7.石の戦士
警鐘の鳴り響くほぼ無人の町。背中まで伸ばした黒髪をなびかせ、霊剣を受け継いだ少女が早足に大通りを歩いてゆく。春風が心地よいが、僅かに戦闘で生じた土埃の匂いが混じっているか。
町の規模を見るに人口は千人いるかどうかといったところか、避難が必要な妖族たちは先ほど街の地下へと逃げていて、戻り始めたところをまた避難しなおしている最中かと思うと、気の毒でならない。ヴィルベルティーレの移動機能が復旧したのだから、先のように外に避難させては置き去りにしてしまう恐れもあるのだろう。だが、それは防衛に失敗すれば逃げ場の少ない都市で移民たちが追い詰められる危険も増したということだ。
遠くの塔で鐘を鳴らしていた者も既に役目が終わったことを知って退避したのか、警鐘が止む。
声を聞くものが周囲に居ないこの状況ならば遠慮も無いのか、相棒が言葉を発する。
(好機だ。グリゼルダ)
「(分かってる)」
まさに僥倖。霊剣の主となって八年追い求めても探し出せなかった仇敵に、ようやく出くわしたのだ。この機会を逃しては、彼女の人生は永久に再開できない。グリュクたちには見せられない憎しみを顔の全面に貼り付けていることに気づき、一先ずグリゼルダは自制を意識した。今から興奮していては、長引いた時に持たないというのもある。
「カラスさん、状況はどう?」
グリゼルダは、傍らの路面をぴょんぴょんと跳ねて歩くカラスの使い魔に問いかけた。
「今の所、それらしき女性戦闘員は確認されていないようです。南東で戦闘が始まっていますが……そちらには見当たらず」
追跡して討ち取るということにかけては裁きの名を持つ霊剣の加護を得た魔女に勝るものは恐らく無いが、何せこれから都市全体が戦場になりかねない状況だ。
移動都市全体を見渡せる移民請負社の使い魔のネットワークがあるのは心強い。
「(気配が強いのは……あっちだけど)」
魔女の知覚に、遠方で術が構築される予兆が微弱ながら感じられた。
あの黄衣の敵は他の敵と比べて明らかに強い。ファンゲンという集団はさほど人数が多くも無いらしいから、他に陽動を任せ、例えばレヴリスや、機関長のような統率力、或いは特殊技能を持つ者を標的にしている可能性もあった。今の時点では考えてもきりがないが。
(まずは戦線に加わろう。向こうにもこちらの存在は割れているから――)
「暴れれば出てくるかも知れないし、居なきゃ居ないで適当に捕まえて吐かせればいいよね」
(相手は寡兵だ。迂闊に何人も殺してしまうと、後援者の意向に逆らってでも撤退する恐れがある)
「分かってるって。逃がしたら元も子もないし、多少危険はあっても手加減する」
そこまで口にして、彼女の感覚が事前に想定していたものとは異なる何かを捉えた。少なくともイグニッサではないことは分かったので、グリゼルダは迅速に、しかし冷静にそちらを見ることが出来た。レグフレッジの柄に手をかけながら、差し掛かった十字路の右を睨む。
「こうなったら、標的以外は眼中に無いし……!」
「おう、そこの小メス猿! 御託はいいから俺の質問に答えな!」
呟いた台詞に返ってきた言葉は、端的に言って下品だった。グリゼルダの言葉遣いも上品ではないが、こちらは彼女が生活費稼ぎに狩っていた都市強盗たちと大差が無い。だが、警戒を最大限に強めて睨んだ先に居た声の主は、妖精と見まがう美少女だった。その左後ろに控えている背の高い男は、服装からして従者か、いずれにせよあまりに場違いすぎたというのが正味の印象だ。
白金のような長い髪は、側頭の左右で結んでもなお膝下の高さまで流れる美しさ。全身を覆うのは最上級の布地のドレス、洗練された装飾品による効果的なアクセントが配置されており、漂わせている高貴さだけなら先日会ったパピヨン王女以上かも知れない。
