4.怪人大作戦
冗談抜きで「拡がっている」、その巨虫の群を彼方に捉えてグリュクは息を飲んだ。大地が憤っているかのような土煙は地平線の彼方から際限なく生じつづけている。通常、地平線とはおよそ4キロメートル前後の先にあるが、視点高度が上昇すればその分遠くなる。ミドウ・ユカリ少佐の箒に便乗して二十メートル前後の高度にいる現在は、24キロメートルほど先がそうなるか。上がっている土煙も、今はまだその程度には離れていることになる。
便乗といっても視界の便宜や少佐の女性としての感情との兼ね合いで、彼女の箒に巻き付けてあった懸架用の簡易ホイストに足をかけて吊り下がっている形だ。これなら少佐が後方を確認する時にも慌てて視線を避けずに済む上、グリュクにとっても、下方の視界が開けているのは都合が良い。
土煙の合間に覗く金属色の甲殻や、無数に蠢く強靭で重厚な節足。先頭の方の個体はその体の上に、小さな――それでも成人ほどの大きさはありそうだ――別の虫を乗せているようにも見えた。それは「採集個体」と呼ばれる、ひたすらに食物を摂取して巣に持ち帰るための袋のような存在だった。彼らはここに食料を大量に詰め込み、複数体で引きずりながら巣穴へと持ち帰るのだ。大発生の度に、これによって少なくない農家が農地を失っている。
グリュクが魔法術を構築すると、彼の全身の細胞に遍在する細胞小器官「変換小体」が振動、空間を飛び交う魔力線からエネルギーを取り出し、意思に呼応してそれに形を与えた。ミドウ・ユカリ少佐も同様だ。
「砕け散れッ!!」
「火球が破壊するッ!!」
二人の言葉によって、形を与えられた力が自然界へと開放される。熱く輝く二つの光の球が、昆虫たちの濁流の先頭へと炸裂し、超音速で膨張して激しく炎を巻き上げた。数百体はいそうな巨虫の先頭集団が、体節を千切られながらも噴出する赤い体液や噴煙と共に舞い上がり、それが周囲の健在なものに衝突して連鎖的に傷を負わせる。少佐は解除していた飛行の術を再開し、再び高速巡航に入った。
「ほう……口だけじゃなかったみたいだな」
「やるしかないでしょ……!」
頭上の箒から尋ねてくる少佐に、焦りを込めて答える。
宿場町に在住・滞在していた、戦闘に耐えうる強度の攻撃魔法術を行使できる魔女は五十人にも満たなかった。その殆どが分隊級と便宜上呼ばれる、連邦基準で言えば十メートル四方の家屋を一度に一つ半壊させられる威力の術を扱える術者だった。
グリュクとミドウ少佐がたった今使用した爆裂魔弾と同等以上の規模を扱える「中隊級」の者となると、二人を含めて僅かに四名。残りの二人はたまたま休暇中だった精鋭魔女兵の兄弟で、北東から迫り来るもう一つ群を迎撃している。実質はこの四人で、小隊や住民の脱出も完了していない宿場町に迫り来る巨虫の群を連邦軍の増援が到着するまで撃退し続けなければならない。分隊級技能者の魔女たちは、有志の建設業者と協力して宿場町の周囲に塹壕を作成している最中で、これはグリュクたちが足止めに失敗した時の保険だが、無用になるよう努力するに越したことは無い。
(短時間で掘れる壕など、何頭か落としたところでそやつが橋となってしまうだろうからな……実質、撃ち漏らしは許されぬ状態だ)
「やってみせなきゃな……!」
虫たちの群から放たれた弾丸が空気を切り裂いて布を力任せに裂くような音を立てた。小銃に匹敵する威力のこの弾丸は、キアロスが腹部先端から圧搾空気の力で射出する、特殊な岩塊だ。ただの岩ではなく、連射性こそ低いが初速と硬度は銃弾に匹敵する。
「私は回避運動に専念する! 気にせず魔弾を撃ちまくれ!」
「了解……!」
ミドウ少佐が加速して下からの弾雨を突っ切り、グリュクは魔法術構築に集中した。
飛行しての、魔法術による爆撃。魔女兵士の戦い方は様々に考案されてきたが、典型的なものがこれだ。最高速度や火力であればまだしも、旋回性能や秘匿性では戦闘飛行機は魔女の足元にも及ばない。時に雲、時に森林に潜んで陸空の偵察をやり過ごしながら領土深くに切り込む魔女爆撃隊は、王国や傘下の国々に大きな恐怖を与えてきた。
あれが人間の敵であったらどうしたか、などと不穏で意味の薄い仮想を立てながら、グリュクは続けて最大級の爆裂魔弾を三連射した。間違いなく、グリュクとしては過去最大級の破壊的魔法術行使になる。南リヴリアでの閃光魔弾と異なり、今度は無数の巨虫たちの死を伴う、閃光と爆音。
だが、一頭が爆破を逃れて先行した。遠くから見る群の状態では分かりにくかったが、眼下を通り過ぎるその速度は使い間の言った通り、時速にして三十キロメートル近く出ているだろう。
