3.ドミナグラディウム
「そんな、何を根拠に!」
ギリオロックの語った言葉に、目の前の黒髪の少年は否定的な反応を示した。
「リンデルくんたちに納得させられるような証拠はここにはない。でも、今から二十二年前――」
「だったら、彼を止めないと……! その腰の硬いお札、魔具なんでしょう! 何か使える奴を……」
彼らが話している間にも、鋭い剣撃の音や瓦礫が吹き飛ぶ音、よく分からない、恐らく魔法術の応酬らしい爆音などが耳に届いていた。
「あの聖者の相手で使えるものは全部使い切っちまった。まだこれから、連邦内部に潜伏した王国の間者の追撃をかわしながら、大事な届け物をしなきゃならないってのにな」
実際、残っている譜は殆どが非戦闘的な術を封じたものだ。転移と緊急治癒、そして残っていた攻撃術である炸裂念動場と散榴魔弾は先の戦闘で既に消費してしまい、彼の手札は聖者相手には現在無役に近い。
「そういう訳で、悪いが……」
その時、一際大きな爆音が響いた。
見れば、彼らのいるのと同じストリートの少々離れた場所の屋敷で噴煙が吹きあがっている。位置も近く、二百メートルと離れていまい。
その出所近くに立っているのは、血だらけになってはいたが、遠目にもよく分かる、赤い髪の青年だった。そして、そのままゆっくりと膝を突き、剣を握ったまま倒れる。
「グリさんッ!?」
「私も、放っておけませんので……!」
リンデルが青年――そう、グリュク・カダンという名だった――に向かって走り出し、それを追って連れ立っていた女の方も走っていった。
変わった構成の家族か何かという線も考えられなくはないが、恐らくは黒髪の少年は逃がし屋、赤毛の女はその客といった所だろう。だが、いくら仲間を気遣った所で軍艦を沈めて戦車を蒸発させる悪夢的な改造人間を相手に何が出来るというのか。
観ている間にも、二人の後ろ姿は少しずつ小さくなってゆく。人間の走力ではそんなものだろう。ギリオロックと同じ、箒で飛ぶことも出来ない、地を這う人々。
「馬鹿が……!」
ギリオロックも、一言小さく呻くと走り出した。
任務は重要だが、こうして青年が然程の時間も稼げずに敗れたとなれば、お人よしの剣士を囮に逃げて後ろから撃たれるような無様を晒す結果とならずに済んだ訳だ。彼の代わりに聖女を引き受けてくれた魔女に、このまま死なれるのも面白くない話ではある。
息切れしない程度に走り、血だらけで仰向けに倒れた青年の傍らといえる距離まで来ると、彼の体に無数の金属の破片が突き刺さっているのが伺えた。腕への破片の刺さり方からして、首筋と顔面への直撃は両腕で防いだのが見て取れる。だが、
(出血が多すぎる……)
リンデルも赤毛の女も有効な処置を施せないでいるのだろう、ただしゃがみ込んで青年の名を呼びながら、容態を看ているだけだ。無理もない。
破片を取り除いて創傷の縫合だけでもすべきだが、彼の場合はその破片の刺さった傷口が多すぎた。くまなく取り除いてしまえば出血が増えるが、彼が持っていた緊急治癒の譜は既に最後の一枚を使ってしまい、手持ちの医療器具は僅かな消毒布と包帯だけだ。ギリオロックがせめて大きな傷口にだけでもあてがってやろうと周囲の危険を確認した時――聖女の死体でも転がっていれば少しは安心できたのだが、魔女の青年が剣を手離さない所を見るとそれは無いようだ――、噴煙止まぬ屋敷の廃墟から人影が現れた。
「……!!」
現れたのは、傷一つ無い赤い髪の聖女だった。ただし、着ていたはずの鎧は大部分が失われ、代わりというべきか、その下に着ていたと思しい奇妙な鎧下らしい服で、体の曲線が露わになっていた。髪留めも失ったのか、編まれていた髪は波打ちながら鎧下にまとわりついている。
「(……着用型の爆発反応装甲、特に近接殺傷力を高めた形式か)」
恐らく、青年は聖女の鎧の上から有効打を与えたのだろう。だが、啓蒙者製であろうあの鎧は、衝撃を受けた箇所から外側に爆発することでそれを相殺したのだ。推論に過ぎないが、鎧の爆発から中の聖女を防護したあの張り付くような鎧下も、相当な防御性能を持っている可能性が高い。
「あんたがグリさんを……」
黒髪の少年が、そう呻く。周囲は廃墟だ。そこに倒れて死につつある、無数の破片を受けて血まみれになった青年と見比べると、体に密着した服を着込んだ聖女はいかにも冗談じみていた。
その聖女が剣を持ったままの手を掲げ、少年の憎しみのこもった視線も意に介さずに呪文――啓発教義連合では“誓文”と呼び換えるのだったか――を唱えかけた所で、ギリオロックは再び賭けに出た。
「慈悲――」
「アイディス・カダン!」
彼が口にした人名がそのまま何かの術であったかのように、聖女の動きが止まった。彼らを焼き尽くす筈の魔法術も発動しない。
その機を逃さず、続けて呼びかける。
「聞いてくれ。彼は、グリュク・カダンは、あなたの息子だ!」
聖女はギリオロックに睨み殺すような視線を向けていたが、それ以外は微動だにしない。
