4.暗殺者は化粧を忘れない
女中と別れ、天井の高い自室のベッドに仰向けに広がる。
パピヨン・ヴェゲナ・ルフレートは、狂王の数多い異母子の一人であり、その出生当時の狂王位継承権は第十二位だった。そのまま争ったのでは後継闘争を勝ち上がれる可能性は低く、彼女の母親の一族は政治的な闘争で他の異母兄弟が脱落してパピヨンの継承権順位が繰り上がるのを待つことを選び、当時グラバジャに在籍していた妖族デオティメスに長期冷凍睡眠の処置を依頼する。パピヨンの入眠こそ成功したものの、こうした日和見的な方針は妖魔領域の武断主義的な気風と一致せず、パピヨンの母は一族もろとも武闘派の攻撃を受けて死亡し、その一族も大きく勢力を減じた。
近年になって状況も落ち着き、グラバジャの地下でパピヨンが冷凍睡眠から覚醒した時、既に三百年近くが経過していた。純粋人や魔女の人生時間に換算して、それは六十年ほどにもなる。
目覚めた時には外界でそのような時間が経過していたとなれば、それまでの知己や友人との関係は断絶したに等しく、母は既にこの世になく、父・狂王は冷凍睡眠で闘争を逃れていた彼女のことなど忘れ去っているかのように無関心だった。そうした茨の海原に等しく変わり果てた現代に目覚めたパピヨンの救いは、グラバジャ辺境伯領の統治者であるアルベルトと、やはり孤独な身の上らしいフレデリカが親代わりになってくれたことだったかも知れない。
それでも時折、隠れて寂しさに耽るようなこともしてしまうのが、彼女には悔しくも、抗いきれなかった。
「!」
嗅覚をくすぐる芳香に、思わず顔を上げる。獣乳の煮える、いい匂い。悲しみが空腹に抗いきれないことに少々の気恥ずかしさを覚えつつも、パピヨンはその出所を辿ってふらふらと立ち上がった。室内には当然ながらそうした香りの源はなく、鏡で目の周りに涙の痕跡が残っていないかどうかも確かめてから、扉を開けて外を確かめた。
そこから少し離れた所に亜麻色の髪の、妖族の女が立っていた。小さな給仕用の台車に小振りな皿を載せている。耳に限っても様々な色形の者がいるので今更驚きはしないが、白い産毛に覆われた大きな木の葉のような耳は印象に残った。
「初めまして、パピヨン殿下。先ほどお姿を見まして……」
「あ、はい……その」
「失礼致しました。先日厨房に入りました、フェーア・ハザクと申します」
城内の勤務者は数も多く、顔も名前も知らない者は多い。まして厨房の新顔となると、伯の執務内容でさえ全ては把握できていないパピヨンには厳しい話だった。
「お腹がお空きなのではと思い、僭越ながら厨房で準備して参りました」
ただ、穏和な表情で湯気の立ち上るスープを勧めてくれる彼女の好意は嬉しかったし、その言う通りに空腹でもある。
「ありがとうございます、フェーア。台車が目立っては良くないので、部屋に入れましょう」
「はい、殿下」
そうして台車ごと彼女を部屋に導き入れ、食事用ではない机に皿を置かせた。香ばしい肉の臭いが鼻をくすぐり、イスに座ると匙を取って皿に手を付ける。
パピヨンは決して弱くありたい訳ではなく、寂しさを我慢する義務があるのだと心得てもいた。仮にも狂王の娘として生まれてしまった以上、生きていたければ最低限の身の守りは知らねばならない。
だが、今はまだ、か弱い少女だ。そんなパピヨンが、背後に控えた料理人が台車から鋭利な包丁を取り出すことなど、気づける筈も無く――そして何か、立て続けに異音が聞こえた。
振り向くと、形相を歪めたフェーア・ハザクが、包丁を握りしめながら羽交い締めにされている。
「……?」
全く事態が飲み込めないが、彼女を後ろから動けないようにしている細い腕は、城へ客としてやってきた霊剣の主ではないのか。亜麻色の髪の妖女が、うめき声を上げた。
「……何故分かったのッ……!?」
「ご愁傷様、この手の狡いやり口は丸々お見通しなのよッ!」
「……!」
