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霊剣歴程  作者: kadochika
第08話:恋鬼、猛る
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4.クラウゼ・ディシェ

 ベルゲ帝国は、議会が政治を司る国家であった。行政、立法、司法の全てが集権的な議会によって行われ、教育水準の高い、つまり失政を行う可能性の低いであろう人々がそれらの職に就く。王国に対する王のような、「(てい)」と呼ばれるような存在は無い。だが諸王の国々の上に立つ国家ゆえ、「帝国」と号することも支持された。

 巨大化した領土はそれに見合う莫大な税収をもたらしたが、同時に集権議会による政治の限界をさらけ出した。毛づくろいをするにも、体が大きければその分時間を要する理屈だ。

 高度な教育制度による優秀な人材の供給は続いたが、そうした人材は帝国各地に遍在できなかった。中央の資本が人材を奪い合うため、将来有望な若者が地方まで行き渡りにくい。初期はそれでも良かったが、それに伴い地域の格差は徐々に拡大を続け、遂には北に残った部族や未だ有力な赤道の向こうの国々、和睦が成ってなお敵対的な一部の妖族たちによって縁辺は脅かされることとなる。それが少しずつ全体の経済の巡りを悪化させ、帝国のそこかしこが荒廃を始めるまで、人々はそれを意識できなかった。

 そして、そこに追い打ちをかけるように、それまで静観していた大陸西部の啓発教義の国々が攻勢に出た。ただしそれは武力的な攻撃ではなく思想的なもの、つまり、「帝民自身が帝国を打倒すれば事態が打開される」、そうした風説を様々な形で流布すること。無政府主義、社会進化説、私有財産廃止の概念。集権議員たちは利権と腐敗の権化である、彼らなど無くても国家は自然に運営されて行く、選挙は身分差別の創出である、などだ。帝国の文化の恩恵を受けすぎてその利益に無自覚になっていた帝民ほど、それに「目覚め」て帝国の制度を攻撃するようになった。

 豊かだった教育制度はそうした言論によって徐々に絞め殺されてゆき、人材は緩やかに枯渇を始める。そして更なる百年が過ぎ去った時には、そうした内からの毒によって帝国は複数の国々へと分裂してしまっていた。

 再び離散した魔女の諸国が、啓蒙者からの新たな技術の供与を受けて力を強めた啓発教義諸国、内から国体を侵食する「市民に目覚めた者」たちに対抗できるかどうか、問うまでもない。


「こいつら、何体いるんだよッ!?」


 クラウゼが呻きつつも体を捻ると、混凝土(コンクリート)の剛拳がその脇の空を切り、舗装されていない街路のぬかるみを叩き散らした。飛び散った泥が鋭くコートの生地を打ち、それでも数世紀分もの戦いをくぐり抜けた剣士の目はそれに対して瞬きすらせず、冷静に相手を見極める。


「切断ッ!!」


 うっすらと光輝く永久魔法物質の刃によって、混凝土から成型された巨大な魔導従兵(まどうじゅうへい)は胴切りにされ、巨大な岩石同士がぶつかりあう、重く乾いた音を立てて路面に上半身を転がした。


(六時方向、三、二!)

「飛翔ッ!」


 もし霊剣のカウントダウンに反応できずに全身の体重を天空に向けて落下させるのが半秒も遅れていれば、彼は飛来した二十二発の炸裂魔弾によって細切れになっていただろう。抜き身の両刃の剣の助言で危機を脱すると、重力作用転移に連鎖させた魔弾を解き放つ。


「焼夷爆撃ッ!!」


 それは飛翔中に拡散して放射状に広がった小さな光輝の大群となり、扇状に広がって各々破裂し、眼下の無人の筈の家々を焼き払った。そしてそこに潜んでいた所を堪らず飛び上がってきた敵の魔女、その一人を重力作用の転移先へと選び、障壁を展開しながら強烈な体当たりを見舞った。まだ若いであろう先進市民軍(せんしんしみんぐん)の魔女兵は高硬度の障壁に吹き飛ばされて即死し、すかさず障壁が爆散する。その破片によって他の魔女兵たちも死ぬか重傷を負い、市街へ落下していった。


