9.赤い雨、黄金の旋風
グリゼルダ・ドミナグラディウムは、無心に霊剣を振るっていた。
欲しいのは、未来や夢などではない。まして金や、名誉などでは。
家族の敵の首を自ら取ることを求め、剣の主は生きてきたのだ。
或いは、八年前に死んだグリゼルダ・ジーベを取り戻すために。
だが、敵は手強い。先だっては持っていなかった筈の紅い剣は非常に強靱で、霊剣の刃を持ってしても破壊することが出来ない。霊剣が魔女の手によって生み出されたのなら、魔女や妖族の手でそれに匹敵する、或いは超えるものを作ることだって、出来るだろう。
先の戦闘で消耗したこともあって、そんなものまで持っていた敵に対して神経を同時に加速できないのが歯がゆかった。
しかもその炎の剣の作用か、明らかに敵の身体能力が上がっている。グリゼルダにしても裁きの名を持つ霊剣の加護を受けて平素から常人より高い身体能力を得ているのだから、条件は互角か、魔女と妖族の身体能力の差でやや不利となるか。
「(それでも……負けない!)」
彼女は、勝つ。例え命を失ったとしても、仇だけは討つ。そうなれば、例え残るものが己の肉の欠片だけだったとしても、グリゼルダの勝ちなのだ。むしろ、生き残ったとしても仇を逃せば、彼女は自分を許すまい。
多少は気を許せる友人や、肌を重ねたいとも思う異性との出会いもあった。短い間柄といえども、大切に思える人々。だが、それらと引き替えにしてでも、この一瞬は逃せない。
今やそれだけが、彼女の人生の意味。
(グリゼルダ! しかしそれでも、私は君と共に迎えられる明日を願っている!)
彼女は、復讐者。相棒の気遣いにも今は応えず、許せぬ敵に死をもたらすべく戦う。
正義でなく、裁きでもなく、或るいは既に、ヒトですらなく。
そしてそれは、やや離れて戦うもう一人の霊剣使いにも伝わっていた。
「(二振りの霊剣同士が……俺と彼女の戦意に呼応して、また共鳴する――!?)」
固有名詞は混乱したままだが、他の認識ははっきりしていた。戦況も理解出来ており、更に二十人ほどの敵の増援が到着したのを把握していた。通路の防衛はハダルに任せ、彼は一人で敵を攪乱している。他にも地下へと通じる通路は幾つもあるはずだが、それらのことは今は心配している場合ではない。
赤い髪の剣士は、瞬きするよりも早く魔法術を構築し、呪文を唱えてそれを解き放つ。
「重飛閃!」
その声に応じて、索状質量魔弾――緩く丸められたような重いヒモ状の魔弾が生成、音速で射出される。それは途中である程度の広さに広がり、虚を突かれたファンゲンの妖族を三人一度に絡め取って鋭い放物線を描き、百メートル以上も吹き飛ばしていった。それほどの重量があるのだ。妖族といえど死んだかも知れないが、もはやそれで怯む霊剣の主ではない。そもそも、七百年の間に何人を殺めてきたか。
「防壁を紡いで!」
全く趣を変えた呪文によって、強固な防御障壁が生成された。飛来した魔弾がその表面に当たって威力を発散させるが、その十七発全てを防ぎきる硬度だ。その影から転がるように飛び出し、次の魔法術を構築、解き放つ。
「唸った、連なった!」
神経の限界が近づくが、それでも攻撃の手は緩めない。過去形を連続させるその言葉も、魔法術を開放する呪文だった。呪文の様式は術者の自由で構わないが、定型の異なる呪文が入り混じるのは、まさしく歴代の霊剣の主たちの記憶が、青年の中で氾濫を起こしていることを如実に示すものだ。
