2.妖女の記憶
ヴェゼ・グラバジャ駅に到着するまでに、フェーアを都合三度起こした。彼女が魘されている原因はおおよそ察しがついたが、さすがに三夜、さして気を許してもいないはずの男に扉越しとはいえ叩き起こされれば気分も悪くしてしまうのだろう。
自己完結的にそのような結論に至りながらも、それでも起こさなければならないと決意する程度には、苦痛を伴う呻きだった。その彼女が不慣れな改札で切符を駅員に渡す所を見届け、グリュクは再び荷物を持ちあげて改札を抜けたフェーアに歩み寄る。
彼女は視線を逸らしつつ、拗ねるような調子で先制してきた。
「大丈夫です、もう心配いりませんから」
「……まだ何も言ってませんよ」
「…………忘れてください……」
適当に食事処を見つけて、あらかじめ換金しておいた妖魔領域の通貨で先払いを済ませて席に就いた。やや気まずい時間を経て、食事が運ばれてくる。
匙を手に取るより前に、フェーアが訊ねて来た。
「……何で、ここまでしてくださるんですか」
「…………あなたの今の身の上には、俺の責任もあると思うからです」
匙を取り、あまり食欲をそそらない、作り置きを申し訳程度に温め直したようなスープの中身を掻き混ぜながら、そう彼女に告げる。
「……ここの代金だって……」
「どうしても気になるようでしたら、お仕事を見つけて、お代はそれから頂きますから……」
「はい…………」
さしもの霊剣も空気を呼んで沈黙するほどに気まずくなった雰囲気のまま食事を終え、彼女の視線と共に声の張りが見る見る落ちてゆく有様を危惧しつつ、駅舎の都市側を進んだ。地図によれば、現地点は目的地である妖族の都市グラバジャの、西側に位置する。
見渡せば活気も人通りもあり、なかなか幅の広い通りの両側には店舗や歩行者が、中央の方はやたらに鼻の長い巨体の動物に跨った者や、何かの宣伝なのか四羽もの大型走鳥に曳かせた車に数人の小さな楽隊を乗せたものが、徒歩と変わらない程度の速度で進んでいった。
通りを行き交うそうした人々が、かなりの割合で人間や魔女と異なる外見的な特徴を持ち合わせていることが、グリュクたちが妖魔領域に本格的に足を踏み入れたことを如実に示している。角、牙、耳、体毛……妖魔の領域などという人間や魔女による呼び方からはおどろおどろしい奇怪な異世界といったものを連想しがちだが、実際には植生が黄色を帯びる傾向が強いだけで、こうした市街の喧噪と空の色は何一つ変わる所がない。この雰囲気が、少しはフェーアに感染してくれればよいのだが。
「……あれ、フェーアさん……?」
いない。少し後ろにいたはずの彼女が、いつの間にか姿を消していた。雑踏の中で、魔女の知覚はあまり機能しない。
(……いたぞ、七時方向二十メートル)
霊剣が指し示す方向には、少々いかがわしい雰囲気の妖族の男――何故か鼻を負傷しており、そこに止血布が当てられていた――に話しかけられて少し困惑気味の表情をしているフェーアがいた。
「働き口は欲しいんですけど……」
「大丈夫大丈夫、まずはお客さんにお酌するだけでいいから――」
「ちょっとちょっとッ!?」
全力で行き交う人をすり抜け、思わず大きな声を出して彼女に駆け寄った。そのまま事態があまり飲み込めていないらしいフェーアを隠すように引き離し、男の悪態を聞きながらも急いでその場を離れる。何とか直接の言及を避けながらも説明すると、フェーアもおおよそは理解してくれたようだった。
「話だけでも聞こうかと……」
「その、そういう所で働きたいってことなら別ですけど、何て言うか……」
「私がそういう所で働くの、嫌なんですか?」
「そ、それは…………」
図星を突かれ、言葉を濁すしかなかった。少なくとも、彼女をそのような職に就かせるためにここまで案内したつもりではないのは確かだが、そうした認識を口にするのは憚られた。偽善めいたようだが確かに本音ではあり、そうでなければああまで焦りはしない。
前途の難を感じつつも、しばらくは彼女を連れて、住み込みで働けるような募集がないかと別の通りを歩いた。良好な話が急にまとまるようなこともなく、このままならそろそろ宿も取っておかなければならない時間だ。だがそこで目を引いたのが、妖族なので外見から正確な実年齢は伺い知れないが、外見から無理矢理に当てはめれば二十代といった所の数人の妖族の若者が、声を張り上げている催しらしきものだ。
