5.霊剣の求め
現れたのは、刃を下に、鎖によって岩盤から吊るされた一振りの剣だった。
懐中電灯で照らすと、柄に二つ、意匠と思われる穴が開いており、それにやや細い鎖が通っている。
鎖は古いものなのか、所々表面が腐蝕していたが、剣にはそうした様子が全く無い。
「…………?」
三歩ほど後ずさり、全体を照らし出す。
無根拠極まることだが、脳裏に浮かぶ声の主がこの錆びかけた剣であることが、はっきりと分かった。
(意思の名の下に、吾が銘を示そう)
「…………!!?」
距離はそのまま、電灯のカバーを持ち上げ、鎖で吊られた剣を凝視する。
理由も分からないのは不本意だが、彼に語りかけているのはこの剣であるのは間違いない。伝承に聞く、意思ある剣というものだろうか。思索にかまわず、それは語りかけてきた。
(吾が銘、ミルフィストラッセ)
「……………………」
剣が声も使わず語りかけてくるという、極めて客観性に乏しい事態にただただ驚愕していると、剣は先を促してきた。
(……? 御辺の名を聞かせてくれ)
「あ、ああ。……グリュク……カダン」
随分と古風な二人称だ。
思わず口に出して名乗ったが、剣はこちらの心境などは読み取れないのか――もしくは知りつつ無視しているか――、淡々と先を繋げた。
(よろしく、グリュク・カダン。
早速だが、御辺は今、危機にあるな。
奴の名はアヴァリリウス。妖魔世界の奥地に生息する巨大恐蜴だ)
「……!」
一瞬、思わず自失する。
剣は不気味にさえずるどころか、彼らを襲った妖獣の名を特定してみせた。被りを振って、それに応じる。
「……名前はともかく、妖獣だなんてのは見れば分かるだろ。何で国境から離れたこんなところにいるんだよ、そんなのが」
(恐らく、先の戦いで前線に連れてこられた個体が、何らかの事情でそのまま近辺で仮死状態となり、連れ帰られることなく今まで休眠していたのだろう。
そして、御辺は与り知らぬであろうが、奴は動物の神経の働きを阻害する気体を分泌腺から放出する生態を持つ。
御辺の国では神経ガスとでも呼ぶものだ。
妖魔領域ならばともかく、こちらの生態系でそんな代物に生身で対抗できる陸生動物は有り得ぬ)
神経ガスについては、魔女や妖魔を速やかに「倒し」、味方の安全を高める新兵器という売り文句で王国が盛んに広報を行っていることで良く知られていた。
ただし、実態については機密が多く、どのようなものかを知る者は少ない。
そんな兵器を身一つで生み出す怪物が実在するという言葉に、グリュクはただ戦慄した。
「……それがサージャンたちを殺したってのか……!」
厳密に言えばサージャンはその死を確認した訳ではないが、とてもではないが確かめに行く自信はなかった。
数日とはいえ行動を共にしていてそれなりに親しみも覚えていた者たちを襲った理不尽に、呻く。
神経をやられたのでは、今際の際に何も分からなかっただろう。
アヴァリリウスという妖獣にとっては、仮死から目覚めた空腹を満たすための当然の行動だったのだろうが、グリュクの胸中からはそのような取り澄ました視点は跡形もなく消えていた。
悔恨と怒り、無力感が、生き残ったという安堵を塗りつぶしてゆく。
(早速ではあるが、吾人の望みを聞き入れてはくれぬか?
