1.多事多難
これまでのお話――
グリュク・カダンと霊剣ミルフィストラッセの旅は続く。
同じ霊剣使いであるグリゼルダが加わり、彼らはフェーアの手首に刻まれた時限毒の紋章を解除できる者がいるという、南東の目的地を目指していた。
その途中、何者かに襲われている妖族の移民たちを助けることとなる。
そこに現れた、移民の庇護者を名乗る鎧の男、レヴリス・アルジャン。
彼に誘われて辿り着いた移動都市ヴィルベルティーレだが、そこは移民を阻止しようとする妖族の兵団と交戦中だった。
その中にいたという一人の妖族の戦士は、グリゼルダの家族の仇でもあった。彼女は復讐の炎を静かに燃やす。
一方グリュクは増大した霊剣の記憶に翻弄されるようになりつつあり、ついには歴代所有者と自分の記憶の区別がつかなくなってしまう。
狂王の娘の一人であり、絶大な戦闘力を持つリーン王女の参戦も重なり、戦況は混沌とした様子を見せた。
だが、そこに裁きの名を持つ霊剣の特異能が新たに発現。二振りの霊剣の力が重なり、グリゼルダは満身創痍ながらも仇を討ち果たし、グリュクも記憶の混乱を乗り切る。
レヴリスの好意で、グリュクたちは移動都市の足を借り、目的地の途中までを同行することにしたのだった。
愛より強いものなど、おそらくはこの地上にいくつもあるのでしょう。
なればこそ、より強く、確かで清らかな愛情を捧げたい。
天地に遍く何よりも、あなたへ。
――ある恋文より抜粋。
南に登った太陽が彼の背を温める。
箒にまたがり上空を旋回しながら、ブラット・ボスク一等巡視兵は眼下の宿場町とその周辺を見下ろしていた。あまり目立たない、いかにも一般の魔女といった暗い色の装束に身を包んではいるが、肩まで伸ばした黒髪は男にしてはやや目立つ。
彼は、憲兵だ。しかも、連邦に所属する国家と国家の間を飛び越えて捜査する権限を持った、連邦軍警察に所属している。箒一つで空を飛べる国民が、特に東部においては大多数であるベルゲ連邦では、犯罪者でも移動には箒を使うことが多い。
憲兵であれば軍に関係する犯罪などを追う仕事が主だが、とにかく、ブラットは軍からの命令を受けて、このカウェスと呼ばれる宿場町の上空まで来ていた。
春の強風が南から吹いてこようかという季節だが、軍の命令で彼が訪れた宿場町の周辺はさながら戦場跡だ。
町の外には黒こげになった巨大な妖虫の残骸がそこかしこに転がっており、事件から一ヶ月たった今でも、重機や魔女を動員してそれらの解体・除去作業が続いていた。これは十一年に一度大発生するという大型妖虫の群が、撃退された跡なのだという。それも本来ならば、あと七年ほどしなければ現れるはずの無かったものだ。
「(あんなものが生きて地平線の向こうから一直線に押し寄せてきたんだと思うと、ぞっとするな)」
妖虫の濁流の第一波をたった四人で殲滅し尽くしたという魔女たちの存在も聞いてはいたが、つまり、町の外に転がっている妖虫たちの死骸の半分を作ったのはたった四人の魔女なのだ。
その凄まじい破壊力。軍には巨大な鋼鉄の軍艦を一人で撃沈してのける怪物もごろごろいるというが、彼はそんな火力をその気になれば町中でも使えてしまうであろう一握りの魔女たちに対して、畏怖どころか気味の悪ささえ感じてしまうのだった。
後に空軍から情報の提供があり、軍に所属していなかった一人の行方については、連邦警察も僅かながら人手を割いて探しているらしい。高い破壊力を持った魔法術を行使できる魔女が、軍に所属していない――つまり軍や国家の管理を受けていない可能性があるということで、それなりに重大な懸念ではあるだろう。
軍警察と警察は、似ているようで全く違う。彼としては、連邦警察に後れを取るつもりなど無い。
現地で接触できる同業者にはあらかた接触し、また聞き込みなども行って出来る限りの情報は手に入れた。そこでブラットは一先ず、彼が向かったという東のダンスタークという町に目星をつけるのだった。
