6.出発
粥の煮える匂いで目を覚ました。
血にぬかるんだ土の上で終わっていた最後の記憶と体を包む温もりとが違うという違和感も手伝って、うろたえるように脳が覚醒する。
頭だけを動かして周囲を確認すると、天井は暗いが、闇ではなかった。
右手の扉の窓から光が漏れていて、広くは無いがそこそこに調度も整った室内であることが知れた。
服もどうやら、野戦服ではない。血のにおいなど微塵も感じられなかった。
近づいてくる足音と共に、扉が開く。
そして入ってきた姿にはどこかに見覚えがあったが、とりあえずは若い女だということしか分からなかった。
年齢は恐らく同程度、背中の中ほどまで伸ばした黒髪をうなじで束ね、晒した額の下に銀縁の眼鏡。
背こそ高めだが、街にいたなら目立たないタイプだ。両手に食事とランタンの載った盆を支えている。
僅かに頭痛が残っていたが、グリュクは構わず上体を起こした。
少しばかりの間を置いて、女が言葉を発する。
「お目覚めですか?」
「あ、ああ…………」
一先ずはそう答える。そう呻くことしか出来なかったとする方が正しいが。
彼女は盆のランタンを持ち上げ天井から垂れ下がっていた吊具に掛けると、盆を差し出しながら名乗った。
「アニラ・リオーリと申します。こちら、どうぞ」
「あ、どうも……ありがとうございます。俺は……グリュク・カダン」
グリュクは出された盆を受け取り、彼女、アニラに礼を言いつつ名乗り返した。
盆の上には刻んだ野菜と炒り卵の混じった粥の皿と、香ばしさを漂わせる茶らしきカップ。
茶が彼の見慣れない緑の色をしていたが、グリュクにはそれよりも気になることがあった。
「あ、あの、俺の服とかは……」
「すみません、おおっぴらに出来ないので全部私が……一応洗いはしたんですけど、血が抜けないところがあったので一応、確認してください」
「あぁ……」
彼が今ベッドの中で着ている服は、清潔にされた一般的な男物。
得られた答えに、グリュクは感謝とともに少々の恥ずかしさを感じて僅かに彼女から顔を背けた。
慣れていることだったのか、そういうことに元から頓着しない性分であるだけか、アニラは特に気にした様子も無く、話を振ってくる。
「従士選抜に参加されていましたよね? 私の顔は記憶に無いかも知れませんが」
「……あ!?」
思い出して思わず声を上げてしまう。列車から降りて駅を出た選抜志願者たちに移動するよう告げたのが、確かに彼女だった。
「思い出して頂けたみたいですね。普段はあの補給基地に勤務しております」
「あぁ……てことは、ここは……俺を基地に運んでくれたってことですか?」
「いえ、ここは基地ではなくて、私の村で遠出の時や、狩りの時とかに使っている小屋です。あのあと休暇で村に帰っていたんですが、大きな地響きがあったので何人かで祠を確かめに行ったら……」
「祠…………?」
食事に手をつけようとしていたグリュクの手が止まる。
「ええ――」
彼女は、ベッドの下からミルフィストラッセを取り出して渡してきた。
「村の祠でこちらの霊剣さまをお祀りしておりました」
「すみませんでしたぁぁぁッ」
「え、えーとですね……」
要はこの剣は彼女の村の神格か何かだったということで、グリュクはそれを、状況打開への必要や剣本人の求めもあったとはいえ勝手に盗んだことになる。
粥に額が付かんばかりの勢いで頭を下げるグリュクに、アニラは困惑したようだがそれでも言葉を続けてくれた。
「祠を確かめに行ったら、妖獣と、その近くの血の海で倒れているあなたと霊剣さまを見つけまして……今は居りませんが、他の村の者と一緒にここまでお連れして、霊剣さまにはこちらで鞘を見繕ってつけてしまいました。勝手をお許しください」
霊剣の収められた鞘をこちらに渡してくる彼女に、ただ困惑する。
「え、いや、勝手はむしろこっちで……」
(主よ慌てるな)
受け取った剣は何事も無かったかのように語りかけてきた。
状況が飲み込めずに鞘に収まった剣を見ると、上等そうな剣帯まで付いている。暢気な剣にやや苛立つグリュクを見て、彼女はややおかしそうに語り始めた。
「大きな声では申せませんが、この王国東部は歴史的には魔女の勢力が強い地域であって、過去の戦争で帰属が変わることが多かった経緯は、ご存知と思います」
「は……はい」
アニラが説明をしながらも身振りで食事を促したので、グリュクは匙を握って粥を啜った。