ただ目つきだけが、あらゆるものを射抜いてなお物足りないと言いたげな刺々しさを持っていた。
「俺はリーン……おっと、だが手前ぇは名乗らなくていい。興味が無ぇ」
黄衣のイグニッサに劣らぬどころか、恐らく戦闘力では確実に上回る相手だ。突然魔女の知覚に引っかかったのは、距離にして二十メートル強、相当に繊細な転移の妖術を使って密かにやってきたためだろう。この小さな妖族の娘も、暗殺に適した術を使うようだ。
リーンと名乗った事実とあわせれば、恐らくは母を殺した狂王に復讐を果たそうとし、返り討ちにあったというあの王女なのかも知れない。俄かに冷や汗が背を伝うが、グリゼルダは何とか動揺を抑え、相手の出方を見た。
「それより、ここにレヴリス・アルジャンっていう野郎が居るだろう? そいつの所に案内しろ」
「……彼の所へ行く理由は何?」
「あいつがあのクソゴミ狂王の、息子の息子の、そのまた息子だから殺しに来た――て言やぁ、納得して案内すんのか? あ?」
「(……! 確かに、あの人が狂王の子孫っていうのは有り得ないことじゃないけど……)」
あの二枚目になりきれない屈強な魔女に妖魔領域を統べる妖族たちの生き神と血縁があるのだとしたら、それはそれで意外な事実だろう。
だがそれよりも先に、どこまでも挑発的に、その身に纏った可憐さ、気品といったものを自ら破壊するように表情を歪めるこの妖族の王の娘に対し、グリゼルダは不快感と同情とを覚えた。
この娘、リーンは、狂王の血を引く者を根絶やしにするつもりなのだ。もしかしたら、最終的には彼女自身さえもを。
それにしても、血縁があるというだけで、移民請負などということをして全く無関係に生きているであろうレヴリスさえもが復讐の対象になるというのか。
「(復讐に心を半ば壊した、哀れな人っていうこと……?)」
「どうした。言わねぇなら言わせるぞ」
そうした考えは、グリゼルダが抱くにはあまりに傲慢というものかも知れないが。あるいは後ろに控える従者の男も、そうした憐憫を感じつつ付き従っているのだろうか。
仇を討つ前に殺される危惧も無くはなかったが、それ以上に、彼女の復讐の在り方を認められず、グリゼルダはリーンにはっきりと告げた。
「無関係の親族を殺そうとする復讐に、手は貸せない!」
「手前ぇに何が分かるッ!!?」
「カラスさん、離れて!」
「そ、そうします!」
慌てふためく使い魔の離脱を確認すると、王女の激怒と共に爆発する巨大な魔力に対抗すべく、グリゼルダは霊剣レグフレッジを抜いて魔法術を構築し始めた。
その手に得物が見当たらないとはいえ、狂王の子に変わりは無い。つまり彼女は、先日の第三王子に匹敵する、グリゼルダなど足元にも及ばない容量の魔力を持っているのだ。
霊剣の加護を得たとはいえ、“箒いらずのグリゼルダ”は生き延びることが出来るか。
移動都市はやや長い楕円形をしているそうで、今は北西・南東方向に伸びているということだった。
フェーアはレヴリスの指示に従い、グリュクを公園の近く、グリゼルダを北の地区、レヴリスを南東の前線に送り届けた。行使した座標間転移の妖術は合計六回、まだまだ余裕はあるが、これから要請に応じて往復輸送を繰り返さなくてはならないことを考えると、身に余る仕事を請け負ってしまったのではないかという危惧が頭をもたげてくる。
それだけ、フェーア・ハザクという妖族の小娘が期待されてしまっているのだ。
「大丈夫ですよハザクさん。我々ハダルの使い魔が全力であなたをサポートします」
「はい……」