彼が告げた内容は、倒れている青年の名を知ってその仲間のリンデルたちに推測を交えて語ったことと同じだ。これが本当に聖女の動きを止めることが出来るかどうかはかなり疑わしい所だった上、髪の色が似通っていただけで全くの見当外れという恐れもある。
だが、聖女は反応を見せた。その効果を信じて言葉を続けるしかない。
「……今から二十二年前、あなたは彼を出産してまもなく、魔女として判定された。あなたは、古来からごく僅かな事例が知られていた、成長期を大きく過ぎてから魔女の因子、変換小体が活性化する体質だった」
ギリオロックがそれについて知っているのは、彼が一時期王国の“聖者”について調査していたことがあるためだ。“成長期後発現型汚染体質”と大層な学術名を与えられた体質の女性の処遇を巡って、当時の王国世論は大いに紛糾した。王国史を追ったことのある者ならば現代の章で必ず知る所となる事件だ。
「親族の一切を潜在的因子保有者として処刑されたあなたは、その体質の希少性から聖者改造の実験体となり、そして改造手術は成功し、あなたは王国の聖者部隊の一員として任務に就くようになった――」
大戦後は現代まで、両勢力の間で大規模な戦闘は生じていない。だが、王国の周辺で起こる武力的事態の影には――例えば数度にわたって失敗してきた“ユニット”奪取作戦でも――少なくない頻度で超人的な兵士の存在が見え隠れしており、ベルゲ連邦の諜報機関に所属するギリオロックはそれについても耳にしていた。
行方不明の友軍の魔女と容姿が一致するとした報告も数例上がっており、実態こそ掴めてはいないものの、彼ら彼女らが何らかの処置を受けたのではないかと考えられていた。
二十二年前、出産したばかりの男児を残して処刑と公表された悲劇のアイディス・カダンについても、体質が魔女であったのならば、改造手術を受けたのだとするのは不可能な想定ではない。
「だが、あなたには知らされなかったことだが、あなたの息子は生きていた。あなたの夫のフルスの縁で、教会最穏健のグループが運営する施設に引き取られて、今まで生きていた。どうして今、魔女になっているのかは想像するしかないが……それでも生きていた。あなたがベルゲ連邦に投降するか、せめて今ここから手を引いてくれれば……彼は治療できる。死なずに済む!」
「…………」
聖女は沈黙したまま、だが表情は心なしか硬い。女の方は彼の背後にいるので見えないが、視界の端で青年の傍に屈んでいる黒髪の少年は慎重に場の様子を窺っている。ギリオロックは彼女に、脳裏に書き出した最後の台詞を告げた。
「だが、俺たちにまで危害を加えようというなら、俺はあなたの息子を、死ぬのを待たず今ここで……殺す」
「ち、ちょっと、いきなり何を! あんただって、グリさんに助――」
「発動」
ギリオロックは淡々と昏倒の魔法術を封じた譜を発動し、抗議しかけていたリンデルにぶつけた。くずおれる少年の上体にアーカディが慌てて手を伸ばし、石畳で頭を打つ前にそれを受け止める。
「全てはあなた次第だ……我がベルゲ連邦が、あなたを含む聖者改造の被害者たちを救済する準備を全力で進めていることも言い添えておく」
いくらか嘘も混じってはいたが、彼らが全員助かるにはこれしか考え付かなかった。一人だけ助かるといった可能性は聖者を相手には考えにくく、これで何の反応も無ければ諦めて応戦するしかない。数秒と経たずに殲滅される以外の結末が想像出来なくとも、それでも抗うつもりではあった。
そして聖女が初めて呪文以外の意味を持つ言葉を彼らに発し、
「私は宣教師マグナスピネル……息子などいない!」
その叫び声を呪文にして、聖女は頭上に巨大な光輝を生成した。見ただけでは詳細は分からないが、今まで常に平静のままだった聖女の顔には動揺とも怒りともつかない表情が浮かんでいる。
巨大な魔弾はそのまま聖女によって解き放たれ、
「護り給えぇッ!!」
それと同時に、ギリオロックたちの周囲に絶叫と共に光る半球が出現した。高硬度の魔法物質で形成された半球は立ったままのギリオロックまでもを覆う大型の掩蓋となり、有機物を灰化し金属を瞬時に熔融させる熱の爆轟が表面を擦過しようとも、内部を熱と衝撃から護り抜いた。見れば、傷だらけのグリュク・カダンが上半身を起こし、左手を天に向かって突き出している。まるで本当に、祈りが叶えられたかのように。
だが、致死量までとは言わないまでも、その身体からはかなりの血液が失われている筈であり、ギリオロックは驚愕した。
「…………!!」
「だ、大丈夫なの!?」
「大丈夫です……」
昏倒した少年を抱きとめ彼を気遣う女に僅かに頷いて答えると、赤い髪の青年はより深く上体を曲げ、更に膝を突いて体を起こす。そして大きな半球状の防壁が消失し、彼らの背後、ストリートを挟んで反対側の廃屋が高熱体の奔流を受けて燃え上がっているのが分かった。
聖女はと言えば、流入してくる熱い大気の向こうにその姿が揺らぐ。本人の名乗りと教会での通例に従えば、聖マグナスピネル。
その表情が、初めて大きな変化を見せた。驚きとも怒りともつかない表情で、息子かも知れない青年を凝視している。