黒髪の娘と、殺意の漲る目つきで彼女を振り払おうとする妖女が組み合う姿をごく至近距離に捉えながら、パピヨンはただ怯えた。己がここまで無力なものかと半ば絶望しつつ、それも仕方がないのだという甘美な諦念が腸を緩やかに締め付ける。
見る間に様相が転じ、魔女であるグリゼルダの細い体躯のどこにそのような力があったのか、彼女はフェーアと名乗った妖族を廊下に向かって投げ飛ばし、すかさず後を追った。
そこに届いた聞き慣れた声に、何もかもが弛緩する。
「パピヨンッ!?」
「先生っ……!!」
名を呼び駆け寄ってきた師に、パピヨンはこちらからすがりついた。普段は手厳しい師も、この時ばかりは母を思わせた。
「時計塔の予知のお陰よ、何ともない……!?」
「はい、大丈夫です!」
目にした師の姿に頬を流れる、安堵の熱い液体。戦闘は激しく破壊音を立てながら遠ざかっていった。
逃走しつつ懐から投げつけられる短剣を、常人ならば不可能な速度で以て叩き落とす。調理着姿の白耳の妖女を追って、グリゼルダは舌打ちした。
「(手練……!)」
(油断するな、グリゼルダ!)
「分かってる!」
相手は人通りの少ない経路を選んでおり、城の構造に詳しい者が反逆行為に及んだか、余程綿密に下調べを済ませていたか、どちらかだ。グリゼルダはグラバジャの者ではないが、王女であるパピヨンを殺害しようとする理由のある者ならば、もしかしたら霊剣を狙う存在への道筋を引き出せるかも知れない。そうした可能性を考えると、余波を覚悟で強力な術を使用することも躊躇われた。何とか動きを停めたいが、生半可な術で足止めできる相手ではない。
「重傷を負いたくなければ止まりなさい! これ以上の警告はしないッ!!」
そうと予想はついていたが、渡り廊下に入った暗殺者は疾走を止めない。相手が牽制に短剣を繰り出さなくなったことに気づき――そもそもどこに隠していたのかは気になるが、空間を隔てて物体を呼び寄せる術や魔具もある――、グリゼルダは被害を諦めて大型の爆裂魔弾を準備した。
無論、妖族相手にはその第六の知覚でどのような術を使おうとしているのか、ある程度割れてしまう。大型術の構築に手間取っていると見たのか、亜麻色の髪の妖女が再び短剣を投射する。
「暴風は地平の彼方にッ!!」
フェイント。意図的に爆裂魔弾を失敗し、そこに連鎖させていた対流生起の魔法術が発動して狭い通路を驀進した。妖族の腕力で投げつけられた短剣とはいえ風速毎秒三十メートルに達する暴風に逆らって進むことは出来ず、通路を逆走して妖女をかすめ、そして烈風はそのまま暗殺者を突き当たりの窓まで吹き飛ばした。
「やりすぎた!?」
(いや、わざと廊下を蹴って加速したんだ!)
体勢の崩れた隙を突いて脚を斬り落とすつもりが――断面は術で塞げるので失血死させることはない――、それを利用された形になる。
細い針金で編み目に補強された窓を破砕して城の外へと吹き飛んだ敵を追って、グリゼルダは重力作用転移の術を構築しながら窓の外へと体を丸めて飛び出した。下は広い舗装路とその向こうの外郭城壁だが、このレベルの妖族であればさほど苦もなく突破するだろう。
「見えざる手は我が身を天へ!」
自重を大地に対してほぼゼロまで軽減し、霊剣の主は小さな音を立てて着地、そこを狙って投げつけられた短剣をその刃で弾き飛ばす。
「(逃げられる――!)」
「縫い留めよッ!」
何とか間に合ったその声に応え、不可視の力場が自然界へと出現した。亜麻色の髪の暗殺者は跳躍しようとして果たせずその場に押さえ込まれ、片膝を突いた。
改めて確認するまでもないが、術の行使者は――
「グリュク――!?」
見れば、赤い髪の剣士は亜麻色の髪の妖族の娘を伴っていた。彼の傍らに立つその妖女は特徴的な白い木の葉のような形状の耳を持ち、驚愕に目を見開いている。グリゼルダが追っていた、今はグリュク・カダンの念動力場で舗装路に強力に押さえつけられている妖族と、ここから見る限りは全く同じ外見をしている!
