3.ハダル、ファンゲン
だん、と石や木の根の突き出た道とも呼べない道を大きく蹴って疾走し、グリュクは状況を見定めた。霊剣を操る剣士の視覚は木々の合間を縫って逃げる人々を、聴覚は悲鳴や怒号、泣き声、女子供の声の割合が多いことを捉える。それに対して彼の持つ魔女の知覚は、やや離れた位置に攻撃的な魔法術の前兆を検出した。恐らく、熱量は低く、衝撃力を高く設定した魔弾だ。
相手を皆殺しにしたいのならば火炎魔弾でも撃てばよい所をそうしないのは、恐らく攻撃側も山火事を起こすことを好まないのだろう。ここは妖魔領域なのだから、妖族たち同士の抗争なのか。
(さりとて、逃げ惑う女子供に妖術を撃つとは外道の極み! 主よ!)
「お前もくどいね、分かってるからこうしてるんだろ!」
グリュクに認識できる限りは、戦闘は一方的と呼べる範囲を逸脱している。
相棒に対して毒づきながらもグリュクは魔法術を構築し、一気に呪文を叫んだ。
「沸き上がれッ!!」
魔法術の発動と共に高速化する視界、全身の細胞がその強度を大幅に増したことで、深黄の森を走る青年は一条の赤い光弾となった。強化された筋細胞は通常の数十倍の速度・頻度の伸縮を行い、全身の骨格も足裏から伝わる破壊的な衝撃に耐える。
もはやしぶきと言って良い勢いで土や木の根や折れた木の枝石ころが後方へと迸り、グリュクは森林の奥行きが圧縮されたような錯覚を感じた。
そのまま激烈に走り、逃げる妖族たちに開けた高台から妖術を放とうとしていたこれまた妖族の男たちを発見、そのまま下方から跳躍して蹴りを放つ。三人の妖族の男たちのそれぞれの姿――犬のような造作の男や皮膚に純粋人と異なる虎のような縞が走っている特徴を見れば、妖族と分かる――は、そのあと認識した。
「おわ!? 何――」
音速の蹴りは彼らの足下の岩盤を直撃し、跳弾のように反動で上方に滞空するグリュク、彼はその体を強化していた統合身体強化の魔法術を解除、それに連鎖して彼の体を中心として柔らかな波動が発生した。
「安らげッ!」
波動の正体は特定の波長の電波、これが頭蓋骨の上からであろうと脳細胞を弛緩させる。金属や重厚な物体に覆われていると効果が薄いが、多くの生物に対して覿面に作用する術だ。
巨大な妖獣には効きにくく、術に通じた相手には発動を読まれて防がれてしまうことが多いものの、今回は足下を強烈に動揺させた直後で三人の妖族の反応が遅れたことで、狙い通りの効果を発揮した。
「――!」
そしてそのまま彼らの近くに着地、背後から飛んできた矢を振り向きざまに霊剣で叩き落とし、ほぼ同時に喉元に迫っていた短剣を弾いた。同時に中程から切り落とした刃がぽとりと落ちる。
「(妖魔領域用の森林迷彩ってやつか……)」
見れば、折れた短剣の持ち主は、黄衣に覆われていた
黄色みがかった不均一な灰色の布で全身を覆い、その目線は目深に被った布地の陰になって隠れている。足周りはその動作を妨げないためか尋常な衣服と頑丈そうな靴、色味は統一されており、こうした妖魔領域の山の中ではかなりの迷彩効果があるだろう。その布には四肢の動きを捉えにくくする効果もありそうだ。
斬り折った得物はおそらく断面の色からして鋼鉄製だが、反動でグリュクの体が二メートルほど押し出されていた。同時に湿った枯れ葉や腐葉土を靴の踵が抉っていたが、平衡は崩さずに相手を睨みつける。
おそらくは妖族、弩で撃った矢に身体統合強化の妖術で追いつき、それを弾かれることも見越して時間差で斬りかかってきたのだ。
普段ならば霊剣の警告がある所だろうが、誰が賞金に目当てに霊剣を追っているか分からないので、グラバジャ市街での一件以降、この相棒は他に気配のある場所では容易には発言をしなくなっていた。