全ての魔女は程度の差こそあれ、魔法術の連続使用に伴い神経組織が少しずつ疲労するため、筋肉などと同様に休息を必要とする。ギリオロックもそれは知っていたが、グリュク・カダンの神経疲労の状況は知る立場に無いとしても、様子を見る限りはあと何度も術は使えまい。全身の創傷に至っては紛れもない本物だ。その彼が、左手の指で瞼に垂れた血を拭い、搾り出すように呟く。
「……この人が……俺の、母親かも知れない……だっけか…………」
「……本人は否定してる」
ギリオロックはそう告げたが、青年は手の中の剣の柄を握り締め、己の眼前に突き立てた。石畳が小さな音を立てて脆い陶器のように割れ、刃先を飲み込んで剣の刃の鋭さを思い知らせる。抜き身でありながら聖者との戦闘で傷一つ無いところを見ると、何らかの術を施された魔法剣の類か。
「そうか……でも……だったら……!」
「そうよ、何も戦うことなんて……」
「だったら……俺は、逃げられない……!」
「……剣士さん!?」
女の言葉に反して、魔女の剣士は石畳に突いた剣を杖に立ち上がり、目の前の聖女を睨む。
「相手が誰だろうと……関係ない……俺の守らなきゃならないものを壊そうと、殺そうとするなら……戦うだけです……!」
そしてそれが宣戦布告だとでも言うかのように、彼は剣を正面に構えた。その有様で勝算があるのか、ギリオロックには推し量りかねた。その髪と体中の創傷で全身が赤く染まりつつある青年が、うわごとのように何かに語りかけるのが、聞こえる。
「そういうことだよな……ミルフィストラッセ!」
だが、そこに飛来するものがあった。
聖女の後方の、小さな瓦礫以外は何もない地点に轟音と共に大きな土柱が立つ。それに伴い、小さな砂粒や瓦礫などが周囲に飛び散った。ギリオロックたちの所までは大型の物は飛散しなかったが、聖女以外の全員がそちらに視線を走らせる。
「(この場にやってくるものがあるとしたら、王国の戦力以外に有り得ない……)」
そして、土煙の中から飛び出す者があった。
「(また女……!?)」
鈍く輝く甲冑に身を包んだ、女。斬り裂くような鋭い目つきに、うなじのあたりで切りそろえた黒い髪はもみあげの部分だけを伸ばしている。普通の服装で街を歩けば振り向く男も多かっただろうが、それも背から延びているらしい機械の翼に懸架した幾挺もの銃器と、既に両手に構えた似たような金属塊がなければの話だ。
そんな物々しいと言った風情を通り越してしまったような女が、赤い髪の聖女の前に優雅な金属音と共に着地してみせる。
「(聖者が、もう一人……!)」
聖者を相手に手札の尽きかけた譜使いと満身創痍の魔女の二人でどこまで抵抗できるかと試算していたが、それも完全に叩き潰されたことになる。ギリオロックも今まで修羅場鉄火場をそこそこにくぐってきたつもりだったが、逃げる成算もつかない事実は最早どうしようも無い。恐らくは自害すら出来ないうちに殺されるだろう。元々生き延びられるとは思っていなかった彼だが、やはりユニットを奪還されるのは無念だった。
そんな彼の動揺を余所に、鎧と銃を纏った聖女がもう一人の聖女に僅かに振り向き、優しげに語り掛ける。
「聖マグナスピネル。宣教師フォルトゥナが浄化任務に加わります。ただ、その前に……」
その背から延びる機械の翼が前方に展開し、自身と赤い髪の聖女を守るように広がる。そしてフォルトゥナと名乗った新たな聖女がその視線をアーカディに向けると、
「アーカディ・ガレル、私はあなたを連れ戻しに参上致しました」
名前を聞いてはいなかったが、どうやら赤毛の女はそういった名らしい。少年と剣士にどんな名を名乗っていたかは知らないが、ただの密出国者だと思っていたものがなかなかの厄介者だったようだ。
だが、彼女は被りを振って聖女を拒絶した。
「嫌……もう、あなたたちに便利に人殺しをさせる聖者機関にはいたくない」
「人殺しではありませんよ。汚染種駆除と、それに伴う政策の延長としての威力行使です」
「あなたたちは祝福された準啓蒙者なんかじゃない、私たちが手術や投薬で“加工”してしまった、元は魔女なのよ!」
「それほどまでに汚い言葉を使われるとは、よほど手の込んだ洗脳を施されてしまったらしい。ならば少々、苦痛を伴いますが……」
黒髪の聖女の主張は、どちらの陣営にいても聞き慣れるものだ。王国を始めとする連合諸国は、あくまで魔女(と妖族)に味方する「人類」を相手に戦争を行っている建前であり、魔女は「汚染種」ではあっても既に人類ではない。魔女という呼び方が連合諸国で最大の侮辱、少なくとも建前上はそう扱われている理由でもあった。
「あんた、二人を連れて逃げてくれ!」
剣を構えたままの青年が、既に無謀以外の何物でもないことを提案し、引き留める暇もなく――引き留めたところで皆殺しになるのは同じだろうが――そのまま二人の聖者に向かって走り出した。一瞬の後に、彼は粉砕されるだろう。
「――――!」
霊剣の驚愕が、柄を通してグリュクに伝わってくる。
(これは……!?)