「(恨めよ……)」


 胸中で空しく呟くと霊剣を鞘に収め、速度を上げて都市からの離脱を試みる。

 体制を転覆しようとする先進市民軍の蜂起で、帝国は崩壊しつつあった。それは議会政治を打倒し、真なる市民の国を作らんとする「先進市民」を自称する人々による軍勢だ。帝国も、それを鎮圧すべく兵を進めていた。

 だが、クラウゼはどちらの側にも属していない。先進市民側は民衆が最大の利益を得る政治のために体制側の人間を一人残らず断頭刑にして広場に晒すべきだと主張しているし、それに恐怖した帝国側も彼らの摘発には過激になった。王国の撒いた「毒」の効果もあるが、それがこうして甚大な影響を及ぼしてしまうほど、帝国自身が老いを重ねていたのだ。

 彼は、否、彼の属する「結社」は、この機に乗じて啓発教義諸国が攻撃してくることを恐れ、新たな選択肢を模索していた。同志を募り、検挙を逃れ、ひたすらに力を蓄えた。行動を起こす前に、先進市民たちが蜂起してしまったが。

 彼は既に、「先進市民」たちが「帝国の手先」と見なした者たち――議会の重役から、かつて帝吏(ていり)を志しただけの市井の人間まで――を中世以前の魔女狩りさながらの残酷さで狩り立てる様を、いくつかの都市で目撃していた。

 先進市民軍に従わない「結社」の首魁、その懐刀であるクラウゼも、ここでは狩られる側だ。そのまま、南へ落下(・・)を続ける。


(主よ、この際、先進市民とやらの作る体制をこの目で確かめてみてはどうだ? 存外、理想国家やも知れぬぞ)

「冗談……! 広場に吊された徴税業者たちの死体を見ただろうが。杓子定規に人間を殺すことが正しさだと思ってる奴らの作る国ってのは、どんな地獄だと思う!」

(まさに血で血を洗う業土であろうな。帝国はもはや命数を迎えたと思しいが、さりとて先進市民は正義に(あら)ず。断じてだ!)


 秘密裏に都市を抜け出るはずが、絞首処刑された帝吏たちをたわわに実らせた時計台と、そして同罪として連行されそうになっていたその家族たちの姿を見て先進市民軍に攻撃を仕掛けてしまったことは少々無謀だったかも知れない。だが、彼一人に先進市民軍が目を奪われている間に、無辜(むこ)の帝民たちがより遠くへ逃げる時間が稼げるだろう。

 クラウゼが腰に帯びた意志を持つ剣ミルフィストラッセは、出来る限り「最大多数の生命保全」を心がけつつ、しかし「記憶の継承」をより優先させる。そんな彼にとってこれは許し得ぬ愚挙の筈だが、しかし霊剣は未だに主であるクラウゼを非難するような様子がない。過去の主たちに似たのか、この剣には直情径行(ちょくじょうけいこう)()があった。


「(俺も人のことは言えないけどな……)」

(牙なりし帝国は既に失われつつあり、先進市民も毒牙となった! ならば吾らは、古き牙を看取り、毒牙に抗う第三の力となるべきなり)

「山火事に立ち向かう羽虫程度には善戦できるかもな……」


 小さく呻いて十字路に出てきた大砲を抱えた魔導従兵を打撃魔弾で破砕すると、彼は血路を探した。町のそこかしこを徘徊している巨大な魔導従兵たちの数からして、既にこの都市は先進市民軍の魔女たちによって制圧されつつあるのだろう。


「(バラバラになった魔女諸国を、再び結集するには……!)」


 老いて役目を終えた帝国に代わる、新たな秩序の中核を作り出さねばならない。まずは比較的友好的な、中央に近い諸国を再び取りまとめることからだ。(くに)(つら)ねるのだから――


(ベルゲ連邦か。御辺にしては悪しからぬ着眼なり)

「大きなお世話だ!」


 クラウゼは結社の本部を目指して飛翔を続けた。

 時に、世暦1292年。






 夕刻にアイルとイノリアから依頼を受け、戸惑いながらも報酬を取り決めた。現代のこうした場合における報酬の適正額というのは霊剣に頼っても分からなかったが、エルメールへの対処に成功したら、それまでの護衛報酬と併せていくばくかの食料品と、十日分の路銀に相当しそうな切りのいい額を受け取ることとなった。

