8.降臨
火傷に思わず霊剣を取り落とす――ことは無かった。伸ばしていた髪は縮れ、彼女の体の大半は超高熱の魔法物質によって焼き尽くされた、筈なのだ。
だが、赤い髪の剣士を庇って前に出たはずの彼女の全身が骨の髄まで炭化していないのは、彼が防護障壁の熱波に破壊される直前に彼女を押し掴んで旋回、位置を入れ替えて逆に庇い返したからだと知れる。そのため、グリゼルダは防護障壁と彼の大きな体躯に護られ、軽い火傷を負う程度で済んでしまった。
当然、彼女の代わりに熱波の奔流の直撃を受けたグリュク・カダンは。
「…………!」
(主よッ……!)
見るに耐えない消し炭のようになったその手から離れ、がらんと石畳に落ちたミルフィストラッセの慟哭を聞きながら、グリゼルダはそれでも王子を睨み、両手でレグフレッジを構えた。
ずきずきと疼く頭痛を堪えて見遣れば、少し離れたところで女教師が血の海に倒れている。戦端から共にありながらこの状況を許した己が赦せず、その激昂と敵への闘争心が、軽度の火傷と神経痛とで今にも膝を折りそうな彼女を支えていた。
(赦さぬ……絶対に赦さぬぞ、タルタス・ヴェゲナ・ルフレートッ……!! 吾が主の無念、例え破片となりても御辺に返し申すッ!!!)
(哀れなりミルフィストラッセ。そなたも余が主の下僕となるのだ)
視覚や魔女の知覚で見ただけでも、二人はもはや死体に等しい状態だ。多少は敵を消耗させられたかも知れないが、この状況で助けが来たとして、どうなるというのか。同じ霊剣使いや妖族の教師の助勢を得てなおこうも圧倒的な王子との戦力差を前に、グリゼルダ一人で何が出来るだろうか? 霊剣の加護を得たなどと言った所で、相手が同じ霊剣使い、しかも狂王の息子となれば、魔女など何十人が記憶と経験を束ねた所で子供扱いをされるものなのか?
(グリゼルダ、ここは記憶を削る)
「(ダメ! どうせやったところで、相手も同じ手を使えるのが分からないの!?)」
(パノーヴニク……霊剣の使命を忘れた奴の存在を許してはおけない。分かるだろう)
「(だったら、あたしが……)」
(それこそ駄目だ。主と共にありこそすれ、主を使い潰して乗り換えていくなどというのは霊剣の所行ではない)
「別れは済んだか。ドミナグラディウム女史」
彼女たちの会話に苦笑を堪えるような、有り体に言って腹の立つ表情で。
霊剣を石畳に突き刺し、広大な複製の予知室を背景にタルタスが複合加速の妖術を構築する。七百年の戦いの経験が、このまま使命も果たせず自分が死ぬ未来を冷酷に導き出してしまう。
だがそれが現実になる前に、響きわたる轟音と共に、彼女の後ろに何かが出現した。
目の前で驚愕する王子の視線を追って後ろを振り向くと、そこには光、或いは明るさが、目を引く煌めきがあった。その姿と形には、見覚えがある。
それは字句通りの輝ける希望か、少なくとも、上半身だけの、鎧をまとった巨人の形態。
「……ここは!?」
「突入に成功しました! タルタス兄様の作った、異空間の内部です!」
そしてその掌に乗ったパピヨン王女と、フェーア・ハザクとかいう白い大耳の妖族の娘だった。七百年を生きてきた筈のレグフレッジが驚嘆する。
(パピヨン王女……! 師の代わりに彼女を補佐係にして空間まで越えてきたのか!)
