8.鉄火
意思の名を持つ霊剣の主となった時から、知りもしない筈のことを知っている違和感には悩まされてきた。
だが、同じように助けられても来た。
そうでなければ、身に降りかかった様々な危険を振り払うことなど、出来もしなかったに違いない。道中でであった様々な人々との、僅かな間とはいえ結んだ絆も、無かっただろう。
しかし、それが自分の名前を他者のものと混同してしまうなどという状態にまで陥りうると知っていたならば、どうだっただろうか。
彼は、霊剣に騙されたのか?
(否! 主よ、どうか吾人を信じてくれ……これは歴代最初の、前例無き事態なのだ!)
「(ちょっと黙っててくれ……!)」
この多弁な相棒を否定することは、彼の助けてくれた己の命を否定することだ。グリュクはそう考えてもいたし、元来の性格から意思の名を持つ霊剣を恨むようなこともしていなかった。苦楽を共にした愛着、友情のようなものは、確かに感じていたのだ。
ただ、その思い出が前の主人たちのそれとの区別を付けられなくなってきているのが辛い。
自分で思い起こしてみて、彼は霊剣ミルフィストラッセを、師から遠大な目標のために授けられたのか――偉大な将軍である義父から遺品として受け取ったのか――それとも神経ガスを吐き出す妖獣に追われて山の中で出会ったのか? それらが全く区別しにくく、曖昧になって来ていた。無論、混乱が及んでいるのはそうした箇所だけではない。出会い、別れ、見聞、言行――
記憶喪失ならぬ、記憶増大。
霊剣というシステム自体が、当初想定されていなかった欠陥に突き当たっているのか。
「(お前を信じられないんじゃない……俺がお前と共有している思い出の、どれを自分のものだと信じればいいのか分からないんだよ……!)」
不覚にも、涙が滲む目元に気づく。
それに苛立ちつつも意思の名を持つ霊剣を振るうことはやめず、彼はほとんど条件反射で戦っていた。飛来するボウガンの矢は叩き斬り、懐を狙う短剣は時に素手で払い、彼を狙う多彩な魔弾は障害物や防御障壁で防いだ。
中央公園近くに配置されたグリュクは、“移民請負社”の社員たち――つまりレヴリスの部下たちと共に先日の攻撃で“心臓”へ開けられた直通路を守って戦っていた。
陽動を交えて強襲してきた敵の隊は少数の精鋭を選抜したということなのか、なかなかの手練だ。
そのうちの誰が、グリゼルダの狙う例の“イグニッサ”だろうか。
「我、火焔の王の力を駆れり!」
一人が、前回森の中で出会った時には持っていなかった紅い剣を携え、呪文を口にする。
「護り給えッ!!」
それに対してほとんど条件反射じみた速度で、グリュクの魔法術が発動した。直径二十メートルほどの巨大な防御障壁が生成され、そこにイグニッサの紅い剣から発生して急降下してきた膨大なエネルギーが膨れ上がってぶつかる!
