彼(?)が全てを告げ終える前に、誰かが転移の魔法術でここへやってくる予兆が、レヴリスの魔女の知覚に感じ取れた。同様に知覚したのか、白い魔人も素早く周囲を見回す。
そして、割りこんでくる声。
「カイツ! カイツ・オーリンゲンか!」
(霊剣とその主、参上せり!)
「……!」
見れば、背の高い赤い髪の青年とその下僕の剣が虚空から現れて着地する所だった。
その彼、先日ここへ来たばかりの魔具剣を使う魔女の青年、グリュク・カダンが口にしたのは、白い魔人の名前だろうか? アルクースというのは、名前ではないのか。
「久しぶりだけど悪い、ちょっと待っててくれ。この人に先に伝えなきゃいけないことがあるんだ」
訝るレヴリスに、グリュクが告げた。
「レヴリスさん、使い魔に聞きました。彼のことは俺に任せてください。それより――」
「何だい」
「さっき、俺とグリゼルダが二人でいる所に襲撃を受けました。この剣を狙って」
「あの赤と金の嵐はそういうことか」
彼に対する更なる襲撃の情報に小さく衝撃を受けるが、青年は先を続ける。
「二十人ほど、全員昏倒させて催眠をかけてあります。すみませんが、収容を頼めませんか?」
「悪くない手際だ、手配しよう。使い魔も既にそちらと警備部に向かってる。……そういえば、二人でいたのならグリゼルダくんは?」
実際には、恐らく訓練を受けているであろうそうした襲撃者を全員、逃がさずに昏倒させるなど、手際の良し悪しどころではなく不可能に近い。その戦闘力の一端は先の戦いで見ていたが、レヴリスは尋ねつつも、青年の言葉に少々不気味さを覚えた。
「フェーアさんを任せました。彼女だけ昼食を作ってあとから俺たちの所に合流する予定だったんで、何も知らずに来られては不味いから……使い魔たちに頼んで探してもらって、迎えに行ってます。使い魔で知ったハダルの人たちが何人か、もう現場に向かってくれてるみたいですが……」
「分かった、俺も向かう。“彼”については、信頼していいんだね?」
「ええ、大丈夫です。こいつも知り合いなので……」
グリュクはそう言うと、腰に帯びた剣の柄尻を軽く叩く。
まだ会って一週間と経ってはいない剣士だが、防衛に参加してくれたことに関しては、ひとまず信頼に値すると思っていいだろう。早朝の侵入者に続いて二十名にも及ぶ外部からの襲撃を許したとなると、これは彼の会社であるハダルの信頼の根幹を揺るがしかねない事態でもある。
「それなら――」
だが、何度目の闖入者だろうか、使い魔のカラスが一羽、慌ただしく飛んできて彼に告げた。
「社長! 当市に飛来する物体があります! 亜音速で接近中! 亜音速で接近中――」
次から次に、と愚痴を漏らす前に、それがやってきた。
視界の上方に何かが侵入してきたかと思うと、彼らの頭上から大きな影が一瞬だけ落ち、そして更に次の瞬間には、大きな音を立ててやや小高くなった丘へと突入、土砂や岩盤を削る音を立てながら土煙や瓦礫を巻き上げた。
「何だ!?」
大きな流線型の物体だ。
シクシオウをまとっていればこの程度の土埃や砂利は全く問題がないが、カラスの使い魔は少々情けない鳴き声をあげて吹き飛んでいった。
周囲を見れば、グリュクは素早い構築で透明な防御障壁を張っており、彼にカイツと呼ばれていた白い魔人は軽く手を顔の前にかざしている。
「(さすがにこの煙は邪魔だな)」
そう判断し、移民請負人は鎧の中で術を念じた。
「悪を滅ぼす風になれ!」
「吹き流せ!」
術はグリュクと同時に完成し、そのどちらもが呪文によって解放、突風となって土煙を払った。
一帯を包む噴煙は晴れ、魔法術の風を向けた先には、丘に乗り上げた一隻の巨大な、塔を生やした船。
「船……?」
赤い髪の青年があからさまに訝る声が聞こえて、レヴリスは苦笑した。見覚えがあったのだ。
「あの船だ……森を歩いてると……小川に浮かんだあの船を見つけた。あいつらは……俺に気づくとあれを駆って追ってきた」
「すまないな、俺が謝ってどうなるものじゃないが……」
白い魔人を追って来た理由は分からないが、レヴリスは彼に同情した。
その時、船尾に人影が現れる。
黒いマントを羽織った男だ。青みがかった金髪は前髪を長く伸ばしており、左右に分けられたそれがよく風を孕んで揺れた。
「久しいな、レヴリス!」
よく通るその声に、本能的に気分がやや沈む。本来ならシクシオウをまとったまま話す相手ではないのだが、今は表情を見せずに話せるのがありがたい。積極的に関わりに行くべきでないのは、恐らく誰でも感じることだ。
ただ、久しいなどと呼びかけられれば、当然知らない者は気にするだろう。
例えば、すぐそこに佇んで不審がる目で船上の男を眺めている、グリュク・カダン。
「知り合いなんですか、レヴリスさん?」
「知り合いというか、恥ずかしながら身内でね……君たちも巻き込んでしまうと思うが、今のうちに謝っておく」
「身内、ですか」
(どうにも悪い予感ばかりを覚えるのだが、主よ……)
青年の腰の人格剣までもが、どこか諦めたような調子でやや失礼なことをぶつくさと呟いている。
ただそのままにしておいても事態が好転するわけではないので、レヴリスは仕方なく、鎧の結合を解除しながら前に進み出た。
「とりあえず、あの頭の悪い大叔父様のやらかしたことだ。俺が何とか、始末をつけてみよう」
「大叔父様!?」
レヴリスの発言に驚いたのか、青年が半分裏返ったような声を上げる。実際には十二代も前の、祖先と呼ぶ方が相応しい続柄だったが。自虐的な苦笑で自分の表情がわずかに歪むのを自覚する前に、レヴリスはシクシオウの装甲の結合を解いた。
漆黒のマントと共に優雅にして剛胆といった雰囲気を纏ったその男は、青みがかった金髪を風にたなびかせて名乗った。
「我が名はセオ・ヴェゲナ・ルフレート! 狂王位継承第十三権者である!」