その代わり、御辺の望みを聞こう……といっても、この状況では吾人が脅迫しているも同じではあるが)
「…………?」
沈黙を肯定ととったか、剣は続けた。
(御辺には、吾人の主となるべき異能の才がある。
吾人を帯びて、共に使命を果たしてもらいたい)
「………………使命?」
(いかにも。時を越え、心と心を繋ぎ、牙なき者の牙となる使命)
異能の才とやらには触れず、ただ単語を反芻しただけのグリュクに、剣は律儀に説明してきた。もっとも、その言葉は今一つ要領を得ないが。
(まぁ、平たく言ってしまえば人助けであるな)
「こっちが助けて欲しいくらいだよ……」
(既に一度助けた。吾人の声は御辺のような者にしか届かぬゆえ、他の者たちは救えなかったが……
探せば御辺のほかにも生き延びた者が居るやも知れぬ、まずはそれを救うのだ)
剣は滔々とそう告げた。
どう反応すべきか分からないでいると、もはや耳に慣れてしまいつつある地響きが再開された。何が終わったのかは嫌でも分かる。
「……まだあいつが下にいる。まさかお前が飛んでいってあいつを斬り殺してくれるって訳でもないだろう」
(そのようなことはできぬ。吾人は常に才ある剣士と共になければ、力を出すことが叶わぬ故)
「待ってればあいつがどこかへ行ってくれる保証もないからな……」
剣に呼ばれ、死を免れ、こうして邂逅を果たしたこと。これが夢で無い保証など何一つ無かったが、グリュクは立ち上がり、剣に近寄って柄を握った。
握る右掌に小さな痛みが走ったが、木の葉で切ったらしい。
痛いといえば全身がそうだ。夢ではないという傍証くらいには数えてもいいかも知れなかった。
そのまま持ち上げて鎖をどうすべきかということに思い当たると、剣の周囲の大気が炙られたように揺らぎ、剣を岩にくくりつけていた鎖が塵となって音も無く落ちる。
グリュクは、刃を上に剣をかざし、半ば破れかぶれに呟いた。
「どうにかできるなら教えてもらおうか、ミルフィストラッセ」
ミルフィストラッセの説明によれば、魔女がその力を発揮するために、普通の人間――王国の定義するところの人類種――とどこが異なっているのかというと、それが「変換小体」と呼ばれる細胞小器官の有無なのだという。
全身の細胞に散在する変換小体が空間に存在している魔力の「線」に反応し、変換小体を内包する神経細胞によって増幅された魔力が可視領域にエネルギーを呼び出す。
魔女たちはこれを魔法術と呼ぶそうだ。
装甲艦であろうと爆沈し、超音速の飛行爆弾さえも防ぐその威力を、グリュクも街頭で流れる戦場からの映像放送で見たことがある。
そして剣によれば、魔女の血を引くグリュクにはそれを扱う資質があるらしい。
成人するまで審問検査を免れたのは、王国の検査は血液検査で変換小体特有の蛋白質を試薬の反応の有無で検出する方式をとっており、何らかの原因で血中の変換小体が消失しているグリュクのサンプルは通過できたのだろうという。
剣の発する声を聞くことができたのは、神経細胞の中で少数残存できていた小体が作用したためであり、本来は神経だけでなく、身体細胞のほぼ全てに変換小体が存在する。
変換小体の活性を神経細胞以外でも維持することが出来れば、グリュクも魔女としての完全な能力を取り戻す。あくまで剣の言ではあるが、グリュクはそう理解した。
この場合、全身の変換小体を活性化する方法は分からないが、剣がその代わりを果たすことでグリュクは一応、二十二歳にして初めて魔女として存在を開始することになる。
何の武器も持たない彼が生きて確実にこの場を脱出するには、それしかないだろう。
(此度は、御辺はただ吾人を握っておればよい。新たな主に対して申し訳ない限りだが、指示と魔力は吾人が提供いたす)
「わかった」
剣の周囲の大気が再び揺らぎ、グリュクの体にその芯から温まるような、力がみなぎる感覚が訪れた。
心臓、指先、脳、顔面……体の全神経を魔力が駆け巡っているのだ。
魔女も、このように力強い感覚を得て力を振るっているのだろうか。
剣がぼんやりと光り、周囲を照らした。
(よし、まずは奴の居場所を特定する。御辺、五感を合わせて研ぎ澄ませ。酔うなよ)
剣が告げるなり、グリュクが今までに体験したどの感覚とも違う、異様な光景が脳裏に飛来した。正確には光景だけではなく、よく分からない音や臭いまでが同時に感じられた。
新しい感覚に思わず狼狽し、今日一日だけで本当に生まれなおした気分を味わう。人が皆泣きながら生まれてくる理由があるのだとしたら、これがそうなのだろう。
「うぁ、あぁぁぁぁぁぁぁ……」
(落ち着け主よ。御辺は今までに無い感覚の窓口を開かれて混乱しているに過ぎぬ。それは第六の感覚!
魔力線に反応した魔女の神経が、直接知覚している領域だ!)
「んなこと、言われてもッ……!?」
(奴は恐らく、久方ぶりの食事で満ち足りている。そのような心を探すのだ!