破裂した熱気が散らばり、公園の土壌や植樹が沸騰する音と臭いが障壁の縁からこちらへ流れ込んで来た。
「(なんて熱量だ……!)」
障壁の向こうから伝わってくる高熱は、以前エルメール・ハザクが使用した超高熱の魔弾をも、大きく上回る規模だ。魔女よりも変換小体の総量で圧倒的に勝る妖族だろうと、普通は何度も連発出来るものではない。
障壁のない方向から敵が魔弾を撃ってくるが、これはハダルの妖族たちが防いでくれた。グリュクは障壁の向こうから回り込んできた熱で焼かれるのを防ぐため、防御障壁を無理矢理に超低温の魔法物質の奔流へと変形させた。
「凍えよ!」
土や樹木から蒸発していた水分が急激に冷却されて細かな氷の粒となり、美しく輝く粒子の群となって敵を襲う。
だが、その凍てつく空気を斬り裂いて、紅い剣を構えた敵が突撃してきた。その声には聞き覚えがあり、グリュクはその深紅の剣を携えた相手を、先ほど交戦したイグニッサであろうと短い時間の中で見当を付ける。
加速している暇は無し――仮にやったとしても、凝結した氷の粒が浮遊している状況では亜音速のそれらが眼球などを傷つける恐れがある――左腕を犠牲にして刃の軌道を逸らそうとするが、そこに閃光が飛来した。
グリュクには当たらない軌道、横手から高速で飛んできた片刃の怜悧な剣を紅い剣で間一髪弾き、イグニッサがその逆側に跳ぶ。
その片刃の剣――言うまでもない、裁きの名を持つ霊剣だ――は弾かれても地面に落ちることなく宙を舞い、不自然な軌道で元来た方向へと戻っていった。
念糸の魔法術だ。思えば彼女と初めて出会った時も、似たようなことがあった。
その先には、全身が塵や埃にまみれ、無理矢理に呼吸を整えようとしている黒髪の少女。その体躯は、いつにも増して小さく思える。
「グリュクッ!!」
グリゼルダが、彼の名を呼んだ。
しかしその表情は、グリュクに助言をする冷静な眼差しや、時折見せた屈託のない笑顔ではない。
低温に煌めく氷の微粒子も、冷気の範囲の及ばなかった場所で揺らめいていた陽炎も、どちらも温度差で生じた風に吹き流され――
そこに黒髪をなびかせた霊剣使いの少女が、吼える。
「そいつは……あたしの獲物よッ!!!」
「来陣!」
特別で簡潔な呪文に応じ、彼の前方の虚空の一点に音と光が轟く。
稲妻は一瞬で消えうせ、そこには人の形をした物が出現していた。
鈍い銀色に輝く全身具足、その名もシクシオウ。古い言葉で“礼服”を意味するらしいが、角度によっては完全武装した戦の神が降臨したようにも見えるだろう。
そしてそれは突然ばんと短い音を立てて、部品に分解した。足先、大腿、上腕前腕、胴体、頭部――それらががしゃがしゃと空中を飛んできて次々とレヴリスにまとわりつき、ひとりでにその全身を覆ってゆく。だが、彼の視界は塞がれることは無く、シクシオウの“眼”が捉えた外部の光景は内部のレヴリスにそのまま感じ取れる。
「来やがったな……!」
煌びやかな衣装をまとったリーン元王女が、鋭そうな犬歯をむき出して唸る。いつも従者と一緒にいるというが、剣士の少女との戦いで死んだか? あるいは周囲に潜伏しているという可能性も考え、レヴリスは油断無く構えを取って口を開いた。シクシオウの兜には、その装甲越しの声を減衰させずに外部に届ける機能もある。
「あなたが俺を狙う理由は、薄々は察しをつけている! 噂に聞いたあなたの過去を鑑みれば、そうなることにも理解を示す!」
「理解も同情も要らねェッ! 欲しいのは狂王一族の首だけだ!!」
「それを知るからこそ、危険すぎるあなたを何としても止めねばならないと判断した……!」
「俺を手に掛ける度胸があるようだな……?」
「いかにも。本来ならあなたの首など欲しくはないが――」
傍から見れば、完全武装した鎧の中年男がか弱い白金色の髪の姫君を相手に凄んでいるといった、卑劣な光景に映るだろう。
だが、実態は精一杯の武装をまとった魔女と、溶岩の中でも焼かれずに活動できると言われている狂王の娘。無力なカマキリは彼の方かも知れないのだ。
それでも、レヴリス・アルジャンの後ろには守るべき家族と会社と、彼を信じて全てを託した移民たちがいた。彼らを見捨ててむざむざ殺されることなど出来はしない。
「吐いた唾ァ、飲むンじゃねェぞ!!」
路面を蹴り砕いて突進してきた白金の弾丸は、寸での所で躱したレヴリスを猛烈な突風で煽りながらもすぐさま民家を蹴り壊して反跳、今度は彼に両脚での飛び蹴りを命中させてきた。
「ぐ……!」
殺しきれない衝撃は伝わってくるものの、腕を交差させての防御は成功した。損傷も無い。しかし、リーンは蹴りつけたままの姿勢で再び空中でレヴリスを蹴って距離を離し、そして着地すると両腕を大きく伸ばして袖の布を振るった。そこから、袖の布が眼を疑う勢いで伸びていき、彼女が大きく掲げた両腕を振り下ろすと鞭のようにしなってレヴリスへと殺到した。
「……!?」
間一髪、舗装を砕く布の鞭の軌道から体をずらし、請負人は跳躍した。シクシオウの装甲に傷が付かないとしても、動きの止まった所に何を撃ち込まれるか分かったものではない。
「(この元王女……凶暴なだけに見えて、相手の意表を突く技術には恐るべきものがある……!)」
胸中では戦慄しながらも、反撃に出るべく魔法術を構築して機を窺う。民家や施設にこれ以上被害が出ないようにしなければならないが、実は相当に狡猾であろうこの白金の復讐鬼が彼の意図に気づかないものだろうか?