彼らの中心には一人の妖族が腕組みをしつつ佇んでおり――これまた年齢は知れないが、人間や魔女で言えば三十代といったところか――、彼の背後の幾つもの空き樽には、これまた幾つもの剣が立てられていた。その数十の拵えは、長さも細かな形状も様々だ。
「さあ、如何に、如何に! この剣豪シギルス氏に挑もうという剛の者はおられぬか! 異剣の持ち主ならばなお歓迎、氏に勝てた強者には、こちらの異剣のお好きな一振りをご進呈致す次第ィ!」
一人の述べ立てる口上を聞くに、特殊な剣を目的とした――剣以外の種別に分類されそうな武器が無い理由は推し量りかねた――賭け試合のようなものをやっているらしい。
妖族はその好戦的な文化と呼ぶべきか、武力を至上とする気風が強く、例え頭脳知力を求められる職であろうといわゆる腕節の強さや武芸の覚えといったものがなければ上の立場には就けない傾向が強い。彼のやや後ろに立つフェーアも妖族ではあるが、そうした様子はあまり感じさせないのは地域や個人の差に由来するものか。
「ただし、氏が勝てばお持ちの剣を頂戴、さぁ如何に! 剣を持つ男ならばこの勝負、血が騒がずにはおれぬ筈! 剣をお持ちのそこな人! 互いの剣を賭けての手合わせ、如何かなッ?」
見物をやるにしても、まずはフェーアの落ち着き先を探すべきだろう。なおも呼びかけを続ける男たちの所行に興味は持ちつつもそこを通り過ぎようとすると、彼女がグリュクの肩をつついた。
「あの、グリュクさんを呼んでるみたいですよ、あの人たち」
「やっと止まってくれた、そこな人ッ!」
何度も呼びかけていたらしい妖族の青年は嬉しそうにそう言うと、聞きもしない詳細をまくし立ててきた。
「よろしければ、シギルス氏とお手合わせなど如何かな、その剣でも構いませんが、お望みとあらば竹剣・木剣なども貸しておりまして!」
「いえ、急いでますので」
「そう言わず、お腰の剣が勿体無い!」
ミルフィストラッセが彼らの言う「異剣」に相当しそうな存在であることが、知れているのか。やや強引に振り払おうと、フェーアの手を取って――馴々しく思われようと、この際構ってはいられない――人の流れに紛れ込もうとすると、そこに先ほどまで佇んでいた彼らの中心格らしい妖族の男がやってきた。
「そいつは飾りじゃないだろ、兄さんよ」
頭髪は無造作に伸び放題になっており、髭も手入れを欠かさないといった様子ではない。その野生味とも取れる印象は簡素な服装と相まって、いかにも在野の強豪という雰囲気を醸し出していた。術は未知数として、剣を使わせればかなりの使い手なのかも知れない。
グリュクにも、霊剣に蓄えられて着実に彼自身の力になりつつある、過去の剣士たちの技術の記憶があった。彼自身のものではなく、しかし彼自身でもある膨大な戦いの経験が、グリュク・カダンの体を通してこの妖族の剣士の目に映ったのだろう。
「いや、飾りみたいなもんです」
「そんなに手合わせが嫌かい、何も死ぬまでやる訳じゃねえが」
「………………」
なるべく興味を失ってもらえるように答えるが、相手は引かない。ここで強硬に、頑として手合わせを断ったとして、男はグリュクを罵って次の手合わせ相手を探すか、霊剣の値打ちを隠していると感じて食い下がってくるか。
「……あの、私はどうすれば……」
一人だけならば足で走るにせよ魔法術で飛ぶにせよ、妖族の剣士の無益な誘いから逃げるのは難しくない筈だ。だが、彼女がいるからこのような厄介ごとから逃げられないのだ、などと言い訳をするようなことも、したくないと考えるようになっていた。彼女を連れて、この場を切り抜けるには――グリュクの視線が、多数の剣を立てた樽へと向かう。
「そうだよ、お連れサンはいいのかい? カレシがこんな弱腰でよ」
「え、いえ、私はその……」
言葉に詰まるフェーアを見てグリュクが口を開く前に、彼女が高速で妖術を構築する様が、グリュクの魔女としての知覚に閃くようにして感じられた。
「それは不可視の手っ!」
半ば悲鳴じみた呪文が響くと、樽の中に立てられていた剣たちが、まさに弾かれて一斉に空中へと飛び上がった! フェーアが念動力場の妖術を行使したのだ。まとめて地上から数メートル程度の高さに散らばったそれらはすぐに落下し、散らばる。
多数の通行人で溢れる路上に向かって。
「うぉっ! もーらいっ!!」
「拾った物は俺の物ッ!!」
「こ、こら、お前らーッ!?」