「ん……?」
そこで一瞬だけ、妖王子がフェーア・ハザクを一瞥し、小さく声を上げるのをグリゼルダは見逃さなかった。
だがそれについて考えを巡らす間は無く、白耳の妖女が悲鳴を上げる。
「……っ!? グリュクさん、グリゼルダさん……!! あっちは――」
「先生……! 『生きよ、我は汝を見捨てぬが故ッ!!』」
悲鳴を飲み込み唱えたパピヨン王女の呪文と共に、巨人の上体の形をした魔力炉が強力な魔力を放出し、構築された骨組みだけの妖術に肉の厚みを与える。巨人の周囲を回るように発生した薄緑色の光輝の群がすぐさま収束し、一瞬後には折り重なって死につつあったグリュクとグリゼルダ、フレデリカ教師に着弾して光をまき散らした。
光が収まるとすぐさま、一つとして傷跡や火傷の無くなった剣士が横転しながら体勢を起こして霊剣を妖王子に向かって構え、同様に服だけに穴が開いた状態になった教師も立ち上がって後退する。
「グリュク……!?」
グリゼルダも全ての外傷がそれを負う前に戻ったかのように完治し、熱で縮れた髪までもが元通りだった。
グリュクに関しては半ば肉片という形容すら差し支えないような有様であったが、それをこうして闘気の漲る状態にまで完治せしめるというのは、もはや復活ではないか。あるいは本当に、二人は死んでいたのかも知れない。
「ありがとうございます、グリゼルダ、殿下、フェーアさん!」
(忝なさに言葉も無い!)
グリゼルダも構えたままの相棒を握る手に力を込め、目の前の王子を睨んだ。巨人の半身を従えるように立つ少女と、その前に立ち、タルタスに向かって構えるその師、そして二人の霊剣使い、ついでにグリゼルダのよく知らない妖族の娘一人。
「師を思うあまりここまで来たか、パピヨン。その美しき甲冑、初めて見たぞ」
果たして本当にその通りか、間者でも放って既に知っていたことではないのか。とはいえその台詞も虚勢の類とは思えず、神経が疲弊してとても魔法術を行使できる状態ではないグリゼルダは警戒した。妖姫がその王子の台詞に答えて、更に叫ぶ。
「兄殿下といえど許しません! 私たちを謀り、先生や私の客人たちを、こうして傷つけたことはッ!!」
「私を断罪するか、悪くない趣向だ……!」
「力こそ、我らが妖魔領域の至高法! 師と両親と……役と税とを奉じて私を育ててくれたグラバジャの人々が与えてくれたこの力で、あなたを下しますッ!!」
小さな姫君が従えた輝く巨人の甲冑が、冴え渡るような和を奏でる金属音と共に両の拳を固めて戦闘態勢を取る。
「ならば、下してみせよ!」
それに応じて霊剣と魔具剣を構え、そして突進。しかし妖姫を斬る前に、第三王子は超音速の巨拳に吹き飛ばされて宙を舞った。グリゼルダは驚きつつも胸中で喝采したが、それでも防御は間に合ったらしく、吹き飛ばされつつ空中で従兵筒を投げ捲き散らした彼の挙動を見逃しはしていない。足下近くに落ちてきたものを踏み砕いて機能を奪うと共に、いくつかは石畳に落ちる前に斬って仕留めた。グリュクやフレデリカ教師も同様だったが、パピヨンは甲冑を背後に突進して王子に追撃をかけるつもりらしく、そしてあの白耳の妖族の娘は筒の効果を知らないのだろう、今一つ要領を得ていない。
「フェーアさん!」
(落ちてくる筒から離れよ!)
青年とその霊剣はそう叫んで彼女に駆け寄り、盛り上がってヒトの形になろうとする石畳から引き離し、生まれたばかりの魔導従兵を霊剣の一撃で破壊する。確かにグリゼルダ自身に関してはこの状況でも心配など無いのだが、それでも釈然としないものがあった。一体いくつ蒔かれたものか、それでも石造の魔導従兵は何十人と生成され、床面を大きく抉り取った。時計塔地下の予知室(の、第三王子による複製)は大きく内観を損ね、床下の機構部分が露出し、グリゼルダたちが立っていた部分も、そこを支持していた梁か柱を失ったのだろう、傾いて落下を始める。グリュクを見れば、霊剣を鞘に収めてフェーア・ハザクが姫君であるかのように抱きかかえて傾斜を滑っていた。
(だから何で躊躇わずにその女を抱き抱える訳!?)