 そうして深夜から彼女、エルメール・ハザクの到来を待ち続けること数時間、結界に封鎖されようとも、空から矢でも降り注がない限りは人はひとまず寝入ってしまえるものらしく、ドロメナは静まり返っていた。魔女の知覚で感じられる、村の外に渦巻く不気味な力も、慣れてしまえばどうということはないようだ。


(主よ)

「あぁ……」


 ともすればうとうとしていた意識も緊張感に引き締まり、魔女の知覚に生じた波紋の源へと意識を向けた。波紋は小さく密かで、度重なる戦闘で知覚を強めてきたグリュクの他に、気づけた村民がどれだけいただろうか。寝床を借りていた村長の家の物置小屋から歩き、亜麻色の髪の妖女と互いの姿を視認しあったのは、村の北側に面した何かの広場だった。

 空気から抽出されたように姿を現し、ガス灯に照らされる妖女の姿を、注意深く観察する。


「忌々しいって、まさに今のこの気持ちのことね」


 その妖族の女、エルメール・ハザクが、静かな怒りと共に呟く。ぴりと音さえしそうに張りつめた村外れの夜明け前の空気に、グリュクも緊張せずにはいられなかった。或いは、彼女のその一言で全ての大気が実際に電荷を帯びたのかも知れないが。


「気を悪くしたら悪かった。でも、どうしても彼と結ばれたいのか」

「愚問よ」

「……今の彼の気持ちを尊重してあげることは出来ないかな」

「彼もたまには惑わされることくらいあるわ。先約が優先されるべきだと思わない?」

「前世の約束の成就の為に、現代人は犠牲になれっていうのか!」

「そうよ」


 一抹の疑問も感じていないらしいその答えに、絶句する。


「私とハウブレイスは特別なの。一度生まれ変わったくらいで愛情を忘れるそこらの凡俗と一緒にしないで」


 それで問答を打ち切るということなのか、彼女は小剣を抜いて妖術を構築し始めた。


(速い!)


 主であるグリュクには、霊剣が小さく狼狽したことの方が驚きだった。それほどの速度で形成された術は、冷ややかな声によってそのまま自然界に解放される。


「死になさい」


 出現したのは針の天井、いや、無数の針の(けん)。グリュクに対して全方位に出現し、そのまま急激に到来して内側の空間を埋め尽くす――その直前、


「弾けッ!!」


 発動が間に合った炸裂念動力場が魔弾の針を全て外側へと弾き散らした。だが、それらが落下して雑草の目立つ土の地面を叩くを待たず、既に妖女の次の術が完成している。恐ろしいことに、針状魔弾圏に「連鎖」させて発動したものではなく、一つ一つの術の発動速度が常識外れに速いだけだと理解できてしまう。


「無駄な足掻きをッ!」


 呪文によって自然界に放たれた次なる針の魔弾の群れが、今度は一条の流れを成して殺到した。グリュクは霊剣を振るってそれらを幾つも叩き落とすが、絶対的な手数が足りずに刃の軌道の内側へと魔弾の進入を許し――


(急所に当たるものだけ弾け!)

「(言われなくても――)」


 急所とはこの場合、脳を納めて感覚器官の集中する頭部、器物を操作する手指に腕と体重の移動を行う足、その関節と筋肉、腱の全て、及び心臓と肺などが相当する。急所が寄り集まって出来ていると言っても過言ではない人体は、本来であれば魔法術戦闘を行うには脆弱すぎる。

 だが霊剣に蓄えられた剣士たちの呼吸は、一見認識不可能でありそうな、そうした魔弾の群の軌道すら捕捉した。それでも更に一撃して数本を薙払った所で通常の身体速度の限界に達し、一本の針が心臓の前に差し込んだ左腕の甲に鋭く食い込んで貫通する。そのまま、同様に長さ二十センチメートルほどの針が次々とグリュクに突き刺さり、体躯に傷と運動エネルギーを与えては消失していった。合計十数発の針状魔弾の直撃を許し、たまらず後ろに吹き飛ぶ。


(主よッ!!)