身体強化を解除して発動した魔法術は“それ自体が同じ魔法術を構築する”ように構築されており、その“連鎖複合”の応用技術は機関銃のような要領で魔弾を連続射出することを可能とする。掃射された魔弾は数人の妖族に命中し、戦闘力を大きく奪って消失した。
そして霊剣使いは飛んでくる反撃の魔弾の群を巧みに霊剣で防ぎながら、魔法術を念じる。
「マキアー!」
呪文と共に魔法術が自然界へと解放され、再び術者の体を強化した。全身の細胞の強度が数百倍にも向上し、運動能力や破断強度が飛躍的に向上する。
神経の限界が更に速まるが、使わなければ妖族たちの飛ばしてくる魔弾の雨を回避する運動力は得られない。
赤い髪の剣士は、更に大きな魔弾を生成して解き放った。
「焼夷爆撃ッ!!」
赤みを帯びた魔弾は小さな音を立てて射出され、空中で分裂すると無数の小規模な爆裂魔弾となって降り注ぐ。
しかし、これはその殆どを防がれた。先ほど彼が生成したような巨大な半球状の防御障壁に似たものを展開され、その下の妖族たちを守りきる。
「(……あいつは)」
妖族といえど、誰も彼もが巨大な火球や竜巻を引き起こせる訳ではない。さほど大した術も使えない者から、災害規模の大妖術を扱える者まで、その技能の巧拙の幅は人間や魔女のそれと全く変わらないのだ。
だが、彼の目の前で巨大な天蓋を形成した妖族は、後者に相当する使い手に違いなかった。
「(あいつか。あの“通路”を公園に開けたのは)」
魔法物質か大気を削岩錐のように回転させて、一気に土砂と岩盤を掻き出したのだろう。穴を応急的に塞いでいる土嚢の中に詰まっている土はそれらに由来するはずだ。
炉を壊さずに天井だけをくり貫いたその手際は、先ほどまで相手にしていた戦闘向けの堅実な術を扱う妖族の戦士たちとはまた違った脅威を感じさせた。
爬虫類を思わせる質感の皮膚と、しかし重厚な知性を漂わせる瞳。
「アルツェヌスの剣よ!」
その凛々しい声によって形を与えられた妖術が自然界へと出現し、虚空に生まれた高熱を帯びる夥しい数の魔弾が剣士を襲う。その射出速度は音速を大きく超えるだろう。
(背後に注意せよ!)
「……!!」
これは回避出来る。彼の後ろに五十メートルほど離れて紅い剣を持った相手と戦っている黒髪の少女の安否を無視すれば。
その姿に気づいて、記憶の大洋に飲まれるままだった剣士の意識がわずかな収束の兆候を見せる。
「(グリゼルダ・ドミナグラディウム……!)」
そう、霊剣使いのグリゼルダだ。生きて戦う彼女を彼の脳が再び認識したことで、それまで時間軸を見失って混ざりあっていた七百年分の記憶が、時系列を取り戻した。
「それなら俺は……いや」
それまで涙すら滲んでいたその目に、力が宿る。
仲間に当たる気遣いは無いと言うことか、それとも巻き込む前提なのか、高熱・高速の魔弾が発射された。
「護り給えッ!!」
そして発動する魔法術。
障壁を隔てた向こう側で生じる爆轟の渦は、しかし霊剣使いに火の粉の一つとして届けることが出来ない。
祈りを捧げるような呪文と共に出現した防御障壁は、その純度を増して透明な光の壁となっていた。
記憶の混乱の収束によって、霊剣と彼の体とに漲りきった戦士たちの力が調和し、元々非常に高い次元にありながら混沌としていた技術を最適化したのだ。飛来した多数の複合爆裂魔弾を完全に防御しきったその障壁の強度は、霊剣の剣身に匹敵したかも知れない。
(主よ……!)
「ああ!」
胸の中の靄が一掃され、彼は爆炎の余韻の中で障壁を解除しながら相棒を構える。
「俺がグリュク・カダン……意思の名を持つ霊剣ミルフィストラッセの今代の主だ!」
その宣言と共に、彼と霊剣に変化が起きた。
(ぬ!?)