(そういうことか……これは――)
「変化術……!」
グリュクは時計塔の地下の空間で見た限定的な予知像を見て、パピヨンの保護を彼女とフレデリカに任せて勝手に相対座標転移でその場から消えていた。彼の行き先が気になっていたが、どうやら、刺客が変化の妖術で姿を盗んだ相手を探していたらしい。グリゼルダが暗殺者を取り逃がしていたら、グリュクの傍らにいる妖族の娘は王女暗殺未遂の嫌疑をかけられるだけでは済まなかったかも知れない。
ただ、グリゼルダを信じたからこその行動だったのだろうが、そもそもグリュクがこの城に来たのは今日のことだ。あの動像による未来予知を見て即座に本人と接触しようとしたということは、何らかの由縁で知り合い以上の関係にあるということであり、それはつまり――
「(つまりどういう関係なのよ、その女……)」
(不埒者よ、今すぐこの場でその変化を解け!)
「早くしろ……!」
ミルフィストラッセの警告に続き、サリアで見た時からは想像も出来ない怒りの形相で、グリュクが念動力場を強化する。それまでも細かく亀裂が走っていた舗装路に大きなひびが入り、その下の土壌ごと大きく音を立てて陥没する。
「い・や・だ・ネ……!」
圧潰しつつあるようにも見えた刺客は、ひびだらけの擂鉢の底で不敵にそう笑うと何か大きな術を構築した。連鎖させたものなのか、制御中のはずの変化の術が解ける様子は無い。
「まやかしは煙にッ!!」
グリゼルダは構築した魔法術を解放し、破術を行使した。魔法術を解除する魔法術だ。その力が波となって妖女の偽物を襲うと、果たして術は効果を発揮し、それまで維持されていた刺客の妖術が破壊されて音や光と言った別のエネルギーに分解されて放射された。
すると、今までとっていた亜麻色の髪や木の葉型の耳といった形態は大気に解けて流出するように失われてゆき、燃えるような総暖色の顔料を厚く塗った女の姿が現れる。その造作も体型も、グリュクの傍らの娘とは全く異なる。
(あの顔料、魔具の一種か! 一度の使用で、ある程度の時間は行使者が術を維持せずとも外見を変化させたまま行動可能……そのような性能を持つと見た!)
「誰かに濡れ衣を着せるのに打ってつけって訳だ……!」
「お喋りな剣だネ……でもホントの所は教えないヨ!」
構築中の術までもを狙った破術だったが、とっさに構築を破棄され、そのため発動していた魔具の効果を消し去るに留まったようだった。グリゼルダが術を発動した隙を狙って、今度は暖色の暗殺者の術が発動する。
「その速さは見えない……!」
(複合加速まで扱えるか!)