せめて一太刀を与えて足止めをするべく突撃したグリュクの足下に、忽然と突き立てられたそれは、剣だった。
どこからかやってきたと思しい剣が石畳に突き刺さり、彼と聖女との間に屹立している。一目で美しいと思わしめる怜悧な片刃だったが、ミルフィストラッセとも、二人の聖者の得物とも異なる。出所を探って見回すと、いつの間にか、二十メートルと離れていない位置に新たな人影が佇んでいた。
「そこまでよ」
(最初の霊剣とその主……君たちの闘志、確と見届けた)
「(何!?)」
その人影から投げかけられた制止に続いて内心に届いた、霊剣とは別の声に、ただ驚愕する。声は、石畳に刺さった剣から発せられている。
(此奴、吾人の同類……!?)
「剣は我が手に」
石畳に突き立った片刃の剣は、呪文らしき声と共にふらと空中に浮き上がり、二人の反応を無視するように新たな人影の元へと飛んでいった。
そして剣は人影の手の中に収まり、聖者も含めたその場の全員の注目が一致する。
その剣を携えているのは、やや小柄な少女だった。前髪が綺麗に切り揃えられているが、風に揺らぐ長い後ろ髪も同様らしいと知れる。
彼女は剣を握った手を伸ばし、口を開いた。
「盾は我が前に」
そこに爆音が殺到する。機械の翼の聖女が無言で鎧に付随していた銃を取り、連射したのだ。聖者が引き金を引くのと同時に防御障壁が発動し、グリュクもある程度聞き慣れていた、弾丸と魔法物質のぶつかり合う爆音の連続が周囲に響き渡った。傷が何故か完治している赤毛の男は何とか耐えていたが、アーカディはひとたまりもなく耳を押さえてうずくまっている。
障壁の向こうの黒髪の少女はというと、障壁を展開したまま弾丸の雨に対して前進している。グリュクの術では硬度はともかく障壁を弾き飛ばされないように維持するのが精一杯だというのに、少女のそれは無数の弾丸を小石のように弾いて進み続けているのだ。
十メートル程度の距離で無意味と見たか聖者が射撃を止めると、黒髪の少女も障壁を解除して言い放つ。
「どうする、自称・準啓蒙者のお姉さん。あたしは負ける気なんて無いんだけど」
「二対一ですよ、汚染種の亜成体」
「傷口は露に」
少女が再び呪文を呟くと、グリュクの体に翡翠のような色の光が覆い被さり、それは驚くべきことに彼の皮膚に突き刺さった破片を排除して創傷を強制的に縫合していった。目に見えて埋まってゆく傷口に目を見張る。
治癒は強烈な痛みと熱も伴ったが、光が霧散すると、グリュクの全身を苛んでいた傷の痛みは消えていた。魔法術の負荷による割れるような頭痛と全身の神経痛こそ継続していたが、それでも霊剣を握る手に自然と力が入る。
「あ……ありがとう!」
「これで二対二よ」
グリュクの礼に少女は小さく頷くと、聖女たちの方を向いてそう宣言した。赤毛の男も、いつのまにか金色に輝く長方形の金属の板のようなものを構えている。
「……聖マグナスピネル、こちらに」
機械の翼の聖女が赤い髪の聖女に肩を貸すと、その腰の装甲から何かが落ちた。その円筒状の物体は何か危険物かも知れないが、グリュクでは防御が間に合わない。
だが、
「盾は我が前に!」
少女が早口で呪文を唱えると同時、彼らの周囲に半球状の障壁が形成され、発散する威力を遮るべく展開された。光が膨れ上がり、そして消えてから数秒も経過したか。
少女が地団太を踏んで喚いたのは、衝撃が通り過ぎたあとで反撃すべく障壁を解除した直後のことだ。
「あーもう、逃げられた!!」
(まあ、自分の足元に落とす時点で危険物の可能性やや低と踏んではいたが……化学兵器の危険も無くもなかった。防ぐのが正しい)
その手に握った片刃の剣が、彼女を宥めるように呟くのが分かった。赤毛の男にもアーカディにも反応がないところを見ると恐らく、この場でそれが聞き取れているのはグリュクとこの少女、そして霊剣だけのようだ。霊剣の声についても同じだろう。
「ま、今回は収穫もあったことだし……」
多少未練がましさの残る調子でそう呟くと、黒髪の少女は他の誰でもなく、グリュクに尋ねてきた。
「その剣を持っているあなた、名前は? あたしはグリゼルダ……」
そして少々芝居がかった仕草で胸元に左手を当て、その先を名乗る。
「グリゼルダ・ドミナグラディウム。霊剣レグフレッジの主よ」
(裁きの名の下に、我が銘、レグフレッジ。よろしくミルフィストラッセ、そしてミルフィストラッセの主)
ミルフィストラッセが驚愕している様が柄を通して伝わってくる。
