1.スオーディア・テトラストール
永久の別れを告げるべき言葉が、思い浮かばない。彼女に対して優しく微笑むその表情の下にどのような思いが去来しているのかも、想像する他ない。今となっては、真相は時の彼方。
だが、互いに告げた言葉は覚えている。年月と共に色褪せていったその記憶の情景の中で、台詞だけは鮮明だった。変わらぬ愛情や不滅のまごころを示すべき、魂の言葉。
美しく光差す雨上がりの高原で、最愛の男が彼女に告げる。
「ありがとう、エルメール。心残りは果てないが……君が私を愛してくれたという事実の一片で以て、私は奇跡の存在を信じることが出来た」
勇気ある魔女の戦士の声も、迎えんとしている今生の別れの前に震えているか。
「ハウブレイス……あなたが言葉を尽くしてくれる、それだけで今は満足。いつまでも待っているわ。時の果てに空の黒ずみ、海の枯れ果てるまでも」
「……そこまで君を待たせるのは忍びない。生まれ変わったら、今度こそ君を幸せにしてみせよう」
「もう充分、幸せを貰ったわ。でも……そうね。そうであったら、どんなにいいでしょう」
そのような言葉は、寿命の違いすぎる彼女に対する彼なりの優しい嘘であったかも知れない。どこまで永らえようとも精々百年で死ぬ魔女の男と、あと四百年は生きるであろう妖族の女。彼は遠く聞こえる軍勢の気配に体を向けると、小さくなってゆく後ろ姿を見せまいとしてか、転移の術を組み立てた。原理の上では、それを解き放つ呪文が別れの言葉となる。
「ハウブレイス――!」
「また会おう、エルメール・ハザク」
なお未練がましく何かを言おうとする彼女を遮るその台詞すら優しく、温かい。
透き通るように戦場へと赴いた、かの最愛の男との思い出。
「必ず――必ず探し出すわ、ハウブレイス!」
その記憶だけを寄す処に、今も彼女は生きている。
まだ肌寒さの残る、春のある日の明け方、ある都市のスラムの一角、かき集められた廃物で以て塗り固められた廃屋。その二階の廊下に、彼女は佇んでいた。饐えた臭いがそこかしこから漂ってきているが、その源は恐らく、視線を投げれば必ず目に入る生活廃品、つまり酒瓶や空の缶詰といったものだ。人を酩酊させる揮発成分や、腐敗した食物の臭い。そこらで伸びている彼らにしてみればさして気になるものでもないのだろうが、少なくとも、グリゼルダ・ドミナグラディウムはそうした臭いを到底受け入れる気にはなれなかった。鼻をつまんで、口だけで呻く。
「あー……くっさ……」
(事前に分かっていたはずのことで不平を漏らすのは霊剣の主の行いではないよ、グリゼルダ)
黒髪を背中まで伸ばした少女、周囲の光景からは全く遊離したような、身綺麗に小洒落た身なりの娘。少なくとも、ゴミの散らばり男たちが倒れ伏して呻いている薄暗い廃墟とは、決定的に異なる属性の持ち主だった。
その腰には、やや小振りだが彼女の体躯に見合った大きさの、鞘に収まった剣。それこそは、過去の所有者の意志を受け継ぎ、その記憶を次代の所有者へと継承してゆくことを使命とする霊の剣。この世に幾つか存在するが、彼女の相棒となったのはレグフレッジと銘じられた一振りだった。
新しい帽子を目深に被り直して、彼女はまたも呻いた。
「だってこいつら、見つけるのに半日かけた割に碌に貯め込んでないじゃない……」
(小規模とはいえ、都市強盗団の拠点を壊滅させたことで満足すべきだ)
「役得って典雅な響きだと思わない?」
(響きはともかく、積極的に求めるべきものではない。自分からそれを得ようと働きかけるなら、それは欲得というものだよ)
「はいはい霊剣さまは言葉遊びもお上手ですこと」
そろそろ長い付き合いになる相棒に本音半分に毒づきつつ、ゴミの散らばる廊下の端にたどり着き、板切れを集めて塞がれた外への出口を蹴りとばす。埃が舞い散るが、服は先ほどの鎮圧作業で既に少々汚れてしまっていたため、これ以上気にしても仕方ない。外への経路を確認すると、そこは錆び落ちて降りられなくなった非常階段に繋がっていた。
そこでため息をつくと、レグフレッジが似たような調子で同じことをして見せた。剣が吐息を漏らせる訳ではないので、あくまでそのような雰囲気で、といった所だが。主人である彼女の性格が移ったのか、あるいは逆か。
(全く……意志の主だったらもう少し穏当にやっていそうなものだよ)
「……何でそういう話になる訳」
唐突にとある青年の話題を出され、訝しむ。
(同じ霊剣の主、比較することに何の不自然さもないだろう。何か気になることでも)
「彼は関係ないでしょうが!」
(普段はあいつだのそいつだのと霊剣の主らしからず口の悪い君が、“彼”などと、随分お上品に……あ、やめッ痛いッ!!)