「……俺はグリュク・カダン」
名乗りつつ、相手の出方を見る。防いだとはいえ一太刀を浴びせられてもなおこの反応をするのは滑稽ではないかと感じもしたが、やはりそれが、彼の性質の偽れない一つだった。
恐らくは攻撃を加えていた側の妖族たちの仲間なのだろうが、返事がないようなのでその憶測を交えて素性を訪ねる。
「君は誰だ。逃げる人たちに向かって妖術を撃つ連中の味方か」
「…………」
相手は答えず、その姿勢が低く下がったと思った瞬間、折れた短剣による再びの突撃――素手よりはましだろう――を、やはり霊剣で受けつつ逸らす、いや、逸らせない! 柄から伝わってくる抵抗の原因は、すぐに特定できた。
「(霊剣を白刃取りした!?)」
こちらから斬りかかろうとした訳ではないから正確な所は違うが、まさにグリュクは相棒の刀身を掌で挟み取られていた。手が届く直前に短剣を捨てたか、霊剣の刃は妖術で強化された両掌でがっしりと腹を挟み込まれている。斬撃の途中を抑えられたわけでは無いとはいえ、事態を飲み込むのに一瞬なりとも時間を要した。不覚。
グリュクは相手の指を落とすつもりで再び身体統合強化を発動しようとするが、その前に左から蹴りが来たので殆ど反射で左腕をその軌道に差し込み、骨を折られることなく威力を受け流す。右手で握った相棒は手放さず、左足で永久魔法物質の刃の腹を握る敵の手指を蹴る――のはフェイント。そのまま蹴っていたら蹴り足を受止められて捻られていただろう。
宙に浮かせた左足ですぐさま再び大地を蹴って後ろに跳び、片足立ちになった隙を突こうとして霊剣から両手を離した相手から離脱、魔法術を構築する。今のグリュクにもっとも発動速度と規模を両立して構築できる術。
「護り給えッ!」
うっすらと光る魔法物質の円蓋が彼の剣の向く先の虚空から生成され、急激に拡大した。グリュクと黄衣の手練とを隔てて広がる高硬度の障壁で視界は遮られ、そしてそれに連鎖した別の術が発動する。
「燃えよ!」
その一言で障壁が音を立てずに蒸発し、光となった。破片となって炸裂する障壁の、更なる応用。この場合は瞬時に燃焼して強烈な閃光を発する物質に変性させることで、目くらましとする魔法術だ。この至近距離、例え目深に布を被っていようと視覚でこちらを捉えている以上は防ぐ余地は少ない筈で、そこに強烈な光輝が一瞬だけ周囲を満たした。
グリュクはあらかじめ左手で両目を覆って閃光の反射を防ぎ、相手がたじろいだ隙に跳躍してその背後へと駆け抜ける。
「(ここは深追いしない方がいいか――)」
彼はこの強敵を制圧することに固執せず、まずは襲撃者と被襲撃者たちとの関係を明らかにすることを選んだ。フェーアのことを最優先に考えるならば、最優先で目の前の脅威を抹消し、襲撃から逃げる妖族たちなどは無視してこの場を安全に切り抜けるべきだが、それは霊剣が許さなかったし、グリュクの希望でもない。燃焼の残滓である煙のような魔法物質――気休め程度に過ぎないが、これも離脱の助けになる――の漂う範囲を抜けて、悲鳴の上がる方向へと速度を上げる。
「沸き上がれッ!」
唱える呪文に導かれて再び魔法術が発動し、黄色い森を赤い稲妻が疾った。人間より高い身体能力を持つ妖族であっても術の助け無しには追いつけない速度で、芽吹く黄色い枝々をばさばさと散らしつつも突進する。
だが、その後ろから低い声の呪文が聞こえた。
「我、地を縮めり!」
相対速度の差で生じる音程の低下を考慮すれば、それは女の声だった。塗りつぶしたような山吹の色の森を背景に揺らめく黄衣が、超高速でグリュクを追尾してくる!
