6.グリュク・カダン
魔女の指示に従い恋人を連れて小さな戦場を離れたが、森が火も伴わずに爆発するなどという事態が起きてもなお剣士の戦いを見届けようとし、結果としてその危機を救った小さな恋人に対し、アイルはもはや賞賛の気持ちしか起こらなかった。
それでも、彼らのいる場所が火球の流れ弾によって吹き飛びはしないかなどという考えを杞憂と笑うことも出来なかったのだが、剣士と剣に任せた以上、せめてその行く末を見届けるべきであるという、幼い恋人の意見も妥当だと思えた。戦場はどうやら耕し返された森から、木々の生い茂る場所へと移ったらしい。
樹木に阻まれて観察は容易ではなかったが、何とか村から徐々に遠ざかる戦闘音を追いかけ、かくして、アイル・トランクリオは現場からやや離れて金色の粒子の渦巻くのを目撃したのだった。
今やその光は消え去り、森の主役は静寂が務めている。鳥や小さな獣たちの声が戻ってくるまでは、しばらくかかるだろう。唾を飲みつつ、訝る。
「(やけに静かになったな……)」
考えられる原因としては、グリュク・カダンが首尾良く妖女を退けたということが一つ。そうでなければ剣士は討たれ、エルメール・ハザクが彼の元へと向かっていることだろう。
その可能性に僅かに怯えつつも、右に腰を低く構えて更に視線の位置が下がった恋人を見やる。
「静かになったね……」
彼女が猟銃を構え、アイルと似たような感想を小さく唸って述べる。彼女と自分の為とはいえ、アイルは戦闘魔法術に熟達し、人格剣まで携えた魔女に妖女の排斥を要請したのだ。その上、本人の申し出とはいえ無報酬。グリュク・カダンが死ねば後味が悪い上に恋人との仲は確実に引き裂かれてしまうが、剣持つ魔女が愛を守りきってくれたとしても、ほぼ確実に、妖女は死ぬ。大いに歪んではいるものの、確かな情熱で以て愛情を表現していた娘が――妖族なので彼らより遙かに年上という可能性が高いが、娘は娘であろう――それを拒絶されて死ぬというのもまた、相当に後味が悪い。
そうして今更どうしようもない思索に腰まで浸かって数分経っただろうか、このままではここで永劫待っていることにもなりそうな気になり、アイルは恋人に提案した。
「行ってみよう」
「うん」
短く頷くなり歩きだし、小さな歩幅をせわしなく繰り返して木々の合間に分け入ってゆく少女。歩幅も握力も自分の方が大きいというのに、右手をしっかと掴まれ、引きずられるような格好になってしまう。その左手の温もりと緊張故の湿り気を感じ、アイルは小走りに彼女の前に出て先導し返す位置を取った。
二人は魔女の青年と妖族の娘との戦いの決着を見届けるために、昇り始めた太陽が弱い木漏れ日を届ける森の中を歩いていく。
すっかり静まった山で、今代の霊剣の主は考えていた。魔法術の使いすぎで生じる強烈な全身の痛みに加え、身体各所の創傷の痛みで全身が引き裂けるように痛かったが、それなりに慣れもすることらしい。
戦闘の余波で森の一角を大きく耕してしまったことについては、幸運なことに建築や村民を巻き込んだ様子はない。もし村の財産を破壊した廉と称して賠償などを要求されれば――林業が主産業だという山間の村は多い――、逃げる他ないが。
(まぁ、村に被害が出なかっただけでも上出来だ、村民たちも魔女ならば、そのくらいは理解してくれよう)
「……森ごと耕したことについてはそう願うしかないかな」
それより差し迫った目下の問題は、彼の前に仰向けに倒れている妖族の娘の処方についてだった。
「…………」
険しく眉間を寄せていることの多かったその表情は、今は脱力しきって安らかですらある。エルメール・ハザクの残した術によって、彼女同様に生きるように仕向けられていた娘だが、彼女がこのまま覚醒するのかどうかということさえ、霊剣は言葉を濁した。
(特異の術なり。想念を魔法物質化して特定人物に憑依させる術、古来から概念自体はあったが、実例の目撃は吾が主たちの生涯においてすら、不確かな例を含めて五指に納まれり)
「その過去の事例ではどうだったんだよ」
(元の記憶を取り戻し、尋常に復帰したものが一人。術者の残した人格に染まりきってしまった者が二人。死んだ者が一人、そしてそこに含めるべきかどうか断定できぬのが、あのカリタスなる黄土の色の巨人)