彼の戸惑いを他所に、リーンはそのまま数十メートルにも伸びた袖を振り回す。二条の白い虹が町を舐め、瓦礫や物品が飛び散った。レヴリスはそれを回避しつづけるが、町の被害は増えてゆく。やはりリーンは、こちらの思惑を読んでいるのだ。
「オラどしたぁッ! そんだけ大層な鎧を着込んで、逃げ足を披露しに来ただけかァ!? ご苦労なこったな!!」
これ見よがしにリーンは大きな妖術を構築し、レヴリスが反射的に止めろと叫ぶ前に呪文を唱えた。
「焼けちまえッ!!」
数十発の燃え盛る爆裂魔弾がリーンを中心に放射され、魔弾の群は熱と爆風を撒き散らして移民たちの家屋や道路を焼き砕いてゆく。
レヴリスはその感情を表には一寸たりとも出さず、しかし内心で震えた。
確かに、移民たちの避難は終わっている。家屋や公共施設は全てレヴリスの会社のものなので、移民たちの懐が直接痛む訳ではない。
「(だが……!)」
一時期とはいえ、そこは移民たちがより良い将来を夢見て暮らす場所なのだ。仮初であっても瓦礫と化した我が家を見て、前途に希望を抱ける訳が無い!
レヴリスは突進し、交互に襲い来る王女の袖を避けつつ彼女に肉薄――出来なかった。
「隙アリッ!!」
リーンのドレスが一瞬にして変形、比較的簡素な服装になった彼女は手に巨大な鉄槌を握っており、振り下ろされたその頭部がレヴリスを鎧の上から痛打する。
彼が超音速で叩きつけられた路面は人の形に数十センチほど陥没し、一瞬だけ意識を失ったレヴリスは空中に持ち上げられていた。リーンの手に持っていた鉄槌はどこかに消え失せ、ドレスが豪華なものに戻っている。彼を地上二メートルの高さに持ち上げているのは、再び長く伸びたリーン元王女のドレスの袖だ。生身であったなら一瞬で縊り切られる強さで締め付けられているが、シクシオウの胴体の装甲は耐えている。
だが、肘から肩までをがっちりと巻いて押さえつけられており、鎧の補助があるというのに腕が全く動かない。
「……何か切り札でもあるんじゃねェのか」
「(……引き止めたくなかったとはいえ、グリゼルダくんにリーン王女の戦い方なんかを聞いておくべきだったか)」
シクシオウの兜の内部から見える、レヴリスの視界が揺れた。彼に巻きつき空中に持ち上げているリーンの袖が、鎧の魔女を路面に叩きつける。強かに、何度も。
シクシオウの装甲はなおも耐えているが、装甲の表面に半自動で生じる防御用念動力場と、装甲の下の粘液層でも吸収しきれない衝撃が内部のレヴリスを痛めつける。受身も殆ど取れないので、脳が危うい。
「(仕方が無い……)」
レヴリスは切り札を起動した。リーンの袖に巻かれず露出していた鎧の左腰の棒状の突起が、そこから外れて落下する。リーンもそれに気づいたようだが、僅かに遅い。
その長さは握りこぶし三つ分ほど、太さは一握りとやや細く、表面には滑り止めらしき傾斜した格子模様が刻まれている。誰かに握られることを想定して作られたような、短い棒。
そんな物体が、落下してすぐにレヴリスの左足の踵で器用に彼の頭上へと蹴り上げられた。彼が兜を被ったまま大きく天を仰ぐと、その兜の顔面に設けられていた顎のような意匠がばくりと開き、そこを狙ったかのように蹴り上げられた短棒をがきりと咥え込む!