「!?」
意思の名を持つ霊剣の全体が鋭く輝き、光が溢れる。それはとめどない金色の粒子となって膨れ上がり、暴威にも似た勢いで周囲を覆い尽くしていった。
勇ましい宣言も何処へやらといった風情だが、思わず狼狽が声に出る。
「粒子を出すならそう言えよ!?」
(違う、これは吾人の意思ではない! だが――)
霊剣はそう言って弁解するが、どうもその通りらしい。相棒と協調することで今まで二度ほど同じ現象が生じたことはあったが、今回はその時と異なり、彼らの意思から外れて発動しているようだ。意思の名を持つ霊剣にも理解できないとなれば、どこまで同調が高まろうとも彼を超える知識や経験は得られないグリュクでは、手を上げるほか無い。
しかしそれでも、彼の体に充満して火照らせていた熱が放出されていくかのようで、心地よくさえあったかも知れない。
敵も味方も、全てが光に包まれてゆく。
安全帽と作業着のままの少女の熱意に負けて、フェーアは彼女を伴って転移した。立て続けの転移で重度の転移酔いになりつつも、瓦礫に埋れた風景を見る。
漂う粉塵を鼻孔に受けてむせそうになる彼女の、向かってやや距離を開けた場所を銀灰色と白金の色の混じった閃光が横切る。
その直後、フェーアの大きな耳に鋭い音―瓦礫の広がる風景を見る。―石か何かが固い物に砕き散らされるような衝撃が届いて身をすくめた。
連れてきたシロガネ・アルジャンの安全を確保しなければならないことを思い直して周囲を確かめると、すでに安全帽をかぶった見習い魔女は半壊した町を駆けだしている。
「あ……シロガネさん!?」
「フェーアさんは戻ってください! 私は父さんをっ!」
あなたに何が出来るっていうんですか。
フェーアはそんな、喉まで出掛かった傲慢極まりない台詞を飲み込んだ。それなりの役割を与えられ、頼られれば、偶然手に入れただけの厭わしい筈の技術でこうまで思い上がれるものか。グリュクもグリゼルダも、そうした思いに苦しんだことがあるのだろうか?
いや。フェーアは埒もない思索を打ち切り、足下がおぼつかないながらも彼女の後を追う。転移して先回りしないのは、これ以上間を置かずに転移をしては酔いで立っていられなくなる恐れが高いからだ。
先ほど目の前を横切った閃光は、鎧を装着したレヴリス・アルジャンだろう。
グリゼルダに代わってあの白金色の髪の王女を引き受けて、今も戦い続けているのだ。戦闘は専門外だが、未だに決着していないということは苦戦しているのではないかと思える。グリュクやグリゼルダも心配だが、任せろといわれた以上はそうする程度には、既に二人と二振りを信頼していた。
「(シロガネさんのお父さんを……家族を失わせる訳には行かない)」
幼い魔女は着実に走ってゆくが、箒も持ってきていないので子供の足以上のものではない。だというのに、転移酔いでふらつくフェーアはそれにすら追いつけない。
いつ超人たちの戦いの余波に巻き込まれるかと怯えつつも後を追っていると、シロガネの走る先の左手から視界に入った閃光が目にも留まらぬ早さで墜落し、既に廃墟となっていた家屋を更に破壊した。破片と粉塵が舞い上がり、二人の方へも飛散する。
「きゃ!?」
シロガネは悲鳴を上げて両手で顔を庇う。フェーアも耳で顔へと小さな瓦礫が当たるのを防ぎながら走り続け、何とか体勢を崩した彼女の前に出ることに成功した。
「シロガネさん! 連れてきたのは私ですけど、あまり近くに行くのは危険です! 離れて!」
その体を押して後ろへ下がらせようとすると、彼女が呻いて血相を変える。
「父さん……!?」
フェーアは後ろを振り向いた。その時、体がほとんど密着していたので耳でシロガネの横面をはたいてしまったが、抗議してこなかったので気まずくなりつつもそのまま体までそちらを向ける。流れ去りつつある煙の中から現れたのは、元王女・リーン。