聖堂騎士団領ヌーロディニアにおける事件では、グリュクと霊剣は推進飛行どころか魔法術さえ使用する自動巨人に憑依していた大戦中の英雄の怨念を、先ほど同様の金色の粒子で昇華させた。極めて特殊な状況だけに、参考に出来るものではない。グリュクにとって判断材料となるのは他の四例だけだったが、フェーアと呼ぶはずの妖女の胸郭は緩やかに上下しているので、少なくとも元の人格が戻るか、エルメールの人格に染まりきった彼女と再び戦わざるを得なくなるか、どちらかだ。後者ならば、多数の傷口は碌に治癒しておらず神経も疲弊したままのグリュクに、霊剣の加護こそあれど勝ち目はない。前者であれば救護を行うべきなのだが、例証に乏しく確信が持てないこのような場合、霊剣の記憶も気休めに過ぎない。
積極的に起こすことも出来ず、ただひざまづいて顔から土に突っ伏した娘の体を仰向けに転がし、距離を置いて観察するという行為――それが世間の通念で考えてどのような有様と解釈されうるかは措くとして――に入って十分ほどといった所だ。このままでいる訳にもいかず、意を決して軽く頬を叩くと、
「あぅ」
亜麻色の髪の妖女が小さく呻き、グリュクは僅かに身震いして腕を引っ込めた。剣士たちの記憶が霊剣の柄に手をかけるほど急を要する推移ではないと告げてくれたため、そのようにして覚醒を待つ。
「………………」
「…………!?」
忘れていた大切な用事を突然思い出した、そんな飛び起き方で、彼女は上体を起こして周囲を見回し、すぐにグリュクに視線を定めた。瞼の下の瞳はエルメール同様の灰色だが、その表情には常時妖女の顔に張り付いていた険しさがない。
彼女が起きあがると、グリュクと目が合う。
その出方を数秒待って、
「…………フェーア・ハザクといいます」
「…………グリュク……カダンです」
そうしてぎこちなく名乗りあう形となった。
「申し訳ありませんでした、沢山の方にご迷惑を」
立ち上がりつつそう言って、フェーアと名乗った娘は上体を前方に傾け起こす。目つき同様に声からも、常に詩歌でも吟じていたような艶めかしさは失せていた。
(申し遅れた。吾が銘、ミルフィストラッセ。御辺はエルメール・ハザクに認識を侵略され、彼女の若かりし頃を再現するよう行動させられていた……その記憶もあるのだな?)
「……はい……」
俯き呟く、若き妖女。霊剣に秘められた魔女たちの記憶の助けでその危険性はごく低いことが分かれば、今代の主であるグリュクも手を差し伸べられた。彼女も、拒絶するでもなくその手を取って立ち上がる。
「あ、ありがとうございます……でも」
「……悪いとは思いましたが、過去を覗かせてもらいました」
或いは金色の粒子に包まれた彼女もそれを覚えているのかも知れないが、フェーア・ハザクは少しだけたじろぎ、また俯いた。
「俺の方こそ、あなたの親類の精神のようなものを、殺してしまいました。恨んでくれて、構いません」
「いえ……悲しいですけど、大叔母は、あれでよかったと思います」
(そう言って貰えると、吾らとしても助かる。彼女のことは、その未練も含めて決して忘れ去りはすまい)
それが、自らに言い聞かせるように呟くフェーアの慰めになったかどうかは、判らない。だが霊剣がそうも言葉を掛けるのは、時を越えて戦い続ける魔女の魂の集合体による、同じく時を越えて生き続けようとした恋慕の念に対する同情か、忍びなさか。
そこで、魔女の知覚に気配が波紋を広げる。魔女が二人、こちらへ来る。
「すみません、せめて見届けさせてもらおうと思って来たんですが……これは?」
事情を飲み込めていないようにも取れるアイルの言葉の裏には、恐らく密かな非難も混じっている。理解しがたい事情に基づいて村を人質とし、恋人との仲を引き裂こうとしたその妖女が、対処を依頼したはずの魔女とこうして何事もなく向かい合っているのだ。
自作自演を疑われても仕方がないが、グリュクは何とか、出来る限りの言葉を尽くした。
「……そういうことなら……もうアイルにちょっかい出さないって、約束して」