「(追いついてくるのか!)」
純粋人や魔女よりも運動力に勝る妖族であろうことを差し引いても、土砂や落ち葉を激しく後方に巻き上げながら迫る姿に、グリュクは――即ち霊剣に宿る剣士たちの記憶が――驚異を感じた。こちらに矢を射て斬りかかり、尚もこうして追いすがってくる相手に遠慮をする理由は無い。
必死で木々の間を東に逃げる妖族たちに、戦闘向けの高度な妖術を使える者はいないようだった。その集団に追いついて戦闘に巻き込んでしまう前に、グリュクは加速のついた己の体重を樹木に無理矢理受け止めさせ、盛大に揺らいだ幹から葉や小さな妖虫たちが落ちてくる前に土を踏みしめ霊剣を構えなおした。高速で木々を反跳してやってくる黄衣の敵に複合加速を発動すべく身構えるが、そこに何かが閃く。
それが何かを考える暇も無いほどの短い時間だったというのに、右手がひとりでに霊剣の切っ先を大きく右へと振り抜き、そこに固い衝撃が走る。反射的に、敵から投射された亜音速の短剣を弾いたのだ。
放っておいてもグリュクにはかすりもしなかっただろう。だがその本来の軌道の先には、泣く幼子の手を引く妖族の女の姿があった。
「……!?」
グリュクの意識にはその存在さえ上っていなかったが、こうした芸当までもが可能になるほど、グリュクと霊剣の適合が進んでいるのだ。
そこに黄衣が突進し、短剣を弾いて正面が無防備になった一瞬未満の隙を、突かれた。
よく見れば短剣の柄には細い糸が巻きつけてあり、そもそもあの母子には当たらずに手元へ戻ってくるようになっていたらしい。戻ってきた短剣を再び掴んだ敵が、それを構え直して素早く突き出す。
「(俺が反射的にこうするって事を読んでたのか!?)」
実際にはそんなことを考える余裕も無かったが、事実だとすれば相当な技量だ。
しかし、グリュクの胸郭に深々と短剣が突き刺さることは無く、それよりも彼は、突然目の前に広がった眩い色に戸惑った。
燃え立つような銀灰色が視界を染める。
それが全身くまなく鎧を着込んだ屈強な男であることを認識できた時には、既に黄衣の女はやや後退し、十メートルほどの距離を取って身構えていた。既にその足取りは撤退の機を窺っていると分かるが、グリュクを背にして立ちはだかった鎧の男は敵に対し、良く通る太い声を張る。
「ファンゲンの戦士よ、俺を狙え! 俺が移民たちを預かる請負人――」
恐らく敵ではない。霊剣の記憶がそう告げるが、グリュクはひとまず相棒を鞘には収めず、やや低くして中段に構えた。この男が彼の危機を救ったのには違いないが、その全身を覆う鎧で割って入り、刃を防いだのか。
鎧戦士の名乗りが響く。
「――レヴリス・アルジャンだ!」
グリュクは少々、その光景に眩暈を覚えないでもなかった。
赤い髪の剣士の後姿を見送ってから数分、グリゼルダの聴覚と魔女の知覚とが、迫りつつある脅威を捉えた。フェーアの方も何かを感じたようではあるが――何せこの耳だ、聴覚に劣るということはあるまい――、いわゆる"殺気"というものに対する鋭敏さというものはさほど持ち合わせていないのだろう。
現れた襲撃者に対する対応も、グリゼルダが先んじた。戦闘経験の蓄積においては妖族ですら及ばないほどの期間を擬似的にとはいえ戦い続けた霊剣の主と同じ次元の感覚を、一介の妖族の娘に求めるのは酷というものだ。
そして、それは襲撃者に対しても同様のことが言い得た。
「霧は我が四囲に!」
森の中にいる敵を相手に魔弾や念動力場を放つのは非効率、だがこの場をあまり離れることも出来ない。グリゼルダの呪文に応えて自然界へと出現した魔法物質の霧が、半径数百メートルに渡って広がり襲撃者や彼女たち自身を包み込む。
「フェーア、どこかに隠れて!」