そして、彼女に首筋を掴まれて瓦礫に力なく横たわる銀灰色の鎧だった。
「レヴリスさん!?」
厳めしい銀灰色の装甲は傷一つついていないが、それに守られているはずの内部のレヴリスに深刻なダメージでもあるのか、その鎧はぐったりとしていて動きがない。
それを突き飛ばすように手放して、華美なドレスをなびかせた白金色の髪の娘がこちらを振り向く。その側頭部から垂らしていた長大な二つ結びが揺れて、その顔には解き放たれた獣のような笑みが浮かんだ。
「……レヴリスを助けに来ましたってか」
「……!!」
駆けだしてレヴリスを庇うか、リーンに殴り掛かるかしそうなシロガネを、フェーアは転移酔いで足下が定まらない中で必死に止めた。娘を殺されては、それこそ、そこで倒れている移民請負人に顔向け出来ない。
シロガネも、唸りながらも踏みとどまってくれた。父親の生死も不明だというのに、この年頃で泣き喚かないのは立派だ。
だがそれを小馬鹿にしたような表情で、リーンが口を開いた。
「お前……そんなに父親が大事かよ?」
「決まってるでしょッ!? 今すぐ父さんから離れてッ!!」
即座に言い返す少女の言葉に、白金の破壊者の眉がぴくりと動く。このまま腕の一振りでバラバラにされてしまいはしないか? フェーアは何とかこの場を切り抜ける方法を考えつつ、更に食ってかかりそうなシロガネを押さえつけた。今更座標間転移を発動しようにも、リーンがそれを読んでフェーアの頭蓋骨を叩き割る方が早いだろう。口先で切り抜けるような機転も彼女には無い。
ちらと横目で伺うと、鎧をまとったレヴリスは未だ瓦礫に倒れて微動だにしない。まさか、本当に死んでしまったのか。フェーアは必死の思いでシロガネを後ろに下がらせるが、父親を瓦礫に叩きつけられた彼女の気持ちも分かる。
しかし、二人の必死さを意にも介さず、リーンは一歩、また一歩とこちらへと近づいてきた。
「……手前にゃ分からねぇだろうなぁ、俺の屈辱は……!」
「あなたが何よッ! 人の父親にこんな酷いことをしておいて不幸面!? ふざけないでッ!!」
「だから、シロガネさんっ!?」
なおも相手を詰るシロガネを羽交い締めにしてたしなめるが、例え前言を撤回して靴を舐めに這いつくばった所で、許してくれる相手ではあるまい。
怒りと羞恥に燃える元王女が、いつの間にか出現した剣を手に無言で振りあげている姿が目に映り、フェーアは死さえ覚悟した。その瞬間、何かごく短い嵐の通り過ぎるような、騒々しい音が聞こえたような気がしたが――
しかし、死は訪れなかった。
「……シロガネ、無事か」
立ち塞がった――実際には中腰だが――銀灰色の鎧が、移民請負人レヴリス・アルジャンが二振りの光る剣を交差させて、王女の一撃からフェーアとシロガネを守っている。
直前に聞こえた音は、彼が娘の危機を察知して一瞬にしてフェーアたちの前へと移動したからか。
「レヴリス……手前ェッ!!」
リーンは持つ剣に力を込め、左の側頭部に手を当てると髪飾りを巨大化させ、もう一振りの剣と化した。それを目視できない速度で振り降ろし、剣の出すとは思えない重厚な衝撃音と共に、明らかに威力では勝っていそうな光の刃を大きく押し出す。レヴリスは辛うじて堪えたようだが、既に光の剣の刃は兜の表面と指一本分しか離れておらず、このまま彼女が全力を出せば、移民請負人は己の武器で両断されてしまうかも知れない。
「父さん!?」
「レヴリスさん……!」
「娘に手出しをなさるとあらば……」
フェーアたちの驚きには取り合わずに、レヴリスがそう宣言する。その時点でフェーアにも、彼の鎧にまとわりついている念動力場が強化されていくのが分かった。銀灰色の鎧が、じりじりとリーンの剣を押し返している!