(主よ! 町は防備が極めて手薄ゆえ、一体たりとて突出させるな)
「少佐、回収お願いします!」
「お、おいッ!?」
少佐には忍びないが、霊剣の助言に応じてホイストから手足を離して落下を始め、冷静に魔法術を構築、そして実戦での使用は初となる術を発動する。
「展びよッ!!」
霊剣の刃にまとわりついた魔法物質が急速に伸展し、うっすらと輝く長大な光の刃となった。それをそのまま振りかぶり、突出した巨虫の甲殻を叩き割って体液と土柱を大きく舞い上げながら着地する。
そしてそこに飛来したユカリの箒から垂らされた索を掴み、グリュクは再び土煙を切り裂いて舞い上がった。強い土砂の臭いに軽くむせる。
「バカ、勝手な真似をするなッ!」
「気をつけます!」
ユカリの罵声を浴びつつ、グリュクはなおも無数に迫り来る、遠くのキアロスの群を睨んだ。現在最大級の爆裂魔弾を四発。早くも神経の疲弊による鈍痛が、ゆっくりと忍び寄りつつあった。魔人の青年を相手に使用した連鎖複合のせいもある。
だが、今更後へは退けない。
「……押し戻せッ!!」
一度に込められる最大の魔力を投じて発動させた圧縮魔弾が超音速で着弾し、新たに突出してきたキアロスの一団だったものを破壊的な爆轟でまとめて空中高くばら撒いた。キアロスはその巨体ゆえ、通常の昆虫のような開放血管――つまり血管の無い体構造ではなく、大型動物同様の血管組織と、呼吸色素と呼ばれる酸素の運搬を効率よく行うための化学物質を持つ。これが人間のそれに近い組成のため、キアロスの体液は小さな虫たちの色素の無いそれと異なり赤く、大気に触れれば鉄錆の臭いを生じる。そうなれば、無数のキアロスの死体が飛び散っているこの平原にはどのような色彩と異臭が広がっているか。
だが、その爆炎と土煙とむせ返る鉄の臭いの中から新たな群が出現し、同胞の屍山血河を踏み越え疾走を続けた。
「ゲッホ……キリがない……おいシロミ!」
「無理ですよ、ああいうバラバラなまとまりっていうのにはそもそも全体での明確な弱点がないですから、私の念写じゃそんなの特定するも何も……まさか一体一体写して行けと!?」
「だーもー、この穀潰しッ!!」
「物を食べられない私に向かって穀潰しとはこれいかにっ!?」
(御辺ら、今の状況は理解しているのだろうな……?)
連邦空軍少佐に、亡霊らしき少女。三人は――一人は戦闘技能どころか、今回に限れば支援能力も皆無らしいと今しがた判明してしまったところだ――際限ない物量にじわじわと押されつつあったが、他の場所はどうなっているだろうか?
グリュクは魔法術由来の鋭い偏頭痛を堪えつつ、次の大規模攻撃のための魔法術を構築し始めた。背後の四十キロメートル先には、あの宿場町がある。
一編の論文があった。
題して、「キアロス・ニュクスキエンシスの巣穴における融合性」。
サン・ヴェナンダン連邦軍学校の研究チームによって執筆されたこの論文は、「融合性論文」と通称されている。キアロスが植物食の大型真社会性節足動物、つまり蟻や蜂などのように産卵個体である「女王」を中核とした社会を構成する動物であること、通常は一部の個体が周囲の植物を採集しているだけだがある程度の周期で大量の個体が巣穴を出て暴走的な食料採取を始めることなどを序論に述べ、中長期的なフィールドワークの結果を本論にて提示、そして最後に、
「キアロスの巣は、ある種の蟻のそれのように、互いに合体しあってより大規模な超巨大営巣となる」
という可能性を結論づける内容となっている。これは、通例の数十倍、数百倍の規模の大発生が起りうるということをも示唆していた。
間接的に連邦北東域の農業関連の株価を大きく下げた原因とも言われ、一時は農業協会による軍学校や掲載誌に対する訴訟運動にまで発展したことがあるこの論文だが、どこまで探査しても終わりがない巣穴調査の不結果ぶりを説明出来ることから、現在は概ねの支持を受けている。
しかしながら、前回の大挙出現からたった四年。融合性論文は、十一年という周期性を大きく破って大発生が起きるという事態の異常さについてを説明するものではなかった。
往古からキアロスへの対策を迫られていた魔女諸国にとってもこの事態は初めてのことであり、初動が遅れた。休止された大戦はいつでも再開される可能性があるとはいえ、それも西部のことであり、概ね友好的な妖魔領域に近い東部では西部ほどに即応力が高いまま戦力が維持されていた訳ではないこともある。本来なら、訓練・演習の片手間にゆっくりと準備を進めていって構わない相手だったのだ。