真偽はともかく、一通りの事情は理解してくれたらしい少女が眉根を寄せつつも拳を腰に当て、フェーア・ハザクにそう告げた。彼女は僅かに驚いたようだったが、声は冷静で穏やかだった。
「私の言で良ければ、お約束します」
「……信じるよ?」
「イノリアがそれでいいなら、僕も同じく」
怨念の影響を受けて彼女までもがアイル・トランクリオに恋慕を寄せない保証も無かったのだが、それは杞憂に終わったようだ。三者の間には、老妖女の情念によって生み出された対立は、既に存在しない。グリュク個人の判断だが、それは断言しても良いように思えた。
(その判断、嬉しく思うぞ。花嫁よ)
「やだもう、まだ早いってばっ!」
「痛ァッ!!?」
「あ、ごっ、ごめんなさい!?」
突然顔を赤らめてバシバシと肩を叩かれ、傷口を塞がれただけの右上腕の貫通創に激痛が走る。左腕も、ぼろぼろになった袖で辛うじて隠れているだけで、無残な有様だ。
「すみませんグリュクさん!」
「その傷、私が……つけてしまったんですよね……?」
未来の夫婦がすかさず陳謝すると、フェーア・ハザクもやや青ざめながら、こちらを気遣ってくれたようだった。
「本当にごめんなさい、謝って済むようなことじゃありませんけど……」
「い、いえ……エルメール・ハザクがいなくなってしまった以上、誰を責めることも出来なくなったことですから」
(世話をしていた親類だ、御辺も辛かろう)
「……はい」
彼女が俯いてそう答えると、その目先を逸らす意味もあってか、霊剣が話題を変える。
(さし当たっての問題は、エルメール・ハザクがドロメナ村を封鎖していたことであろうな)
「……どゆこと?」
小首を傾げる少女に、フェーア・ハザクがグリュクと霊剣に先んじて口を開く。
「……大叔母様は、私の体を使って村に要求していましたから……村にとっては私が村を封鎖していたのと同じ、その排除を引き受けたグリュクさんは、村に戻れば顛末を説明するように言われるでしょう」
「て、ことは……村を封鎖してた犯人を、ちゃんと……し、始末するように言い出す人も出るかも知れないってことか」
(下手をすれば村が干上がるか、アイル・トランクリオを引き渡したことで御辺が暴走し、警察へと突き出されたか……最悪は止む無しと殺され、不幸な恋人たちの両親が村への深い遺恨を残す所であった)
霊剣に示唆されて具体的に想像を及ぼしたか、イノリアが青ざめて押し黙る。本来であれば、グリュクとフェーアはこの二人に共謀を疑われても仕方のない立場ではあるのだ。腹の底はどうあれ、二人が素直に信じてくれたことに感謝する他ない。
「……恩知らず甚だしいことではありますが、必要なものがあれば言ってください。食料などであれば、ご用意します」
若き商人の発言は、二人にドロメナ以外のどこかに立ち去ることを勧める意図を含んでいた。イノリアもその意図を察してか、ばつの悪そうな表情を見せる。
(既に転覆した森の一角を調べに村の者が来ているようだ、急ぐべし)
急いで諸々を取り決めると、グリュクは無実の妖女を伴って森の中を、村と反対の方向に進んだ。好意に甘えて若干の食料を分けて貰うこととして、アイルの自動車と落ち合うための街道の小さな宿場を目指して。
その道のすがら、霊剣が問うた。
(御辺はこれから、如何に致す)
「……もう、故郷には帰れません」
覗き見た限りでは、老妖女は妖術によってフェーアの体を乗っ取り、そのあと元の体を家ごと爆砕していた。事情を知らぬであろう村の妖族たちからすれば、乱心したフェーアが親族の世話を厭んで殺したのだと思われている。その誤解を解くならば、まずは彼女の体を乗っ取った妖術の存在と、その使い手がエルメール・ハザクであったことを説明する必要もあるだろう。そして、そうした所で受け入れられない可能性を考慮しなくてはならない。或いは、親身になって世話をしていた親族に体を奪われた記憶を、フェーアが忌んでもいるからか。いずれにせよ、エルメールが発言した通り、元いた場所に帰ることは容易ではあるまい。
(ならば、吾人に良い考えがある)
「……どんなだ」
口振りからしてあまり良い予感はしなかったが、グリュクは一応、と霊剣の提案を聞く。
(御辺が娶って養うという――うががッ、止せッ! 野生動物の糞を切っ先に刺すなッ!?)