「この身が白骨と化してもあなたを討つ!」
レヴリスの首から上を完全に覆う銀灰色の鎧の兜がその顔面を展開し、顎を開いて牙を覗かせたような形相と化す。双眸のような意匠が鋭く発光し、外から見えないレヴリスの表情を代弁するかのように、リーンを睨む。
背後にいるフェーアとシロガネには見えなかったが、リーンの視点からはそうした光景が見えていたはずだ。
「くっ……」
小さく呻いたリーンが飛びすさり、その直後を扇形の残光が通り抜ける。
リーンは三メートルほど離れた瓦礫の散らばる路地に立ち、彼女を押し返して弾いたレヴリスはそこから数歩前へ出て、光の刃を維持したまま二剣で構えを取った。両者、無言だ。
彼らはこのまま再び激突するのか? フェーアは転移酔いから徐々に回復してきたのを意識すると、すぐにシロガネと共に離脱できるよう、構築を準備した。彼女の望みとは反するが、安全には代えられない。
状況を見極めるべく、父親が復活して暴れることをやめたシロガネの両肩をつかんでじりじりと後退する。しかしそこで、静寂が破られた。
「……!?」
低い爆音と淡い光がやってきた方向に振り向くと、半壊した民家の向こうに沸き上がる光の渦が見える。
「(あの光は……!?)」
フェーアを含むその場の全員がそちらに気を取られていたが、もっとも早く反応を起こしたのはリーンだった。
「アーノルドォ! 鳥になれッ!!」
「はい、お嬢様!」
彼女の豪奢なドレスがその体から剥がれて飛び出したかと思うと、次の瞬間には体長三メートルはあろうかという巨大な青い鳥に変化している。槍やドレスに変化していたのは見ていたが、フェーアはそれでも絶句した。
「(どこまで何でもありなのこの人……)」
「逃がすものか!」
「調子に乗ンじゃねェ!」
路面の瓦礫を蹴って飛び出すレヴリスを、鳥の首根っこに背中から飛びついたリーンが念動力場の妖術で押さえる。彼の周囲三十センチメートルほどが陥没するが、鎧の力か移民請負人は倒れることなく、じわじわと前進していた。しかし、従者の変形した怪鳥が助走をつけて離陸する方が早く、念動力場が解けた時には既に二百メートル以上の距離が開いてしまっていた。
「敵を撃ち抜く弾丸となれッ!!」
レヴリスが何度か魔弾を撃つが、リーンが防御障壁を張っていた。命中するはずのいくつかも灰色の殻に弾かれ、怪鳥は今や豆粒ほどの大きさだ。
大叔母の技術を受け継いだフェーアなら意識を集中してあの距離でも届く誘導か狙撃の魔弾を撃てるかも知れないが、転移酔いの残る頭ではおそらく無理だろう。それに何より、レヴリスには言えないが殺してしまう可能性が怖かった。
「俺は彼女を追う。フェーア・ハザクくん、シロガネをどこか安全な場所へ頼む」
「は、はい!」
「シロガネ、ご迷惑をかけるなよ」
そう言うと、レヴリスは鎧全体でがしゃがしゃと音を立てつつやはり助走をつけ、数メートルほど走ると背中の部分に開いた円形の穴から爆発的に光を噴射して飛び立っていった。
「じゃ、じゃあ行きましょうか、シロガネさん」
「ええ……」
父親を案じて来たはいいものの、リーンなどという存在を目の当たりにして――あまつさえ短いながらも問答さえしたのだ――少々気が動転しているのだろう。父親がそっけなく飛び去ってしまったのもあるかも知れない。
そこで、肩に止まった夜鷹がさえずる。
「お二人とも、ひとまず地下に移動しましょう。五百メートルほど南の物資貯蔵庫に内部通路への入り口があります」
「じゃあ、そこへ」
「よろしくお願いします!」
フェーアは頷くと、軽くかぶりを振った。中央公園の方角に立ち上る光の柱のことは、今は後回しだ。
僅かだが、酔いも回復してきた。フェーアは数秒も集中すると、術の構築を完了して呪文を口にする。
「彼方は……目と鼻の先!」
解放された妖術が、彼女たちの体を一時的に自然法則から解放していった。
周囲を漂う金色の粒子と共に、明瞭な記憶がグリゼルダの心へと流れ込んできていた。
七百年に及ぶもう一つの歴程、グリュク・カダンと霊剣ミルフィストラッセの記憶だ。
夜空を駆け巡って、あるいは滅ぼした国々の廃墟を後にして新たな世づくりを目指した記憶。
腐り果てた世の中に憤り、戦った記憶。
死に瀕しつつも、次の世代へと希望を繋いだ記憶。
一振りの超常の剣が紡いだ、剣士たちの系譜。
いや――それだけではない。
「(家族を殺されれば、こうもなる……私が罪を償う時が来ているのか……?)」
剣を交えている最中の、敵の思考が頭に入ってくる。
これが先日見そびれた、意思の名を持つ霊剣の特異能だろうか?