傍らの伝書ポストに止まっている使い魔の夜鷹が、小さな嘴を動かして彼女にそう言う。夜行性の鳥のはずだが、昼間は眠くならないのだろうか? そもそも夜鷹といえば、娼妓のことを指すのではなかったか。夜鷹の使い魔などありふれているのは知っているが、梟やカラスではなく夜鷹が割り振られたのは何故か、まさか彼女が淫売であると密かに罵る向きが――
「ハザクさん、転送要請です! レヴリス社長を南東戦線から西へ!」
「りょ、了解!」
被害妄想に駆られている場合ではない。今のフェーアの役目は、ヴィルベルティーレの中心を拠点として人員を移動させることだ。
使い魔のネットワークを使って通信を受け取り、要請に応じて座標間転移で移動を繰り返せば、徒歩や乗り物を使うよりも遥かに早く戦力を移動させることが出来る。
連続で難易度の高い妖術を行使し続けることを考慮し、一度の移動はおよそ二キロメートルまで、一緒に移動できる人員や機材は彼女の体重と合計して百七〇キログラムまでに制限するよう言われてはいるが、それでもグリュクやグリゼルダ、レヴリスのような強力な魔女を戦線の状況に応じて即座に移動出来ることは大きな強みだ。
特に、敵味方の士気を左右できて銀灰色の鎧を纏った強力な魔女であるレヴリスが、決して狭くは無い戦場を端から端までほぼ一瞬で移動できるのが大きい。
「彼方も目と鼻の先!」
妖術の発動と共に瞬きすらしていないはずの視界が切り替わり、フェーアは夜鷹の使い魔と共に移動都市の南東側の戦線へと転移を完了した。
そして、連れて再び別の箇所へと転移するはずのレヴリスは、すぐそこまで駆けて来る所だった。
「さすがだな、お嬢さん!」
「西ですよね?」
「あぁ……やはり連中、増援と合流を果たしていたらしい」
レヴリスがすぐ隣に立つと、フェーアは短く集中して妖術を構築した。そうだ、彼女にも役目が出来た。夜鷹に対して深読みしすぎる方が、どうかしているのだ。
「彼方も目と鼻の先!」
そして、再び視界が切り替わる。
転移するなりレヴリスは礼を言って即座に銀灰色の鎧に変身し、前線があるらしい方向へ飛んで行ってしまった。フェーアも再び呪文で妖術を解放し、転移する。
「その調子です、ハザクさん!」
「ええ……」
夜鷹の喝采に、曖昧に相槌を打つ。
「(グリュクさんやグリゼルダさんはどうしてるかな……)」
自分にも霊剣たちのような相棒がいたなら、どうだったろうか?
彼女を励ましてくれる夜鷹の使い魔をそう見立てるなどしつつ、フェーアは飛んできた次の要請に慌てて妖術を構築した。
“グリゼルダ”。
両親が彼女に付けたのは、やや古風ではあるものの、女としては比較的ありふれた名だった。
だが、それも古く時代を遡ってゆけば、“戦い”や“石”、あるいは“灰色の女戦士”といったような意味合いを持っていたものらしい。
父と母が、その意味を知っていて名づけたのかどうかは分からない。だが、師から霊剣を受け継ぎ、古き戦士たちの記憶の加護を受けた時、それを知って言葉に出来ない心境になったのを覚えている。
自分は石なのか、戦う者なのか。
“石”であれば、当然飛ぶことなどない。“箒いらずのグリゼルダ”と呼ばれていた頃にそれを知ってしまっていたら、自分はそれをどう思っていただろうか。
“戦い”、“女戦士”であったならば、今の自身は正にそれだ。仇を追い求め、殺すことを願い、そして今、余計な義侠心だか矜持だかのために、死ぬかも知れない戦いの渦中にある。まともに対抗する気などなく、ひたすら逃げ回って時間を稼ぐ、もしくは機を窺っている有様は、戦士としては相応しくないものだろうか。
自問する。
「(結局……あたしは石ころの方がお似合いってこと……?)」
(グリゼルダ! 集中しなければ死ぬ!)
それは頑なな心のままで、どこまで転がってゆくか知れないちっぽけなもの。そして、決して自分では飛べない。
魔女のくせに。
(グリゼルダ!!)