(……意志の名の下に、吾が銘、ミルフィストラッセ)
「グリュク・カダン。君の言い方に倣うのなら……霊剣ミルフィストラッセの主だ」
剣 の 主。少々出来すぎた名前に偽名の可能性を疑うが、グリュクは取り敢えず本名を名乗った。グリゼルダと名乗る少女の持つ霊剣にも大いに興味があったが、敵対的でないのならば話をしやすい状態にしておくに越したことはない。
「ちょっと待ってくれ。なあ、グリゼルダ……ドミナグラディウムと言ったな? 君は何者だ。名前は聞いてたが、どこに所属してる。サン・ヴェナンダンか?」
「決定的境界地域で改造人間に殺されかかってるなんて、どうせ連邦の軍人だか間諜だかでしょ。まして名乗りもしない男なんかに教えたくないわ」
「……大生意気な小娘だねオイ……」
飄々とした態度もどこへやら、青筋を立てて少女に詰め寄りかねない様子の赤毛の男を制止し、グリュクは黒髪の少女に話しかけた。
「えーと、まず改めて、助けてくれてありがとう。俺も、こいつも……君たちのような存在を今、初めて知った。君は……何のために、そのレグフレッジの主になった? 俺は……成り行きだけど」
「……ごめん、それもあんまり言いたくないことだから」
「そうか……俺こそ済まない」
視線を下げて呟く少女に陳謝する。ギリオロックが「君、たち……?」などと小さく訝るのが聞こえたが、霊剣について紹介するのは本格的に訊かれた時で構わないだろう。
「それよりさ、成り行きで持ってるって言うなら……そのミルフィストラッセ、あたしに譲ってくれないかな?」
(何……?)
「それは出来ない」
そう言った瞬間、無邪気そうな少女の表情が一瞬、酷く凄絶なものに変化したのが見えた、気がした。だが彼女はすぐに表情を戻して視線を逸らすと、胸元に垂れた髪を後ろに払って言葉を濁した。
「まぁ……いいわ。無理強いはしたくないし」
「俺を助けてくれたのも、こいつ目当てなのか……? だとしたら、いつから俺たちの後を」
「同じ霊剣の主の誼故よ。あなたたちについては、サリアに来る前から離れて後をつけてた。もしも悪者の主と、それを拒まないような霊剣だったら、抹殺するつもりで」
「……助けてもらえたってことは、安心していいのかな」
「霊剣が変な所に持ち去られないようにしただけよ。主になって何年経つのか知らないけど、下手過ぎ。あたしが間に合わなかったらどうする気だったの」
「……精進するよ」
「そうそう。……でも、あなたの霊剣が欲しい気持ちは変わらない。もしこの先出会うようなことがあったら、その時また答えを聞かせてね。心変わりしてるかも知れないし」
(いずれまた会おう、最初の霊剣とその主よ)
「あ、ちょっと――」
少女が何らかの高度な魔法術を構築するのがグリュクの魔女の知覚に感知できた。階層が幾重にも折り重なった複雑なもので、グリュクが今まで習得してきた比較的簡素、或いは単純な術とは段違いだ。
「往く先は風と共に」
少女が呪文と共にそれを開放すると、彼女の姿は忽然と消えた。霊剣が“座標間転移”などと言っていたものと同じ術だろうか。
(……付近に他者、恐らく無し)
「……終わったってことでいいのか?」
(恐らくな)
「それじゃあ……えーと、そういえばあなた、怪我してませんでした? あのグリゼルダっていう子が来る前から治ってましたけど……」
霊剣を鞘に収めつつ、まだ名も知らない赤毛の男に聞く。
「……ひとまず、俺の目的地は北だ。君たちもそうなんだろう。あの聖者が馬鹿でかい狙撃銃を回収してまた撃ってくる前に、ここから離れた方がいい」
彼はグリュクの問いに答えず疲れたようにそう告げると、金色の長方形の板を腰に納め、代わりに紫色の似たような物品を取り出した。
「発動」
呟くなりそれを、昏倒しているリンデルに押しつける。バチンとはじけるような音がして、少年が飛び起きた。
「う!? あ……グリさん!? 鎧の女は、あのお札野郎は!?」
「こいつも失礼な子か! 気絶させた責任を取ってわざわざ起こしたんだろうが!」
「勝手に気絶させておいて何ですかその言い種! バチって来ましたけど、首筋に!?」
(全く……緊張感のない)
「えーと。早く帰ろうか」
グリュクは複雑な表情で佇んでいるアーカディにも声をかけた。
「ガレルさん、今はここを抜けましょう」
「は、はい……」
「ただ……良かったら、あの赤い髪の聖女について知ってることを、教えてもらえませんか」
「……私の知っていることで良ければ」
「それで十分です」