危機管理という重要な事項に基づく任務とはいえ、たった一人の民間の魔女の捜索に動かされる己を、ブラットは自虐した。ベルゲ連邦国防省は巨大な組織であるが、そこに勤めるブラット自身は、吹けば飛ぶような小さな一個人にすぎない。少なくとも、一人で妖虫の群を蹴散らすような強力な術は扱えない。
そんなたった一人の魔女に、広大な森林に落ちた一枚の風変わりな木の葉を探せというのか。
「(……とはいっても、それだけの実力だ。もしかしたら、隠しきれない足跡を辿れるかも知れないな)」
彼は休息の後再び箒にまたがり、東へとその進路を向けた。
南北に走る山脈の谷間を、巨大な岩山が闊歩している。
さながら戯画。あるいはその光景を、遠目に見た者も多いだろう。
上空から見れば概ね楕円形をした本体と思しき部分から、同様に巨大な六本の脚らしきものが生えており、これがそれぞれ三十秒に一度ほどのペースで前後運動を繰り返していた。
巨大な虫が、歩いているかのように。
遠く離れた視点からは鈍重な動きに見えるが、その一歩が踏み出される度に巻き込まれた大気が唸り、土砂と樹木が蹴散らされた。
その上部には、建築物が生えている。岩山全体の規模からすれば、少々分厚く積もった埃といった程度だ。
だがそこには、生活があった。
街路を行き交う人々は、妖族。数百年を生きて魔力を扱う人々の群が、新天地を目指して移動する岩山の上に仮の住まいを設けていた。
その名も、移動都市ヴィルベルティーレ。
さながら戯画。あるいはその姿を、遠目に見た者も多いだろう。
だが、そこから飛び立った一羽の鷲に気づいた者は少なかった。
その移動都市の、見晴らしの良い辺縁。
切り立った崖の縁からやや離れた、座るのに適していそうな丸みを帯びた岩に、妖族の娘が腰かけていた。
はるか西の地では、邪悪な宇宙線によって汚染を受けた環境から誕生した、原理的に邪悪な好戦的生物とされている種族だ。
だが、黄色い妖魔植物の森林と、風の舞う青い大空とで出来たその世界を見渡す彼女の灰色の瞳には、自然の風景の美しさに純粋に見入る感性が宿っていた。
人間や魔女との大きな相違点は、頭の両側から生えた大きな耳。どちらも木の葉に似た形状をしており、白い産毛に覆われている。そちらもまた、今はひたすら、自然の生み出す風や生物の音へと聞き入っていた。
「(きれい……)」
ただ、その語彙は少し乏しかったかも知れないが。
目移りばかりで、一つだけを見ていることなど出来ない。世界は、故郷の村の外側は、こんなにも広かったのだから。
きっかけは悲しい出来事であったし、道中も楽しい事ばかりではなかった。
大叔母の世話のためにあまり顔を合わせなくなっていた家族――両親や親戚への名残惜しさも、勿論あった。
だが、逃げるように飛び出してきてしまった世界が、こんなにも素晴らしい。
広がる空。高く広がって微動だにしない鱗雲と、それより遥かに低い位置、フェーアのいる場所からわずか二百メートルほどだろうか、そんな高度を悠々と流れてゆく綿雲。
目線より下を見渡せば、そこには青みがかった黄色い山々、美しい妖魔領域の森林が広がっていた。時折彼方を飛んでゆく妖鳥の群れ。ガラス細工のような羽を持った妖蜻蛉が、彼女の近くを飛んで通りすぎて行った。
どれも、村を出なければ見ることも無かったものだ。
大叔母が天寿を全うしていれば、あるいは見る機会もあったかも知れないが、一介の妖族の村娘として、ただ生きているだけで終わる人生だった可能性も、否定はできない。
少なくとも、外の世界に酷く無知だった彼女のフェーア・ハザクとしての生命を助け、何かと気遣いながらここまで連れてきてくれた青年に、フェーアは感謝していた。
「(これは……グリュクさんのせいじゃないもんね)」