統合身体強化と神経加速を同時に使用し、制御中は音速に迫る速度での運動が可能となる術だ。まして、身体強度において純粋人や魔女に数倍する妖族が使用すれば、その戦闘力は計り知れないものとなる。
「研ぎ済ませ給えッ!!」
グリュクが刺客に対して僅かに遅れて念動力場を解除し同じ術を発動するが、突撃してきた相手に弾き飛ばされて大地と平行に飛んだ。亜麻色の髪の娘が悲鳴を上げ、それを追おうとする。
「グリュクさんっ!?」
(グリゼルダ、あの妖族の娘を連れてここを離れるんだ)
「分かってるわよッ」
レグフレッジが指示を出す。グリュクは空中で猛烈な速度で回転すると――グリゼルダも加速していれば、恐らく空中で器用に体勢を整える彼が見えた筈だ――受け身を取りつつ着地し、すかさず猛烈な速度で舗装を蹴って突撃していった。ぎりぎりのタイミングで、複合加速が間に合ったらしい。
そこからは、亜音速の領域。摩擦力が相対的に弱化し、大気が粘りつくように皮膚を舐め、全ての音が相対速度の変化で急速な乱高下を繰り返す、日常からかけ離れた物理法則の世界だ。乱れ飛ぶ両者の残像は強風を伴い、振りかざされれる霊剣の先端に至っては超音速に達し、通常の時間の中にいるグリゼルダたちにはそれが何とぶつかり合って目まぐるしく火花を散らし、巨大な衝撃音を奏でているのかも判別できない。
グリゼルダも同じ速度帯で加勢することは可能だが、あの亜麻色の髪の妖女を巻き込むこともしたくはなかった。加速した霊剣使いと暗殺者とが複数回斬り結ぶだけで、余波が風となって周囲に吹き荒れるのだ。相手もかなりの技量だ。
「我が歩は全ての先に!」
同様に加速すると、しかしグリゼルダは激しく斬り結ぶグリュクと暗殺者の描く模様を潜り抜け、素早く偽装の被害者である妖女を抱き抱えてその場を離れる。身体強度も増加しているので、人一人とはいえ抱き上げるに苦はない。
「ひぁぁぁ!?」
加速中の術者に平常時を抱き上げられて驚いたか、少々間抜けな悲鳴が上がった。疾走に伴う高速の上下動でかなり心地が悪いだろうが、我慢してもらうしかない。
(よし、このまま誰かに彼女を預けて復帰だ!)
「(分かってるってばッ)」
加速中に喋ると舌を噛むことがある――その上かなりゆっくり喋らないと相手には聞き取れない――ので、グリゼルダは胸中で愚痴りつつ、無言で妖女を戦場から連れ去った。
鋭い短剣が、霊剣の刃を強かに打ち据える。甲高い金属音と共に腕を伝わる振動は、魔法術による強化がなければとっくに筋肉がズタズタに断裂しているであろう強度だ。
グリゼルダの術によって変化の効果は失われたものの、それでも燃え上がるような色の顔料を全身に塗布したこの妖族は、よく見れば殆ど裸身に近いような出で立ちだった。だが、
「(強い!)」
(異様の外見なれど、術を操り武器を繰り出すこの実力、尋常ではない……!)
さすがに身体強化と神経加速を連鎖させて制御している状態では他の術を差し挟んでいる余裕はないのか、敵の手には何かの魔具であるらしい大振りの短剣だけだ。だが、何度霊剣の刃に弾かれようとも一向に破断する様子が無く――火花は出ているので、恐らく極小さな傷を付けることは出来ているだろうが――、少なくとも霊剣に大きく劣らない強度があると分かる。
既にグリュクの体にはそこかしこにその短剣による切り傷が刻まれており、にじみ出た血液が飛沫となって粘りつく大気に小さな赤い球をこぼした。毒などが塗ってあるのかも知れないが、それが分かるのは加速を解除した後のことだ。
(変化の顔料に加えてこの短剣、一介の妖族が持ち合わせるにしては強力すぎる! パピヨン王女を刺殺しようとしたことを勘案してもやはり……)
「(それを命令した後援者、しかもこのレベルの魔具をぽんぽん準備できる相手がいるってことか……)」
その情報を聞き出したければ、殺さずに無力化しなければならない。捕らえた所で自殺される可能性もあったが、行動不能にして至近距離から催眠電場でも当ててやれば、あとはグラバジャの人々が処置に当たってくれるだろう。
ただ、この短時間に何度も、刺客はグリュクと距離を作って逃走しようとした。神経の限界が迫りつつある中ではそうさせないようにするのが精一杯だったが、精神まで加速しているせいでそれが非常に長く感じられてもいた。通常時間では一分と経過していないだろうが、加速した暗殺者を逃がさないためにはグリュクが単独で相手を無力化しなければならないのかも知れない。無論、逃がす気は無かったが。
はやる気持ちに全身を徐々に浸食する痛みも忘れ、グリュクは何事かを叫んで霊剣を振るった。それは、自分が救った娘を再度陥れようとした相手に対する、いわば身勝手な独善から来る怒りだ。だが、それを両脚に込めさえして、霊剣の主は更に加速する。
くまなく顔料の塗られた脚による高速の回し蹴りが側頭を直撃する直前に腕で防ぎ、その引き脚を逃さず掴んで上空へと放り投げようとすると、天地が逆さまになった相手の上半身がしなって両手に把持した短剣魔具を腹へと突き立てようとしてくる。その超音速の刺突を、霊剣の主が振るう刃は見事に弾き飛ばし、脚を掴んだ手も離すと、相手を束の間、四肢の一つとして大地に触れない状態を作り出すことに成功した。
(ダメ押し也ッ!)