 魔弾はすぐに消滅したので、転がった拍子に針がより深く突き刺さったり、筋肉の運動を阻害して更に傷口を抉るようなことはなかった。ついでに言えば、爆発したり魔法毒に変化したりする魔弾でもないようだ。この構築速度ではそうした作用を持たせることまでは出来ないのか、それとも切り札として隠し持っているのか。ただの魔法物質の針らしいとはいえ十発以上が上半身を中心に突き刺さり、その内のいくつかは首筋や臓腑を貫通している。創傷自体は小さいが、そういった動脈のあった箇所からは勢いよく血が漏れ出た。例えようもない激痛に、それでも意識を吹き飛ばされずに森を駆け抜けるグリュクに向かい、


「燃え尽きなさいッ!!」


 山火事を起こすことなどに躊躇はないらしい白熱魔弾が高速で飛来する。接触当初から加速しなかったのは大きな失策だった。神経加速と身体強化を連鎖させるには集中と十数秒の時間を要し、妖女の術の発動速度はその隙を与えてくれない。


「弾けッ!」


 それを何とか念動力場で着弾寸前に空中へと打ち返し、ひたすら走る。エルメールの魔弾が空中で破裂した音を聞きながらも、ひたすら刃物で切り刻まれているような痛みを訴える首から下の上半身を霊剣の刃で申し訳程度に庇い、何とか集中する。


「……癒し給え……!」


 魔法術を解放して、開いた無数の傷口を縫合する。より集中を行えば――例えば以前グリゼルダ・ドミナグラディウムが行使して見せたような「復元」レベルの治療が可能だが、今回は集中できる時間が少ないため接着剤で強制的に傷口を塞いだような効果を出すに留めた。そのため、余剰エネルギーが緑色の波長の光となって目に映ることも無い。

 だが、痛みまでは和らげられずとも、出血だけは防がなくてはならない。変換小体を含んだ血液を失うことは、魔女にとっては術行使力(じゅつこうしりょく)の減少をも意味するからだ。


(警戒せよ、攻撃が止んだ)

「ああ……っ()つ……」


 不自然な静寂は総攻撃の準備の可能性がある。こうした時こそ最大限の警戒を行うべきなのだが。丸みを帯びて苔むした岩の陰に隠れ、グリュクは幾つもの貫通創(かんつうそう)の痛みに呻いた。村からは徐々に離れてきている。

 ただ、あの状況では、針状魔弾の連射から心臓や肺、眼球や脳、関節部分などを守れただけでも上々だった。これほどまでに人間の体は損傷に弱いと、字句通り痛感する。


「!?」


 表面の傷口だけを塞ぐだけ塞ぎきった所で、巨大で緻密な妖術が発動する直前の気配を彼の魔女の知覚が捉え、危険を伝えてきた。


「潰れなさい!」


 その悲鳴じみた呪文と共に、大地が急速にこちらを圧迫し始めた。猛烈な勢いで足下がせり上がってくる感覚に身構えるが、体勢が立て直せない。周囲を見ると、全ての枝葉が大地に向かって湾曲を始めていた。みしり、ばきと一部の枝が折れ、枯れかかっていたものだろうか、いくつか樹木が幹ごと倒れて地響きを立てる。体も、重い。遮蔽物にしていた大岩までもが、ずぶずぶと大地に沈みこんでいる!


(重力増大だと!?)

「(ねじ曲げるんじゃなくて、重力の自体の強さを増した……!)」


 それは板切れを水の流れに差し込んで流れを変えるのと、蛇口も無しに器の中の水を増やしてみせることとの違いに匹敵した。魔女に比べて圧倒的な量の変換小体を体組織に保有する妖族ならではの、膨大な魔力を必要とする大妖術だ。変換小体の絶対量で遙かに劣る魔女では、特殊な補助無しには使用できない。

 重力に負けて血液が体の下部へと下降すると同時、頭部からその分血液が減少して軽い貧血すら起きていた。グリュクは妖女の位置さえ特定でいていないが、彼女の方は間もなくこちらの位置を特定し、彼を中心としたごく狭い領域に重力増大の範囲を収束させるだろう。念動力場では重力そのものを押し返すことなど出来ず、潰されるしかない。

 ならば。


「噴き昇れえッ!!」


 全身が傷に苛まれる中完成させた、会心の魔法術が発動した。今まで折に応じて彼の体を空中へと舞い上がらせていた重力作用転移の術、その拡大版が、広範囲の重力をねじ曲げる。エルメール・ハザクの妖術によって増加した重力によって、強烈に押しつぶされていた周辺の物体全て(・・・・・・・)が、強さをそのままに正反対に逆転した強大な重力によって、天空へと激しく音を立てて爆散した。