返事は聞かず、速攻! ただの黄色い森、彼女の生み出した霧に包まれている妖魔領域の森ではあるが、しかし霊剣の主であるグリゼルダ――擬似的な超熟練の魔女戦士の駆け抜ける世界。視覚や魔女の知覚こそ機能しないが、他の五感を遮るものはない。聴覚を頼りに霧の木立を潜り抜け、敵の位置を特定、身体強化や神経加速などをする必要も無く接近して急襲した。
まずは手近な一人を蹴り倒し、倒れた所に下顎を蹴り砕いて制圧、十メートルほど離れて潜んでいたもう二人の内一方は足元に落ちていた拳大の石をこめかみに投げつけて同じく制圧。残った一人が気づいて戦闘姿勢をとろうとしている間に緩やかな斜面を走り寄り、迎撃の蹴り足を全力で抱え込むと、全身のバネと全体重をかけてねじって旋回させながら木の根本に叩きつけ、最後の一人も悶絶させる。長い黒髪を動作に巻き込むこともなく、グリゼルダはそのままその場に留まらず数回小さく後方へ跳躍してから周囲を確認した。
気配は無い。事情が確認できない状況では殺してしまう訳にも行かず――服装からして可能性は低いが、彼らの方が妖族の警察組織であるかも知れない――、三人のうちの二人に催眠電場を至近距離で当て、残りの一人を起こして尋問しようとした時、グリゼルダの知覚に感が走った。
「!!」
霧の持続時間に余裕を持たせて構築したのが裏目に出た。一メートル先さえ見えない濃霧の中で戦闘行動を取れる敵の、極近距離への接近を許したのだ。相手の表情さえ窺えそうな至近距離、目深に被った黄衣が顔を覆い隠しており、グリゼルダの横隔膜を目掛けて妖術で強化された拳打が迫る。
「舐めるなっ!!」
素手で受止めれば無強化の彼女の手指が原形を失う。咄嗟に左腰の霊剣の柄に手を当て、腰の剣帯の留め金を支点に鞘に収めたまま跳ね上げて少しでも拳の軌道をずらす。同時に姿勢を下げて何とか回避に成功すると、拳は黄衣の敵の許に引き戻された。すかさずやってきた蹴り足はその兆候を読んで踏みつけ、敵の強化された脚力が彼女の体を空中高く蹴り上げるに任せる。辛うじてグリゼルダも魔法術を構築し、着地してから複合加速で圧倒しようとする――落下速度までは速まらないため、空中での複合加速の発動は大きな隙を作ってしまう――が、そこに声。
「雹の勢いは鋭くっ!!」
同時に眼下を何かが通過する。フェーアの構築した拡散魔弾だと認識するのに僅かに時間を要したが、黄衣の敵に生じた隙を突くにはそれでも充分だった。着地、呪文!
「我が歩は全ての先に!」
突進をかけて相棒を抜き放ち、この危険な敵を駆逐する! だが、小さく重く硬い魔弾の群を辛うじて回避した敵は、表情があらわになっていた。
「――!?」
柔らかそうな褐色の髪、猫に似た形状の瞳孔。顔に浮かぶ、小さな驚愕。
その造作は、記憶にあった。正確には、グリゼルダの持つ霊剣レグフレッジ、その中に眠る彼女の師、タークス・アフトニの記憶。
彼女の目の前の黄衣を纏った妖族の女は、グリゼルダがただの魔女であったなら、やはり単なる敵同士として出会ったに過ぎなかっただろう。
だが、霊剣を通して受け継がれた因果が、そこには存在した。
グリゼルダは父と母と姉――最愛の家族を殺した妖族の顔を、霊剣を通して覚えていたのだ。
手足から力が抜ける。構築された魔法術が、動揺で一気に崩壊する。
時間が、止まる。
「……お……お前は……」
平衡を失ったグリゼルダの精神が再び活性を取り戻すのに要した時間は何秒か。
「お前はっ!」
もはや周囲の状況も、相手の反応も意味を成さない。少女の全身の血肉と精神が、八年の時を越えて沸騰した。
「家族の仇ッッ!!」
絶叫。複合加速も、肺に残った空気も不要とばかり、グリゼルダ・ドミナグラディウムは駆け出した。ただ、目の焦点が敵へと結ばれていればそれでいい!