パピヨン王女を除いた四人は、崩れる床や魔導従兵たちと共に、二階建てほどにも深まった更なる地下の構造へと着地した。グリゼルダとフレデリカ教師は単独で、グリュクは白耳の娘をあたかも姫君のように抱き上げつつ。
希少な素材を使用しているであろう妖族の機械。とっさには面の数までは数え得なかったが、恐らく差し渡しで七、八メートルはありそうな正二十面体の石造りの容器と、それを取り囲むように縮小版がいくつも配置されていた。
(これが恐らく、時計塔の動力源にして演算装置……中心の物は現実の時計塔では霊峰結晶が入っているのだろう。この紛い物の空間では、あの中は全て石か何かだろうが)
「予知なんてやろうってからには、そのくらい無いとダメなんだろうけど……霊剣の兄弟っていうのは本当なんだ」
石で覆っていようと遮蔽できるはずもない強力な魔力線が感じられないというだけでも、空間を生み出すという荒唐無稽な次元の魔力を備えた第三王子とて、全能では無いのだという証左にもなる。
不満は色々とあるが、まずは目ざとく襲い来る石の兵士たちを――実際は目に当たる器官など無いので、彼らはあくまで本体である短筒に与えられた、魔女でいう第六の感覚に似た機能で彼女たちを識別している――斬り伏せ、あるいは蹴り飛ばして鉄骨に叩きつけ、小気味よい響きと共に葬った。妖族なのでそれなりに腕力もあるのだろうが、あの白耳の娘も、グリュクに守られながらも隙を見ては足払いをかけて魔導従兵を転ばせ、その足を掴んで振り回すなどということまでやってそれなりに奮闘している。
(負けていられないよ、グリゼルダ!)
「あんたは黙ってなさいッ!!」
一喝と共に再び片刃の霊剣が閃き、魔導従兵を縦に両断した。
負けられない、一族の栄光に身を捧げて不幸にも命を奪われた母の為、一度は後継闘争から逃げた自分を受け入れてくれる伯の為、自分の力と心を育て導いてくれた師の為。
魔力線の供給は十分、フェーア・ハザクは付け焼き刃にしては申し分無く不動華冑の生成の補助を務めてくれた。装甲の表面に生じた念動力場が異母兄の剣を受け止め、打ち払う! 師の補助で生成したものには少々劣るが、こうして戦いを任せる分には全く問題が無い。飛んでくる長方形の防壁の雨を薙払いながら、パピヨンはさらに複雑な妖術を構築し、巨人の背後の虚空から六百六十六の誘導魔弾を生成して解放した。怪しく薄赤色に輝く魔法物質の大群が光を曳きつつ殺到し、魔具剣から噴き出るように陸続と生み出される防壁にその大半が防がれるも、いくつかがタルタスに直撃して爆発する。
「やるな、だが自覚が足りない。こうして制限を取り払われれば、かくも立ち回ってみせるのが君であるということのな」
それすらも特別製なのか、誘導魔弾の直撃を受けてなお、彼の衣服には焦げ目のような物しかついていなかった。師や霊剣使いたちは消耗しており、フェーア・ハザクも不動華冑の発動で継戦はやや心許ない上、戦に関しては素人だ。巨人の上半身がもたらす膨大な魔力があるとはいえ、パピヨンに勝機はあるか。
(あるぞ、姫君よッ)
唐突に、意思の名を持つ霊剣の声が第六の知覚へと響く。時計塔地下の予知室は広いようで戦闘を展開するには狭く、魔導従兵の生成で床面が大きく欠損した状態でパピヨンが義兄と戦う領域は半分程度残った部分に限定されており、実質的には師や霊剣使いたちとさほど分断された訳でもない。霊剣の声がこうしてやってきたということは、少なくともグリュク・カダンは魔導従兵の群を切り抜けたのだろう。フェーア・ハザクを伴った彼が下から飛び出して床が無事な一角に着地し、続いてグリゼルダも同様に姿を現す。