そこへ更に下方から渾身の蹴りを浴びせる。それ自体は両腕で防がれたが、更に相手を高い位置に蹴り上げ、加速を解除しなければ完全に無防備な状態に追い込む。
複合加速は精神と肉体を加速させるが、大地からの重力によって起きる働き、つまり自由落下の速度までは早めてくれないので、迂闊に大きく跳躍してしまうと空中に長時間滞空してしまい、これが相手に対して格好の標的になる。複合加速の妖術を使用して加速している限り、別の妖術を発動して対処することは出来ない。
そこを狙い、霊剣の主は複合加速を解除して次の術を構築した。
グリュクのいる世界が通常の速度帯に復帰し、自分以外のすべてが高速化したような錯覚も刹那、呪文を発して魔法術を解放する!
「劈けェェッ!!!」
剣士から天へと延びた稲妻が、空中に跳ね上げられた妖族の体を貫いて輝いた。青白い閃光と轟音が城を揺らし、その余韻も冷めないうちに、電圧で全身の体毛が逆立ち広がった暗殺者がべしと音を立てて落着した。さすが妖族と言うべきか、電流火花をパチパチとまといつつも生きている。
その有様を見届けて、グリュクは全身の激痛に悶えつつ、ゆっくりと膝を折った。
目を覚ますと、そこは柔らかく、暖かかった。ただ、体のそこかしこがじんじんと鈍く唸っている。周囲は無音ではなく、遠くからの人の声や足音が近寄ってきては遠ざかってゆくのが聞き取れた。音からして、床の材質はよくあるリノリウムらしい。目を開けて数秒瞬くと、そこがどうやら幕で囲まれた薄暗い病室らしいということが分かる。
(現在凡そ午後二時)
「あぁ……」
霊剣が時刻を伝えて来ると、グラバジャの城のすぐ外で暗殺者と剣を交えたことを思い出した。体を起こすと、その時出来ていたはずの傷口がすっかり無くなっている。誰が術で縫合してくれたのか、かなり丁寧な処置だ。視界の左の調度に立て掛けられた霊剣が、呼びかけてくるのに気づく。
やってくる足音は、また通り過ぎるのかと思えば病室へと入ってきた。カーテンの足下から覗く靴には、見覚えがあった。
「あれ、起きてたんだ」
「グリゼルダ……?」
カーテンをやんわりと払って現れた黒髪の少女は、手に水差しを持っていた。どうやら汲んできてくれたらしく、そういえば口の中が潤っている。覚醒しきらない頭で何を言ったものか思いつけずにいると、彼女は水差しを、コップの載った傍らの台に置きながら告げた。
その表情はグリュクの勝手な妄想の産物か、彼の回復を喜んでくれているようにも見える。
「傷口は縫合しといたから。残ってないよね?」
「あぁ……ありがとう」
「サリアの時ほど深いのは一つもなかったけどね。あ、あいつの持ってた短剣、やっぱりちょっとまずい毒があったけど、ちゃんとそっちも処置したから心配しないで」
そう言うと、グリゼルダはコップを小さく掲げる。水を飲むかどうかを聞いているらしい。
「ありがとう。飲む」
水差しから水を注ぐ彼女の指や掌は、グリュクの記憶にある同年代の少女たちと比べればやや太く、皮が少々厚くなっていた。その小ぎれいな身なりとはややちぐはぐな印象を与えたが、それは目の前の少女がグリュクよりも霊剣の主として、相棒を握ってから長く生きていることを意味するのだろう。