「止せッ! 誰が集めたと思ってやがる!?」
「うるせーッ!」
飛び交う罵声、舞う土埃。賑わう通りは、あっという間に乱闘騒ぎの広がる場となってしまった。散らばった剣は恐らくどれもがそれなりの値打ち物である筈で、それがこうして散らばってしまえばこうもなろう。呼び込みをしていた男たちが必死になって魔具剣を取り返そうとしているが、人数と執念の点で圧倒的に分が悪かった。
「今のうちに離れましょう」
「は、はい」
そして、フェーアを促して通りを先へと進む。何度か曲がって通りを移りながら、彼女に語りかけた。
「……さっきの構築、凄かったですよ」
「え……」
(エルメール・ハザクの怨念は崩壊しても、脳に刻まれた妖術行使の経験と技術は残存しているということなのだろう。御辺の先ほどの手際、誇って構わぬ域にある)
「誇る……なんて……」
フェーアの構築した念動力場は、術技的には彼女を素人だと思っていたグリュクたちを驚かせたといっていい。
霊剣の言葉を信じるならば、フェーア・ハザクは熟練の使い手であった大叔母の怨念に体を奪われて術を行使していたことで、その技術、呼吸を多少なりとも継承したということになる。霊剣に体を貸して術を行使することで短期間に多数の魔法術を習得したグリュクと、似たような現象が起こっているのだ。血縁者同士の相性が習得を効率化したということも、あるかも知れない。
(いや、良い手際と機転であった。礼を言うぞ、フェーア・ハザク。吾が主では発動を見抜かれて効果が低かったかも知れぬ)
「いえ、そんな……」
グリュクも霊剣の持つ経験からこうした搦め手であの場を逃れることは考えていたが、実行するのは彼女の方が早かったという訳だ。
「? グリュクさん?」
彼が唐突に立ち止まったので、後ろからフェーアが疑問を発する。脇道の無い細い路地、彼らの進路上、そこを塞いで先ほどの妖族の剣士――シギルスと呼ばれていたか――が立ちはだかっていた。やや日も傾きかけてきた小路に佇むその姿は、多少は絵になっていたかも知れない。
「……面白ぇ真似してくれたじゃねえか、カノジョ」
当然、あの魔具剣らは一朝一夕で集めたものではないのだろう。強引に勝負をさせて巻き上げたものも多いはずだが、ここまで彼らを追いかけて先回りまでしたらしい剣士の様子を見るに、回収できた物はそう多くは無いようだ。
(御辺では吾らには勝てぬ。退くが良い)
「てめぇ、人格剣か……!」
剣士の目の色が、明らかに変わる。こうなったらお前だけでも頂く、とでも言うように、彼は一方的に剣を抜いた。それも恐らくは魔具剣なのか、刃が水に沈めたように揺らいで見える。
そして彼、シギルスが裂帛の気合と共に斬りかかって来る。妖族の脚力による踏み込みは力強く、妖族の膂力による斬撃は恐ろしく速い。巻き添えを受けないようにフェーアを横に突き飛ばすと、霊剣を抜く余裕は残らなかった。
だが素早く姿勢を下げ、下方から腹部へと全身の発条を使った掌底を強烈に叩きつけられた剣士は、それを放ったグリュクを飛び越えるようにして再び路面に転がった。尋常な人間であれば臓器の破裂で死亡するほどの威力だったが、手加減をしては妖族である彼を無力化することなど出来なかっただろう。彼自身の経験ではないその技術を使うことに気後れることも無くはなかったが、こうした状況ならば躊躇など無い。
そしてむせることも出来ずに腹を押さえてのたうつ彼を、うつ伏せに組み敷いた。ちらと横を見るとフェーアには尻餅をつかせてしまっていたが、彼女を守ろうとしたこちらの意図は伝わったようだった。
(主よ、この際、彼らが魔具剣を集めていた理由を聞き出すのだ。こやつ、吾人の声を聞いて明らかに目の色を変えおった)
「あぁ……! 何で剣を欲しがる。そんなに値打ち物に見えるか、こいつが」
(……何故そう引っかかる言い方をする)
「…………!」
妖族の剣士は、黙って歯を剥き出してこちらを睨もうとしているままだ。グリュク本人は尋問などと言う行為に馴染みがあった訳ではないのだが、三十余名もの過去の所持者の記憶があれば、その中にはそれらしきも「覚え」もある。
無言を貫く心境も分からないでもないが、グリュクは腹への痛打に呻く妖族の剣士の両足を手に取り複雑な形状に絡ませて体重をかけた。二人の体勢が奇怪な輪郭となって、歪んだ路面の舗装に影を落とす。
「うォあ痛でッ、うッ、ア、アァッ!?」