 岩が、土壌が、その中の小石や砂粒が、そこに深く根を張っていた木々が、虫たちが、水分が、粘土層が、環境と生態系そのものが数百メートル四方の範囲で空中高く巻き上がり、それぞれが急激な天地の反転に踊り狂う。自身は耳を塞いで村人たちを叩き起こしたであろう爆音に耐えたが、副産物として一時的にエルメールの聴覚を奪えたかも知れない。


(彼女の前で重力作用転移を使用しなかったのは幸いであった)

「(たまたまだけどな……)」

(そうした偶発要素を生かせばこそ、強敵に一歩先んじ得る也)


 術者(エルメール)が重力増大の妖術を解除したためだろう、反転した重力はすぐに元に戻り、大地から朝焼けへとまき散らされた土壌や樹木は自然法則を思い出して再び低きへと戻っていった。臭い立つ土の雨が重厚な低音を響き渡らせ、数秒ほど周囲を黒く染める。

 その数秒の間、落下する土くれや木々の織り成すわずかな間隙(かんげき)から、グリュクは一瞬亜麻の髪色を見いだした。それもすぐに巻き起こった土煙に覆い隠されたが、方向だけでも記憶に留めて。神経の痛みが傷のそれと判別できなくなろうとしたその時、急いで構築した連鎖複合が完成した。


「研ぎ澄ませ給えッ!」


 魔法術の発動速度で劣るなら、もう一つの得手でぶつかるしかない。初手で使いそびれた切り札が、術者である剣士を近音速(きんおんそく)の領域へと招き寄せた。既に舞い上がった土砂樹木はほとんど落着しきっていたが、それでも小さな微粒子である土煙や花粉などは周囲に漂い続けている。

 魔女の知覚を頼りに――妖族である相手も同様に第六の感覚を持ち合わせているが、加速している今、反応の速さならばグリュクが勝っている――妖女の位置を特定し、大気中を漂う微粒子のつぶてを全身に浴びながら、走り心地の悪い柔らかな土の足場を蹴って疾走した。それでも魔法術で強化された脚力ならば、音が耳にたどり着いてそれに彼女が反応する前に一撃を与えられる!

 二百メートルは離れていたであろう彼女との間の距離も一秒足らずでゼロになり、姿勢を下げて彼女の足を狙った蹴りが――それが女相手に生じた慢心だと言われれば、否定できない――回避され、グリュクの一方的な加速中にもかかわらず彼に向かって小剣が突き出されるが、霊剣で刃そのものを切り飛ばす。煙の舞う乱れ果てた森を鋭い多角を描いて妖女の死角に回り込み、今度は横から突き飛ばして体勢を崩し、その喉元に霊剣の切っ先を突きつけることに成功した。同時に、加速を解除して激痛に身を委ねる。

 妖女の亜麻色の髪と白い産毛に覆われた大きな耳が、黒い土に広がっていた。転倒ではだけたマントのような布の下の胴は、簡素な皮革の胸当てで覆われている。例えそれが炭素合金だったとしても霊剣の刃は防げないが、何かの試合であれば敗北の判定を受けたであろう体勢の彼女が呟いたのは。


「服が汚れちゃったじゃない……!」

「……諦めて帰ってくれ」


 その発言に対して絞り出せた台詞は、そんなものでしかなかった。広範囲の重力を一時的に反転させたのは、会心打ではあったが同時に神経の限界を早めた。強力な物を使用したければ、しばらくは魔法術の行使は控えなければならない。いくら霊剣の加護を受けたとはいえ、魔女としては生後(・・)二ヶ月に満たない霊剣の主と、多様な妖術の扱いに通じた知性ある妖族との、圧倒的な戦力差。


「帰る……?」


 嘲りの声が、霊剣の向く先から発せられる。狼狽こそしなかったが、その声に切っ先が微塵も押されなかったかどうか、自信が持てなかった。


「今更残ってる訳がないでしょう、そんな場所がッ!!」


 表情を歪めに歪め、仰向けになったままの妖女がこちらの知る由もない事情を叫ぶ。だが不覚にも一瞬、その声の物悲しさに怯んでしまった、そこに生じた隙。彼女の手に残った折れたままの剣がそれを狙う。

 折れたりとはいえ、妖族の膂力で振られた小剣は霊剣の刃の腹を横から弾いて彼女に反撃の機会を与えるのには十分な役目を果たした。とっさに霊剣の柄から離して顔の前に差し出した左手、前腕に金属塊が炸裂する。肉と前腕骨を砕かれながらも、顔面を破壊される事態は防ぎ、後ろへ跳躍する。


「……!!」

(何とか止血せよ!)