もっとも、そんな事情があったからといって、だから何だという立場の者も多い。
「……軍隊は何やってんだ」
例えば、学士である、或いはかつて学士であった彼は軍の事情などは知らない。すわ戦争かといった風情で慌しく住民や商人が脱出してゆく宿場町の様子を、先ほどまでカイツは苛立ちながら眺めていた。既に彼が屋根の上に座っている家屋のある地区にはもう誰もいないが、町の西と南側では、脱出しようとする住民や商隊とまだ準備を終えていない者たちが渋滞を起こしており、あと数時間はかかりそうだった。財産を惜しむのはその妥当性はともかく、心理としては当然だろう。
もっともキアロスの目標は恐らく、西に広がる穀倉地帯。多少移動した程度ではその濁流からは逃げ切れまいから、最悪、飛べない者を魔女が抱え上げて逃げることになるだろうか。箒の数は間に合うのか、逃げ切った後の難民の処理は。
「(この体じゃ、連合も無理……)」
赤い髪の青年から受け取ったパンの残りを咀嚼し、飲み下す。満腹には程遠いが、ひとまず落ち着いた脳で考えを巡らせた。
数は少ないが、同盟にも連合にも加盟していないという、連邦の南の沿岸地域へと渡るべきか。放送や使い魔の伝える内容を聞くに、十一年に一度大挙して押し寄せては農作物や都市に被害を与える巨大昆虫の群れが迫ってきているらしい。そうなればその襲来予想範囲は無人か、避難誘導で警察などが出払う訳だ。こんな状況は中々ない筈で、もし捕まれば研究所に逆戻り、最悪掃討などということにもなるかも知れない。
そんなことを漠然と思料していると、上空を通りがかった魔女が一人、こちらへ降下して来た。
「ちょっとあなた、何してるんですか!」
分厚い手袋と箒の房の基部から提げた大きな袋は、彼女が伝書局の局員であり、魔女の飛行能力を生かして遠隔郵送に従事していることを示す。歳は十四、五歳といったところか、箒の後ろに十歳前後と思える少年を乗せていた。
「関係ないだろ、お前らこそ何してる」
多少気が立っていたところを呼び止められ、思わず粗雑な言葉を投げ返してしまう。そのことに胸中で舌打ちすると、伝書魔女は箒を握り締めて憤った。
「緊急協力です! 警察も避難誘導とかで手一杯だから、たまたま配達できてたあたしも、取り残されてる人がいないかどうか探してたんですよっ! あなたも避難してください、あたしが見過ごしたって思われてもいいんですか!?」
「…………」
子犬のような剣幕で強気に言い立ててくる黒髪の娘に隠れるように、じっとこちらを見ている少年の瞳を見つめ返す。伝書魔女の娘が見つけた迷子か何かなのだろう。その側頭には、何処かの路商で買ったと思しい、異形の英雄を模した簡素な仮面がへばりついていた。
「(“怪人大作戦”……まだ続いてるのか)」
昔の紙芝居の常連演目が近年普及しつつあるテレビ放送でリバイバルされ、街頭で子供たちを釘付けにしていた。そんなことは、象牙の塔で雑用に励んでいたカイツには知る由もなかったが。
それは誰かに話して必ず共感されるとは言いがたい個人的な思い出ではある、幼い頃に夢中になった、赤い双眸の正義の実行者。彼は自分の身の上に苦悩しつつ、いつも最後は誰かのために戦っていた。
「とにかく、今すぐ避難してください! もうすぐここらへん一帯――」
「少年。怪人大作戦、好きか」
「え……」
「いきなり何ですか……いいから早く!」
伝書魔女がこちらに詰め寄ろうとした時、少年が小さく頷いた。
「好き」
「……そうか」
カイツは二人に背を向け、巨虫の群れが来る方向へと踏み出しつつ呟く。
「俺も好きだった」
魔人の表皮の装甲は、対物狙撃砲の直撃に耐えた。魔人の筋力は厚さ百ミリメートルの圧延鉄鋼板を貫通する正拳を放ち、その魔法術は艦砲に匹敵する威力を示す。
ならば町に迫り来る幼虫の群に対し、魔人の為すべきことは何か。
現状は決して歓迎すべき事態ではないのだろうが、それでも否定しきれない仄かな喜びが、強く彼の胸を締め付けた。或るいは体内に潜む忌むべき電磁の生命が、戦いを求めているのか。
苛立ちをぶつけに行くだけだ、何が正義か。そんな言い訳を胸中で取り繕いながら、カイツは無言で白い魔人へと姿を変えた。呆気に取られた伝書魔女と少年とを背にして緩やかに離陸し、心を決める。その悪鬼めいて吊り上った碧眸は、正義を秘めた眼差しには程遠かっただろう。
だが、土煙る彼方を目指し、カイツは推力を高めた。