逃がし屋二人とその客一人、そこに兵士を自称する男が加わった一行はそれぞれ支障がない程度に名乗っていない相手に自己紹介を交わしつつ、歩きだした。
まだ日も昇り途中、乾いた冷たい風が廃墟に吹いている。
王国に属するとある場所にて、彼は回線を通じて送られてきた作戦記録に目を通していた。かなり広い部屋だが、照明、空調共に完備されており、あとは無数の演算機器の唸るような低い駆動音と空間占有がどうにかなれば言うことはない。
それはそれとして、聖マグナスピネル、聖フォルトゥナ両名の送信してきた作戦記録に拠れば、サリアの廃墟地帯で剣を携えた魔女二名によって妨害があったのは疑いようのない所だ。その上聖マグナスピネルはその一方だけを相手に、反応装甲鎧を失う程に苦戦していた。
素性を知る相手と遭遇するというのはかなり低い確率だが、聖マグナスピネルは本名と、更に目の前の魔女が息子だと告げられて驚くほどに動揺していた。厳重に施された記憶封鎖――消去は脳への負担が大きすぎるので、通常は行われない――が一時的に突破されたのだ。
「(バックアップの殆ど無い作戦だ、諜報員如きが転移して反撃とは少々驚いたが、迎撃についても問題はなし……これ以上は新技術でもないことには劇的な改善は見込めんな。啓蒙者の許可がないことにはここで頭打ちか……)」
技術は開発するものではなく、啓蒙者から授けられるものというのが王国に根付いてしまった悲しい意識だった。仮に開発した所で新技術は細大を問わず啓蒙者による審査を通らねばならないため、その大半は時期尚早として使用許可が下りないのだ。お陰で、自前の開発力は萎縮しきっている。
「(今更嘆いた所で始まる話でも無いがな)」
聖マグナスピネルの反応装甲に一撃を加えた魔女が本当にあの“魔女の息子”なのかどうか、そしてどういった経緯で魔女になったのかは不明ながら、彼はその因果に興味を感じていた。
“魔女の息子”が、聖女となった母魔女に牙を剥く。否、教義的には、邪悪な魔剣に唆されて魔女と化した息子を、聖女として生まれ変わった母が討つ。若い頃には劇作家を志したこともある彼には、筋書きとしては陳腐としても、大衆向けの宣伝としてはなかなかに魅力的に思えた。
「(母がマズけりゃ、兄弟なり幼馴染みなり……ちと広報に売り込んでみるか)」
聖女に無闇に感情移入する部下が一人いなくなったこともあり、彼は今、機嫌が良かった。
“ユニット”がとうとう奪われたこと、アーカディ・ガレル元次席主任官が亡命したこと、そして二人の聖女を退けた剣の魔女二人の存在について余所が言い出すであろう諸々の問題は、彼の知ったことではない。聖者の作戦遂行を円滑にするためのあらゆる補助、その統括。それが聖者機関支援課主任である彼の仕事であって、障害にさえならないのなら他はどうでもいい。次席主任が欠けた程度は彼がいればどうとでもなる。
彼は椅子から立ち上がると、専用機で帰還する二人の聖女の収容の為の準備を始めた。
一行は廃墟を無事に抜け、啓発教義連合の勢力圏外に戻ることに成功した。
廃墟地域に入る前にいた宿場町で、グリュクとリンデルはアーカディから無事に報酬を受け取り、アーカディは、連邦の特務兵だというギリオロックと接点が出来たのを幸い、自分が王国で属していた“機関”について証言するために彼と共に連邦の首都に向かったらしい。
ただ、彼女は聖者機関と通称される組織に所属してはいたが、マグナスピネルと呼ばれた聖女個人に関しては知らないも同然だった。
「元々私は改造手術についての理論が専門だから……恥ずかしい話だけど、聖者たちの詳しい素性は殆ど知らないのよ。本人たちも記憶を制限されているし……」
アーカディはグリュクの母親の事件についても、当時は子供だったためにあまり記憶がなかった。手術によって容姿まで変えてしまうことは無いので、あの赤い髪の聖女がグリュクの母と同一人物である可能性はあるということだが。
そして、行きと同じ時間をかけてヒーベリーに戻ってアッフェンの事務所に着き、報酬の一定割合を運営費として納めた。その残りをリンデルと二等分すると、片道一人だけなので前回よりかなり額が小さい。これでも月に二度もこなせばかなりの余裕を持って暮らしていけるだろうが……
(主よ)
「(何)」
(御辺の母親かも知れぬというあの聖者とやら……それが本当かどうか、確かめてみたいという思いはあるか)
