5.ヌエナ・ミノア
春はまだ少し先のこと、その鄙びた村のはずれに、彼女はいつからか住んでいた。彼女がこの世に生を受けて六百年が経とうとしており、青づく若草のような時代は今は昔、ただ一つの未練だけが、朽ち果てかけた体を動かしていたといっていい。今の生活も、太陽より熱く燃え上がった往時の情熱の、その跡のちっぽけな残り火のようなものだ。
「大叔母さま、出来ましたよ」
若かりし頃は自分の声も、あのように高く明るく響いたものだろうか。もはや思い出せはしないが、少なくともあの娘は、良くやってくれている。あのくだらない兄の子孫にしては気だても器量も申し分なく、腹蔵なく言えば、気に入っていた。何より、昔のエルメール自身に似ている。声もきっと、似ていたことだろう。
はい、と盆を差し出されると、消化も良く、適度に量を抑えられた食事が鼻に香る。フェーアには教えていないが、調理に使うよう言ってある香辛料の一つは、エルメール自身の甘美な思い出に由来するものだ。そしてそのまま、彼女はそれを匙で掬って口へと運んでくれた。匙をくわえ、ゆっくりと味わう。あまりにも長い時間をかけて慣れてきたため実感に乏しかったが、恐らく味覚も相当に衰えている筈だ。
「今日は外へ出ますか?」
フェーアの優しい言葉にも、すぐには答えられない。舌が追いつかないのだ。自前の歯など一本も残らぬ顎、衰えた五感。もはや、術の補助抜きでは上体を起こすことすら難しく、その術も神経の寿命を早めるというので、ここ数年は彼女の前では使っていない。
「そうね……」
呟く。このまま朽ち果て尽くして終わるよりは、せめて。
「今日は……いい日だわ」
「ええ……洗濯物も良く乾きそう」
一つ一つ、出来る限り隠密に、精緻に術を構築する。老練の域すら越えに越え、並の術者では気づけもしないほど密やかな、その腕。
そして、車椅子を引っ張りだしてくる彼女の名を呼ぶ。
「フェーア……」
「どうしました?」
年若い彼女がこちらを振り返ると、エルメールは呟き、術を解き放った。
「お前の体をおくれ……!」
体が軽く、しなやかだった。これが若さ! 久しく忘れ去っていた感覚に、思わず体が踊りだした。
「(ハウブレイス、あなたと踊ったステップよ!)」
術は成功したのだ。この瑞々しい体は、たった今からエルメールのものとなった。フェーアには悪いが、こんな所で枯れ果てた老妖族の世話をしているよりは、有意義なことに使ってやれる。
待っていて、ハウブレイス。必ず、生まれ変わったあなたを見つけてみせるわ。
だが、その前にやるべきことがあった。
「燃え尽きなさい」
エルメールは術を念じ、頭上に白熱する火球を生み出した。そのまま投射し、忌まわしい小屋に当てる。体が若返れば、脳も、神経も若い物を使える。そうなれば術のキレも上がるのだ。それならば、家が燃え盛り、崩れ落ちる音さえもが心地良かった。まだ残存しているフェーアの精神が何か抵抗しているようではあるが、術者としての才能は凡庸極まりない彼女では、昔日のこととはいえ術者として名の知れたエルメールに抗うことなど出来る訳が無い。
古い体との別れを手短に済ませ、いざ出発と言いたい所だったが、爆発を聞きつけた村の者たちが駆けつけてくるのが見えた。先頭に立つ村の顔役も、さすがに青ざめている。
「フェーア……!? お、お前がこれをやったのか!?」
「これはエルメール自身が望んだことよ。それに、私はもうフェーアじゃない」
「……乱心したか!? お前の大事な大叔母さんだろう!」
哀れな凡愚たち。説明しても事態を理解できないらしい彼らといつまでも付き合っている暇はない。
「邪魔するなら、あなたたちも消し炭よ」
逃げ去ろうとする村の者たちに適当に魔弾を放つ。当たろうが当たるまいが、どうでも良かった。フェーアの若い体にエルメールの技術が合わされば、実力で太刀打ち出来る妖族などそうはいないのだから。
哄笑こそしなかったが、その顔に固着した壮絶な笑みは炎に照らされ、より一層凄まじさを増した。
老いて世を去りつつあった妖族が、自分の恋の未練を成就させるために、自分の面影のある親族の体を何らかの妖術によって乗っ取った。そうして、やはり彼女が若かりし頃に思いを通じ合っていたという魔女に似た青年を見つけだし、今度こそ思いを遂げようとしていたのだ。
金色の粒子たちの伝える妖女の記憶は、そうした事実を意味していた。そうと知ってしまえば、先ほどの喉への致命の一撃が外れたのは、体を奪われた娘が内部で精一杯の抵抗をしてくれたためであろうとも分かる。
(恐らく、魔法物質化した思念をこの娘に植え付け、生前の自分と全く同じに振る舞うよう強いたのだろう……!)