「不動華冑が動き続けているなら、この異空間にも魔力線が降り注いでいるってことです! 少なくとも、魔力線を通すように、通常空間との連絡方法が残されている!」
「床下の永久魔法物質は、ただの石に置き替わってたしね」
(然り、永久魔法物質まで複製されなかったということは、彼のタルタス王子を以てしても永久魔法物質の複製は出来ないということでもある)
これはレグフレッジ。もしそれが出来るのならば、彼は複製を繰り返すだけで無限の霊峰結晶を入手可能だっただろう。
「たとえ魔力線しか通さない微小な穴でも、不動華冑の出力とあなたの制御なら押し広げることが出来るわ!」
最後に現れた師がそう告げると、己の全身に力が宿ったような気がした。
「出来るものなら……やって見せるがいい、義妹よ!」
「邪術の験は……束の間ッ!!」
第三王子の全力で繰り出した輝く魔弾の大群、その一つ一つが人体ごときは丸ごと消し飛ばして余りある威力を秘めて荒れ狂ったが、これはフェーアの繰り出した破術によって夜空に舞う灰のごとくに消え去る。彼も消耗しているのだ。消えきらずに床石に着弾した魔弾は爆音と共に破裂し、破片と粉塵、蒸発しつつある魔法物質とが織りなす煙幕を斬り裂いて霊剣使いたちが切り込み、金属音が高らかに上がる。
(ミルフィストラッセ、レグフレッジ! どうしても我が行く手を阻むか!)
(笑止なりパノーヴニク……! 霊剣を求めてかような挙に及ぶ男を主に選ぶとは、霊剣と雖も容赦せぬ!)
(我々は君を知らない……過去に何があったか、話してもらうぞ!)
霊剣たちの言葉の応酬、そしてその主たちが立て続けに巻き起こす甲高い剣戟の音。霊峰結晶で出来た刃同士が激しく斬り結びあい、第三王子は機を見て左手の魔具剣を発動させるが、その度に、比較的余力を残していたフェーアの破術が魔弾を花びらのように舞い散らせた。それすらも策略の内で無いという保証はないが、しかし妖王子の顔に僅かな焦燥が滲んだようにも思える。
そして、王子は三人に任せ、パピヨンは師と共に集中、空間の隙間を探す。時に紙幣の束で頬を叩くように、時に幼子に優しく言い聞かせるように。上半身だけの巨人も彼女の精神と第六の知覚に同調し、何かを察知して見せようと作用する。師の影が後ろにあると言うだけでパピヨンの全能感は果てしなく高まり、それはこの場この時においては最良の作用を果たしつつあった。
長い黒髪が舞い、そこから飛び出た如くに繰り出される片刃の霊剣が重厚な刃にぶつかり弾く。強化の術の類など一切使用していないのだから少女の体力も限界の筈で、それでも戦い続ける彼女が作った王子の隙を見逃すグリュク――霊剣の主ではなかった。
「やるぞ、ミルフィストラッセ!」
(応よ!!)
意志の名を持つ霊剣が吠吼すると、美しく渦巻く黄金の旋風が一人の剣士を中心として迸り出る。
「むッ……!?」
「!?」
グリゼルダまでもが驚いたように跳び退き、金色の粒子に戸惑っているらしい。タルタスは左手の魔具剣を一旦鞘に収め、己の相棒であろう霊剣を両手に握って身構えている。
「こ……これが意志の名を持つ霊剣の発現させた特異能か……ッ!」
(…………!)