左手首に巻きつけた包帯を、服の上からさする。その下に禍々しい紋様が踊っているのを知っているので、自然、腫れ物に触れるような手つきになった。
先日、何故か妖族の王子に刻み込まれた毒の紋だ。今の所は見た目以外は全くの無害だが、今日も含めてあと十七日でそれが溶け出し、彼女は即死するのだという。
実感は無いが、しかし日に日に恐ろしさは増してきた。目的地に着けばそれを解除できる誰かがいるというが、それも彼女の手首にこの紋章を刻み込んだ張本人の言葉を信じるならば、だ。
そんな希望は、本当は無いのかも知れない。
胸中には、このやるせない煩悶を誰かに分かってもらいたいという感情があっただろう。だが、若い彼女にはそれを客観視して自覚するほどの余裕は無かった。
暖かいはずの春風が、どこか肌寒い。
移動都市の上層に近い外周部分、二重になった分厚いガラス窓から外の景色を一望できる空間がある。広さは十人前後が集まって談笑できる程度。
そこに一人、少女が腰掛けて頬杖を突いている。グリュクはその少女を知っていた。
シロガネ・アルジャン。この移動都市の所有者の娘だ。今日は非番なのか、作業着ではなく私服を着ていた。
もっと質実な嗜好かと勝手に思っていたが、それは作業服と安全兜の印象からの安易な類推にすぎなかったのだろう。今の彼女は年頃に見合った、控えめながらも清涼感のある動きやすい服装をしている。
「おはよう、シロガネちゃん」
「あ……」
彼女と差し向かいで話したことは無く、さほど親しい訳でもない。町でやや離れてすれ違っただけなら、恐らく声を交わしあうことのない関係だ。
ただ、だからといって険悪な間柄でもなく、シロガネは顔を上げてグリュクに挨拶を返してくれた。その表情は、どこか物憂げな雰囲気を帯びている。
「おはようございます、グリュクさん」
「……何かあったの?」
「実はその……お父さんが……」
「……?」
家庭の問題か、父親への何らかの不安、不満か。その反応に内心で訝っていたところに、新たな声が聞こえてくる。
「おはようございまーす、グリュクさーん!」
彼に対して呼びかける、やたらと軽妙なフェーア・ハザクの声が聞こえてきた。
以前にある村で複雑な経緯を経て同道することになった妖族の娘だ。その大きく左右に張り出した白い産毛に覆われた耳を何やら嬉しそうにぱたぱたと上下に動かし、彼女はグリュクとシロガネのいる小さなラウンジまで歩いてきた。
今まで見せなかったその表情に、気恥ずかしさと嬉しさで僅かに頬が緩む。
「おはようございます。フェーアさんも何かあったんですか?」
「実はですね、私――」
フェーアが一息置くと、そこにシロガネが口を開いた。
「実はお父さんが再婚することになって……」
「私、今度レヴリスさんと結婚するんです!」
グリュクは目の前が真っ暗になった。
「――はっ!!?」
あまりの衝撃に、体が跳ね起きる。
天地が物理的に逆転しようともそこまでのショックは受けないだろう、そんな驚愕と悪寒に全身が蝕まれ、汗と鳥肌の嫌な感覚が皮膚にまとわりついていた。
寝床から飛び起きた体が、不快な動悸で揺れている。
「よ……良かった……夢!?」
だが、その動揺もすぐには収まらない。
収まるどころか、それとは全く無関係な衝撃が、彼の視界に飛び込んできた。
「(誰……?)」
殺風景な個室、彼の寝台の横に、誰かが立っている。誰かは分からない。
「……!!」
寝ぼけ眼なので判別できない、というのではない。急速に覚醒を始めた彼の感覚が狂っているのでなければ、相手は動き易くも暗い色の隠密装束をまとっており、その手には、鞘に収まった剣を握っていた。
「(ミルフィストラッセ!?)」
とある事件で彼と共に旅することとなった、意思を持つ武器、霊剣ミルフィストラッセ。
鞘から抜き放たれたそれは、寝台から半身を起こしたままのグリュクへと振り下ろされた。悪くない手際だ。
「……!?」