彼女は生き残っていた階段の鉄の手すりに、レグフレッジの刃の腹を何度も叩きつけた。
「腫れたの惚れたの、あんたこそ発言が霊性の剣にふさわしくないんじゃないの……!?」
(お、折れるかと思った……)
「もう動ける奴はいないみたいだし、あと少し漁ったら撤収するからね」
(別にいいじゃないか、年頃なんだから気になる男の一人や二人――)
一際大きな金属音がスラムの廃屋に響いた。
裁きの名を持つ霊剣の加護があるとはいえ、未熟な少女としての自我が消え失せる訳ではない。
落葉樹の枝先が芽吹き、小鳥のさえずりも活発になってきた。時折猛禽がそうした鳥たちを散らして我が物顔に飛び回っては、特有の鳴き声をあげる。
そんな山の中、エルメールは遠くからその青年を見つめていた。術で目に入る像を拡大し、鑑賞と言ってよい勢いで見守る。所作、造作、体格、髪、そしてなにより優しい瞳。一刻も早く、その声で名を呼んで欲しいものだ。
「(あぁ……まさに生き写しだわ……!)」
戦火の向こうに消えた愛しのハウブレイスは、約束通りにこの世に再びやってきてくれたのだ。五百年彼を待ち続けた自分の信念が、まずは半分報われたことになる。いや、ほぼ報われきったも同然だ。こうして互いに若い姿で再び時代を同じくし、それどころか巡り会うことが出来たのだから。
急いで彼の許へと向かおうとするエルメールの視界に、だが何か映った。
そこには、青年の側に歩み寄る、小娘。実子では無かろう、妹か何かだろうか? だが、その小さな娘は相手の至近距離まで近づくと腕を伸ばし、正面から抱きついて接吻さえして見せた。
「忌まわしい!」
何という忌まわしき事態か、思わずそれが声に出た。彼にはエルメールとの前世からの先約があるのだ。それを無視して、小水臭い猿がそのような行為に及んで良いものではない。事態を許した世界法則に対して大いに怨念を募らせながら、エルメールはざくざくと音を立てて草葉の茂る獣道を歩き去っていった。
事態を正すべく村に着いた時には既に彼が商売で西へ出発していたことを知り、歯噛みすることになるが。
風を切って街道を走るトラックは、彼方の雲間から差し込む曙光に照らされ、荷台に縛り付けられた積み荷の覆いをばたばたと風に震わせる。川に架かった橋を渡ると再び森に入り、そろそろ芽吹こうとしている落葉樹の枝々が本格的な春の訪れを待ち続けていた。
そして横腹を朝日に赤く照らされた雲の向こうには、月が沈みつつある。都市圏ならばそうでもないのだが、発電施設のあるそれらを大きく離れた都市間地帯では、未だに様々な理由で完全電化は為されずにいた。故に、街道には夜間が全くの暗闇となる区間がかなり存在する。そういった危険な区間に入ることなく夜をやり過ごすために宿場町があり、車中の二人の青年は昨晩もそうした町で車を休めたのだった。
所々塗装の剥げた標識に記された地名を見て、運転している方の青年が口を開く。
「もうすぐダンスタークですよ」
「そこから列車だとグラバジャまではどのくらいですか?」
「乗ったことがないので分かりませんが……同じくらい離れてる別の町へは自動車だと三日くらいですね」
「三日かぁ……」
助手席に座った赤い髪の青年が、小さく呻いて天井を仰ぎ見る。上背があるせいで、その座席はやや窮屈にも見えた。