「(ってことは……!?)」
(ああ、私はともかく、君の思考も……!)
二振り目の霊剣を打ち出した時点で霊剣の創製者が構想していた、ある程度世代を重ねた段階で発現するであろう霊剣の特異な能力。それぞれの形成した系譜に応じて、固有の性質を持つだろうと考えられていた。
意思の名を持つ霊剣の場合は、触媒となって魔力線を変換小体の作用無しに加工し、記憶の伝達を媒介する金色の粒子を生み出す様式となったようだ。
(思考を読まれてはまずい! あの時道標たちがやったように、霊剣同士ならば拒絶できるはず――うぅっ!?)
「あ……ぐっ!?」
突如全身を侵食する痛みに似た感覚に、相棒ともども体勢を崩す。思わず後ろに数歩下がって構えを取るが、やはり敵は――イグニッサは積極的にグリゼルダへと攻撃してくる気はないようだ。
だが、そんな事情は関係がない。目の前の猫を思わせる妖族の女が仇であることには、変わりがないのだ。グリゼルダは依然衰えを知らない闘志と裏腹に疲労が積み重なっている体に苛立ちを覚えつつ、この沸騰するような意識が家族を殺した女へと伝わってしまうことを恥じた。
「(レグフレッジ……これは……!?)」
(恐らく……さっきミルフィストラッセたちと同調を高めた時の影響が残って……!)
見れば、相棒がほのかに発光している。彼女の意思でも、霊剣の意思でもない。
その刀身から赤い粒子が迸り出てくるのに驚いて、グリゼルダの意識は僅かに断絶した。
その日のタークスは、絶命しつつある妖族の男を見下ろして呼吸を整えていた。
あれほど憎んでいた妖族の有力者の瀕死の有様を目の前にして、寂寥感だけがある。
当然知ってはいたが、妖族の血も、魔女と同じ色をしていた。赤黒い潮が徐々に広がってゆき、既に生半可な術では傷口や組織を縫合できても失血死してしまう段階だ。
だがそれでも、彼の手によって絶命しつつある男――カロル・フェルブレヌングはその縦に長い瞳孔の眼から意識の光を失わず、彼に向かって声を掛けてきた。
「……あの娘の……仇討ちか」
「そうだ。見世物で妖獣に食い殺されそうになってたガキの俺を助けてくれたのが、あんたたちが殺したイズミ・フウという女だ」
彼の、最愛の師でもあった。いつか思いを打ち明けようなどと大それた考えをしたこともあったが、それも今は後悔にしかならない。
「彼女はただ、俺に逃げて欲しかっただけかも知れないが……せめてあんたには、自分が復讐で殺されるんだってことを理解してから死んでもらわないと困るんでな」
「……今更命乞いはしない……!」
「師の仇だが、あんたのそういう所には好感さえ抱く――とどめは要るか」
霊剣を構えて己の復讐に終止符を打とうとした時、扉が開いた。
「やめてっ!」
そこから飛び出してきた子猫を思わせる妖族の娘は、何の迷いもなくカロル・フェルブレヌングへと駆け寄り、その体温を失いつつある体にすがりついてタークスを見た。品の良い服装は妖族の有力者の娘なのだと一目で分かるが、恐らくその雰囲気からして、カロルの娘なのだろう。妻の忘れ形見である娘が外出していることは調査済みのはずだったが、何かの手違いがあってか戻ってきたらしい。年の頃は十代前半といったところか。
彼女はタークスを鋭く睨みつつ、短剣を引き抜いて彼に向かって構える。