「まじめに考えろ……!」
(ぐぐぐ……)
いつになく真剣な表情と声で躊躇無く霊剣を抜き、その先端に褐色の物体を突き刺そうとするグリュクに、さしもの霊剣も動転しているらしかった。根無し草同然の彼に、女一人を養い続ける余裕などある筈もない。
「すみません、連れが飛んだ失礼を」
「い、いえ……?」
その失言に彼女は不快そうな顔をしたりはしなかったようだが、剣への制裁を終えて陳謝する。恩人から貰った鞘が汚れるようなことは出来ないので、霊剣の切っ先を引いて再び鞘に収めた。
(吾らは東のグラバジャを目指しているのだが、御辺の故郷とは近いか? 吾らにも責任がある故、あまり故郷とグラバジャが近いようであれば、まずは落ち着き先を探すことに協力しようと思うのだが)
「もっと“奥地”ですので……大丈夫です。グラバジャで、何とかなります」
一個人である彼女自身の判断に対して、「それでいいのか」などと訊きはしなかった。だが、老妖女の野望の依り代にされかけた所を救い出した筈が――そうした認識とて酷い傲慢ではあるが、それでもフェーア・ハザクが元の精神を取り戻したことについては誇っても良いと、束の間とはいえ感じていたのだ。
だがそれでも、およそ救いからは程遠かったことになる。そうして己の限界に憤れば、しかしこの俯きがちな妖族の娘のために力になりたいという意気も殊更に湧いてくるのは否めない。
「俺も、力になれませんか」
その申し出に反応してか、彼女の大きく白い耳が小さく揺れる。その動きがどのような感情を示しているのかは判らないが、亜麻色の髪の妖族の娘も輝く粒子の奔流の中で、グリュクと霊剣が経てきた短くも長い歴程についてを悟ったのか。
「迷惑をかけますので」
「いえ、そんなことは……」
「ありがとうございます。でも、心配ありません」
「ちょっと、待ってくださいってば!」
そう言って新たな目的地へと歩きだそうとする彼女に向かって、グリュクは声をかけずにはいられなかった。彼女は振り返らずに答える。
「……お気持ちはありがたいですが、どうかお構いなく」
「えーと、そうではなくて……そっちは村の方向です」
「…………」
太陽の昇る方向に向かおうとするその足を止めると、彼女は目つきをやや鋭くして、多少不服そうな表情を見せた。それでもエルメールのような鋭利さからは程遠く、僅かに紅潮した、かわいらしいという表現さえ似合いそうな怒り顔だったが。耳が左右にぴんと張り、それが恥じらいを表しているらしい。
「……と、とりあえずグラバジャまでお願いします」
静かだった森に、鳥獣の鳴き声が戻り始めた。
二人の話によれば、グリュクたちが村を後にしてから入れ違うようにして、警察がやってきたのだという。結界を破壊する魔法術を行使できる術者を複数連れての物々しい到着だったらしいが、エルメールの怨念が消えたことで、それに応じて結界が消失したため、準備も空振りのような形になってしまったようだ。
夫婦となる二人の善意から来る虚偽により、地方自治体ドロメナからその警察への報告は、エルメール・ハザクを名乗る妖族の女による無許可の自治体領域侵犯、術的実力行使(村の中で魔弾を放ったこと)、不動産毀損(森を転覆させたこと)。そして急迫不正の侵害であるそれらに対して村民が雇用した魔女が実力による抑止を目的に出動し、結果として被疑者と共に行方不明――と判定されることとなった。
村としては、二日間の封鎖でそれなりの損失を被った(例えばダンスタークの喫茶店に出勤していた女給は、二日分の収入の機会を失った)ものの、それ以外は建築や水源に被害を受けることもなく、単に運が悪かったのだと後に納得する所となる。転覆してしまった森の一角については、木材業者に売却するなどしてもらうしかないだろう。
そして、翌日、ダンスタークからやや離れた小さな宿場。
架台に荷を満載したトラックが停車し、フェーア・ハザクは剣士が若い商人からいくつかの荷を受け取るのを、少し離れて宿の入り口から見ていた。彼女が負わせてしまったその体の傷は一日がかりで妖術で縫合したので、今はほとんど残っていない。
時刻は朝の八時を回り、人通りが増え始め、広くはない路地に停車した自動車から荷を降ろしている男女の姿を見る者もいる。ベルゲ東部では妖族を見るのも稀ではないが、念の為にフードの付いた上着をグリュクから借り受け、目立つ耳を隠している。通行人の中に、彼ら以外のドロメナの関係者がいないことを祈るばかりだ。
「ザックは食料品、紙袋は簡単ですが衣類を」
「ありがとうございます、こんなに頂いてしまって」
(吾人からも礼を言う。まことにかたじけない)