どのような生物であろうと、肉体を持つならば快・不快を感じる部分も共に持ち合わせている!)
「…………!」
時間にして何分が過ぎたか、それとも数秒か。
剣の示唆を受けて新たな感覚に徐々に慣れてくると、明暗に例えられそうな違いを感じ分けられるようになってきた。
直感的には視界がぼやけて明暗の差が大きく、彩りが極端になった印象だ。
そしてその中に、柔らかく光る大きな場所を見出すことが出来た。
純粋な快、不快を目で観るように感じ取れるということだろうか。
目を開けてみると、目と耳で視界と音を同時に感じ取るように、視界に視覚とは異なる感覚が重なって感じられることも分かった。
「これが、魔女の感覚っていうものか……?」
(いかにも。ただし、万能などではない。離れれば他の五感同様感じ取りにくくなり、然るべき方法で欺くことも出来る)
「……ああ」
懐中電灯で足元を照らしながら斜面を登りおえた地点まで来ると、改めて第六の感覚に身を浸した。
大きな快の感覚――妖獣アヴァリリウス――が、斜面の淵から五百メートルほど離れた森の中で休んでいる。
元来夜行性なのだろうか、新しい感覚によって、四肢を曲げて瞼を閉ざしていても耳や鼻による警戒を怠る様子は無いことが分かった。
このまま斬り掛かったところで、普通剣一振りでどうにかなる相手ではないが――
「これからどうする」
(仕留めるのみ)
「仕留めるって……奴の毒ガスはどうすればいいんだ」
(剣をかざせ)
「こうか?」
(そう、そしてクルクル回して突風を起こし――すまぬ冗談だ、まさか真に受けるとは)
グリュクは無言で剣の腹を、すぐ近くにあった岩肌に向かって何度も叩きつけた。
「これからどうする」
(い、今から雨が降る……神経ガスは降水と高い湿度によって分解されて無力化されるゆえ……その隙に魔法術で殺すのだ。
奴の皮膚は防御を固める類の妖獣ほど強固ではない。吾人の術ならば苦もなく殺せる程度)
「雨って……この季節に本当に降るのかよ」
(降る)
剣は断言した。
季節は冬、この乾燥した空気で雨が降るとは思えなかったが、空を見上げれば星明かりはなく、雲に覆われているのは確かなようだった。
頭頂から爪先まで汗塗れだというのに、この上なお雨に降られるというのは、気分の良くなる想像ではなかったが。
「ん――?」
すると、まるで剣と示し合わせたかのようなタイミングで、ぽつり、ぽつりと水滴が落ちてきた。
一分と経たない内に、それは冬には珍しい、冷たい雨となった。
まだ、体温は残っている。
「やってみるか……!」
(……折れるかと思った……)
冷や汗をかく剣をかざし、グリュクは妖獣に向かって斜面を下り始めた。
残り300メートルほど、警戒を強めたのか、アヴァリリウスが首をもたげてこちらを凝視する。
視野が重なる配置の両目で、まだ木々に隠れているはずのこちらを正確に見つめている。
(恐らく、音の他にも人間の目に見えぬ熱を感知しているのだ。
この雨で神経ガスこそ無効化されているが、おそらく奴もその程度は承知して戦う知能はあろう。心せよ)
「ああ……」
残り二百メートル。
妖獣は既に立ち上がり、神経ガスで死なないこちらを警戒しているのか、ゆっくりと体全体をこちらに向けてきていた。斜面が終わり、グリュクも慎重に身構えながら歩いて行く。
グリュクの身体が無残な死体の散らばる山道に現れると、アヴァリリウスが歩き出した。
従士候補生たちの死体は直視しないように、正面に妖獣の姿を捉える。
妖獣はそのまま速度を速め、突進してくる。足音を響かせながら、比較的踏み固められているはずの山道に深々と足跡が残った。
重量にして何千トンか、その表皮の凹凸が体をかすめただけでも即死しかねない。
(奴の皮膚の強度はさほど高くはない。魔法術によって、一撃で殺す。
剣を掲げ、適当に呪文を唱えよ)
言われた通り、それらしい姿勢を取って妖獣を正面に捉える。
何百トンもあろうかという質量が自分を踏み潰そうとやってくる。
それを見据えて動かずにいるというのは、中々に肝が冷えた。