「!?」
黒い服で身を固めた従者の繰り出した超音速の手刀が、霊剣の警告で半身をずらしたグリゼルダの真横を通り過ぎて道路に石のしぶきを巻き上げた。振り抜くと同時、液状の魔法物質を同じく超音速で投射したのだ。髪が少し巻き込まれて切れた感触に背筋がぞくりと沸くのを堪えて、彼女はなおも走り続ける。
そこに別の方角から飛び込んでくる、超音速の白金の輝き。その激流に食われる前に、グリゼルダの魔法術が完成した。
「艱難は我が身を鋼に!」
グリゼルダの全身の細胞が威力に満ち溢れ、体が急加速して妖王女の体当たりをかろうじて躱す。限界が早まるので神経までは加速していないが、少なくともこの粗暴な王女が最初から複合加速を使って一気にグリゼルダを仕留めようとはしてこないことから、グリゼルダは相手の術は自分よりやや技巧で劣ると仮定した。そもそもが非常に難度の高い技法であるし、いかに狂王の娘といえど使えない者もいるのだろう。使えない振りをしていてグリゼルダの油断を誘っているというのなら、少々負担にはなるが途中から神経を加速するさせるという手もある。
回避されて路面を大きく抉り一瞬だけ動きの止まった少女、それを援護しようと民家の壁を蹴り壊しながら鋭角を描いて飛来する従者、そこにグリゼルダが身体強化に連鎖させたもう一つの術が発動した。
「糸車は思念を線に!」
呪文と共に展開された強力な念動力場は一瞬にして極めて細い糸状になり、念動力場と魔法物質の中間の性質を持つ索、いわゆる“念糸”となる。魔女や妖族が相手ならば結びつけて意思の疎通を図ることも出来るが、今回は突撃してきた妖王女の従者に瞬時に絡みつき、グリゼルダはそのまま彼とすれ違うように跳躍、彼女と敵とを結んだ念の糸は街灯の支柱を支点にして、強引に相手の軌道を変える!
次の瞬間には、リーンの従者は速度はそのまま、渦模様を描いて街灯の支柱に激突していた。その瞬間を狙って、念糸を強固な魔法物質の“針金”へと変化させる。これで少なくともしばらくの間、挟撃は防げる筈だ。
だが、
「アーノルドッ!!」
見た目は高貴で美しいが、精神を病んで荒れ狂う暴姫。そんな印象しか持てなかった少女が従者を案じる悲鳴を上げたことで、グリゼルダの戦意が僅かに削がれた。従者はしかし、表情一つ変えずに涼しそうな顔をして、
「私は健在です、お嬢さま」
「よく言った!」
茶番めいて見え始めた二人のやりとりを離れて注視しながら、強化を解いて粘着性の魔法物質の網を投射する術を構築していると、不意に王女が胸を張って何かを言い放つ。
「我が下僕よ! 命に応じて槍となれッ!!」
「はい、お嬢さま!」
すると、街灯の支柱に縫いとめられていた従者が本当に槍になった。
「は!?」
(何!?)
硬化した魔法物質の拘束は、妖族一人を縛り付けるように巻きつけられていた。よって、と表現してよいものか、装飾された優美な槍はその隙間から抜け落ち、ごとりと石突が台座の部分に落ちて傾く。
槍自身の意思だというのか、それは軽く前方に差し出した王女の小さな掌に握られるべく測ったかのような角度で倒れこみ、従者アーノルドだった槍を手にした王女が構えを取る。
グリゼルダは戦慄した。当然の規定であるかのように命令した王女も王女だが、その従者が、言われるままに槍になったことに。
(恐らく、特異中の特異妖術! 何らかの契約のようなものを結んで、従属側となった相手を魔法物質と実在物質、両方の性質を併せ持った存在に変換し、この場合は命令に応じて――)
「艱難は我が身を鋼にッ!!」
反射的に再び統合身体強化を発動、左に跳躍して交差する路地に逃げた。その直後、グリゼルダが居た交差点を轟音が舐める。
そして鈍い爆発音、先ほどの従者の手刀とは比べ物にならない量と速度の流体状の魔法物質が、彼女の後方の街路を石畳の下の岩盤の層まで挽き潰し、突き当たりの民家を飲み込んで止まったのだ。細かく砕けた石の欠片が、煙となって渦巻く。
「そんなインチキあり!?」
(もう起こったこと、冷静に対処するんだ!)