だが遅い。彼は未だ覚醒しきっていない意識でありながら、両腕でしっかと寝台の端を掴み、全身の筋力を使って跳ね起きる。
敵に握られてしまった霊剣の刃が寝台を叩き切る。
構わずそのまま左足の蹴りを放つと、高速で旋回した寝間着のままの素足は襲撃者に見事に当たり、相手を壁に向かって吹き飛ばす。
その手からこぼれた霊剣が床に落ちる前にグリュクはその柄を素早く握りしめ、寝台から飛び降りながら構えた。寝間着姿では非常に不格好だが、襲撃を許したとあっては仕方がない。
とある事件で彼を主として共に旅することとなった、意思を持つ剣、ミルフィストラッセだ。本来であればこうした不意の襲撃者に対しては警報を発してくれるのだが、今回、彼は沈黙していた。
それに対する疑問もあって――そろそろ意識もはっきりしてきた――、グリュクは内心で念じるいつもの要領で、手に握った相棒に尋ねる。
「(何で知らせてくれなかった、ミルフィストラッセ)」
だが、普段なら即座に何か返事を寄越すこの相棒が、今は不気味なまでに沈黙していた。
壁に叩きつけられた敵が起きあがる。四肢を覆って体つきも巧妙に隠す暗い色の装束、男女の区別は付かないが、男とすればグリュクよりいくらか低く、顔はおろか手指の先までが隠されており、確認できるのは目元だけだ。
「……君は誰だ。この剣が狙いなのか?」
敵は答えない。
「それなら、動けない傷を負わせてから訊く」
グリュクが構えを深めて踏み込む体制を取ると、襲撃者は空いている方向へと転がり、たった一つの出入り口――地下の部屋なので猫が通れる程度の換気口以外の進入路はそこしかない――へと戻ろうとする。
だが、グリュクがその背を切り裂く前に、誰かが襲撃者の前に立ちはだかる。
「グリュク、夜這いされてたわけじゃないよね?」
歳は十五、六といった所か、黒髪を長く背に垂らした少女がそこに立ち、腰に帯びた剣の柄に触れつつそう尋ねた。
その声はいたずらっぽく、しかし扉から脱出しようとした襲撃者を捕捉する視線は鋭い。
霊剣と旅の途中で出会った少女、グリゼルダ・ジーベだ。
鞘がかちりと鳴り、舞うような優雅な動作で、やや湾曲した片刃の剣が襲撃者に向かって構えられる。つい二日前に両手首切断という重傷から回復したばかりなので、彼女は医者から剣を扱うような行為は禁じられているのだが、構える分にはさほどの問題も無いだろう。
室内からはグリュク、室外からはグリゼルダに挟まれた形式になる襲撃者は、懐から取り出した小さな定規のような器具を取り出したかと思うとそれを両手でぱきりとへし折り、次いでぐったりと脱力、その場に崩れ落ちた。
「服毒自殺……!?」
(周到なことだ、爆発物を警戒せよ!)
「護り給え!」
霊剣の声が聞こえるようになったことを訝りながらもグリュクは倒れた襲撃者を中心に半球状の透明の防護障壁を展開し、爆発に備えた。
グリゼルダと共に一分も身構えたか、そうした兆候もないので防護障壁を解き、互いに霊剣を鞘に収めて近づく。当然だが、既に襲撃者は事切れていた。
覆面を無理矢理剥がすと若い妖族の男で、これだけの短時間で確実に死亡する毒を致死量で服用したためか、その表情は苦痛に歪んでいる。口の中を調べると、ガラスの欠片が出てきた。形状を見るに、小さなガラス球に封入した毒を口の中に忍ばせていて、それを噛み砕いたらしい。
死体の手元から折られて落ちた定規のような物体を見て、グリゼルダが呟くのが聞こえた。
「この魔具、思念会話の邪魔をする機能がある奴だね。奪われて使われないように壊したのか……」
「君も急にレグフレッジの声が聞こえなくなって、それで何かがあると気づいてくれたって訳か」
「ていうか、起きてると思ってたんだけど寝起き?」
「……昨日はちょっと疲れてたみたいでさ」
まさか、意中の娘が自分以外の男に娶られる悪夢を見ていたなどとは口が裂けても言えず、グリゼルダが医者の勧告を無視して霊剣を握ったことについてを咎める気にはなれなかった。