「闇を切り裂く――白刃となれッ!」
棒の右端から、光が迸った。レヴリスの首の動きに併せて輝く扇状の残像が生じ、彼を拘束していたリーンのドレスの袖が断ち切られる。同時に着地し、鎧の魔女は緩んだ拘束を抜け出した。恐るべき袖は衣擦りの音を立てつつ跳躍して後退する彼女の腕に戻り、リーンが初めて動揺を顔に滲ませる。
「えげつねぇもん持ってるじゃねェか……!」
「お望みの切り札だ」
“剣なる灯”。
普段は柄だけの状態でシクシオウの腰に配置されているが、これは一つの独立した魔具であり、全てを切り裂く光の刃を僅かな神経疲労で発動出来る。本来ならば松明として使用し、戦闘で接近された際に意表を突くための言わば隠し武器、矛盾するような表現だが暗器だ。当然、存在を知られ渡ればその切り札としての価値が半減する。故に普段は使わないのだが、既に手心や打算などを考えるべき段階ではなかった。
彼と鎧の力でリーンを殺せる確証は無いが、やるしかない。
「(少々の手傷を負った程度では、逃げ帰ってくれそうにも無いしな……)」
右腰からも“剣なる灯”を抜き、発動する。二本の輝く刃を構え、彼の全身を覆うシクシオウの装甲がその輝きを鈍く反射し、瓦礫まみれの町に複雑な反射光の模様を織り成した。
「掛かって来いやァ!!」
「…………!」
リーンが叫ぶと、その頭の髪飾りが変形して二振りの剣になった。どこまで滅茶苦茶なことをやれば気が済むのか。
彼女はそれを構えてレヴリスとほぼ同時に駆け出し、中間地点で激突した。
巨大な空中要塞は陥落寸前だった――否、たった今完全に陥落した。
大空に弾丸と熱線と飛翔体兵器とをばら撒いていた無数の砲台も今や沈黙し、火器まで搭載した強力な魔導従兵の群も殆どが瓦礫に変えられている。
そこに揃った、たった二人の男たちによって。
「俺とこのタルタスを以てすれば、お前さんの恐怖の空中要塞とやらもこの通りだ」
そう語る偉丈夫の名は、フォレル・ヴェゲナ・ルフレート。金髪をさっぱりと短く刈っており、同じように整えられた短い髭は、この青年――そう見えるのは外見だけで、彼は既に千年以上を生きている――の若々しい外見にある程度の重厚さを持たせていた。そして、うろたえる妖族の男が悪者で、彼こそがそれを罰する英雄なのだという説得力も。重厚な防弾装備と将軍さながらの華麗なマントとが、それをさらに強調している。
彼がいるのは、ある妖族の男が自分の戦力として密かに準備していた空中要塞の発令所だった。妖魔領域では珍しい計算機械やそれに情報を打ち込む鍵盤の数々は、要塞の表面にずらりと並んでいた火薬を使う砲台同様、魔女たちから使用目的を偽って調達したものと分かっている。
それを準備した黒幕、つまり彼の視線に射竦められている妖族の男は、今にもその場に座り込んでしまいそうになりつつ、最後の意地で腰の拳銃に手を伸ばそうとしているようだった。
狂王の息子たちであるとはいえ、たった二人の妖族に一大空中要塞を制圧された――もちろん、制圧した箇所の維持は後続の手勢に任せているが――のだ。青褪めるのも無理からぬことだろう。
「自害ならお止しになれ、ローエンボウ伯。あなたの目論見は潰えたのだ」
フォレルの傍らに控える穏やかそうな黒髪の青年が、眼鏡の位置を直しながらそう補足した。
タルタス・ヴェゲナ・ルフレート。フォレルの異母弟であり、無二の相棒でもある。
タルタスが知にて敵を翻弄し、フォレルが武を以ってそこを制する。この黄金的な連携によって、狂王位の後継闘争は今後十年以内に一気に収束するだろうとも言われている。
敵の野望を打ち砕いたこともさることながら、異母兄弟二人の力を裏付ける事実がまた一つ積み重なったこともまた、フォレルにとっては喜びだった。
「俺たち二人に、出来ないことなどないのさ」
「抜かせェ!」
ローエンボウ伯と呼ばれた年かさの妖族の官僚は、一息に拳銃を掴んで叫ぶ。しかし次の瞬間には既に、そのまま照準をつけようとした彼の腕が袖ごと切断されて床に血液を撒き散らしていた。
