5.妖王子の万華鏡
夕刻、グリュクは中庭にいた。グリゼルダ、パピヨン王女とその教師であるフレデリカも近い場所におり、今は姫君を見守るように、各々が位置している。
その少女が、叫ぶ。
「燃えよ、我が往く手を拓くためっ!!」
(どう感じる、主よ)
「……構築は正確だと思う。ただ、力が殆ど出てないのは……」
詰まる所は、パピヨン王女の妖術の稽古に立ち会っているということになる。数秒で消える火球を前に、霊剣に問われてそう言葉を濁した。だが続けて、
「妖族は、正確には妖魔領域の生物は、魔力線を代謝エネルギーとしても活用してる。つまり、成長期で魔力が殆ど身体の成長に……細胞分裂のエネルギー源になっていて、妖術を使おうとしても組み立てるだけで、発動できない――そういうことなんじゃないかと思う」
自然と口をついて出た推察は、姫以外の二人の反応を見る限り、さほど的外れでもないようだった。これも霊剣の知識に基づくものだが、そこにグリゼルダが補足する。
「まして、千年以上生きる一族だからね。将来に備えて体作りの方に魔力が必要ってことで……明日来るタルタス王子も、千年以上生きてるって話よ。少なくとも、レグフレッジが生まれた当時から同じ名前の人がいるのは間違いないみたい」
一介の生物体として改めて考えてみたならば、その長命は驚くべきものだ。妖族は普通、どんなに長く生きようとも六百年が精々であり、記録――そして霊剣に秘められた記憶――を信じるならば、狂王とその子供たちだけがそれに数倍する生涯を送ってなお生きており、将来的には彼らの目の前のこの少女ですら、そうした存在となる筈なのだ。
やや奇抜な髪型をしたこの教師が教育している彼女がそのような霞の向こうの神格じみた存在になることを、未だに実感として信じることは出来ずにいたが。
なおも力んで火球を維持しようとする幼い妖姫に向かって、フレデリカ教師が声をかけた。
「それじゃあ、今日も忘れないようにやっておきましょうか」
「は、はい!」
妖術は碌に発動していないので、疲労といっても繰り返し叫んだことによるものだけだろう。教師が生徒の後ろの配置に着くと、霊剣の主二人に離れるよう告げた。
「ちょっと危ないからね」
二人は仲の良い親子のように目を閉じて集中し、精密で強力な術を構築し始めた。グリゼルダもそうだろうが、グリュクの持つ魔女の知覚にも大きな感が生じる規模だ。信じ難いことだったが、小規模な魔弾も満足に維持できない少女がこの複雑な術を構築し、教師はその補佐に徹している。
そして彼女が小さく唱えた呪文が、引き金となった。
「来たれよ……我は汝を知る故……ッ!」
刹那、二人の妖族の背後に出現したのは輝き。その中で影のようになった部分が難解に絡まった縄のような形になってぐるぐると虚空に渦巻き、次第に意味がある形状を得ていった。
そこから数秒で、巨大な姿が見事に顕在を果たす。光が晴れ上がり、その形状の仔細が明らかになると、妖姫が胸を張って宣言した。
「名付けて、不動華冑!」
それは彼女たちの背後にやや離れ、浮いていた。
正しく不動の上半身と表現すべきか、その姿は優美な甲冑をまとった屈強な戦士そのものであり、各部の規模は人間の十倍ほどもある。ただし、パピヨンとフレデリカの背後の空中に存在しているのは腰から上の上半身だけなので、そこまで高さは無かった。この巨大な半身だけの巨人に、まさか殴り合いでもさせるというのか。
その存在を維持制御したまま、妖族の姫がグリュクたちの方を向いた。
「この不動華冑は、変換小体の数で劣る私が、フレデリカ先生から助言を頂いて作り出した、魔具のような存在です。魔法物質で作り出した言わば、魔力炉。空間中の魔力線を強制的に収束して、妖術に変換……つまり、私の力として扱うことが出来ます」