「……貫け!」
すると、剣先の虚空に、拳大の灰色をした円錐のような物体が生まれ、それは次の瞬間、妖獣に向かって高速で飛んでいった。
魔法の、弾丸か。
しかし――
パキンッ
――と乾いた音を立てて、魔法の弾丸は弾かれた。
妖獣の突進は止まらない。
「ぬぁあぁあ!!?」
グリュクは慌てて横に跳ね、体を丸めて山道の脇の藪に転がり落ちた。
転がりついでに、喚く。
「馬鹿!! 全ッ然効いてないじゃんかよ!?」
(久方ぶりとはいえ構築は完全だったはず……よもや戦中に兵器化された妖獣の生き残りではあるまいな。
中には弾丸を防ぐために体表に物質硬化の魔法術を施されたものも――)
「どうすんだよこの状況……やっぱり逃げるか……!?」
(この雨もそう長くは降らぬ、遠くまでは逃げられまい。
それに……言い忘れたが近くには小さいとはいえ村がある。奴が次にそれを襲う可能性は高い)
「そういうことはもっと早く言えよ!」
慌てて山道に這い出すと、既に妖獣は血と雨とでぬかるんだ土の道で方向転換を済ませたようで、再びこちらに突進してくるのが見えた。
「――ん!?」
その時、自分の体が自分のものではないような違和感が彼を襲う。
逃げなくてはならないはずの状況で、まだ動かなくても問題ないような錯覚が感じられた。
グリュクの感覚では、とっくに妖獣に上半身を噛み砕かれていなくてはならないはずのタイミングで、彼の身体は右に飛び出し、再び被害を免れる。
今度は斜面の藪に落ちることもなく、姿勢を立て直せた。
「(…………!?)」
(これが吾が威力の一つ、戦士の呼吸也。
御辺が全くの素人であろうと、その骨肉と肺に歴戦の戦闘者と同様の感覚を与え、身のこなしを高める)
「す、すごいな……!」
(次は同様にしながら、通り過ぎざまに動きを鈍らせてゆくのだ。立ちまわって四肢を一つずつ、傷つけてゆけ!)
「あ、あぁ……!」
妖獣が、再び彼を目掛けて突進を始める。
そして、その強烈な突進を回避して、グリュクはアヴァリリウスの後ろ足のかかとに一太刀を入れることに成功した。
「(一撃、入った――!?)」
彼を食えずに通り過ぎる巨大な口腔から漏れた、低音の悲鳴らしき吠え声。
妖獣はバランスを僅かに崩しながら、先ほどと同程度の距離まで進み、血塗れの山道でやや滑り、止まった。
平素ならば絶対にありえない、剣の起こした奇跡。
「(普通の動物なら……多少の手傷を追えば逃げてくれるけど)」
(妖獣也。脳の体重比重量も大きく、人間でいえば三歳児ほどの知能はある。それが獣の獰猛さと噛み合った時、どうなるか?)
「……どうなるんだよ」
(小さな獲物の分際で許せぬ、殺す――となる)
まるで剣が妖獣の心境を代弁したかのように、アヴァリリウスは再び動き始めた。
ただし、今度は速度が遅い。
じりじりと動きを見定めるようにグリュクを睨み、血の臭いの滲む夜道をずしずしと歩いてくる。
グリュクもやや姿勢を落とし、迎え撃つ。
「(逃げれば追いつかれるだけか――ならここで仕留めないと……!)」
既に一撃を与えたためか、決意を固める余裕さえあった。
しかし、それをあざ笑うかのように、妖獣は急に土を蹴って加速した。
「!?」
(舐めるなッ)
彼を叩き潰そうと繰り出された巨大な前脚に、グリュクの身体は半ば勝手に反応して剣を当てた。
まずは一歩だけ動き、人間でいえば右の手首に当たる部分を切り飛ばしながら、次に全身で左方に飛び込む。
妖獣は一瞬だけ鋭い悲鳴を上げると、前のめりに姿勢を落として悶えているようだった。
その間に、グリュクと剣はアヴァリリウスの右側面の山道を迂回して走り、背後に向かう。
「(魔法の弾丸は効かなかったのに……!)」
(霊剣の刃也。十分な力で振るえば、圧延鋼板すら切り裂く也)
生半可な銃弾などは通りそうにない、太く大きく、金属のように硬い表皮と肉と、骨を切断した感覚が、剣の柄を通して両手に残っていた。
鼻面から尾の先までは何十メートルあるのか、グリュクがその体躯の中ほどまで走った時。
(左に跳べ!)