そういった感情は、無いといえば嘘になる。だが、聖者が戻るとしたら、それは王国の領土であり、ましてやアーカディの話では、聖者は秘密都市と総称される地図に記されていない拠点で生活や訓練をしているという。
霊剣の加護があるにせよ、聖マグナスピネル、或いはアイディス・カダンを探しだし、連れ戻す、記憶を取り戻させるといった行為は、目標に想定するにはあまりにも過程が不明瞭だ。
「(仮に母親だとして、何をすれば会えるかも分からないんじゃな……)」
(ふむ……では、あのレグフレッジとやらとその主の少女……そちらはどう思う)
「(気にはなるね。何か手がかりでもあるのか?)」
(奴は……レグフレッジは、吾人のことを最初の霊剣と言った。おそらく、吾人よりも後に作り出された一振りが、奴なのだろう。だが、それを知ったからには吾人は真実を確かめたい。吾人以外の霊剣を生み出した、製作者の意図を)
「(だろうなぁ。そんな感じでいるとは思ってたけど……いいよ。お前の頼みなら聞くさ)」
(まずは、製作者の友であった妖族に会う。奴なら今も生きているだろうが、会うためには少々長旅をする必要があってな……)
「(……それってどこなんだ)」
(妖魔領域中部、グラバジャ辺境伯領)
グリュクは地図を持ち出してきて広げ、魔女の国々と妖魔諸国の位置関係を記した面を開く。ヒーベリー=グラバジャ間の距離は、直線にしても霊剣と出会ってからヒーベリーまでの距離の何倍もありそうに見える。
国民の殆どが箒で空を飛べるベルゲ連邦などの交通事情を加味して考えると、行程の半分以上が徒歩になりかねない。
「遠すぎるだろ!!」
グリュクは怒鳴って、鞘を下方にした霊剣の柄を両手の平で挟み、手を交互に前後させて転がすように制裁を加えた。
(よ、よせ! 目が回る!!)
「どこに目がある!?」
「グリさん何してるんですか……」
「あ、お帰り」
買い物から戻ってきたリンデルに、グリュクは霊剣と話したことと似たような内容を告げた。
「でも何も、今じゃなくてもいいんでは」
「いや、そう言われればその通りなんだけど……」
(主よ、吾人が直接説得致す)
「……語り給え」
霊剣が魔法術を構築し、グリュクが呪文によってそれを解き放つ。霊剣の術と言っても、グリュクに教えるためのものではない。
「……リンデルよ、今まで世話になったな」
やや低い男のそれらしき声が、鞘の中の霊剣を中心に発せられた。それを聞いてリンデルが、驚きつつ室内を見回す。
「え!? え!? 誰!?」
「御辺の目の前の、鞘に収まった剣、銘ミルフィストラッセ。こうして発話の術で以て、御辺に語りかけている」
「グリさん、いつのまに腹話術を……」
「いや、腹話術じゃないんだけど」
「まぁ、無理もない。吾人は主グリュク・カダンの術によってのみ、魔法術の作用で大気分子を振動させ、こうして魔女ならざる者にも声を届けることができるのだ。初めまして、吾が主の友、リンデル・ストーズ」
「ちょっと病院に行ってきます……」
「そこまで信じられぬの!? まぁ待て、まずは話だけでも聞いてみることからこそ真のコミュニケーションと言うものがだな――」
霊剣と共にリンデルを説得するのには難儀したが、かといっていつまでも逃がし屋を続ける訳にも行かない。元々は負債を返上する間だけのつもりであったので、やや早いとはいえ予定通りではあるのだ。
短い間にいろいろと世話を焼いてくれたリンデルに感謝しながら、グリュクはアッフェンにも挨拶を済ませ、住み慣れかけた集合賃貸を後にした。いつかもっと具体的な形でリンデルに礼をしておきたいというのは、霊剣とも意見が一致した。
出発前の顛末を思い出しつつ、レールの継ぎ目で車体が揺れる規則正しい音を聞きながら、グリュクは漫然と長距離列車の車窓から外を眺めていた。大きなカーブに差し掛かり、蒸気機関車が先頭で煙を吐き出しながら客車を牽引しているのが目に入る。
(少々不安かも知れぬが、いよいよ魔法術伝授も次の段階に入る。今までは危急の事態と言うこともあって少々身の丈に合わぬ術まで使わせてしまってきたが、もはや教義の追っ手はあり得ぬからな! 体系的に、存分にしごいてしんぜよう)
「(しごくって……)」
(楽しみにしておれ)
霊剣の意気込みはともかく、逃がし屋も一旦休業した以上は教会から弾圧を受ける心配も完全に無くなったことになる。今はそれだけで多少なりとも満足出来たが、しかし先行きについて不安が無い訳ではない。