その銀白色の表面は微細な構造を持つらしく、赤や青、緑の波長の光を淡く乱反射して美しく輝いていた。果たしてこの巨人を覆う鎧が――中身については伺い知れない――実効的な防御力を持つのかどうか、見ただけでは判断し難いが。
グリゼルダが、問いを発する。
「……つまり、誰かの魔力を借りてこれを発動することで、以降は制限無しに強力な術を使用できるということですか?」
「そう。集中力の限界はあるけど……制御に関しては、この五年で私がみっちり仕込んだからね」
「先生、ペットの芸みたいに言わないでください!」
代わって答えるフレデリカに、パピヨンが幼さを全開に反発する。魔力炉などと一言で言ってのけるが、一部の例外を除いて机上の空論でしかない筈のその機構は、恐ろしく複雑なはずだ。魔法術で生成できる分、工業的な手法で製造するよりは難度は低いだろうが、それでも無数の魔法物質製の部品を――それが金属めいたものなのか、肉を思わせる質であるのかは分からない――正確に創製・配置して一個の即席精密機器として作動させる術を可能とする、その構築力。それは霊剣を以てしても、ただ驚異的と感じる他ないものだ。
(妖族とはいえこの年齢の娘が、そこに師の補助があるとはいえこれ程の術を……天賦の才が高度な研鑽を積まねば、この境地には至れぬ)
「一応、明日はこれを義兄殿下に公式に披露する予定なのよ。火の玉も碌に出せないガチャポコ姫なんて認識のままでいられたら、それを預かってるグラバジャも舐められちゃうからね」
「ガチャポコじゃありませんっ!!」
姫を姫とも思わぬ物言いの師に対して必死に抗議するパピヨンだが、そうしていてもこの複雑極まりない術の制御は崩れていない。発動の際の大量の魔力自体はフレデリカが供給していたようだが、術構築を補助している最中はまだしも、既にそれを終えたらしい今の彼女はさして疲労しているようにも見えなかった。この強大な魔力の収束炉は、己の集める魔力だけで自身の維持の為のエネルギーを賄えるらしい。
その兜に並んだ細い覗き溝の奥には自動巨人のような環境感知機があるのか、肉を備えた顔があるのか、はたまた虚無か。一度作動してしまえば強力な妖術発動装置となって稼働し続けるらしい甲冑型の守護神は、何の作用によるものか、小さな重低音を発し続けながらその場に静止し虚空を見つめていた。
聞く所に拠ると、会談の目的は狂王位の継承権に関する折衝なのだという。
ちなみに、時計塔は再び人格再生を試みて自己検査をさせてみようとした所、動作が安定せず、王子の到着までには未来予知機能の発動が間に合わなかったらしい。つまり、不吉な表現となるが、何が起こるか分からない。
そんな中、午前十時に到着した第三王子は、さほど多くの人員を伴ってもいなかった。王族同士がわざわざ場を設けて会談するという事例は、国王位でさえ啓蒙者によって与えられる王国では考えられないことだったが、妖魔領域のように王位継承権保持者がそれぞれ一触即発を避けて縁のある土地を拠点に活動しているような風土であれば、時として起こるものなのだろう。
霊剣の中にはその第三王子を直接に見た記憶はなく、グリュクは間接的な伝聞や新聞の挿し絵などでそれを知るのみだ。だが、豪奢な生地を張られたその椅子に座る妖族の王子は、一見した所はただの妖族のように見えた。魔女の知覚も、伝説では凡俗ならば当てられて死ぬとされるその魔力を感じ取ってはいない。
礼服に身を包んだ黒髪の青年は、伊達か度入りか縁の細い眼鏡の向こうには鋭い目つきを、体全体には柔らかな物腰を備えていた。
「パピヨン王女、伯アルベルト。この度は会談を受けて頂き、感謝している」
「遙々お越し頂き私も感に堪えません、タルタス兄殿下」
「意義ある談となりますことを、両殿下」