粒子による記憶の共有作用のことだろうか、グリュクは第三王子がそう発言して初めて、レグフレッジやパノーブニクにも同様の機能があるのかどうかといった点に意識が及んだ。彼はミルフィストラッセの歴代の所有者において初めて、それ以外の霊剣と接触を持ったのだ。両霊剣について、グリュク・カダンとミルフィストラッセは何の知識も持ち合わせていない。
「それについても……教えて欲しいなッ!」
頭痛も忘れてそう呻くと、輝く乱流は予知室を照らして勢いを増し、朧気ながらにその過去を映し始め――
(俄然笑止ッ! それが霊剣に通用すると思うなッ!!)
道標の名を持つ霊剣が一喝すると同時、何が起きたか、ミルフィストラッセの作り出した粒子の渦は輝きを失って消え去る。溢れる輝きは夢から醒めたように弱まり、あとには三人の霊剣使いと一人の妖族の娘が残った。
「な、何、今の……?」
(パノーヴニクの言うとおり、ミルフィストラッセの特異能だろうね……魔力線を直接魔法物質化して、それが記憶の伝達を媒介する粒子となり、神経を持った生物同士の記憶を遠隔共有させてしまうようだ。霊剣とその加護のある者には通用しないが)
それは相手の過去を知り、自分の来歴を教えて互いを理解しあい、戦いに和睦を促すために進化した機能。所有者の神経を痛めないのは、ミルフィストラッセ自体が魔力線をそうした粒子に変換する触媒のような存在に変化しているためだ。七百年の長い戦いの間にいつしか発現していた機能だったらしいが、二振りの霊剣とその主の反応を見る限り、ミルフィストラッセに限ったものなのか。
「返礼にこちらも手の内を見せてやりたいが……その前に!」
そう呟きつつ鞘に収めた魔具剣を抜き、二刀にて跳躍する王子、目指す先は、異空間を破るために動きを止めている妖族の師弟。だが彼に敵対する二人の霊剣使いは、既に心肉ともに満身創痍でありながらそれに食い下がった。
「姫の所へは行かせない……!」
「あたしたちをこんな所に閉じ込めたこと、胃潰瘍になるまで後悔させてやるからッ!」
平素の筋力で人間や魔女に数倍、ともすれば数十倍しようかという妖族の王子の二刀流を気迫と根性だけで封じ込める、二振りの霊剣とその主たち。第三王子も、これに吠え返す。
「死にかけの魔女が、こうも戦うッ!」
「霊剣の加護を受けたのが――自分だけだと思ったかぁッ!!」
グリュクとグリゼルダの絶叫が唱和し、闘志と意地とを乗せた二つの刃が閃いて――そして王子の手からその霊剣を弾き飛ばした。道標の名を持つ霊剣が、敗北の際でさえ優雅に宙を舞い、刃を下に石畳へざくりと突き刺さって光を反射する。
「…………!」
そちらを見やろうにも、グリュクたちが肩で息をしながらも構えを崩さないためだろう、タルタスは代わりに虚空から音もなく魔具剣を取り出し、眼鏡の中から彼らを睨むだけだった。その眼光は変わらず鋭いが、しかし、それでも相当に疲労させることが出来たという手応えはあった。もっとも、彼がこのまま敗北を認め、何もせずに立ち去り――あまつさえこの異空間の維持を解除して彼らを解放してくれるとも、思えなかったのではあるが。
そこに。
「見つけたぁっ!!!」
その確信めいた、悲鳴のような歓声の方を見れば、何かが光っている。上半身だけの巨人ではなく、隙間から漏れ出るような青白い光だ。思わず審問用の照別灯(魔女に当てると激痛を与えて行動不能に出来る、啓発教義諸国で用いられる器具)の光を思い出してたじろぐが、体中が痛い今では区別が付かない。ただ、よく見れば、パピヨン王女の背後の不動華冑の右手の手首から雷のようなものが四方に突き出ており、それはもしかしたら、巨人の上半身型の魔力炉が空間に亀裂を入れて、そこに右腕を差し込んでいる状態なのではないかと見ることも出来た。探っているのか、掻き混ぜているのか、巨人は空間の輝く隙間に腕を差し込んで動かし続ける。
それを止めようとしてか、タルタスが別の魔具剣を右手に握り、甲冑巨人の主であるパピヨンへと斬りかかろうとするが、勢いを失った王子は二人の剣士の守りを突破出来ない。魔具や妖術で吹き飛ばそうとしても、フェーアの妖術がすぐさまそれを相殺した。
そして、ついに巨人の腕が引き戻され、それを見た妖王子が静かに唸る。