「(精霊万華鏡や不動華冑みたいな、規格外……!)」
一旦距離を取ろうと走るが、そこに(従者だった)槍を大降りに構えた王女が角を曲がって追撃してきた。このような絵空事じみた妖術を実現する魔力で成型された武器が、狂王の娘の腕力で振り回される。
相棒で受けてもその刃が折られない自信はあったが、手で把持しているグリゼルダが持たないだろう。両腕が砕けて霊剣が主に向かって飛んでくるだけだ。辛うじて穂先を霊剣の刃で受止め、姿勢を下げてその軌道と威力を受け流した。
「――――!!」
その逸らされた槍の穂の向いた先に民家が三軒、瓦礫となって吹き飛ぶ。跳躍して更に後退するグリゼルダに、従者を構えた妖王女が吼える。
「手前ェこそ手元のウザ剣とべらべら喋ってやがるだろうがッ!! 気合の足りねェ未通猿は、穴に帰って柄オナでもしてなッ!!」
「っ……!」
至近距離で荒れ狂う、戦車砲にも匹敵するであろう大威力の連打。大威力ゆえに見切りは至難という程でもないが、余波が大きい。このまま市街地で暴れさせていては、ヴィルベルティーレ自体は無事でも移民者たちの住居が破壊され尽くしてしまう。
だが、この近辺のどこかに必ず、あのイグニッサもいるのだ。戦闘になっている今、このヴィルベルティーレのどこかに必ずいるはずだ。使い魔たちの目は欺けても、グリゼルダと裁きの名を持つ霊剣なら探し出せる。レヴリスとて強力な魔女、あの鎧の性能は知らないが、確かな実力を持っていると見ていいだろう。転移の魔法術でこの場から離脱し、この滅茶苦茶な王女の相手はレヴリスに任せて自分はこの、二度と訪れないかも知れない復讐の機会に専念してもいいのではないか……?
(グリゼルダ。私は君の下僕……君がどちらを選んでも、それに従うのが私の喜びだ)
「…………!」
グリゼルダは意を決して大きく後ろに跳躍、座標間転移の魔法術を構築し始めた。
「逃げる気かッ!」
そこに槍を持って突撃してくる王女。従者が変形した槍は馬上で使う突撃用の形状ではないが、騎兵突撃の数十倍の威力がありそうだ。その槍が、グリゼルダの全身を粉々に吹き散らそうと迫る。
「行く先は――」
「遅えッ!!」
そう、本来なら間に合わない。
座標間転移の発動時間は距離に比例して延びる。離れた場所に転移しようとしていたなら、グリゼルダは術が間に合わずに複数の肉塊になって弾け飛んでいただろう。だが、
「――此方にッ!」
転移した先はリーンの背後。
「(こんな至近距離で、ここまで正確な転移を!?)」
グリゼルダにはその驚愕を知る由もないが、それは相手にそう思わしめるに充分な離れ業だった。近距離転移は発動時間こそ短いが誤差が大きく、本来は常用に適さない。
長い黒と白金色の髪が交じり合いかねない、体が触れ合うほどの近距離で王女の背後に転移したグリゼルダは、そのままリーンの槍の後方を握って全身に力を込めた。
「はあぁッ!!」
統合身体強化を用いた魔女の膂力で空中に白金の弧を描き、妖王女は槍を手放す間もなく背中から石畳に叩きつけられる!
