4.目に見えぬ無音の気体は
後方で、爆音が響く。
恐らく先ほど二台の車輌で足止めに行った騎士たちが交戦に入ったのだろう。
報道で聞いたことがある程度だが、妖獣の種類によっては携帯の榴弾砲ではまったく威力が足りないこともあるらしい。
岩石射出架や火打石銃で立ち向かっていた中世から、人類の火力も格段に上がっているのだが。
直後にいくつか爆音や銃声、衝突音が響き、そして静寂が訪れた。
「……終わったのか?」
サージャンの言ったとおり、爆音や銃声はおろか、響いていた妖獣の足音までもが消えていた。
「案外弱い奴だったのかな」
安全が確認されるまではこのまま歩き続けることになるだろうが、一先ず状況打開を喜ぶような溜息がそこかしこから聞こえる。
だが、それがすぐに動揺に代わる。
「…………っ!」
背中を押していた風が正反対に向きを変え、図らずも足が鈍った。
埃が目に入り、反射的に顔を背ける。
その時目に入ったものに違和感を覚えてグリュクが訝りながら胸の電灯のカバーを空けて後方を見やると、混乱が見えた。
「ぐが…………!?」
「ぅぁ……あ…………らぁ……」
二百メートルほど後方から、視界に入る限りの最後尾まで、選抜志願者たちがうめき声を上げながら倒れている。正確には、頭を押さえたり足元がふらつく程度で済んでいるものから後ろに行けば行くほど有様が重篤になり、泡を吹き出して痙攣している者、ここからでは確認できないが、恐らく死んでいる者までいる。
「……!?」
「っ、何だ……何だぁ!!?」
「走れ、ただし冷静に!」
騎士の一人が叫び、従士候補生たちが従う。
ただ、冷静にという訳には行かなかった。候補生たちが堰を切ったように走り出す。
グリュクやサージャンだけでなく、無事な列全体が動揺していた。妖魔領域には物理法則に従わない“妖術”と呼ばれる力が存在し、妖獣の中にはそれを扱えるものもいるという。
前方の生き残った候補生たちの列の反応は単にすぐ近くで出た犠牲に対する恐怖であり、妖術がどうこうと冷静に分析できた訳ではないだろうが。
グリュクも、得体の知れない脅威を相手に歩く気にはなれず、走った。歩き通しのために足腰にだいぶガタが来ていたが、それでも恐怖には抗えない。
被害を免れた前方の騎士たちが事情を把握しようとして、走ってきた候補生の一人に問い質していたが、ろくな偵察もなしに“妖獣のせいだと思う”以外の情報が分かる筈もなかった。
搬送や陽動で半減し、二十に満たない人数で恐慌に陥った多数の候補生たちを止められるはずもなく、山道を疾走する集団から身を護るように、騎士たちが道の脇に固まって警戒しながら進んでいるのが見えた。
それにグリュクとサージャンが追いつくと、既に大半は先へといってしまっており、比較的冷静さを保っている少数の候補生たちが息切れしないようなペースで、銃を構えた騎士たちと合流しているのが見て取れた。
「騎士さんたち、俺らどうすりゃいいんスか!」
サージャンが抗議するように呼びかけると、副教練騎士長だという男が口を開いた。
「とりあえず地響きは今は収まっているようだから、妖獣の歩みは止まっている! 指示に従って慌てずに進んでくれ!
我々もわからないんだ、後方の騎士が発光信号も寄越せない事態に遭遇したらしいということ以外は……」
「先に走ってった他の連中に聞いたんでしょ!? 後ろの方の連中が見えない何かでバタバタ死んだのを!」
サージャンが畳み掛けると、騎士たちに食って掛かる程度の平静は保てたらしい他の候補生たちもそれに習った。
「妖獣がどんな奴だか知りませんけど、先に仕掛けた騎士を全滅させて、それで追い討ち掛けてきたってことなんでしょ!?」
「だから早く山を降りようとしている! 救援は既に呼んだがこの短時間でこんな山奥までは来ない! 闇雲に走って降りられるほど分かりやすい作りじゃないんだこのあたりは!」
互いに仕方ないのだが、両者共に殺気立ってきていた。もちろん歩みは止まっていないものの、選抜する騎士たちも選抜を受ける候補生たちも、辺境基地での従士選抜試験でこんな事態に陥るとは夢にも思っておらず、そしてどちらも迫りつつある危機に対して確実な対策を持たない。
騎士たちの武器は見る限り銃だけで、人間相手であればともかく質量の違いすぎるであろう(そして恐らく携帯型榴弾砲程度の戦力は返り討ちに出来る)妖獣相手に効果は期待すべきではないだろう。
恐らく騎士たちの言うとおりにとにかく山を下りるしか手がないが、状況への耐性は候補生たちの方が低かった。彼らの方はやや実感が薄く、事態を明瞭に確認することを求めている。
グリュクは何も言わずに随行しながら状況を傍観していたが、その時変化があった。
「……また揺れた?」
誰ともなくつぶやく声。妖獣の――当然だが、この場に件のそれを直接見たものはいない――足音の地響きが再開され、それどころかこちらに接近してきているように感じられた。さすがに早足のままと言うわけにも行かず、全員が急いで走り出した。
グリュクがつい後ろを振り返ると、その視線の先に、山道のカーブから小山のようなものが姿を現した。
いや、動いている。あれが妖獣だろう。
やや遠いが、頭部の形状は角のない龍、目はよく分からない。
胴体からは平原の獣のような強靭そうな四肢が下方に垂直に伸びて重量を支持しており、その体表全体で硬度を誇示する岩肌のような表皮――というか、もはや装甲板、そう見えるものに覆われているようだった。
推定するに、高さは十メートル近く、四足歩行。
見かけよりは素早く思える動きで、ドシドシと舗装も怪しい山道を踏みしめながら、小走りでこちらに走ってくる。
暗闇の山で彼らの懐中電灯の光を浴びて浮かび上がるその姿は――恐らく日中に遠くから見ればこれほど恐ろしくはなかったのだろうが、正しく悪夢だった。
(右手だ! 急だが斜面を駆け上がれ!!)