当人は一瞬だけ呆けたような表情を見せ、直後に血液が噴出するその傷口の周辺を押さえつける。そのまま残った方の手でそこを握り締め、妖貴族は膝を突いてその場にうずくまった。
「うっ……ぐぁぁぁあああ……!?」
「……タルタス。あまり重い傷を負わせるな」
「出過ぎた真似を致しました」
タルタスが、その腰に帯びていた意思を持つ魔具、道標の名を持つ霊剣を抜いたのだ。一滴の血糊さえも付着していないその怜悧な刃を腰の鞘へと収めると、彼は歩き出して発令所の外へと向かう。
「それでは、私は雑務がありますゆえ――医者も呼んでおきましょう」
「あぁ」
それを見送ると、フォレルは顔にびっしりと脂汗を浮かべて悶えるローエンボウ伯を眺めた。見たままを言えば、痛ましいことだ。千年以上の時を生きてなお、苦しむ者の表情は哀れを催させる。
ただ、ここで重傷にうずくまる彼の傷を手ずから癒すことは二人の異母兄弟のどちらにとっても容易いことだが、そうしてしまうと空中要塞を駆ってまで彼らを亡き者にしようとしたこの男に間違った考え――「この兄弟は私の傷を自ら癒してまで自陣営に引き込もうとしたのだ、付け入る隙はある」などといった発想――を起こさせることになる。
タルタスの調査、またフォレル自身が何度か会って感じた所によれば、ローエンボウ伯とはそうした男だった。残念ではあるが、彼は厳然たる上下関係の中に組み込まなければなるまい。
「ローエンボウ伯、まぁ、じっくりと話そう。俺としても、お前さんがタルタスを相手に数年とはいえこの要塞の存在を隠し通せていたことは評価したいんだ。身の程を外れた野望は捨てて、次の狂王を支えるという大役を担ってみる気は無いか?」
右前腕の中ほどから先を失って苦悶に呻いている伯に近寄り語りかけていると、白衣を着た妖族たちが数人、発令所まで入ってきた。タルタスが呼んだのだろう、フォレルは一旦伯のそばを離れ、彼らに怪我人を任せた。道標の名を持つ霊剣の刃は極めて鋭く、妖術による傷口の縫合も比較的容易な筈だ。
医者たちがローエンボウ伯の右腕の先を確保したりー―若い女の方は、顔をしかめながら拳銃を握った指を引き剥がしている――傷口の止血をしているのを見つつも、フォレルは義弟の約束してくれた幸福の瞬間へと思いを馳せていた。
「グリュクッ!! そいつは、あたしの獲物よッ!!!」
「グリゼルダさん!?」
フェーアの呼びかけにも振り向くことなく、長い髪をなびかせる黒い彗星が、グリュクと剣を叩きつけ合っていた妖族の戦士へと襲いかかる。
しかしそんな状況でもグリュクは躊躇せず――出来ず、再び飛来した魔弾からフェーアを庇った。意思の名を持つ霊剣の刃が、魔法物質の弾丸を正確に叩き落とす。
「フェーアさんは待機場所に戻ってください! あなたの転移を必要とする人がいます!」
「……グリゼルダさんをよろしくお願いします!」
フェーアは心残りのこもった声でそう言うと、座標間転移でその場から消えた。
グリゼルダの方を見ると、彼女は相手の得物に比べて細い裁きの名を持つ霊剣でイグニッサへと突撃していくところだった。すでに双方ともに術で身体を強化しており、秒間二十回以上の鋭い剣戟音を鳴らしながら応酬を続けている。先ほどの炎で溶解した街灯の一本がそれに巻き込まれ、中程の部分を無数の不規則な輪切りにされて倒れた。
「グリゼルダ!」
憤怒も露わに灰色の衣をまとった敵に斬りかかり続ける彼女に、グリュクはその名を呼ぶことしか出来ない。他の敵の妖族が、彼女の背後を狙わないようにしなければならないからだ。ハダルの戦士たちがそれを抑えていてくれる内にグリゼルダを落ち着かせて引き離したい所ではあったが、西の方向からいくつかの気配が接近してくるのが感じ取れてしまった。公園を挟んだ反対側の路地から、十人前後。いや、まだ増える。
「(敵の増援……!)」
(主よ!)