少人数で話すだけにしてはやや広すぎるが、王族の権威にふさわしい調度や付随する人員を収めるには適切な大きさの会議室。グラバジャ伯を挟んで第三王子と第七王女が対面し、形式的な言葉を交わして対談が始まる。
それぞれ右に書記を、左に側近を一人――パピヨンの場合はフレデリカ教師、タルタスの場合は狐のような耳をした妖族の娘――ずつ配置しており、やや離れた背後に護衛が複数いた。
そのパピヨン側の護衛の中に、グリュクは礼服に身を包んで立っている。幸いというべきか、妖族社会では武装して行事に臨むのが普通――それより強力な妖術があり、武装を禁止する意味が薄いからか――なので、同じような礼服を着て隣に立っているグリゼルダ共々霊剣を帯びることを禁止されはしなかった。
「第二王子義兄上は未だに昔の片思いの相手にご執心らしい。とっくに死んでいると、お諫めしたのだが」
会談は当たり障りのない互いの近況などから徐々に、常時血生臭さの漂う狂王位の後継闘争へと及んでゆき、しばらくするとタルタス王子自身がそれを快く思っていないことを表明して、恐らくは本題であろう件についての話題に移った。
「昨日は暗殺未遂があったそうだが、長期睡眠から目覚めてからは初めてのことだね?」
「……はい」
このタルタスも、狂王位を継承する権利を持っているという点ではパピヨンの敵対者に当たる存在だ。昨日の暗殺者は彼が手配した可能性もあるということは誰もが考える所であり、事実はどうあれ彼自身もそう思われていることは百も承知しているだろう。疑念の渦中の王子は憔然と頷くパピヨンに、
「君の母君が君を長期睡眠にかけたのは、そうした事柄を恐れてのこととは思う。長期睡眠の再施術のために睡眠を解除した際、後継争いに再参加することを望んだのは君だが、命を狙われると実感してもなお、参加を続けるつもりかな」
「それは……!」
グリュクたちの視点からでは彼女の表情は窺えないが、その声だけでもはっきりと逡巡の色が見て取れる。
「無意味に兄弟を殺めようとは思わない。君が継承権を放棄するならば、私の元での安泰を約束するが、どうかな」
「殿下、それは……」
姿勢を前に乗り出す伯を仕草で抑え、第三王子は再び言葉を続けた。
「碌に妖術を使えないと君を評価する者もいるが、身体の魔力線代謝の成長が強烈すぎる故の反作用であることは理解している。私も陰謀家だなどと武門の方々の機嫌を損ねることも多いが、君の将来性も買っているつもりだ。何人か側の者も連れてきて構わないが――」
そう語る彼の視線は、時折パピヨン以外のどこかに焦点を結んでいるようにも思える。それが霊剣なのかどうかまでは分からなかったが、そこで王子は瞼を閉じ、
「いや、性急だったな。だが考えておいてくれ、有力な派閥を押さえている他の兄弟たちに潰されたくないという、君と私の利害は一致しているはずだ」
「……はい……」
少女は小さく背を丸めてうなだれるが、思い出したように背筋を伸ばした。顔が見えれば力の籠もった口元が見えただろう。どういった心境でそれを眺めているものか、タルタスが微笑して話題を変える。
「では、以前から打診を続けてきたが、時計塔について話したい。どうかな」
「……恐れながら殿下、私どもの方針は依然、変わりありません」
「時計塔の管轄の、如何なる形における移動も認めないと」
「はい」
恭しく告げると、銀髪の辺境伯は頭を垂れた。言葉通りに解釈すれば、タルタス王子の目的はフレデリカ教師の言っていた通りに時計塔であるように思える。
だが、霊剣の持つ膨大な経験を共有しているグリュクには――グリゼルダがどうかは分からないが、恐らく同様だろう――、第三王子が時計塔を求める理由は未来予知を行う装置を得ることだけではないようにも感じられていた。老獪な政治家でもあろうこの青年の外見をした長命の男が、時計塔一つを得るためだけの目的でここを訪れているとも考えにくい。