「……!!」
突然、脳裏に明らかの自分の意図していない言葉が浮かぶ。
信じがたい事態にたじろぐが、それ以上に暗闇の山道を突進してくる圧倒的な質量に気おされ、グリュクは煙にでもすがるような気持ちで右手の森の暗がりへと走り出し、低木を掻き分けた十メートルほど先にあった急な斜面を駆け上がった。
手や足腰の痛みも忘れ、両腕が塞がりカバーが下がったままで前方を照らしてくれない懐中電灯の光を頼りに手探りで木の根や幹をさがして足をかけ、無我夢中でひたすらに登る。
悲鳴やますます近づく地響きが耳を射抜くが、それでも足は止めなかった。
ふと気づけば、足元が水平になっている。とにかく斜面を登りきって、何やら獣道らしき所に出たらしい。
我に返って背後を振り向くと、林冠が目に入った。
山道から二十メートルほどの高さか、先ほどグリュクがいたであろう地点を見遣ると、木々の枝葉の間の明滅で妖獣の動く影が窺えた。
夜闇でよくは見えないが、懐中電灯の光のいくつかが、やや大きい光点となって周囲を照らしているのだ。放り捨てられたか、倒れて動かない仲間が身に着けているものか。
動いているものは一つもない。
妖獣が動きを止めて何をしているのかが、そこから聞こえてくる湿った音で察せた。
「………………!!」
グリュクは足腰から力が消えるのを感じ、声にならない声を漏らすことしか出来ず、後ろに倒れこんだ。
食料の入った缶や水筒が背嚢の中から背を打ち、何とか意識の焦点を保つ。
夜の木々の向こうでよく見えないのがまだしも救いと呼べるだろうか、惨事がすぐ傍で起きている。
先ほど倒れた大勢の候補生たちも、同じ末路を辿ったのだろうか?
林を隔てたすぐ向こうの出来事と、今の自分がそれを免れ生きていることとの落差が、強烈に胸を締め付けた。
不意に体を跳ね上げ、グリュクは喉の奥で膨れ上がった痛みを吐き出さざるを得なかった。
逃げ切った者がいるのかどうか分からないが、生きていれば逃げるにせよ戦うにせよ、何らかの形で抗うはずだ。
この場とその周辺で生きているのは彼と、妖獣だけということか。
乾いた冬の風にのってやってくる、むせ返る鉄の臭いと酸の味。
それが五感に焼きつき、尚も胃の中を吐き出し尽くしてから突っ伏した。
安堵と失意に挟まれて、再び、自分の意図していない言葉が脳裏に浮かび上がって消える。
(こちらだ、来たれ)
半ば自棄になって立ち上がると、懐中電灯の壊れたカバーを捻じ曲げて前方を照らせるようにして、細い獣道を歩き出す。
斜面を駆け上がる時に捨てたのだろう、短棍は紛失していた。
声の指し示す方向は、不思議と理解できている。
程なく木々の群れの中に違和感を見出し近寄ってみると、それはグリュクの背丈よりもやや小さく、斜面を掘って屋根付き天窓のように形作られた人工物だった。
簡素な板材と石材の組合せで、図面などを引いてあるようには見えないが、それでも細長い引き戸や紐で束ねた草本、そして供物らしきものなどを備えていた。
王国でよく見られるような様式とは異なるが、祠なのだろう。
何故そうと分かるのか、それこそ理解しがたいことではあったが、ともあれ言葉の主はここにいるようだった。
恐る恐る、扉を引く。
砂埃に顔をしかめつつ力をこめると、扉が開いた。