しかし、極度の興奮で集中が乱れて強化の解けた魔女の、まして十五歳の小娘の脚力で迫るには、その距離はやや遠かった。その事実を認識した時には既に、黄衣の敵は後退している。不可解な軌道で跳躍を繰り返したかと思うと、その両肩に三人の妖族を抱え上げ――先ほどグリゼルダが制圧した三人だ。妖族の膂力とはいえ成人三人をそこまで身軽に回収するのは難しいので、恐らく統合身体強化は継続している――、森の奥へと消えた。
「く……!?」
(落ち着くんだ、グリゼルダ! 君は動揺している!)
「そんなこと……言われなくったって……!」
フェーア・ハザクが、何事かを叫びながら木の枝をかき分け、彼女の方へと走り寄ってくる。ああ、彼女は自分の名を呼んでいるのか。
そのようなことも意識できない今の己が極端に冷静を欠くことは、頭のどこかでかろうじ自覚できてはいた。だが、彼女は沸騰する全身の熱を持て余すばかりで、脳の大部分は他のことを考える余裕を完全に失っているようだ。
そのあまりの動揺に、霊剣の主でありながら魔法術を構築することが出来ない。グリゼルダは足から大地へと気力が吸われるような錯覚を覚え、危うく転倒しそうになる身体の平衡を何とか保ちながらその場に膝を突いた。
無力と悔恨にはらわたが蒸し焼きにされる、厭わしい暑さ、苦しさ。
それは復讐に身を焦がす感覚だった。
ぽう、と小さな爆音の轟いた北東の空を見ると、群青色の煙の固まりが、大気に溶ける事を拒みながらもじわじわと広がりつつ漂っていた。
事前に三人で取り決めておいた、安全、もしくは現在地を知らせる信号弾の魔法術だ。この距離ではグリゼルダの術かフェーアの術なのかまでは分からない。切迫した事態ならば赤が上がるはずなので、恐らくは心配はあるまいが。
それでも本来ならすぐにその青い目印の真下へと急行したかった所だが、今は少しばかり事情が違った。
「あれはうちの信号じゃないな。敵のでなけりゃ、君たちのものか」
レヴリス・アルジャンと名乗った目の前の、体格の良い黒髪の男。全身を銀灰色の重厚な鎧に包まれており、その意匠は近代的な王国軍の聖別鎧よりは、中世期の重装戦士を思わせた。森で幅を利かせる黄の色味に対抗しているかのように照り輝いている。
首から下は鎧に覆われていて分からないが、顔や頭の造作を見る限りは妖族ではなく、グリュクの魔女の知覚と霊剣のもたらす経験を信じるならば魔女。奇妙な魔女には道中何度か出会ったが、彼もまたその類のようだ。
「グリュク・カダンです。あなたは……レヴリス・アルジャンと名乗っていましたね」
「失礼、改めて名乗る。レヴリス・アルジャン、移民請負会社ハダルを率いる移民請負人だ」
男がそう名乗ると同時、強烈な存在感を放っていた銀灰色の鎧がその身体から剥がれ落ち、地面に散らばる前に再びがちゃがちゃと音を立てて、男のすぐ前方で人の形に組み上がる。
かと思うと魔法物質のように大気にかき消え、体格の良さを際だたせる薄手の装束となった彼の身体には鎧の一部分とて残ってはいなかった。
霊剣の記憶にもない不思議の現象ではあったが、グリュクはひとまずそれに構わず、己の状況を説明することにした。レヴリスは戦闘に割り込んだ理由を聞くと、腕を――グリュクより一回り以上太い――組んで頷いた。
「ありがとう。君のような旅人が見かねる状況を晒してしまったのは、不手際としか言いようがないな。俺の口からで構わないなら、事情を説明しよう。ただこんな場所では失礼だし、それに――」
霊剣の記憶に拠れば、男の肩書きはその名の通り、移民事業を請け負う代理人を意味するはずだ。だがその率いる移民事業を請け負う企業については半ば当然ながら知識は無く、銀灰色の鎧についても全く同様だった。男に敵意もなく、今のところは特に怪しい素振りもなく、それどころか彼に迫った危険を取り除いてもくれた。とはいえ、油断も出来ない。