エルメール・ハザク、いや、その思念に体を奪われたらしいフェーアと言う名の娘は、当然初めての体験であろう記憶の共有にうずくまっていた。
だが相手の無力な現状に反し、グリュクの手にその柄から伝わってくるミルフィストラッセの思念は、尚も怒りに震えている。思えば、彼は名乗る時も「意志」を枕に添えていた。この剣の行動理念の一つに、自由意志の擁護というものがあってもおかしくはない。
(こうなってしまえば、元の娘の意思はどうなる! 過去が現在を侵略し、己の都合に合わせて未来を紡ごうとするその料簡……断じて許しておけぬ!!)
「あれをやろう、ミルフィストラッセ……!」
(言ってくれると思っていたぞ、主よッ!!)
黄金の旋風が激情に呼応して激しく揺らぎ、なおも煌めく。グリュクは以前の国境の湖上での出来事を思い出しながら、提案した。再び僅かに余裕が戻った神経を酷使することになるが、霊剣の主は躊躇わずに吼えた。
「解き放てえッ!!」
霊剣の先端から迸り出た、これまた金色の粒子。こちらはあくまで魔法術なので神経を消耗するが、その怒濤は立ち上がろうとする老妖女の執念を乗せた娘の胸郭を直撃し、そこから更に勢いを増した。その光に身を灼かれているかのようなエルメール・ハザクの絶叫にも似た思念が、耳朶ならぬ精神を叩く。
(厭ッ! 厭よッ……!! 折角ハウブレイスに、また会えたのにッ!!?)
(戯れ言を……! そのような思いを託っているのは、御辺のみにあらず! 生ある限り、誰もが皆後悔と、未練と戦い続けている! だが御辺はそこで、他者の人生を奪ってまでそれを成就することに固執した! もはや容認の余地を、吾人は持たぬッ!!)
誰もが、とは霊剣自身をも指して言っているか。確かに、グリュクが共有している霊剣の記憶、数百年に及ぶ疑似的な長命の間には、取り替えしのつかない悔恨を覚えることは何度もあった。妖女が尚も、悲痛に叫ぶ。
(ハウブレイス……助けて、ハウブレイス……!)
「恨んでくれていい……!!」
もがきながらも、彼女の執念――いや、もはや執念そのものが彼女として振舞っていたとでも表現すべきか――は光の流れに分解されて崩れてゆく。それはさながら、迷妄に体を巣食われていた妖族の娘を心身から洗浄しているようでもあった。そうして分解されつつも、エルメールの思念は泣き叫んだ。
(ハウブレイスだけを愛して生きてきたの……狂王の王子の求婚だって断った……! なのに、何でなのよぉッ…………)
「自分の為には他人の意志を省みない、そんな人のやることを! 誰が応援してくれると思うんだッ!」
説教などという柄ではないが、妖女の怨念に対して憤る。魔女の知覚に映るその姿は哀れさえ催すとはいえ、グリュクにしても、他者の体を乗っ取ってまで自分の未練の恋を達成しようという考え方には賛同できない。
断末魔をあげるそれはいわゆる魂だろうか、悲鳴を上げる老妖女の執念の成れの果ても、熱い茶に投じた砂糖のように消え去っていった。許してくれなどとは、言えなかった。
(過去と未練に生きた、悲しき女よ……だが、精神が時間を超えて疑似的に生き続けるという点では、吾人も似たようなものではあるな……)
珍しく、霊剣が独り言のように呟くのが聞こえた。金色の粒子の奔流は徐々に晴れ、彼らの周囲に通常の光景が戻ってくるのが分かる。
後にはすっかり身を支える力を失った妖族の娘が残り、その体は反転重力によって耕された軟らかな土の上に倒れ伏した。
冷たい雨の夕方、ヌエナが村の世話になってから四日目、彼女の命は燃え尽きつつあった。
床に半身を起こして窓越しに見る秋の長雨は陰鬱で、率直に言えば魅力に欠けた。ただ、どのような景色であろうと今の自身が見れば魅力を減じたであろうことは、認めざるを得ない。
「ヌエナさん、失礼しますよ」
彼女の食事などの世話をしてくれている四十前後の女が、食事の盆を下げるために入ってくる。息子夫婦が旅行先で戦闘に巻き込まれて亡くなったという彼女は、彼らと似たような年齢のヌエナがこうして死を待つばかりの状態でいることに、どうした想いでいるだろうか。