「無理だ……!」


 そして彼女の懐から次の武器が飛び出す前に――そうした確証は無かったが、更に二メートルほど跳んで後退して片手に霊剣を構え直した。

 エルメールがグリュクの顔に向かって、その仰向けのままの姿勢で折れた小剣を投げつけたのだ。左手の前腕は見るに絶えない状態になって痛みすら感じなくなっていたが、もし彼女が肩や腰の捻りまで使って全力で投擲していたなら、腕で防御した程度では即死だっただろう。

 出血を案じながらも分析しつつ、相手の動きを見据えた。


「怪我をしたわね……私に情けをかけようとして!」

「……君は、そのハウブレイスという恋人のことが忘れられないからこうしてここにいるんだろう。それは……それ自体は悪いことじゃない……!」

「情けで助けてくれたのなら、情けでハウブレイスも返してくれるわよね」


 そう話す妖女の微笑みは、妖艶だったと言える。白い耳や亜麻色の髪は未だ舞う土煙に大いに汚れていたが、傷と神経の痛みが全身を蝕んでいてもなお、その表情には注視を促す魔力があった。前世の記憶とやらのなせる技か。


「……何でそうなる」

「だって、私に同情してくれてるんでしょう?」

「……忘れることは出来ないのか」

「…………話を聞くように見せかけて、時間を稼いで疲労と傷を癒す気ね……卑しい魔女ッ!!」

「話しかけてきたのは君の方だろ……!?」


 彼女は叫んで瞬時に針状魔弾の群を撃ち出し、今度はグリュクもそれを回避する。まだ止血は出来ていない。


「(……! 少し血が出すぎたか……)」 


 小さく眩む視界に焦燥が(にじ)み、魔力はますます減少してゆく。先ほどの天地の反転で周囲の樹木は殆ど倒れてしまい、まともな遮蔽物が無くなってしまったのも痛い。

 呪文と共に放たれる妖女の術の直撃を覚悟して霊剣を構えると、耳に小さな爆音が届いた。


「……!」


 否、爆音ではなく、銃声か。エルメールのものではない。彼女の動きを警戒しつつその音源を確認しようとすると、妖女の形相が悪鬼的に歪み果てていることに驚く。その視線の先には、猟銃を持った少女。


「……!」

(イノリア・キャラウェイ!?)


 就寝中だったのかどうかは分からないが、先ほど天地が逆転した時に生じた爆音で異変を知り、やってきたのだろう。そもそも銃弾はエルメールには当たっていないようだが、妖族は身体強度も高く、鳥獣を撃つ程度の散弾では相手にもよるが皮膚で弾かれてしまうこともある。ましてここまで術に長けた妖族に対して散弾がどれほど効果があるだろうか、小さな魔女の表情は己の無謀に戦慄しているようにも見えた。


「泥棒猫がおいたをするとどうなるか教えてあげるわ……!」


 腹の底から憎しみを声にして吐き出すと、妖女は土を蹴ってイノリアに向かって疾走する。女と言えど妖族の筋力であれば、少女の細首をはねとばすなど造作もないだろう。

 最悪エルメールを背後から刺殺するべく霊剣を投げつける姿勢を取ると、そこに更に人影が現れて妖女の動きが突然停止した。


「…………何故」


 土煙に薄汚れた耳を怒らせながら、エルメール・ハザクは戦慄しているようではあった。驚愕か動揺か、その後ろ背が震えているのが判った。


「何故あなたがそんな小娘を庇うのッ!? ハウブレイスッ!!」


 見れば、走り寄ってきたアイルが、イノリアを庇って妖女の前に立ちはだかっているのが、その肩と耳の間から窺えた。視線は彼女を恐れつつ、それでも小さな恋人を守るべく手を大きく横に広げて両足を荒れた土に踏ん張っている。