妖魔領域の直前までは然程の困難も無いだろう。だがそこから先は、人間や魔女の住む世界とは異なる生態系が広がる、謂わば異界だ。そこに住まう妖族たちから神にも等しく崇拝される大陸最強の生物個体、“狂王”が統治するとされる、良く言えば神秘、悪し様に言えば得体の知れない邦。
そうした霊剣の過去の記憶を反芻しながら、グリュクは少し、眠ることにした。上着の生地を胸元に手繰り寄せながら、窓側に霊剣を握って瞼を閉じる。列車が汽笛を鳴らし、その音が山彦となって反響した。
聖女の追撃から逃れた翌日、連邦に属する場所のとある一室。
ギリオロックは卓上に、金属のような質感の、赤く薄い方形の板を差しだし、その面に指先で軽く触れて呟いた。
「解除」
ギリオロックを認識した譜は音も無く立体パズルのように変形してゆき、それが終わった時には卓上に、黒い布に包まれた、ともすれば小さな書物のような大きさの物体が出現していた。
特殊な譜によって、特殊な黒い布で包み込んだ物品を譜に変形、その状態を解除したのだ。変形させる度に譜を一枚消費するので、よほど重要な物品を秘密裏に輸送する場合でも無い限りは効率が見合わない。
黒い布を解かず、ギリオロックはそれをそのまま相手に向かって押して差し出した。
「これで、確かに」
「本当によくやった。月並みな台詞だが……犠牲が大きすぎた」
「全員が納得して参加した作戦です。確かに損失は大きいとはいえ……これはその命に見合う成果でしょう」
それは“ユニット”と呼ばれる、演算機関だった。この小冊子程度の大きさの灰色の物体は、それ自体が膨大なエネルギーを作り出し、現在ベルゲ連邦に存在する全ての計算装置を四千兆年稼働させるのと同等の情報を一秒間で処理可能な能力を持つとされる。
階差循環によって存在し続ける、人工永久魔法物質の結晶構造体。啓蒙者の技術でしか製造できない超科学の産物だった。これがいくつか王国に“下賜”されており、連邦は今まで何度かその奪取に挑戦していた。王国側も連邦から魔女を拉致して改造手術を施すなどの行為を行っているので――そう、ベルゲ連邦は啓蒙者技術の為に、王国による主権侵害を黙認している――、どちらもそれを理由に休戦協定を破棄することはない。
その発生し続けるエネルギーにも計り知れない価値があったが、ベルゲ連邦はそういったことよりも、これを用いて啓蒙者が使用する暗号を解読する、啓蒙者社会に存在するとされる高度な機械間情報網の内部に潜入する、といった用途を想定しているらしい。
実行する度に貴重な専門技能を持った魔女が何人も死亡するという過酷な作戦だったが、ようやく実を結んだといえる。
「解析が成功すれば、次の大戦で先手を打つことも出来るかも知れません。甲斐なく戦端が明日開かれたとしても、俺は驚きませんが」
「そうしないための危機管理局だ」
「ええ……それでは、失礼します」
ギリオロックは上司が“ユニット”を受け取ったことを確認すると、別れを告げて退室した。彼が廊下に出ると部屋の入り口は消滅し、元の冷たい壁となった。
窓の外を見ると、どこの学校の団体かは知らないが、列を成して走る体育着姿の少年たちがテンポよく唱和を繰り返しながら道を走ってゆくのが目に入る。
危機管理局の見立てでは、半年以内に王国が休戦協定を破棄するだろうと言われていた。“ユニット”強奪の報復ではなく、啓蒙者に押し切られて。彼の故郷は、開戦となれば真っ先に戦火が及ぶであろう地域にある。
「…………」
決意も新たに、などと意気込むほど若い感性は持ち合わせていない。
だが、残虐さと不毛さだけが取り柄の戦争などという怪物に、易々と大切な物を差し出してやるほどの虚無主義者でもなかった。
ギリオロックは感慨も程々に、報告書の残りを片付けるために廊下を歩きだした。
昨日はどこにあったのだろうか、山脈の彼方に聳え立つあの悪夢は。
今日は既に滅びつつある、降り注ぐ光と燃え盛る炎によって。
明日は既に失われた、誰も知らない薄暗い淵へと。
昨日の私は想像しなかっただろう、この黙示された終末を。
今日から始まるだろう、不合理の掟と死の支配する世界が。
明日が訪れるだろう、地の果てに佇む、あの盲目の鷹の為だけに。
――ある手記より抜粋。
ようやく第6話終了です。
次回からようやく魔女の国が舞台、2話くらいで終わりにして、早めに妖魔領域まで行ってしまおうとは思っておりますが……お楽しみ頂ければ幸いです。
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