「お父さんっ! 分かる!? 私よ、イグニッサ!!」
「イグニッサ……逃げろ」
その身内を守ろうと必死に虚勢を張るその娘、イグニッサは、恐らく妖術もさほど得意ではないのだろう。使えるのであれば、扉を出た直後に彼の頭部をぶち抜く魔弾も一つも撃とうとしたはずだ。
ただ、もはやこのような状況になった以上、生き残ったカロルの部下たちが殺到するのも時間の問題だろう。
見れば、既に彼の師を殺した男、カロル・フェルブレヌングは事切れていた。
「嫌、お父さん! 絶対死んじゃ駄目ッ!」
「……邪魔をしたな」
或いは涙を浮かべて健気な有様を見せる妖族の小娘に情をほだされでもしたか――本来ならば、禍根を防ぐためにも殺してしまった方がよい――、タークスは相棒を鞘に収め、魔法術を構築した。
「風と共に去りぬ」
唱えた呪文が空間を変形させ、その反動でタークスの体は時空構造の狭間に入り込む。
そうして別の場所へと脱出するまで、彼の耳を少女の悲鳴が、父親を呼ぶ娘の声が叩き続けた。
「お父さん! お父さんッ!? しっかりしてぇっ!!?」
仇を討った。
彼に家族がいるということを知ってもなお、それを止める気にはなれなかったからだ。相手が死ねば泣く家族がいるからといって、愛する師を殺した相手を生かしておくことは、彼には出来なかったからだ。
こうして完遂するに至って、達成したという実感もあった。
ただ、父親の亡骸を前にむせび泣く少女の姿を己に重ねずにいることもまた、若きタークスにはどうしても出来なかったのではあるが。
「(グリゼルダ……)」
グリュクは、相棒を通して流れてくる少女の持つ霊剣に蓄積された記憶の怒濤に、復讐者の系譜に瞠目していた。
それは、裁きの名を持つ霊剣に眠る、過去の所有者の記憶。煌めく粒子の嵐、黄金の旋風によって、その渦に巻き込まれた者たちの記憶が半ば強制的に共有されているのだ。
彼女が霊剣の主となった経緯も知った。情けなくさえある自分と意思の名を持つ霊剣のそれを彼女に知られることにもなるが、今はただ、遂に知ってしまった少女の後ろに秘められていた歴史の重さにおののいていた。
まして、居合わせた移民請負社やファンゲンの妖族たちにとってはどうだろうか? 彼らも全員が動きを止めて混乱しており、ひとまず戦闘を止めることは出来たといえるだろうか?
霊剣の記憶が知れてしまうのは好ましくないのだが、今はこの粒子の奔流を止めることが出来ない。
「(……?)」
だが、それでは説明の付かないものもあった。
(赤い粒子……!)
金色の風に紛れて、太陽に透かした手のひらのような、赤い流れも漂っているのだ。それはグリュクたちの粒子と同様に渦巻き、しかし天へと昇ってグリュクたちの頭上に雲のように広がった。
(これは……もしや、裁きの起こした“旋風”なのか……!?)
「(確か、グリゼルダたちは“特異能”って言ってたな)」
そして、グリュクの手の甲に冷たい何かが当たる。
「雨……?」
そしてそれはぽつぽつと髪や首筋に当たり、それだけでなく周囲にも降り注いできた。
勢いはすぐに強まり、その雨粒が赤い色を帯びているのが分かる。上空へと溜まった赤い粒子のもたらすものなのか。記憶共有を起こす金色の粒子と、色以外の何かが異なるのか?
(赤い雨……これは――!!)