腰から外して窓際に抱えているのは、剣。今は沈黙を保っているが、ミルフィストラッセと銘じられた、持ち主の記憶を代々受け継ぎ続ける使命を帯びた人格剣だ。
魔女相手には言葉を発することなく会話が出来るが、逆に言葉を発すれば魔女に察知されずに話すことが出来ないため、自動車の所有者である青年が運転しているこの場では口を噤んでいる。
グリュク・カダンは文句を付ける代わりに、その剣に秘められた過去の所有者たちの記憶を思い起こしてみた。
幌の下で朝を迎え、スオーディアは背筋を伸ばして欠伸を漏らした。初夏というにはやや遅すぎるが、湿った空気に運ばれた草木の香りが鼻に心地よい。
「ほわ……」
上着を引っかけながらのろのろと這い出ると、さらさらと降る霧雨が朝日に照らされて、中々に幻想的な光景が広がっていた。背後には、沈みつつある月。魔女と妖族との戦争が続く中、天空の彼らはそうしたことを全く無視して運行を続けている。
そんな他愛もないことを妄想しつつも寝癖のついた前髪を霧のような雨水に濡らして整えていると、彼女の内心に響く声があった。
(主よ、若い娘がそのようなはしたない格好で歩き回るべきではない)
それは、彼女の毛布に埋もれた鞘の中の剣だった。師の人格が複写された永久魔法物質製の剣、銘ミルフィストラッセ。複写なのだから当然ではあるが、何から何まで彼女の師にそっくりな性格をしており、喋り方から魔法術を含めたあらゆる知識や経験までもが同じだった。違いは互いを別個の存在として認識している点だけ、よってスオーディアは師の前以外ではこの剣のことを、元人格と同じく師父と呼んでいた。
濡れた髪を手ぬぐいで拭きながら、幌の中の剣に語りかける。
「あなたと私以外、周囲にはいませんよ」
(そのような時こそ、吾が主としての心構えが試され――)
「四六時中まじめな師父には目の毒ですか? ふふ」
少々その種の媚態を意識して体をひねり、下着の他には上着を肩にかけただけの格好で剣をからかってみる。本人相手にはとても出来ない悪戯だが、道中この程度の楽しみは許されるべきだろう。霊剣の主となって戦いの経験を積むなどという、曖昧で漠然、終着の見えない使命を課せられたからには。
(そんなことはどうでもよいから、手早く出発いたすぞ)
「そ、そんなこと……」
本当にどうでもよさそうな霊剣の言い方に軽い敗北感を覚えつつ、スオーディアは樹木の間に張った索にかけた幌を取り除いた。それらを畳んで背負い袋に詰め込み、穴を開けた岩の中に魔法術で抽出した蒸留水を沸かし、そこに放り込んでふやかした干し肉を齧って腹を満たす。
先ほどからどこかで猿の群れがしきりに高い鳴き声を出して群同士で合図を送りあっている音が響いていた。警戒を要する、捕食性の大型猿のものだ。
そして私物をまとめて薄い外套を羽織り、霧に転じつつある雨の彼方の、青紫に煙る様を視た。小高い丘から見下ろす雨林の朝は美しいが、そこに踏み込んで行くのは決して気軽な道筋ではない。
「(霧が晴れるのを待っては……いられないよね)」
時を越え、心と心を繋ぎ、牙なき者の牙となる使命。その第一歩を踏み出さなくてはならない彼女の行く手は、それは丁度、この朝霧の景色に似ていたかも知れない。
時に、世暦705年。