「止せ……!」
巨大な腕に握られていたのは、美しい六角柱。内部を輝く液体が循環する薄水色の繊維を凝集、その形状に固めて成形したような、美しい物体だった。全長六メートルほど、太さは一抱えもあろうが、巨人の大きさに比べれば少々太いだけの棒切れだ。
「私たちを元の世界に戻してください、兄殿下! 精霊万華鏡のからくりはこの制御核晶から読み取って大まかに理解できました。戻して頂けないのであればどうなろうと同じこと、私はこれを不動華冑に破壊させて、あなた共々爆縮する空間の狭間に消える方を選びます!」
甲冑の巨人が両手に把持した制御核とやらを掲げ、パピヨンが高らかに宣言する。
無論それはハッタリではあろうが――グリュクや彼女の師であろうフレデリカだけであればまだしも、フェーアにグリゼルダ、霊剣たちまで巻き込まされてはたまらない――、妖王子がそれを受け入れるかどうか。
「この空間の主は私だ。まして霊剣と共にある術者が、無様に界面に溶け去ると思うか」
それに対して、今度はパピヨンの師が歩み出て告げる。
「パピヨン殿下がこちらに突入しておいでになられたということは、出ることも可能というのが理屈というものでありましょう。貴殿下の優位は失われたのです」
「あっ、そうか……訂正します。この空間を破壊し、兄殿下の優位を奪います!」
「…………」
堂々と心中を宣言した王女だったが、まだまだ自分の出来ることについての認知が不十分のようだ。そんな彼女に対し、フレデリカ教師は術の講師をしていた時のような厳しくも砕けた調子ではなく、あくまで臣下が進言するという調子で補佐をしていた。そのやや乱暴な理屈にタルタスは沈黙で答えたようだが、彼が特に反論しないのは肯定と受け取っていいのだろうか。
ともあれ、今や状況は妖王子が躊躇えば躊躇うほど不利になる形だ。何故自分の意のままになる空間で魔導従兵以外の増援を呼ばないのかは不明だが――一度展開してしまうとそうしたことが出来ない性質の術か――、重傷を負っていたグリュクとフレデリカは全快し、霊剣使い二名、妖族三名の計五人、しかも各々が一定水準以上の強力な戦闘向けの術を行使可能な術者たちが、徐々に神経の余裕を取り戻しつつある。グリュクとてまだまだ割れるような頭痛は続いていたが、末梢部分からは徐々に痛みが引いており、今なら数秒程度は障壁を張れるかも知れない。
「……いいだろう。勝負は不成立ということで依存はないな」
「構いません。もし義兄さまに再戦の気がおありでしたら、今度は私が受けて立ちます!」
「その意気や良し……」
僅かに微笑みめいた表情を見せて、第三王子は石畳へと突き刺さった自分の霊剣へと歩いて行き、それを優雅な動作で鞘に収めた。グリュクも、実際の所はそこまで余裕があった訳でもないので相棒を収め、グリゼルダもそれに倣ってくれたようだった。
パピヨンがその実力の一端を見せつけたことで、タルタスもそれを認めて接し方を変えたか。同じ妖族の王族同士の会談の最中にこちらを異空間に引きずり込んで戦いを挑んでくるという相手ではあったが、双方が納得しているのであればグリュクたち部外者が口出しをするべきではないだろう。一度は瀕死の重傷を負わされた身としては、簡単に納得できない所ではあったが、そこで異議を申し立てることは非常に難しいという気も、またするのだった。
だがそこで、そこにいる全員に術行使の感覚が走る。
「それともう一つ」
王子が視線を変える。その声が呪文となって妖術を解放したのだろう、その目の向く先はパピヨンではなく、フレデリカでもなく、霊剣の主たちでもなく、何か小さい、黒いものが飛翔した。グリュクも、グリゼルダも、妖族の師弟も反応できない速度。
すると、
「ひぁッ!?」
フェーアが左手の手首のあたりを押さえて悲鳴を上げた。比較的近い位置にいたグリゼルダが、王子から彼女を庇うように相棒を抜いて構え直す。
「フェーアさん……!?」
うずくまりこそはしなかったが、グリュクはタルタス以外の一同がそちらを向く中、霊剣を抜いて再び構えつつ、己の手首を見て愕然とする彼女に駆け寄った。その間に仕掛けてくるということはないようだが――
(これは……!?)