「私の村は、魔女の血を引く者こそいませんでしたが、古来からその強い影響下にあり……魔女を憎まない文化を今もひっそりと持ち続けているのです。
この心を持つ剣、村では霊剣さまと呼んでいますが、大昔に偉大な魔女の一人が鍛え上げたといわれているもので……魔女を友と思いこそすれ魔女ではない我々としては、いつか相応しい魔女がこの土地に現れ、霊剣さまを……言い方は悪いですが引き取ってくださるのを待っていた訳です」
(病で力尽きた先代の主を匿い、世を去るまで世話をしてくれたのが彼女の村なのだ。
ただし、辺境の村といえど審問の手が及ぶゆえ、かような山中に置かれていたという次第だな)
「ほぅん…………」
話は聞きつつも勢い良く粥を啜っているのでまともに反応できないグリュクに、ミルフィストラッセが補足を入れる。
「どうですか? 霊剣さまは何か仰っておられます? 私たちには分からないので……」
「……霊剣さまねぇ……」
(それを御辺はぶっきらぼうに剣、剣、剣と……この際宣言するが、吾人はただの剣ならぬゆえ、そのような呼び方は不本意極まる)
アニラの“霊剣さま”などという呼び方に胡散臭そうに匙を置くグリュクに、剣――否、霊剣――はそのように述べると、心なしか不機嫌になったような気配を見せた。
「えーと、お供え物ありがとうって言ってる」
「良かった」
手元の霊剣が猛烈に抗議しているのが分かったが、グリュクは無視して茶を飲み干した。
心を持つ剣。真剣な状況でたちの悪い冗談を差し挟むのも、心あればこそということなのだろうか。
「ごちそうさまでした……おいしかったです」
「いえいえ、どういたしました」
グリュクは礼と共に盆をアニラに返し、
「ていうか……俺……どうすればいいんでしょう」
「え、どういう……ご事情でしょうか?」
事情を知っている筈が無く、アニラは意外そうな表情でこちらを見ている。
「……話してませんでしたね」
グリュクは疲労が体の奥から引き返してくるのを覚えつつ、アニラにこれまでのことを平易に、少々曖昧に話した。
話し終えても、仔細を想像して彼の今の状況に共感しろというのが無理な話だろう、アニラは実感が沸かないという様子で軽く首を捻っている。
「大変だったんですね……今からでも基地に戻るべきかしら」
「あぁ……人手が無いとあの事態の収拾は難しいだろうっていうか……曲がりなりにも魔女になった以上、俺は何としてもトンズラしなきゃいけない訳ですが」
「どうしましょうね……私の村にも審問官は来るので、部外者のグリュクさんがいたらすぐバレちゃうでしょうし……グリュクさんは何か目的とかが?」
「………………えーと」
当てにしていた就職先は大事件でそれどころではなく、またついでのアクシデントによって就職に大幅不利な体質になってしまったといえる。
何も言えずに固まっていると、アニラは少々大げさな身振りで、
「てことは、何も考えてないってことですか!?」
「いや、はい、そうなんですが……」
ふと、扉を叩く音が耳に入った。
「すみませーん! ガフェシ基地の者ですが、エチェ村の仕事小屋と聞いております、お時間頂けないでしょうかー!」
声の雰囲気から察するに、アニラとは無関係に、周辺の村での調査に訪れた軍人らしい。
既に事件の調査が進んでいるのだろう。慌ててベッドを抜け、剣を帯びて開けた窓から身を乗り出すグリュクに、アニラが小声で呼びかける。
「ぐ、グリュクさん、荷物! 洗った服とかも入ってます!」
「あ……どうもありがとうございます、こいつも礼を言ってます」
(まだ言っておらん!?)
「そんな……でもお気をつけて!」
「はい、お達者で!」
(さらばだ!)
彼も余り大きな声は出せなかったが、精一杯感謝を述べた。
やや名残惜しさはあったが、もはやスウィフトガルド王国には居られない。
グリュクはアニラから荷物を受け取ると窓から飛び降り、大きな足音を立てないように注意しつつ小屋の裏道を走りだした。
室内で時間が曖昧だったが、やや遅い朝といったところか。晩冬の冷え切った空気が首筋に沁みた。
数歩も歩かないうちに道を詳しく聞けずに出てきたことに気づき後悔したが、すぐに舗装された道に出ることが出来た。
路傍で背嚢の中味を確認してみると、背嚢自体も最低限の洗浄を済ませて乾かしてある他、食料や簡易医療キットにライター、ナイフといったほぼ全ての支給品が入っていた。
懐中電灯も、配布時同様だ。一度血まみれになったものだが、切れた電池を交換すれば動くだろうか?