こぽこぽと水が満たされて行き、グリュクはそのかさの増える様を何となく見つめていたが、気がかりを一つ口にした。
「彼女は? ええと……」
「……あの白い耳の人?」
「そう」
「厨房に戻ってるわ。一応、魔具で容姿を盗まれて暗殺の濡れ衣を着せられかかってたってことは説明しといたけど」
「そうか……ありがとう」
その答えにコップから水差しの口が離れ、そこから水滴が飛び散って台上の飾り布に粗雑な点々を描くと、水差しを置いたグリゼルダが僅かに表情を変えた。
「どういう関係なの」
「え……」
「あのフェーアって人のこと!」
「別にそういうことを訊かれるような関係じゃ……ただ、彼女が犯人じゃないことは見てくれてただろ? 下手人が捕まった以上大丈夫だとは思うけど、念のために何かあった時は無罪だって証言して欲しいんだ」
「そうまで世話を焼くのはどういう関係だからなのか、って聞いてんのよ……」
「え、いや……それは」
機嫌を損ねたように唸る少女に説明しようとしつつも、彼はその詰問の意味が分からない白痴ではなく、目の前の少女の感情の機微を推察出来ないほどに他者に対して無関心な性格でもなかった。だが、
(そこまで)
霊剣たちの介入によって、火の粉は燃え上がることなく消えた。
(グリゼルダ。彼の容態に心配がなければ、会談に出てもらうために来たんだろう)
(今はもう少し、深刻な話をすべき時節なり)
「……分かってるってば」
「その……話し合いって?」
眉根を寄せて立ち上がるグリゼルダの機嫌を取るわけではないが、そう声をかける。
「あたしたちが防いだ王女の暗殺未遂、当然だけどあれで伯が警戒してるのは分かるよね。しかも明日は姫の義兄が重要な会談に来ることになってるんだけど、どっちの側も延期する気はないみたいだから……多分あたしたちにも何かやれってことを言いたいんだと思う。順当に、護衛かな」
グラバジャ側であろうとその義兄の側であろうと、暗殺未遂程度で尻込みをして日程を変更したとなれば、そうした考え方を劣っていると見なす妖魔領域にあっては色々と不都合も多い筈だ。
何も起きなければ、彼らはただの客として霊剣の友人だという時計塔――やや複雑ではあるが、正確を期せば「霊剣の元人格である魔女ビーク、その盟友デオティメスが己の人格を複写した時計塔」の話を聞いて目的は達成できた所だっただろう。だが、明日には重要人物との会談という時に暗殺未遂まで起きては、時計塔は会談の前途の予測に使用され、とてもグリュクとミルフィストラッセがその中の人格に会って話をする隙はないだろう。
伯がそんな彼らに用があるとして、まさか希望通りに時計塔に会わせてくれるなどといった都合の良い内容ではない筈だ。
「…………」
(要人を守るのは霊剣とその主の使命ではない……だが、暗殺などという賎陋の手段を撲滅するのは全く以て吾らの目的に適っている)
(同感だ。殺意には然るべき防御と報復を)
「まー、報酬ふっかけて恩を売るチャンスって考えればいいのよね」
(…………まぁ、無償でという訳にも行かないからね)
自説に一人納得するグリゼルダはともかく、グリュクとしては、グラバジャの妖族たちに会話が聞かれていないことを祈るばかりだ。