見れば、彼女の左手首の静脈周辺に、放射状の文様らしき意匠が入れ墨のように浮き出ている。ずくりと脈打っているようにも錯覚させるそれは、細い手首の裏を禍々しく飾っていた。さすって確かめたくても直接触れるのははばかられるのだろう、彼女の手の動きでそれは容易に知れた。
「その紋章は、三十日を過ぎると致死毒を発する」
「何……?」
理解できない言葉の並びを脳が拒否する。致死毒、耳には確かにそう聞こえたというのに。
その文様をフェーアの左手首に刻み込んだらしい王子は言葉を続ける。
「その娘を、今日から数えて三十日以内にマトリモニオまで連れてきたまえ。そこに解毒できる者がいる」
「義兄さま!? どういうことです、何のつもりで!」
「理由はあるが、今は話せん。本当は私が連れてゆくべきなのだが、情けないことに今日はそんな余裕も無くてな」
驚くパピヨンにそう言い放つ彼に対し、己の目の奥の温度が上がるような感覚があった。家族によって故郷を追われ、つい昨日には暗殺の濡れ衣まで着せられる所だった彼女に、この上どんな悪意を向ければ気が済むのか、グリュクは思わず罵った。啓発教義の神だか、よく分からない天の上の存在だかを。
霊剣を握る腕に、先ほどまでの死闘の際に増して力が籠もる。尤も、グリュクには全く自覚がなかったが。当然、舌を動かすのにも衝動的になった。
「……今すぐ解除しろ」
(主よ、まずは落ち着け……!)
「出来んな。霊剣の主とて、その娘の腕ごと切り落としでもしなければ逃れられはしない。私ですら解除できんほどに、強く力を込めたからな」
「聞こえなかったのかッ!!」
突進、同時に怒りに任せて音より速く振り抜かれたかも知れない霊剣ミルフィストラッセが、しかし同じ霊剣に受け止められて鋭く鳴り渡る。同じ霊峰結晶の刃同士が一分子とて損失することなく擦れあい、小さく鳴いた。
グリュクの視界には既に入っていないが、フェーアや他の女たちは二人の霊剣使いの刃の競り合いを、迂闊に手出しも出来ずに見守っていた。方や二ヶ月前までは食い詰めた兵士志願者であった元純粋人の魔女、方や千年を越えて生き続け、妖族社会における強大な権力とそれに比例した実力を持ち、王位継承権第三位にある貴公子。
前者の命を救い、主と選んだ霊剣が後者を糺す。
(何故彼女なのだ。答えよ、タルタス・ヴェゲナ・ルフレートッ!)
(哀れ、ミルフィストラッセ。汝は大局を視るべし)
「彼女の手首に毒の紋を刻み込むのが、大局だってのかッ!」
「猶予は三十日。分かったな」
彼の怒りなどはそよ風程度のものであるかの如く、第三王子が呟くと、――その声は転移の呪文でもあった――、彼はその下僕の霊剣ともども色とりどりの木の葉となって崩れさり、グリュクの刃を逃れた。哄笑が響くのが聞こえた訳ではないが、怒りと悔しさの遣り所を見失って、赤い髪の霊剣使いは己の相棒で石畳を割り砕く。
そして、視界がここに呼び込まれた当初とは違う、柔らかな光に包まれて。