「本当の所を喋れば解くよ」
霊剣の金色の粒子を使えば話は早いが、グリュクと霊剣の記憶も相手に知れてしまう。なおも体重をかけると、相手の関節の靱帯が僅かに変形する嫌な手応えが伝わってきた。やはり妖族でなければ、既に膝関節が破断しているだろう。
「関節の怪我は術じゃ簡単に直せないよ」
「ぅ分かったッ、言う、言うッ!?」
「早く」
「ぐゃ……ね、値上がりしてるんだよッ、人格剣がッ! 実在するのかは知らねぇが、もし隕石霊峰の結晶で出来た奴なら、純貨で一億ッ……」
「そこまで高値で買うのは誰?」
「お、王族とか偉い連中だよッ、妖魔領域の各地で奴らの代行が窓口をやってる! 俺らは何日か前に人格剣を持った女がここに来たって情報を聞いて……!」
(――ああして人通りの多い場所で賭け試合を装い、人格剣狩りに励んでいたという事だな)
「もういいだろッ……オィッ!?」
「……このグラバジャ辺境伯も、その人格剣狩りに加担してるのか?」
聞けば真実が分かる訳でもないだろうが、念の為に懸念事項を問う。
「だぁッ、畜生がッ……そのくらいテメェでッ……し、知らねぇんだって、そもそもそんなこと明かして触れを出すバカがいるかよッ!?」
「……それもそうか。ありがとう」
手を離して妖族の剣士を解放すると、彼は何とか立ち上がり、よろめきながら通りの角に消えていった。やや驚いたようではあったが、――剣士に怪我をさせた訳ではないのだが、やはり尋問などという好意は悪印象を与えたかも知れない――既に立ち上がっていたフェーアが呟く。
「……要するに、ミルフィストラッセさんの株が高騰してるということで良いんでしょうか?」
(うむ……率直に申せば、戸惑うなり)
彼の腰の鞘に納まったこの饒舌な剣が、本当に隕石霊峰の結晶とやらで出来ているのかどうかは分からないが、グリュクは曖昧に頷くと、彼女を伴って歩き出した。とんだ時間の無駄になってしまったが、彼らはフェーアの落ち着く先を探しているのだ。
やや日が高いが、宿を探してそれらしき一帯を歩きつつ、グリュクは自問する。
「……あの剣士、人格剣を持った女って、言ってたよな……」
(おそらく、裁きの名を持つ霊剣とその主であろう。全くの見当違いという可能性もあるが、彼女たちの存在を知った吾らが吾人の生地であるグラバジャへ向かおうとすることを想定し、再び吾人を手に入れようとしているとしても不自然なことはない)
或いは、今度は実力で奪取しようと考えているのか、最悪の場合は霊剣の所持者同士で霊剣の刃を交える事態も覚悟しておかなければならないのかも知れない。
もし妖族の剣士が言ったように妖魔領域の全体でそれ狙う風潮が実在し、更にそれと彼女が関係しているのであれば、その故郷で改めて、ミルフィストラッセ以外も含めた霊剣の素性を確認するべきなのだが。元々そのためにグラバジャに来たのではある。
(こうなれば、職探しのことはひとまず保留させて貰うべきなり。城に向赴き、吾人を打ち出した魔女との盟友であった妖族と接触して当時のことを聞き出すのだ。仮にも吾人の故郷グラバジャ、人格剣狩りに加担しているということもあるまい)
「……出来れば確証が欲しいけど……訊きまわっても埒が明かないだろうしな。城に働き口があれば、ついでに聞けるかな」
「それはいいんですけど……」
意気込む霊剣とその主に、フェーアが疑問を告げる。
「あなたは七百年前に作られたんでしょう? 当時の友人の妖族と接触ってことは……いくら妖族の寿命が人間や魔女より長いといっても、七百年生きるのは難しいのでは」
人間や魔女の五倍ほどある妖族の生理的な寿命についての計数感覚は、元人間の魔女であるグリュクには分かりにくかったが、妖族の年齢はおおよそ五分の一を掛けることで人間や魔女のそれに近いというから、フェーアの言は人間に例えれば「百四十年前の人物が生きているとは考えにくい」といった感覚に相当するか。
(……奴が吾人に、いや吾人の元人格に語った通りに事を進めているなら、奴に接触することは可能なり。詳しくは直接見た方が早かろう)
「……フェーアさんは、それで構いませんか」
「えぇと……私もグラバジャのお城に?」
(無理強いするつもりはないが、そうして貰えるとありがたい)
「そういうことでしたら……」
何を言うにも遠慮がちな彼女の今後に不安は尽きないが、グリュクは行く先を巨大な時計塔の聳え立つ城へと定めた。