そこから放物線を描いて放たれた拡散魔弾を大きく地面を蹴って回避、続いてやってきた爆裂魔弾は大きな壷のような形状に成型した防御障壁の口をそちらの方向へと向け、その威力を利用して爆炎を撃ち返した。
それを放った妖族へと間合いを詰め、生け垣を貫いて高速の跳び蹴りを放って一人を制圧、一瞬だけ離れるのが遅れた一人の手を取って背後に回り、左腕の肘関節の内側に首筋を捉える。そしてそのまま残った敵の方へと捉えた一人の体を盾にし、右手を添えた左肘を全力で曲げた。グリュク一人では恐らく考えつき得ない、捉えた一人の首を絞めつつ盾とする戦術。
「安らげ」
無意識に取った己の行為に肝を冷やしつつ、グリュクは絞首で気絶した妖族の戦士に催眠電場を当てて更に深く昏倒させて放り出した。残るは五人、一人がグリュクを足止めし、残りの四人は未だに燃えている樹木の残る公園へと入っていった。途切れ途切れに聞き取れた会話の内容からすると、穴の周辺の味方を援護するつもりらしい。
神経の披露を抑えようと小さく生成した爆裂魔弾を二秒ごとに撃って気を引き、グリュクは霊剣を構えながらそちらへ走った。
彼の中の冷静な部分は、こう告げていた。
「彼女も霊剣に選ばれた魔女。自分の命を自分で守る術を知り、力も持っている。彼女をただの小娘と思って安易に救援しようとすることこそ、彼女のもっとも望まぬことである」
だが、冷徹になりきれない部分は違った。
「(グリゼルダを助けたい……!)」
サリアで死にかけた所を救われた恩がある。毒と傷を受けた所を治療してもらった借りもある。悪意ある男とその下僕となった霊剣に対して命がけで共に戦ってもくれたのは、彼より七つも年下のあの娘なのだ。
大袈裟かも知れないが、復讐心と殺意に侵されて苦しんでいる彼女の力になりたいという感情があった。彼女の好意を受け入れるかどうかとは別問題ではあるが、とにかく今は、そうした思いに突き動かされて――
「(でも――グリゼルダって……どのグリゼルダだ……!?」
七百年の間に霊剣が出会った人物の中には、同じ名前の者も多数いた。グリゼルダという名の女も、何人かいたのだ。意思の名を持つ霊剣の主が助けたいと思ったのは、その内の誰だったか?
戦闘で高まった緊張によって、再び記憶増大による混乱が生じているのだ。
「(分からない……!?)」
(主よ、気を確かに持つのだッ!!)
「うるさい!!」
相棒の叱咤に対して思わず出たのは、罵声だった。苦言を呈したこともあったし、調子に乗った所を制裁することもあった。だが、そのように子供じみた感情そのものの喚き声を霊剣に向かってぶつけてしまったのは、初めてではなかっただろうか。
「分かるか、この情けなさが! 頭でも打って記憶喪失になるならまだいい! 記憶が増えすぎて自分と他人の思い出の区別が付かないとか、間抜けどころじゃないだろッ!?」
そのまま、駄々をこねるように相棒を振り回し、不満を盛大に口にしながら暴れた。それでも霊剣に蓄積された効果的な技法の記憶に従って体が動き、時に反射的に、グリュクの全く予期せぬ戦い方をしてしまう。ファンゲンの戦士たちからすれば、意味の分からない世迷い言を騒ぎながら的確に攻撃をかわす相手というものはある種の威圧感を与えはしただろうが。
彼はただひたすら、具体性を失った使命感と自己嫌悪のままに戦っていた。心とは裏腹に、剣士の体は一人、また一人と、鮮やかに敵を倒してゆく。
「うあああぁぁぁッ!!」
(主よ! 吾が主、グリュク・カダンよ! 己を……見失ってはならぬ!!)