実際には数秒もない間を置いて、男、レヴリスは続けた。
「不肖ながら俺から君へ、よければ君の道連れにも、頼みたいことがある。話を出来る場所まで案内したいが、いいかな?」
「今は……仰る通り連れがいますので、彼女たちと合流しなくては」
「そこまで案内してもらえるか。君の意向も尊重したいが、俺たちは君のような戦士の力を借りたい状況にある」
「…………」
真剣にそう告げるレヴリスには切実な事情もあるようで、グリュクは多少渋りながらも、グリゼルダたちに彼を会わせることにした。
彼の提案を最初は断ろうと思っていたが、
「お話を聞くくらいなら……日程に余裕もありますし、通り道にあるんですから多少の寄り道はいいんじゃないでしょうか?」
彼女たちと無事に合流し、フェーアに訊くとそう言って賛成した。
グリゼルダはといえば、
「フェーアがいいって言うなら、あたしも興味があるわ。その話」
意外にもそう言ってやはり賛成し、グリュクはやや押し切られた格好でこの魔女の男に着いてゆくこととなった。
そして今、グリュクたちはその移民請負人に案内されて山道を歩いている。彼の後ろで四人の最後尾を歩くグリゼルダの様子を見れば、合流した時と同様、何かただならぬ気配を漂わせていた。ただ、そう気づけはしてもどのような経緯でそうなったのかまでを当てることは出来ない上、同じ霊剣の主としてそのような事情を気安く尋ねてはならないように思えたこともあり、グリュクは黙っていた。
彼女と一緒にいたフェーアならばその事について知っているだろうか。二人きりの時ならばそれを聞くことも出来る――そう考え及んだ時点で軽くかぶりを振り、自戒した。ミルフィストラッセも必要上黙っているが、情けない主人の心境をどう思っているだろうか。
「見えてきた」
黄色い森の中を進み、目の前が開けた地形になると同時、ぽつんとそびえ立つ岩山に出くわした。先にも見た、氷河に流された古代の大岩と言うものか、しかし大きい。
差し渡しにして数キロメートル、ともすれば十キロメートルはあるだろうか。質量に至っては何万トンになるか、土中に埋まっている部分を含めるとすぐには想像がつかない。
ここから遥か西の地で見た“黒体牢獄”の数十倍の体積であり、まさか中にはあの灰の雪の妖獣に数十倍する規模の大妖獣が入っているのではないか。レヴリスに聞いてみた所、彼は笑ってそれを否定したが。
氷河で押し流せる限度を越えているのではないかとも思えるが、それより不可解なことは、黄色く苔蒸した岩肌を晒しているのは麓だけであり、頂には樹木どころか家屋らしき影までもが見えたことだ。
端的に言えば、黄色をまぶした岩の上に家屋や木々を乗せた景観模型を思わせる有様。確かに、危険な妖獣の封印された岩山の上に住むということは考えにくいか。
レヴリスが、歩みは止めずに手振りで行く手を指し示し、大きな肺活量から生み出される良く通る声で告げる。
「ヴィルベルティーレ。移民たちの仮住まいだ」
「(移住者の数は知らないけど……でも……)」
移民事業などと銘打つからには、それなりの大規模な集団による長距離の移民である筈だ。目的地までの道中は簡易住居を用いて風雨を凌ぐか、町に寄って宿を取る必要があるだろう。だが、少なくとも行く手にある小さな石造りの町は、住居の分解組み立てが容易なようには見えない。
そもそもこのような森の中にぽつんとそびえる、急峻といってもよい岩山の上の立地では、元来の住民に加えて立ち寄った多数の移民者たちを受け入れ、維持するのは不都合も多そうに見える。不可解だった。
もっとも、そうした事柄だろうとどうとでもして見せるのが移民請負人だといわれれば、そうなのかも知れなかったが。
新しい居場所を探している身の上ゆえに気になるのか、フェーアがレヴリスの横に並ぶようにして訊ねる。
「その移民者の集団を率いて、新天地へと連れてゆくのがあなたの仕事ということですか」