アニラの非常に丁寧な仕事に感動を覚えてグリュクは胸中で呟いた。
「(こんなことにでもならなきゃ嫁に来て欲しかったかもなぁ……)」
(惰弱……吾が主の人生にそのような無難なプランは容認しがたいのだが!)
「実は考え筒抜けかよ、ふざけんな!!」
もはや難癖の次元に差し掛かった霊剣の陳情に厳重な抗議を突き返し、山道を歩き続ける。
とはいえ、詳細こそ聞いてはいないが、陸上騎士団の従士選抜の志願者が国内に入り込んだ妖獣に大量に殺害されるという前代未聞の事件の現場の、さほど離れていないところで騎士団支給の背嚢を背負っているのは不自然かも知れない。
(ところで、良い知らせと悪い知らせ、どちらを先に聞く?)
やや歩くと、霊剣がそう尋ねるので、グリュクは少し考えて選んだ。
「え……じゃあ、悪い知らせから」
(御辺は今や、完全に魔女と化しつつある。妖獣の血液を浴びた刺激で、全身の細胞に変換小体の分布が復活を開始した。もはや曲がりなりにも、といった次元ではない)
「……良い方は?」
(吾人がこれから、御辺を霊剣の主に相応しい魔女へと教育いたすことが決定した)
「それはどっちも悪いニュースって言うんだよ!!」
(むう、何を言うか。そもそも吾人は……いや、今はいい。それよりも、御辺はこれからどうするのだ)
「……お前の希望とか、ないのか?
一応命の恩人だし、無理なことでなければ聞くよ。ただし魔女教育以外」
グリュクは言ってみた。念じても通じるようだが、やはり話すには口を動かさないとこちらの調子が合いにくい。
霊剣は相変わらず、彼の精神に直接語りかけてくる。
(……主の記憶は我が記憶、なれば御辺の幸福こそが我が幸福よ。
しかし、もはや魔女は徹底して排斥されるのがこの地の概ねの有様である。血を引く、素養があるというだけでな。執拗な検査は既に終わっているが、何をきっかけに発覚するか分からぬ。
不本意ながら、吾らが日々を送るには出国しかあるまい。まずはそれを希望しよう)
「出国って……公式にいける国はどこも啓発教義の国だろ。ベルゲに行けっていうのか」
(いかにも。吾人は昔魔女の手によって生み出されたという次第もある)
「そういえばそんなこと言ってたな」
ベルゲ連邦は、啓発教義を奉じる王国とその影響下の国々に敵対し、啓蒙者たちに汚染人種として絶滅目標として指定を受けている国(正式には、啓発教義連合も啓蒙者たちも国家と認めていない「東部叛乱勢力地域」)である。
霊剣の記憶に拠れば、教会資本による主要メディアで主張されるような不合理と呪術の支配する未開の地域でもないらしい。
確かに、それが事実であれば衆生の囁く通り、真理と栄光のスウィフトガルド王国は屎尿の魔力や砕いた黒焼きを混ぜ込んだ軟膏といったもので戦艦を落とそうとするような呪術主義者たちを相手に苦戦しているということになる。
しばらく道の両側を木々が遮っていたが、不意に右手の森が開いた。山の空気に、雲間から差し込む陽光が清々しかった。
見下ろせばやや狭い盆地が広がっており、遠くには自動車向けの幹線道路や西部に向かって伸びてゆく高圧鉄塔の列、遠くに見える鉄道の他はただ林や耕地が広がっている。
北に少し離れて窺える流れは、ベルゲ連邦から流れているカフ川だ。
顎に触れると、むさ苦しく伸びてきた髭が嫌でも分かってしまった。深く息を吸い込み、霊剣に問う。
「そういうことなら、当面は緩衝諸国を抜けてベルゲを目指そうと思うんだが、それでいいか?」
(出国幇助者のコミュニティで情報を集めるべきか。吾人も密出入国に関しては多少の記憶があるが、現代でも通用するのかどうかは分からぬ)
「金とか要るのかな」
(そういえば御辺、すっからかんであるな)
「食い詰めてたんだから当たり前だろ……」
毒づく。
鞘のままの饒舌な剣で脇に突き出ていた三角点を軽く叩いて制裁を加えると、グリュクは再び歩き出した。