「ッ!?」
悶えるように姿勢を下げていた妖獣が、彼を押しつぶすように急に倒れこんできた。
剣の言う戦士の呼吸のなせる技か、グリュクの身体はやはり、ほぼ反射的に左に跳躍し、更に体を丸めて転がる。
「うわ!?」
山道の脇の藪に落ちたものの、計り知れない重さの巨体に潰されることだけは避けられた。
アヴァリリウスはすぐさま体を起こそうと、前脚の先を失った右側の脚で姿勢を立て直そうとしているらしい。
(死んだのではなく、御辺を押しつぶそうとわざと転んだのだ。
既に右前脚の先を失っているが、それに加えて大量の出血を起こさせる。
起き上がった直後の腹を狙い、斬れ)
「んなこと言ったって結構でかいぞこいつ……!」
(いいから黙ってやらんか!)
「…………!」
グリュクは饒舌な剣を上段に振りかぶり、アヴァリリウスの右の脇腹に振り下ろした。
下手な鎧よりも強固そうな表皮が、再びざくりと切れる。
「(血が――!?)」
思ったほど出ていない。
浴びるほどの返り血を覚悟していたのだが、妖獣の脇腹に開いた傷口からは、ぼたぼたと滴り落ちる程度の量しか出なかった。
(馬鹿者、切り込みが浅い!)
「うっ――!?」
剣を通して危機を察知したグリュクの身体が、また動いた――が、間に合わず、妖獣の後ろ足に蹴られる。
硬い表皮に包まれた数十トン以上はあろうかという肉の塊に蹴り飛ばされて、彼は剣とともに二十メートルほども吹き飛んだ。
回転する世界と、踏み固められた冷たく硬い土の塊が全身を舐め回す感覚。
「が…………!」
妖獣が近づいてくる。
ただ、全身がばらばらになるような衝撃を感じた割には、四肢が動き、意識が明瞭だった。
(吾人が直撃の前に力場で防御する術を組んだのだ! 今のうちに起き上がれ!)
「く、死ぬほど痛い……」
喋れるだけでも幸運ではあるのだろう。
だが、剣の使った魔法が不完全だったのか、全身が打ち身にわなないていた。
妖獣は、右足の先を切り飛ばされたために速度はやや鈍っているが、それでも健在な三肢で疾走してくる。
そのままの勢いで鼻面を当てられただけでも、グリュクは死ぬだろう。
(痛むか主よ、すまぬがもう少し耐えよ。
そして呪文を唱えよ。“進め”と!)
「っ……進め!」
剣の言っていることが今ひとつ飲み込めなかったが、体勢を立て直してこちらに方向転換を始めた妖獣の巨体を間近に見て、グリュクは痛みに呻きながらも言われたとおりにした。
すると、妖獣の動きが止まる。
「…………?」
次に、全身に強烈なブレーキがかかっているのが分かった。
重量とは少し違うが、全身が見えない粘液の中に漬け込まれているようで、首をひねって横を見る程度の動きすら、数秒を要した。
手に握った剣が、状況を解説する。
(“神経加速”の魔法術である。
御辺の神経の交感間隔を加速したために、今の御辺は常人の数倍から数十倍の速度で外界を認識し、干渉できるようになっている)
体の周囲が液体になったかのように、字句通り、空気が重かった。
呼吸も、空気が粘りつくためか水を飲んでいるような感覚になる。
「(……何で体が重いんだ)」
(周りの世界全体が遅くなっているためだ。普段何気なくしている空気を押しのける動作も抵抗が強まる。
雨粒一つさえ、押しのけるのに抵抗がかかるが、そうした不便を代償として、御辺の動きは奴の反応速度を超える。
今のうちに、喉を通る太い血管を斬るのだ)
剣の言う通り、小さな雨粒でさえ、無数の枝切れの先端を押し付けられているような僅かな抵抗を感じた。
ぬかるむ地面は、床一面に撒かれた乾きかけの接着剤を踏みつけているようだ。
それでも、グリュクはアヴァリリウスに近づき、その首の下、人間でいえば喉に相当するような場所へ、剣を差し込んだ。
「(ぐ……!)」