「そうだ。そして先ほど移民たちを追い立てていたのが、反移民実働部隊……ファンゲンと呼ばれる連中さ。移民事業に反対をする人々を後ろ盾に、俺たちを追っている」
「追跡者……」
その名を復唱したのはグリゼルダだ。グリュクと意思の名を持つ霊剣の中にはそのような覚えは無いが、裁きの名を持つ霊剣は覚えているのか。
「より詳しい背後関係なども、気になるなら後々、知る限りを説明しよう。というか、君たちには俺の企みなど、察しがついていると思うけどな」
「どのみち進路上ですし、非武装の人々を襲う妖族の集団なんていうものが近くにいるなら、詳しい人に情報を聞かせてもらうべきだとも思いますから」
「そうか。ご婦人二人を守りながら旅する色男として、正しい心がけだ」
「……冗談はやめてください」
朗らかに笑う移民請負人、その半分からかうような発言に対するフェーアやグリゼルダの反応が気になるが、そこで振り向いて女たちの機嫌を確かめることは出来ず、全力を挙げて困惑したような返事をして見せるしかなかったのが悲しさだ。
せめて状況の打開を図るべく、グリュクは別の話題を探した。
「俺としては、あなたの着ていたさっきの鎧が気になります。魔法物質みたいに掻き消えてしまうことや、あれだけ体全体を覆っておきながら敵に向かって素顔を晒し切って名乗ったことも」
「……ファンゲンは中々に強者揃いだ。君たちのように若く強力な術者ばかりならばさほど恐れを抱きもしないだろうが、移民の人々は新天地に新たな故郷を築こうとする心意気はあれど、戦いの心得の無い者が多い。女子供も多く混じっているのは、君たちも知っての通りだ。ならば、顔も名も連中にはそこそこ知られた俺が矢面に立たなければならないだろう……あの根拠地に攻撃を受けて一先ずは女子供だけでもと逃がしたんだが、俺の不手際で別働隊に追撃を許してしまった」
「……もしかしてお一人で防衛を?」
「いや、我が社の仲間もいるし、移民者の有志を募って防衛隊を編成してもいる。だが、ファンゲンにも手練がいるのさ。今回のようなことがあったからこそ、君たちになおも感謝したいし、フェルマータを抜けるまでの助勢も頼みたいってことでね」
「その手練っていうの、もしかして……黄色い布を被ってたあいつ……?」
陰気な表情で訊ねるグリゼルダの様子を若干訝りつつ、レヴリスがそれに答えた。
「先の戦闘に限っていえばその通り。連中の間で名前を呼ばれているのを聞いたが、イグニッサという名の妖族の女らしい。術、体技、戦術眼にも優れた恐ろしい相手だ」
「あいつが……」
最後尾を歩くグリゼルダがそう呟くと、グリュクはさすがに気になり、彼女に尋ねた。
「グリゼルダ……何があったのか聞かせてくれないか」
「……ごめん、今はちょっと……ちゃんと話せるかどうか分からないから……」
「……そうか。悪かった」
やや驚いてそう謝ると、グリゼルダも目を逸らして何事かを呟いた。単に小さくごめんと言ったように聞き取れたが、そもそもそれが、この小さな霊剣の主には似つかわしくないと思える。
そこに、控えめな咳払いが聞こえて振り向いた。レヴリス・アルジャンが、歩みを止めてこちらの様子を見ている。
「このまま進んで構わないか? 互いに色々と事情はあるだろうが……」
「すみません、レヴリスさん。行きましょう」
そう促すと、髪をうなじで結んだ丈夫は分かった、とだけ口にして再び目的の岩山――ヴィルベルティーレに向かって歩き始めた。フェーアはグリゼルダの様子を心配そうに窺っていたが、こちらもおずおずと歩き出し、グリュクも彼女が足を踏み出すのを見届けてから再び前を向いた。俯く少女にそれ以上声を掛けることも出来ず、何とも気分が陰鬱としてくる。
気付けば太陽が真上近くまで昇っており、雑草や落ちた木の枝を踏みしめる足音だけが黄色い森に溶けていった。