霊剣の叫び声も、今は届かない。
戦闘状態に入ってから三十分ほど。“心臓”では完全復旧作業が急ピッチで進められていた。
炉の直上に開いた穴は応急処置による閉鎖が完了している。鉄板の上に土嚢を積み重ねた粗末な物に過ぎなかったが、少なくとも爆音や鋭い金属音が断続的に響いてきており、その余波でやってくるであろう土や砂、小石や何かの破片が炉に降りかかってくるのを避ける役には立っていた。
彼らはそこからドロドロとくぐもって聞こえてくる爆音に負けじと声を張り上げながら“心臓”の再始動の準備を続けている。シロガネはそうした現場に立ち会うのは初めてだが、機関長に聞いた話では、“心臓”を一度休眠させると始動には三時間はかかるという。作業を始めて既に二時間、父やグリュク・カダンたちにあと一時間ほども守りきってもらえれば、移動都市は動きだし、再びファンゲンを引き離して旅を再開することが出来るだろう。
シロガネ・アルジャンは、見習い故に“心臓”の復旧に関して特に出来ることが無い。子供でしかないために通路の見張り役も却下され、仕方なく調理室で作られた水分補給用の飲み物の入った大きな瓶を乗せた台車を押して心臓室との間を往復していた。
「水と茶と果汁、お待ちどうさまですっ!」
大きなバルブ付きの給水器にたっぷりと注がれた各種の飲み物を届けても、機関長やほかの面々も忙しさのあまり反応一つ無い。巨大な弁のハンドルを合図に応じて引き絞る者、計器を読み上げて伝声管に向かって叫ぶ者、各所に指示を飛ばす機関長。
ここもまた、戦場だった。
今はこのような下支えの役にしか立てないが、彼女もいつかきっと、いっぱしの仕事を任せてもらえるようになる。そう思い直して、カップに軽くすくった果汁を一息に飲み干し、シロガネは駆けた。
「シロガネッ! 心臓室では急いでも走るなと言ってるだろうが!!」
「はいっ!? すみませんッ!」
普段は温厚な機関長の怒声が飛んできて、思わず首がすくむ。それも彼女を気遣ってのことだと分かっているから、恥ずかしいだけで辛くはない。
上では、父も奮闘しているはずだ。
そう思って次の仕事を誰かに尋ねようと足早に歩くと、幅一メートルほどもある換気ダクトの影から話し声が聞こえた。
「まずいだろ、いくら社長でもリーン王女は!」
「でもこの状況で、どこから援軍を捻り出せっていうんだよ!?」
背筋が凍るという感覚を始めて知り、シロガネはその二人に足音が聞こえないよう、ゆっくりと反転した。そのまま駆け出し、その視線の先に見覚えのある人影を捉えた。
あの耳の形状は、確か、フェーア何とかという父の客だ。要請に応じて戦場の各地に転移で人を運ぶという荒業をやってのけているらしいが、たった今誰かを転移させてきたらしい。
はやる胸を押さえきれず少女は声を掛けた。
「えーと、フェーアさんっ!? でしたよね!」
「お嬢!」
「……シロガネさん?」
彼女の肩に止まった夜鷹がこちらに反応すると、フェーアもこちらの名を覚えてくれていたようで、妖女の耳がぱたりと上下する。使い魔の力で転移する場所は概ね把握できているようだ。少々疲労しているようにも見えたが、シロガネは意を決して嘆願した。
「すみません、突然お願いなんですけど……! 私を父のところへ転移させてください!」
「え……レヴリスさんの?」
「父が……リーンっていう元王女だとか言う人と戦ってるんです! たった一人で……!」
リーンと言えば妖族の生き神の娘、地団太を踏めば溶岩の層まで踏み抜き、凶暴さでは他に並ぶものなど無いとされる名だ。
鎧の守護があるとはいえ、体はただの魔女と同じである父が、自分の服も洗濯できないような移民請負人レヴリス・アルジャンが挑んで無事に済む訳が無い――そうした確信が、その実の娘であるシロガネ・アルジャンにはあった。
無力ではあるが、いや、無力だからこそ、何もできずにはいられないのかも知れない。