小さなクレーターまでもが生じ、一瞬天を向いていた髪とドレスの裾が、そこから咲いた花を思わせた。同時に吹き上がった石の欠片や微粒子が頬を叩き、グリゼルダは反撃を警戒して後退、別の魔法術を連鎖させて風を起こし、それらを吹き払った。
「クソッ……魔女の分際で……!!」
(健在か……恐るべき体強度だ)
妖王女は健在だった。ただ、集中が一旦途切れたのか、傍らには元の姿に戻った従者が伸びている。通常の妖族ならば肉片となって飛び散るような強度で叩きつけられて、全身が煤ける程度で済んでいるのが信じがたかった。考えてみれば主人の命令で槍に変形したのも信じがたいのだから、今更どうでもいいことではあるが。
不意を突かれないよう、統合身体強化は解除していない。全身に小さな痛みが忍び寄りつつあったが、グリゼルダは王女に話しかけた。
「あなたの気持ちは分かるつもり」
(グリゼルダ、戦闘中にあまり問答は――)
「でも狂王に復讐するなら、なぜその子や子孫を殺そうとするの」
相棒の忠告を遮り、続ける。
「手前ぇにゃ分からねえんだよ……! 戦うことしか眼中に無ェ、口を開けば覇権だ、戦だと……あいつの子孫は一匹たりともこの世に残しておいちゃあいけねぇんだッ!!」
立ち上がりながら、彼女はそう主張した。
恐らく、その考えは彼女の過去に根ざすものなのだろう。グリゼルダも、道中で遭遇した強盗などは基本的に容赦せず殺していたのだから、全く理解できない心情ではない。知るものも多い筈の、狂王に母を殺された――つまり彼は、妻の一人を殺したことになる――という過去を語らないのは意地だろう。
歪んでいるとはいえ、その決意がどれだけ固いか。恐らく、レヴリスのやっていることも知った上で、それでも自分の節というか、曲げられなくなってしまった信条のために、彼を殺そうとやってきたのだ。恐らく、生きている限りは止まるまい。
しかしそれを考えているだけでも時間は進み、他の戦況は推移していく。グリュクは、レヴリスは、何より復讐を果たすべき彼女の仇を探さなくてはならないのだ。
「あなたは既に、虜ッ!!」
「――!?」
聞こえてくる、術を解き放つ呪文。
それは迷うグリゼルダの意識の靄を払い、王女と従者の周囲に透き通るような翡翠色の魔法物質の槍となって降り注いだ。太さは一握りほどだが、突き刺さった部分も含めると長さは四メートルほどもある。そして衝撃と音こそ派手だったが、一本たりとて二人に当たってはいない。グリゼルダの方はそもそも範囲に入ってすらいない。
呪文の聞こえてきた方を振り向くと、何と民家の屋根の上にフェーアが立っていた。戦闘には参加しないと思っていたのだが、どうなっているのか。
「そのまま動かないでください! そのまま撤退を約束してくださるなら、その導火箭は何の害もありません。でも、まだ戦うつもりなら……あなたの周囲に私の思念一つで大爆発を起こすようになっています……!」
「あぁ!?」
「ひ!?」
(……今一つ締まらないなぁ)
威嚇する猛獣のように王女がフェーアを睨む。睨まれた彼女は逆に小動物のようにびくりと震え、白い木の葉のような耳が逆立った。
霊剣がぼやくが、無理もない。何故か妖術は天才的だが、霊剣の加護による場数の底上げなどは無いのだ。聞いてはいないが、恐らく年齢もグリゼルダと似たようなものだろう。
「ションベン臭ぇクソガキがもう一匹出やがったか! その耳ちぎって鳩の餌にしてやっから、とっとと爆破してみろやァ!!」
「フェーア!」
(危ない!)
叫んでグリゼルダが跳躍し、民家の屋根の上で小さく速度を殺してフェーアを抱き寄せ、再び大跳躍。その直後をリーンが抜き取って投擲した翡翠の柱が破砕し、グリゼルダは柱に囲まれた王女とその従者を挟んで反対側に着地、別の路地に入り込んだ。そこを追って更に投げつけられる柱。
長い黒髪を後ろに置き去りにする勢いで走りながらも、グリゼルダは頼りない妖女に罵りに近い声で話しかける。
「何やってるのよ!」
「て、転移便の途中で見かけたので思わず……」
「そっちを優先するべきでしょ!?」
強化されたグリゼルダの脚力で路面を蹴るたび、その反動で抱き上げたフェーアの耳が揺れる。彼女は動揺したまま、それでも抗弁してきた。
「途中でちょっと話してることが聞こえちゃったんです! だったら私が割り込んだ方がいいのかなーって!?」
「大きなお世話よ! 結局すくみあがって相手を余計に怒らせただけでしょうがっ!? でもありがとう!」
「ごめんなさ……え?」
フェーアの怪訝そうな声は無視して、自戒した。イグニッサのことを知って以来、“心臓”の復旧に関与したせいもあって感情がこれまでに無く昂ぶったせいか、失態が目立った。一度は相棒の警告で、二度目はフェーアの乱入で我に帰ったが。
「降ろすから、すぐに転移便に戻って! あいつ、レヴリスさんを狙ってるのよ! 殺す気で!」
「じゃ、じゃあ今すぐ柱を――」
「どうせ個別設定なんてしてないんでしょ!? こっちに向かってぶん投げられるものまで同時に爆破する気!?」
「グリゼルダさん、来ます!?」
(六時、五十度!)