「例え僕に前世があって、その生き様があなたの言う通りだったとしても……今の僕の恋人は彼女です! 僕はイノリア・キャラウェイを、妻にします!」

「…………ッ!!」


 まさしく宣言。いっそ清々しい青年のそれを聞くや否や、少女は状況にも関わらず猟銃を抱きしめながら紅潮し、妖女は絶句した。こちらに背を向けているので実際は分からないが、まさか、泣いているのか。電に打たれたように天を仰ぎ見るエルメールがそれ以外の動きを見せたのは、グリュクが何とか魔法術を捻りだして左手の傷に応急処置を施した時。


「……あなたのせいよ」


 九十度右に体を向け、上空を見上げる角度で首を曲げたまま、妖女は顔だけをこちらに向けてそう言うと、次の瞬間こちらの視線の先から消えた。とっさに構えた霊剣の刃が、飛び込んできた白い刃を受け止める。左腕は皮膚を繋いで出血を止めただけで、筋肉や骨は柄に添えることも出来ないほどに損傷したままだ。


「あなたが来なければ、全部上手く行ったのよッ……」

「ッ!?」


 打って変わって今にも泣き出しそうな妖族の娘の声が、グリュクの耳朶を苛む。その刃を鍔近くで弾き、刃の素早く引かれた先の、その持ち主であろうエルメールの姿を追った。

 その手には、おそらく妖術で生成されたらしい、うっすらと輝く白い剣が握られていた。それを振り回す妖女の目には、涙。


「二人とも、ここから離れて!」


 少々血液を失いすぎたことでまともに声が出せていたかどうか怪しかったのだが、アイルがイノリアの手を引いて立ち上がらせるところまで確認すると、彼をめがけて振り回される剣を受け止めた。

 妖族の筋力で突き出される刃であっても、四肢を持った使い手から繰り出される器物による攻撃であれば、霊剣に秘められた剣士たちの記憶はそれを跳ね返す。


「何故邪魔するのッ!? 私が何をしたっていうのよッ!!?」

「…………ッ!」

(何ともやりづらいッ……!)


 だが、いかに身勝手な理由でやってきたとはいえ、涙を浮かべて不条理を訴える娘に向かって刃を振るって殺すという記憶は、霊剣の中にもなかった。右腕だけで霊剣を振るい、何とか彼女の剣をその手中から弾き飛ばす。だがエルメールが短く呪文を呟けば、全く同じ物がその掌に出現して握られた。判断力が低下しているのか、離れて広範囲を攻撃する術を連発されなかったのはせめてもの救いと呼べるか。


「何とか言いなさいよッ!」


 その涙声によって、エルメールが超高速で妖術を解放した。間の悪いことに、それがちょうど失血でバランスを僅かに崩した隙と重なってしまう。あるいは、涙を見せつつそれを見越して技を繰り出す理性は残っているのか。


「うッ……!?」


 術は幸い、毒性の魔法物質なども含んでいない突風だった。即死は免れたが、しかし樹木に叩きつけられて完全に動きが止まる。そこに急所をめがけて魔法物質の白刃が突き出され、少し乾いた音を立てて突き刺さった。


「…………!」

(何事だ……!?)


 すぐさま横に跳び退いて状況を把握すると、まず自分が生きていることが確認できる。妖術の剣は首筋の左に僅かに外れて背後の樹木に突き立ち、そして彼の体を傷つけることはしなかった。グリュクは一時的とはいえ完全に対処能力を失っていたので、剣が喉を外れたのは彼が何かをした為ではない。

 その一撃を発したエルメール・ハザクはというと、未だにそれを握って幹に突き刺したまま、俯いて唸っている。表情は髪と耳に隠れてよく分からないが、その口元は回避された悔しさなどといったものではなく、純粋な苦悶に歪んでいるように見えた。今は先ほど何度かやったように、術で作り出した剣などさっさと放棄して、新しい物を生み出して攻撃してくれば良い所だ。そうしなかった理由は、単に怒りで度を失っているというだけなのか。