レグフレッジとは、彼女の持つやや湾曲した霊剣の銘だ。グリュクの意思の名を持つ霊剣と同様、七百年前に作り出された人格を持つ剣として、現在はこの黒髪の少女を主として活動を続けている。
二振りの霊剣はいずれも歴代所有者の記憶と経験を受け継ぎながら次の所有者と共有するということを七百年続けてきており、今この場にいる二人の剣士、グリュクとグリゼルダは年齢こそ若いが、おそらくはこの地上で誰にも劣らぬ剣技と戦闘経験を持っていることになるだろう。
「もうちょっとしたら、レヴリスさんにも報告しないといけないね」
「あぁ、何か……このまま何もない訳がないとは思ってたけど」
時計を見れば、まだ日が昇るかどうかという時間帯だ。移動都市の住民のほとんどは眠りについており、知らせるにしても待つ必要があるだろう。
どのようにして侵入したかは不明だが、自害するまで援護などもなかったことを考えると、少なくともグリュクの借りている部屋まで霊剣を盗みにきたのは一人だけらしい。今なら彼らのいる移動都市の所有者に連絡すれば、市内か移動都市の外で待機しているであろう協力者などを発見、捉えることが出来るかも知れない。
「グリゼルダ、ごめん。着替えるから、ちょっと外で待っててくれるかな」
「分かった」
グリゼルダは頷くと部屋を出て、扉を閉めた。
それを見届けたグリュクは死体を避けて旅行鞄を開け、奥に収まっていた服を取り出す。
(それとだが、主よ)
「(……何だよ)」
(吾人は正直ちょっと、さっきの夢はどうかと思うのだが……)
「今更それかよ!!」
(ほわあぁぁぁぁぁぁ!?)
怒りに任せて霊剣の収まった鞘を回転させながら寝台に放ると、七百年の戦闘経験を持つ神秘の剣は情けない悲鳴を上げてそこに転がった。
結果として、想定していたような襲撃の協力者は発見できなかった。
移動都市は上空から見ると楕円形をした、長径およそ八千七百メートルの疑似歩行体だ。三対の脚に支えられた胴体部の上に都市が乗っており、その地下にも移動都市を運営する妖族たちの企業、ハダルの施設が広がっている。
さらに周囲は高低差こそあれ四方が全てが森林であり、積極的に狩りでも行わなければ隠れる場所などはいくらでもあるという状況だ。
つい先日までそれなりの規模を持った妖族の兵団が周囲の森に隠れながら移動都市を追うなどと言うことまでやれていたのだから、もっと少数でグリュクたちの持つ霊剣を狙って動かれれば、接近されるまで確実にそれを阻む手だてなどは無い。
「今は警備がなぁ……もっと地下の区画で寝泊まりするかい?」
黒い長髪をうなじでまとめた屈強な魔女、レヴリス・アルジャンがそう提案した。
彼は魔女でありながら妖族の企業ハダルの社長であり、強力な戦士でもあった。年齢は聞いていないが、少なくとも十二歳の娘がいるので三十代以上ではあるはずだ。
「手荷物を持って移るだけならいいんですけど、確か昨日して頂いた説明だと、俺達が借りている部屋が宿泊施設としては一番深い場所でしたよね」
「そうなんだが、少々不便をかけてでも、こういうことが今後起こらないようにしたい」
「お別れまであと何日もありませんから、移る労力を考えるとあまり意味が無いと思います。今回は少しばかり不覚を取りましたけど、次はありませんから」
彼らの現在地は移動都市の地上部分、市街だ。
一帯は先日の戦闘で、グリゼルダやレヴリスが敵を迎撃した中央区画の“左舷”側や、グリュクが迎撃に当たった中央公園の周辺などが大きく損傷していた。グリュクたちは中央“左舷”部分の大きく吹き飛んだ区画の復元進捗について、レヴリスが現地の作業担当者なども交えて打ち合わせをしていた直後に邪魔をした格好だ。
訊けば既に襲撃者の死体はハダルの警務部門に送られ、妖術なども交えた鑑定が行われる予定らしい。