いくつかの荷造りされた物品を見て、剣と剣士が感謝する。こんなにと言うほど多くはないが、携行する限度というものだろう。グリュク・カダンの所持金は少なく、フェーアに至っては連邦系の通貨を持っていないという状況では、ありがたいと言うほか無い餞別だ。金銭の報酬については断っていたが、話を横で聞く限りは半額を受け取ることにしたらしい。
「いえ……気にしないでください。僕たちのしてもらったことを考えれば、せめてこのくらいは」
「ホントは式に招待したかったけど。ね、アイル」
「うん。もしまた会うことがありましたら、その時は、もっと幸せになった僕たちをお見せします」
もちろん、それはドロメナの関係者がいない所でのことになるだろうが。
グリュク・カダンの礼にそう答える恋人たちの表情は、一日経った今でも幸せに満ちていた。それに対して祝辞を贈ることに、ためらいがあった訳ではない。フェーアがそれを言うのは、彼女自身の咎ではないとはいえ気が引けたのも確かだ。
とはいえ、このまま迷惑を掛け通して何も言わずじまいであるのもまた、恥ずべきことと感じられた。
「あ、あの」
「はい、何でしょう?」
彼女と全く同じ外見の人物によって恋人との仲を引き裂かれ、拉致されようとしていたというのに、この青年にはフェーアを恐れた様子は全くない。それがありがたくもあり、信じ難くもあったが、それに甘えて続きを口にする。
「私が言っていいのかどうか分からないのですが」
二人の恋人と、赤い髪の剣士にその僕という剣。皆、彼女の発言の続きを待っているらしい。
「二人とも、お幸せに」
幸い、特に舌を噛むこともなく、言えた。そこに生じた僅かな一拍の間、気まずく感じたのは彼女だけらしかった。
「ありがとうございます、フェーアさん」
「うん、ありがとう、祝辞は多い方がいいよねやっぱり!」
喜色も新たに、少女が未来の夫の腕に抱きついて率直な感想を述べる。次いで彼女は唐突に半眼の真顔を作り、
「もっと言ってくれていいのよ?」
フェーアも彼らの間に生じた小さな笑いの輪に、思わずつられて笑った。このような善良な人々に取り返しのつかない重大な実害を与えてしまう所だったと考えると、なおさら痛む胸ではあったが。
「それでは、名残惜しいですが……僕たちはこのあたりで」
アイルがそう切り出す。それ以上は特に間を持たせるような話題もそうする意味もなく、そうするのは当然だろう。剣士も、特に引き留めるつもりはないらしい。
決して能弁ではないが、穏やかな別れ。朝日を背にして街道を西に――恐らく、別の用事のついでに寄ってくれたのだろう――走り去ってゆくトラックを見送って、彼女はひとまず安堵した。
(のろけ話が長いこと以外は、良い青年であった。花嫁も、意気負いの良さに好感が持てる)
剣による人物評を内心に聞きながら、フェーアは剣士に疑問を尋ねた。
「私たちはいつ出発しましょうか」
「……早い方がいいですか、それとも、少し落ち着く時間があった方が」
金色の粒子の奔流の中で、剣士が彼女のことを考えて真摯に怒ってくれたこと、そして剣と重ねた短くも長い歴程のことは、垣間見てしまっていた。それを鑑みれば青年の、グリュク・カダンの善意を疑う理由は無い。彼とてフェーアを見捨てても構わない状況にあったにも関わらず、それを厭わず多くの傷を負い、彼女を殺すことなく事態を収めてくれた。一言感謝するだけで済ませてはならないという思いもあった。
「差し支えなければ、今日にでも。あまり長いことお世話になる訳にも行きませんし……」
「……それじゃあ」
その胸中でどのような逡巡があったか、知る術は無い。だが、少なくとも露骨な獣心の類の無いとは信じられた。そうしたことを気にして宿にも部屋を二つ取ってくれてしまうような、そんな青年ならば。
「部屋を引き払ってきます。フェーアさんは荷物を見ていてもらえますか」
「分かりました」
強がってしまったものの、グラバジャで住む場所が見つかるか。見つかったとして、上手く行くか。懸念も多かったが、それは今から心配した所で意味のないことかも知れない。
やや経って、宿を出てきた剣士と彼を待っていた妖族の娘は、どちらが先んじるでもなく歩きだした。このまま街道を東に進めば、一日と立たずに鉄道駅のある街に着くだろう。
時に、世歴1440年――
これにて第8話、完結となります。
以前あとがきでベルゲでの話は2話程度で終わらせてと書きましたが、何とかその通り、次回からは妖魔領域を舞台に出来そうです。
少々話の趣向が変わって来そうではありますが、お楽しみ頂けましたらこれ幸い。
ご意見・ご指摘・ご感想、誤字通報などお待ちしております。