「(必中の一撃を、外させる要因……!)」


 そこに。


「今更女々しいことをッ! 大人しく引っ込んでいなさいッ!!」


 思索を引き破る妖女の怒号に、身構える。聞き取れた内容は脈絡がなく、霊剣とその主を困惑させた。


「(……何だ今のは。俺に向かって言ったのとは違う感じだ)」

(吾人も要領を得ぬ。だがあのタイミングで吾らを罵ったのだとしたら、酷く頓狂な娘ではある)


 だが、それ以上の推論は許さないとでも言うように、妖女が面持ちも清々しく顔を上げる。


「あなた……情け深いんだと思ってたら、甘っちょろいだけみたいね。今の隙を攻撃しないなんて、そんなガラクタを振り回すよりお笑いの方が向いてるわよ」

「…………!」

「いよいよ以て、死になさい」


 余裕を取り戻した声で淀みなく形作られた呪文によって、再び自然界へとやって来る針の豪雨。近づいてきていた森の無事な領域に逃げ込み、今度はそれを全弾回避出来た。だが、


「(何なんだ、いくら妖族って言ったって……!)」


 先ほどの彼女の行動は、明らかに不自然すぎた。意図的に外したかのような一撃、そしてグリュクではない誰かを詰るような台詞は、なにを意味しているか? 再び彼女が大威力の妖術を仕掛けてくる前に、推測を交えつつも相棒に呼びかける。


「ミルフィストラッセ、あれをやる……!」

(うむ、吾人も大いに興味がある!)

「こそこそと! 隠れたまま死にたいのね!」


 その声を呪文に、グリュクの四方に魔法物質の巨大な壁が出現した。半径は数十メートルほど、集団の防御に用いるような規模があったが、ただしそれを構成するのは、超高温の魔法物質の流体。つまり高速で渦巻く溶岩のようなものだ。それが恐ろしく速やかに、木々を焼き尽くしながらその中心である彼に向かって収縮を始めていた。


「吹き飛べッ!」


 呪文を唱えて打撃魔弾を投射するが、炎の壁に一瞬開いた大穴は、次の瞬間塞がってしまった。万全な状態であれば、座標間転移で炎の壁の外へと脱出することが可能だろう。現状で変換小体への負担が大きいそれを使用して、神経の壊死を誘発して構わなければ。

 だが、霊剣に蓄積された魔女たちの戦闘経験は今代の主の更なる生存に向けて、別の解を導き出した。霊剣を構えて集中し、全身の細胞に存在する変換小体を通して空間に遍在する魔力線へと働きかける。土の色の魔人に倣い――


「貫き通れッ!」


 意思ある言葉によって自然界へと解放された術は魔法物質の奔流となって発現し、グリュクを包み込み――そのまま超音速の流体の螺旋となって高密度・超高温の魔法物質の壁を突き破った。


「――!!」


 驚愕するエルメールの肉体を傷つけることなく、その左後方まで突進した所で魔法術は解除され、彼女が迎撃の魔法術を発動させるその前に、すかさず霊剣が叫び、その刀身が輝く。


「教えて貰うぞ、君が誰なのかを(・・・・・・・)!」

(妖族の娘よ、許せ……! 御辺の隠し事、暴き(そうろう)ッ!!)


 霊剣は気迫と共に刀身から金色の粒子を生じ、それらは瞬く間に二人を包み込んで周囲の森に溢れた。

 器用にその耳で光を遮りながら、妖女が呻く。


「何……この光はッ!?」


 霊剣ミルフィストラッセはその特質として、過去に彼を所持した魔女の記憶を内部に蓄積し、次の持ち主へと継承させることが出来る。剣闘技術・魔法術に限らぬ様々な知識や経験が秘められているだけでなく、持ち主が魔力と音声を提供することで自ら魔法術を行使することまでもが可能だ。

 だが、現在の主であるグリュク・カダンが手にしてからはただ一度だけ、それらと異なる性質を発現させたことがある。

 それ自体が光を発しているようでもあり、光を反射して煌めいているようでもあり、そのように空間に迸り出て回遊するこの金色の粒子には、その中に包み込まれた意思と意思、記憶と記憶とを一時的に繋ぎ合わせ、霊剣の主であるグリュクにとっては相手の記憶を垣間見せる現象だった。

 粒子の動きと光が勢いをいや増し、視界を埋め尽くして彼を、そして恐らくエルメール・ハザクをも、記憶の波打ち際へと誘う――

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