グリュクとレヴリスの他には、グリゼルダ、そしてフェーア・ハザクがいた。
「うーむ……しかし地下の宿泊施設にまで部外者を通してしまったとなると、根本的に警備を見直すべきだろう」
「でも、霊剣を奪うために、思念会話を妨害する魔具を準備までして、侵入させてきたのはたった一人でしょ。二人以上の集団を侵入させるのは諦めた、それはちゃんと警備の効果があった……ってことじゃありません?」
「……あまり楽観はしたくないが、仕方ない。侵入経路を急いで特定しないとな」
グリゼルダの意見に、ハダルの社長は頷いて顔をしかめた。
「重量増は承知で、結界の魔具を大量導入するか……」
「社長、そんな予算はありませんよ」
「分かってるよ……移民事業も実情は厳しくてね。今回も、新天地に着いた以前の移民たちから、以前の仕事の料金の残りを徴収する移動も兼ねているんだ」
傍らの秘書に釘を差され、レヴリスは面白くなさそうに口を尖らせる。
「大変なんですね本当に……」
「まぁ、自分で選んだ道だからな。……それはそうと、マトリモニオまであと二日ほどだ。君たちとはそこでお別れになると思うが、移民事業防衛の記念も兼ねてささやかながら歓送会を開く計画がある。不都合がなければどうかな?」
不意にそう言われ、グリュクは少し戸惑った。そういえばこれまでの道中、戦って大勢から感謝されたことなど殆ど無かったのではないか? 魔女となってからは啓発教義の勢力を恐れ、時には見過ごしても構わない事情に首を突っ込み、ことが済めば半ば逃げるように東へ進むことを繰り返してきた。
多くの人―――彼とは種族の異なる妖族ではあるが――の感謝を受けて送り出されるというのは、初めてのことかも知れない。そう考えると、グリュクは少しばかり気恥ずかしさを覚えるのだった。
「いいじゃないですか、グリュクさん! せっかくですし、ご馳走になりましょう?」
「あたしも食べたいなー」
何やら目を輝かせるフェーアに、グリゼルダも気楽そうに賛同する。
「それじゃあ……お言葉に甘えて、お願いします」
娘二人に背中を押されてというのが少々情けなくも思えたが、グリュクはともかく、そう答えた。悪い気にならないのは事実だ。
「それは何よりだ。詳しい日時は使い魔か、折を見て直接知らせる。君たちに依頼したのは防衛戦闘だけだから、引き続き、何か起きない限りは自由にしていてくれ」
「分かりました」
頷くと、グリュクは二人の娘を伴ってレヴリスたちから離れた。このまま一度部屋に戻ろうかと考えていると、グリゼルダが彼の前に歩を進めて言う。
「じゃあ、グリュク、いつも素振りに型の練習って言うのも味気ないだろうから、あたしと手合わせなんてどうかな? あたしはちょっと、興味があるんだけど」
「君の手首が完治しないうちは嫌だよ。さっきだって本当は――」
「前腕来陣」
その呟き声と共に背後で小さな稲光が生じたかと思うと、グリュクたちの前に、何やら銀色をした円筒がふわふわと飛んできた。銀灰色に輝く、左右の篭手。
「それを貸そう! 多少暴れる程度なら、外骨格になって骨への負荷を減らしてくれるはずだ! それと、手合わせなら“船尾”の方に未造成の区画があるから、そこを使うといい!」
どうやら、聞いていたレヴリスが気を利かせてくれたらしい。彼はそう言うとすぐにこちらから顔を背けて部下との打ち合わせに戻った。やはり、忙しいところを随分と邪魔だてしてしまったようだ。
「ありがとうございます!」
黒髪の少女はレヴリスに礼を言いつつ早速前方に漂う左の篭手を捕まえて装着、くいくいと指や手首を曲げ伸ばしてみせた。随分と奇妙な風体になったが、彼女はさほど気にしていないらしかった。
「じゃ、さっそくその造成地まで行こっか!」
「あまり無茶なことはしないよ」
「大丈夫だって」
「あ、地図がありますよ」