激しい雨が、グリュクの心身を突き抜けてゆく。
内海に面したその漁港の外れ。
幾何学的な形状をした消波ブロックで覆い尽くされた海岸からやや離れた、針葉樹に囲まれた小さな小屋。
人気のないその場所に、父の仇は座っていた。妖族の五分の一程度の寿命しかない魔女や純粋人ならば、その加齢の速度も彼女たちの五倍ほどになる。故に急がなければ顔を判別できなくなる恐れもあると思っていたが、こうして実際に見つけだすことが出来れば、それは要らぬ心配だったようだ。
イグニッサの姿を認めるやいなや、彼は粗末な椅子から立ち上がる。来るか。
「また会ったな」
「覚えていたのか……!?」
一瞬皮膚が粟立つが、すぐに彼が後を続けたため、イグニッサはとりあえずは聞く姿勢を保った。
「いや……あの時は分からなかった。俺の恩人を家族ごと殺したと、本気で恨んださ。だが、後になってあの時の娘とお前とが繋がって、理解した。俺を殺しにきて……それを迎え撃とうとした家主を殺してしまい、目撃者だった母子も殺さざるを得なくなったって所か。復讐の完遂を考えるなら、それは正しい」
「……ならば、私に討たれろ。その後、私も償って死ぬ」
「俺に勝てたらな――」
そう吐き捨てるなり魔法術を構築しつつ腰に手をやるという動作を見逃せるはずもなく、イグニッサは大きく踏み込んだ。優しく偉大だった父を殺した男を殺すために、それまでの日常を捨てて修羅となったのだ。
だが、体が殺意と鋭さとで一条の矢になった感覚に震えた時には、既に彼女の剣は仇の――タークス・アフトニという魔女の胸郭に深々と突き刺さっていた。
あまりの驚きに罠の可能性すら失念し、彼女は柄から手を離して後ずさることも出来ずに魔女の顔を見る。
「…………!?」
彼の胴体に突き刺さったイグニッサの武器は肺などの臓器を大きく傷つけ、そこから流出した血液が気管や食道を逆流して吐血となる。
顔から血の気が引くのを感じるが、何とか声だけは絞り出せた。
「何故……抵抗をやめた……!?」
「……お前こそ、なぜ驚く……? 無抵抗の方が……仇討ちには好都合だろうが……!」
血を喉に詰まらせながら説明され、イグニッサはたじろいだ。さすがに剣から手を離し、後ずさってしまう。
「だ、だって……今……! わざと動き、止めて……!?」
「お前もいずれ……復讐を受けるだろう……それまでは……死ぬな!」
もはや口から血の泡を吐くだけで、それ以上意味のある言葉は聞き取れなかった。そして体全体の力を失って、タークス・アフトニは体を剣に貫かれたまま土の上に倒れ伏した。
悲しい出来事だったが、そこまではグリゼルダにも納得できた。金色の粒子の作用で共有させられているイグニッサの記憶なのだ。だが、黄金の旋風の力だけでは説明の付かない続きが、その記憶にはあった。
「(既に霊剣は受け継がせた。お前の望みには添えないかも知れないが、俺にはもうさほど自分の人生に執着も無いから、こうしてそれをくれてやることも出来る……)」
(……!?)
柄と粒子を通して伝わってくる、師の末期の思考、相棒の驚愕。
霊剣が受け継げるのは、“所有者と共にあった期間”の記憶だけだ。“グリゼルダに霊剣を継承させたあとのタークスの記憶”など、裁きの名を持つ霊剣に残っている訳がないのだ。
ならばこれは、幻覚か何かなのか。
「(違う……これが、レグフレッジの特異能……あたしの代で発現したのか)」
雨となって降り注ぐ、赤い粒子。それは因果を辿り、本来ならば所有者には知りえぬ過去の事象を知らせる作用を持つようだ。それが意思の名を持つ霊剣の力との相乗効果で、その場の全員の因果を互いに共有させあっている。
この場合は、イグニッサの過去から因果が抽出され、彼女が知り得なかったタークス・アフトニの死の間際の思考までもが引き出されたのだろう。
その作用でこの場の妖族たち全員の記憶が流れ込んできて、裁きの名を持つ霊剣の記憶にそれらが大幅に書き加えられていくのも分かった。
ならば、目の前の仇が彼女の旅立ちの後、師を捜し出して殺したことは事実なのだ。
彼女の過去も、その愛憎や喜怒哀楽すらも既に知っていたが、それでもなお、グリゼルダは激昂した。
「あたしの家族だけじゃなく……お師匠まで殺した奴ッ!!」
「父を殺した男の剣……精神があったというのか!!」
金と赤の粒子の飛び交う空間で、互いの心と過去を理解し合った二人の女剣士。彼女たちこそが真っ先に、この不可解な風雨の暴れる空間で我に返った。
だが、相手の心情が理解できてしまうがゆえに、グリゼルダはますます相手を許すことが出来なくなった。
その過去の歴程を知ってしまったが故に、イグニッサの目には少女の持つ剣が魔性の悪にしか見えなくなった。
裁きの名を持つ霊剣レグフレッジと、紅い炎の剣ヨムスフルーエン。
「家族とお師匠の命を贖えッ!!!」
「君をその剣の呪縛から解き放ってから、そうさせてもらう!!」
それぞれの主が疾駆し、斬り結びあう。