またも飛来した翡翠の柱を回避、グリゼルダは急角度で反転して安全そうな軒下にフェーアを残し――同時に何かごつんという音と彼女の悲鳴が聞こえた。少々手元が滑って雑に転がしたようになってしまったのは、後で謝ることにする――、一足で民家の屋根の上に出る。フェーアから王女を引き離すためだ。
「(距離が遠ざかると思念で爆破できなくなるけど……仕方ないか)」
それは向こうも分かっているのだろう――妖術の知識として難解なものではない――、跳躍しながら投げつけた筈の翡翠の柱を一本ずつ両手に掴んでいるリーンの姿を捉え、ついでにどうやらフェーアが落とした柱を全て回収して肩に担いでいるらしいアーノルドの珍妙な姿が見える。どちらも連なった民家の屋根の上だ。
「アーノルド、次ィ寄越せ!」
(来る!)
ぼう、ぼう、ぼうと三連射。翡翠の柱は超音速で飛来し、グリゼルダはその二本を躱しながら術を構築、最後の一本に向かってそれを発動した。
「糸車は思念を線にッ!」
呪文と共にグリゼルダの手元から念糸が展開し、高速の翡翠の柱に何とか絡みつく。グリゼルダはそのまま跳躍して大きく姿勢を下げ、先ほど従者を該当に括りつけたのと同じ要領で民家の屋根に突き刺さった別の翡翠の柱――たった今リーンの投げたものだ――を支点に、念糸を繋いだ方の柱の軌道を強引に変える。
翡翠の柱は王女へと向かい、
「甘ェッ!!」
しかしそれは即座に突撃してきた彼女の従者の飛び蹴りによって衝突する前に弾かれ――
「甘いのはそっち!」
そして王女と従者の至近距離で爆発した。
炎などを伴わない、爆音と光と衝撃だけの爆発。正確にはうっすらと煙のようなものが漂っているが、これはフェーアが町に火事を起こさないように柱の組成を工夫したためだろう。グリゼルダも充分に安全な距離まで離れていた訳ではないので、大きな氷嚢で全身を思い切り殴られるような、冷たく重い衝撃に呻いた。
念糸は魔女や妖族に結びつけることで簡単な意思の疎通を可能とするが、命令を待つ魔法物質に対しては繋ぐことで命令を与えることも出来た。翡翠の柱はフェーアの意思で爆発するように作られたようだが、グリゼルダの念糸はそれを無視して強制的に爆破したのだ。
元・妖王女リーンとその従者アーノルドは大きく体勢を崩し、そこから大きく後退して目を覆ったグリゼルダが叫ぶ。
「フェーア!!」
「ごめんなさいっ!!」
再び生じる閃光、大爆音。何とか命令の届く距離まで接近していたフェーアの思念を受けて、彼女の思念で一斉に爆発する性質を持たされていた翡翠の柱たちが、主にそれを幾つも担いでいた従者を中心に散華した。一帯が、十数本分の柱から生じた薄煙に覆われる。
グリゼルダは防御していた頭と胸郭から手を離し、下げていた姿勢から立ち上がる。フェーアも顔を背けてその大きな耳を頭に押し付けていたが、恐る恐るといった調子で魔法物質の気体に煙る一角を見ていた。
「…………やった?」
(どうかな)
狂王の一族の身体の異様な頑丈さを考慮しても、打撃となりえた筈だ。だが、グリゼルダが風を起こして煙を振り払う前に、彼女たちの第六の知覚に感が生じる。すぐに目でも捉えられる形で確認できたが、それは白い竜巻だった。
「手前らァッ!!!」
それを引き裂き散らして現れたのは、空中に立つリーン。ただし何やら服装が豪奢になっており、各所にひらひらと大気の動きに舞う飾りが付き、部分的には鎧のようなものまで身に纏っている。顔に張り付いているのは、怒りの形相。荘厳でありつつ愛らしさすら漂わせている純白の服装に、全く似合っていない。