彼女は卓に近づき、わずかに手が付けられた粥の皿の乗った盆を取り下げる。熱を失い冷めきって澱粉の固まったそれは、見ていて無性に悲しかった。
「ごめんなさいね……こんな村のために」
「私が防げなかった以上、村のどなたにも防ぎようの無かったことです。ご自分方を責めるのは止してください」
戦争によって機能の弱まった治安組織の隙に乗じて、山間の村エチェを掌握しようとした魔女がいた。ヌエナはそれを討った際、彼の作り出した病原に侵され、こうして村の世話になっている。
数時間から時に数年という持続時間の長い魔法物質によって構成されたその病毒は、啓発教義の諸国でいう非細胞性病原体に近い存在らしく――件の魔女は、少なくともその概念に着想を得てこの「魔法病原」を作ったと宣言していた――、それは彼女の体の変換小体を徐々にだが確実に破壊し続けた。魔法術を用いても、黒焦げになったパンは決して小麦粉に戻せない。同様に、病原体に侵されて組織が広範囲に変質するような疾患に対しては、魔法術は無力だった。魔法物質を分解する金色の奔流によっても完全に取り除くことは出来ず、それらは数を減じてなお増殖し、彼女が死ぬまで魔女としての力を奪い、体組織を爛れさせてゆく。
幸運にも霊剣の加護を受けたヌエナではあったが、もはや死期は近い。全ての体組織において変換小体が激減している為、霊剣の声も、もはや途絶えかけた音声放送程度にも聞き取れない。それでも、こうして寝床にいる限り、見た目には病相が顕著でないだけまだ救いがあったのだろう。彼女にも、己の容貌を歪めるような病変を恐れるような感性はあった。
「(ミルフィストラッセ……聞こえてるかな)」
声は返ってこない。神経からも完全に変換小体が死滅しつつある彼女は、霊剣の主としての資格も喪失しようとしている。記憶の共有が出来なくなる以上、霊剣がこれ以上彼女を主とする意味はないだろう。
「(村の人たちは私によくしてくれるけど、魔女は一人もいないみたい。あのウィルス魔女を殺さなければ、彼を主に出来たかな?)」
霊剣の性格を考えれば、妖獣と病毒の魔法術によって村を脅迫していた魔女を主に迎えることなど、天地が逆転しようとも拒否しただろうが。死期を目前に控えて熱に浮かされたようにも思える彼女の脳は、とりとめなく思考の迷路をさまよい続けた。無条件に満足できるような一生ではなく、後悔も多い。それでも、三十三人の魔女たちの生涯の記憶と共に歩んだ旅は、悪いものではなかった。彼女だけの思い出というものはあまり多くは無かったが、それも受け取り方次第だ。
「カリュンさん。遺言を聞いてくれますか」
彼女は青ざめつつも、頷いてくれた。その世話をしてくれたことで、ヌエナの死期が近いことは実感していたことだろう。
「今、紙と鉛筆を――」
「大丈夫です、簡単な内容なので」
いつからか大陸戦争と呼ばれはじめたこの長く大きな戦いの最中、戦線から離れた静かなこの村は、末期を迎える場所としては悪くない。少しばかり早すぎる嫌いはあるにしても、この大戦よりも遙かに永く、七百年を戦って駆け抜けて来た霊剣も、少しは休息が必要だろう。
言葉では止められない火の雨、手を伸ばす前に薙ぎ払われていった愛すべき人々の思い出を反芻しつつ。
「これから村に魔女が……善い魔女が来たら、この剣を渡して欲しいんです。啓発教義の人たちには見つからないように、どこかに隠して」
少々悲しいことだが、仕方がない。霊剣に涙腺があれば涙を流したとしても、舌と声帯があれば嗚咽したとしても、彼女はそれを知らずに死ぬ。だが、彼女の肉体が滅びてもその経験や思い出は意志の霊剣ミルフィストラッセが残し、伝えてくれるだろう。そう考えれば、寂しさは和らいだ。既に途切れつつある彼女自身と相棒との絆については、幕切れとはまぁこんな物、と思うほか無い。
彼女とその愛すべき相棒の、意志と記憶を継承してくれる次の主の登場を願い、ヌエナはゆっくりと瞼を下ろした。
時に世歴1387年。次代の霊剣の主に、幸あれかし。