前後長が九キロメートルに迫る巨大な移動都市ならば、そうした設備は必須だろう。フェーアの見つけた金属板の案内地図の嵌め込まれた立て看板には、この“左舷”から北に一キロメートルほどの地点にそうした場所があることが示されていた。
「広さは十分あるみたいだね」
「実際に霊剣を抜いて戦うのは危なすぎるから、移民請負社に訊いて木剣を借りよう。フェーアさんはどうしますか?」
「私はお昼ご飯を作ります。二人はゆっくり手合わせしていてください」
「ゆっくりじゃ試合になんないってば!」
笑い合う娘二人の姿に、確かに移民追撃兵団を退けて平穏を守ったのだという実感が湧く。
だが、彼とグリゼルダが腰に帯びた剣たちからは、鞘や剣帯を通じて硬質の意気込みが伝わってきた。
(思えば、吾らが模擬とは言え相対するのは初のこと。試合初めなり)
(道標の名を持つ霊剣のこともある。実際に我々を抜いて打ち合うのは危険過ぎるが、木剣などを使っての手合わせはやっておいて損はないだろうね)
グリュクが腰に帯びている意思の名を持つ霊剣、グリゼルダの帯びている裁きの名を持つ霊剣。
以前聞いた限りでは、霊剣というものは最低でもこの地上に五振り存在するらしく、グリュクたちの所持する以外の一振りが、野心を持つ妖族の王子の手に渡っていたのだ。
彼が霊剣を狙っている以上、何とかしてそれを止めさせなくてはならないのだが、グリュクにはどうも、その目処というか、王子を殺すなり、霊剣のことを諦めさせるなりするという未来に対して実感が持てないのだった。
最悪の場合、妖魔領域全体を敵に回す可能性も、無くはない。
(いずれその時は来る。征かねば彼女は死ぬ。吾らが八方円満の安息を得ようと思えば、避けては通れぬ道ぞ)
「(……分かってるよ)」
グリュクは胸中でそう呟くと――霊剣の言葉はフェーアとグリゼルダにも聞こえるようになっている――、先を歩く二人の娘を追って再び歩き出した。
移動都市の現在地から遠く離れた、妖魔領域の東部。
漂い続ける火山灰のせいで、噴火口付近以外は常に薄暗い山脈。
その中腹に佇む館の一室で、チェフカは遠隔視の使い魔が送ってきた情報をまとめると、それを彼女の主へと報告した。
報告を聞いているのは、色の付いた眼鏡を掛けた、礼服姿の青年。一見するとただの優男にしか見えない、この薄笑いを絶やさない男の正体を端的に言えば、神の息子となる。
正確には、彼女たち妖族にとっての生き神、半ば伝承上の存在でありながら確かに生きて無聊を託つている妖魔領域の唯一王、狂王ゾディアックの第三王子だ。
名を、タルタス・ヴェゲナ・ルフレート。
「定時報告が途絶えております。“虫の虫”は失敗したようです」
「次の準備はどうか?」
「報告待ちです。他の方々の手の者以外では、マトリモニオに二つの霊剣が到着するまでこれだけとなります」
”他の方々”とは、つまりはそうした隠密の実行部隊を妖魔領域の首都から大きく離れたこの地に送り込んで企みを実行させようなどとしてしまう、タルタスの同類たちのことだ。
彼はそれさえも織り込んで計画を立てているというが、他人の陰謀などという不確定要素の大きすぎる物まで勘定に入れたなどと主張するのが策士を自称する者の行いなのかと、チェフカは少々不安になった。
「まぁ、義兄上のためだ」
「それと」
「……何だ」
「セオ殿下が例の白い魔人を追って、結果的に二つの霊剣に接近中のようです。一日以内に接触する可能性が濃厚かと」
「またあいつか……」
彼女の主は先程までのいやらしい微笑を一気に崩すとそう呟き、ため息をついた。
この常日頃から慇懃が正装して歩いているような王子がここまで分かりやすくうんざりとしてみせる時というのは、そうはない。
チェフカは少しだけ愉快な気分を味わうと、それを悟られないように、やや慎重に口を開く。
「以上です。では、失礼致します」
退室して自分の執務に戻るその足取りは、いつもより少しだけ軽かった。