「まさか……」
(あの従者が変化したものだろうね……)
複数の柱が爆発する直前、従者に命じてあの式典用ドレスのような鎧に変形させたのだろう。顔面や首元をほとんど覆わない形状で何故その辺りに煤一つついていないのかが大いに疑問ではあったが、もはやどうでもいい。
あの二人の関係について良く知らないであろうフェーアが、後頭部をさすりながら尋ねてきた。
「あ、あの、お二人が何を言ってるのか分からないんですけど……」
あたしだって分からないわよ、グリゼルダがそう言いかけた矢先、左手の空に乾いた音が小さく鳴った。霊剣以外の全員が、一斉にそちらを向く。
そこには、丸腰で佇む移民請負人がいた。坂になっている小道の上から、隙無くしっかりとした足取りで下ってくる。
「レヴリス・アルジャンはここに――リーン元王女」
「手前ぇはッ……!」
怒りにそれ以上の言葉を紡ぐことが出来ないのか、紅潮したリーンは悠々と歩くレヴリスを凝視して震えている。今にも飛びかからんばかりにも見えるが、相手はすでに坂を下り終え常日頃なら妖族たちが行き交っているであろう路上に立った。そして、不意にこちらを向いて言う。
「グリゼルダ・ドミナグラディウムくん」
「……!」
「君の追っている仇だという、イグニッサ・フェルブレヌングが現れた。中央公園の付近グリュク・カダンくんたちと交戦中らしい。リーン元王女は俺に任せろ」
「……フェーア!」
「夜鷹さん!」
今度は、その言葉に甘えた。
グリゼルダに呼びかけられたフェーアが傍らにいる夜鷹の使い魔に尋ねると、彼だか彼女だかは一瞬きょろきょろと周囲を見回して、翼で南を指す。使い魔同士のネットワークを追って、グリュクの居場所を察知したのだろう。
「確かに! 中央公園の近く、戦闘中です!」
「行きますよ!」
「逃げられると思ってやがんのかッ――」
元は従者であったらしいドレスをまとったままのリーンが、巨大な竜巻を起こそうと妖術を構築するのが見える。
「貴殿は私めをお探しの筈だ」
フェーアの妖術で転移する一瞬前に、鋭くそう呟いたレヴリスが掌を大きく頭上に掲げる姿が見えた。
「来陣ッ!!」
直後に鳴り響いた雷鳴と力強いその呪文とだけが転移を終えた二人の耳に残り、一瞬のちにはグリゼルダとフェーアは公園の南側に転移していた。
直後に轟音と共に左方の建物の向こうから吹きあがる、巨大な火柱。
「フェーア、今度こそどこかに隠れてて!」
「そ、そういう訳には――」
「さっきのはまぐれ! 人質とかになってあたしの足引っ張りたいの!?」
「ご、ごめんなさい!?」
喉を焼きそうな熱気に眉をしかめつつも彼女を叱りつけると、フェーアは血相を変えて謝る。彼女の安全を考えたいだけであり、謝罪させたい訳ではない。それゆえ募る苛立ちに、グリゼルダは亡き姉が自分と喧嘩をする時にはこんな気持ちだったかと思い至って胸を痛めた。
それでも、家族の仇がすぐそこにいるのだと考えると、彼女の心は無性に昂ぶる。それを少しばかり無理に抑えて、グリゼルダは告げなおした。
「……ごめん。グリュクを探して、そっちを手伝ってあげて」
「分かりました……気をつけて」
フェーアも、こちらの意志を優先してくれるのか、それ以上何かを言おうとはしないようだった。その気遣いも、心が復讐に逸る今は少々厭わしい。
「ありがとう。レグフレッジ!」
(ああ。行こう!)
僅かな自己嫌悪にざわめく心。それと迷いとを切り裂くように、グリゼルダは霊剣を抜いて踏み出した。