戦士の呼吸があるとはいえ、素人の一撃で巨大な妖獣の前足首を切り飛ばした程の鋭さを持った剣の刃が、まるで固まった砂利道に鉄杭を素手で刺すかのような硬い抵抗を受けている。
周囲の時間が遅くなっている影響とはいえ、打ち身にあえぐグリュクにはあまりに重労働だった。
刃を2/3ほども刺しこんだところで、剣が告げる。
(そこで一度大きく、上に切り裂け。血が噴出する余地を開くのだ)
言われるままに、柄の握り方を苦労して変え、今度は上に切り上げた。開いた傷口から、ゆっくりと赤い風船のように血液が漏れ出てくる。
こうしている間にも外部の時間はゆっくりと経過しているので、突進するアヴァリリウスも徐々に前進してきていた。
剣の魔法が解除されれば、彼は今度こそ惹かれて肉塊になってしまうだろう。
(よし。吾人を引き抜かず、一度この場を離れよ)
「(お前は……?)」
(こやつが死んだ後に引き抜いてくれればよい。従士ではなく挽肉になりたいならば別だがな)
グリュクはひとまず何も返さず、素直にそこを離れた。
十分に離れるまでは剣が魔法を維持してくれたらしく、滞空を続ける雨粒の群と、どこまでも粘り着く空気を押しのけながら、グリュクは慣れ始めた液体のごとき大気の中で、妖獣の後ろへと流れるように飛んだ。
そこで、魔法が解けた。
雨は落下速度を、空気は透明さを、グリュクは主観と時間との一致を取り戻した。
アヴァリリウスは、喉から大量の血を吹き出しながら暴れ、山道に再び巨大な地響きを立てる。
そしてそのまま30秒ものたうち回ったか、その巨体はついに力尽き、倒れた。
今度は、二度と起き上がらない。
恐らくは、神経ガスの分泌も止まっていることだろう。
彼は、勝ったのだ。
妖獣からすれば、消えたと思った獲物に喉へ剣を突き立てられた上にその刃を捻られたという所だろうが、自分がされたらと想像すると、グリュクの背筋に寒気が走った。
「(いや……雨で体温が下がってるのか)」
最悪、風邪を引くかも知れない。
彼はこの後の身の振り方をどうするべきか考えながらも、一先ずは、妖獣の喉元に突き立てたままの恩人――恩剣と言うべきか――を回収しに向かった。
本人が望むなら、祠に戻すのもやぶさかではない。
「ありがとう、えーと。ミルフィストラッセだったよな。お前のお陰で、よっと!」
だが、彼は油断していた。
「どわ!?」
剣を引き抜くと、まだ残っていたのか、バケツ一杯分ほどもの血液が顔めがけて噴出したのだ。
「くぁ……げほ、げほ……!」
それ以上血が出ることはなく、グリュクは殺した妖獣の怨念のようなものかと諦め、顔をぬぐいつつ剣に話し掛けた。
「あぁ、くそ……お前のおかげで助かったけど……
最後にこれか――ん、あ……あれ?」
赤く染まった野戦服を見下ろして、呻く。
耳鳴りのような音が聞こえ、次第にそれが、世界全土に響き渡る大音響に変わる。
そんな中でも、剣の声は聞こえた気がしたが。
(主よ、急いで血を洗い落とせ!
魔女たちの間では知られているが、妖獣の血液は変換小体が多量に含まれていて、魔女が多量に浴びると魔力線中毒を引き起こす可能性がある!
その量でも十分――)
「中毒? ……っていうのは……今の、このっ……頭痛、の……」
焦燥の滲む剣の言葉で思い出したかのように、体内から直接金槌で叩かれるような激痛が全身を駆け巡り始める。
グリュクには知り得ないことだが、原理としては皮膚に付着した血液中の変換小体が周囲の魔力線に感応することで、彼の神経細胞内の変換小体と共鳴に近い反応を起こし、神経を直接刺激している故の痛みだった。
「ぅぁ、ぁぁあぁあぁぁぁ…………」
(主、主よ!)
苦痛の余り、彼の意識はそこで途絶えた。
広がる血の海に倒れ伏し、剣がその手を離れ、小さな音を立てて同様に雨と混じった血溜りを跳ね散らす。
未だ夜は深く、雨はなおも止まない。