「近頃は随分と熱を上げたつもりだったが、やはり君たちの意思は動かせぬか……」
近頃というのが千年以上を生きるという妖族の王子にとってどのような期間を指すのかは知れないが、彼も随分と未来予知については執心を見せたらしい。当初は一触即発の雰囲気さえ感じて少々緊張していた――霊剣が疑似的に踏んできた場数の記憶の影響でそのように余裕があるのだろう――ものだが、底知れない相手とはいえ力みすぎていたのかも知れない。
「辺境伯をご贔屓くださる殿下に畏敬は尽きませぬが、こればかりは……どうか、どうか」
「話し合いというのが私の主義であり、君たち辺境伯も話せば分かってくれる者たちだと思っていたが……こうして対話ばかりに偏ろうとするのも私の不遜の致す所であった」
それまで動かすことなく両手の指を組み合わせて膝上に置いていた第三王子が、それを開いてやや身を乗り出した。
「ならば、我ら妖族の伝統に則り、戦いによる解決を提案する」
その発言に、特に場がざわめくことも無い。それぞれの王位継承候補者の右に控える書記たちの筆にも、そのような様子は見られない。
グリュクの王国時代の通念に照らせば、交渉がこじれた所で武力行使などという事態は考えがたいことではあったが、寿命の長い妖族たちが話し合いの席を持つと、中々結論が出ないというような事情でもあるのではないかとも思えた。そうした種族の性質の差が、戦闘のことしか頭にない下劣で野蛮な妖族、という啓発教義連合における社会通念を助長しているのかも知れない。
極短い間をおいて、王子が辺境伯に尋ねた。
「どうか? 伯よ」
「無礼は承知、しかし辺境伯領を相手にご勝算はおありでしょうか、殿下」
銀髪の紳士は静かに唸る。彼が代表を務めるグラバジャを含め、辺境伯領は国防の為に成立した統治体であり、押し並べてその戦力は大きい。その代表たる辺境伯も本質は剛胆さや揺るぎなさといったもので出来ている者が多く、彼らは国防を担うというその自負もあって、相手が第三王子であろうと自分たちの力を謙遜することもなく、戦いを挑まれるようなことがあればそれを拒否することもない。
或いは元から相手を快く思っていないということか、伯の言葉は慇懃でありつつ刺々しかった。
「私と君とで兵団を戦わすのも面白そうだが、この場合、わがままを言っているのは私だからな……辺境伯領を悪戯に消耗させるのも、大局を見れば不都合であろう」
「…………?」
「そうだな。君たちの選ぶ最強の代表者三名と、私」
伯に限らず、その言葉に場の殆どが訝る。息継ぎか意図的な間なのか、王子が僅かな時間を置いて言葉を続けた。
「それで戦い、私が勝てたなら時計塔に関する権利の全てを頂く。代価についてはこれまで提案していたものも、そのまま譲渡しよう。君たちが勝てたならば、私が代わって王位継承権を破棄する。互いに忙しい身だ、この方がこれ以上時間も取らず、悪くない話だと思うが――どうかな、パピヨン?」
それまで彼女を差し置いて伯と話していたようなものだったタルタスが、突然義妹へと話を振る。
「わ、私は……その……!?」
「………………」
慌てふためく内心を隠し切れない彼女の様子を観察するような目つきの王子は、手で何かを軽く押し留めるような仕草をして微笑んだ。
「そうだな、幼い君に意地の悪いことを訊いた。伯よ、どうか?」
「…………幾ばくか、お時間を頂きたく」
「そうもいかん。時計塔以外に、そんな物まで見せられてはな」
第三王子がそう呟くと、その姿に罅が走った。まるでガラスのような音を立てて生じたそれは、壁や調度を伝って彼らの目前のフレデリカたちに及び、書記たちにも延び、そして瞬く間に視界全体に広がってグリュクの目に映る世界を網の目状に白く濁らせ、そして破断した。