1.廃墟の聖女
今回のみ、一部あたりの文字数を実験的に倍に増やし、逆に一話あたりの部数を減らしてあります。
全体の字数に関しては他の話と大差ありません。
林檎にキャベツ、混合麦粉と干し魚とレンズ豆に葉野菜の漬け物にハム、塩とバターと香草、葡萄酒、粉乳、砥石、石鹸、おしめ……あとは何があったか。食器は先日買った。
両手を塞ぐ紙袋に難儀しつつも何とか懐のメモを取り出し、フルス・カダンは買い物の残りを確認した。育児休暇という奴だ。
昼下がりの商店街は人通りも多く、その人通りを縫って自転車に乗った警察官がゆっくりと、そろそろ張り替えが必要そうなガタの来た石畳の街路をガタガタと走って行く。いつもは仕事帰りにシャッターの降りた商店街を夜の街灯の光だけを浴びて歩くので、平日のこの時間帯にここを歩くのは新鮮な気分だ。
仕事は早退し、商店街を廻って食品を買い揃えている。上司にいい顔はされなかったし予算の余裕もあまり無かったが、それでも両親と、かわいい妻のためだ。
それに今日からは、晴れてもう一人加わる。家に戻って買った品物を整理したら、今度は病院へ、退院する妻と息子を迎えに行くことになっているのだ。既に息子の顔も見ていたが、退院した妻が彼と共に帰ってくることで、フルスの人生の新たな局面が幕を開けるだろう。
彼は自他共に認める幸福の絶頂にいた。
「(とりあえず、赤ん坊ってすごく泣くらしいからな……アイディスがきついようなら睡眠薬の処方を相談しないとな)」
などと、考えを巡らせつつ。
自然と、足取りも逸った。妻は元々不眠の気があり、出産で疲弊した体が過酷な子育てに耐えるための手助けは、多い方がいいに決まっていた。
だが家に帰ると、彼を出迎えたのは両親ではなく、啓蒙者だった。そのあまりにも端的な存在を知覚した瞬間、彼は思わず足を止めた。
「…………!!」
「最初の御方の聖なるかな。信徒フルス・カダンですね」
男だ。彼が啓蒙者独特の挨拶の所作を見せると、フルスも慌てて紙袋を路傍に下ろし、同じ所作で挨拶を返す。
「さ、最初の御方の聖なるかな。フルス・カダンです、確かに……」
啓発教義を信仰する一般市民にとって、身近な人間に対してどこまで無頼を気取ろうと、啓蒙者とはその概念が即座に畏怖へと直結する存在だった。信徒としては彼のような反応はごく普通であって、身をすくめる様に挨拶を返す彼の精神が特別に弱いのではない。
その啓蒙者は年の頃は青年、纏った白い法衣はほぼ全身を覆っており、唯一大きく肌を露出させている頭部から窺えるのは褐色の肌と、輝くような明るい髪の色。彼の場合は、冴え渡るような青。原色の毛髪と褐色の肌は啓蒙者の特徴だ。体格はどう見ても成人しているが、声は少年のように幼かった。
彼らの最大の特徴である肩から生えた翼こそ見えないが、それを覆い隠しているこの白い法衣は良く知られているし、何より啓蒙者は上位種だ。彼らは押し並べて物腰柔らかだが、それでも一対一での相対には動悸が早まる。
その啓蒙者の青年が、彼の家の前で待っており、彼の名を呼んで、門に入る前に声を掛けてきた。啓発教義を人類に布教する使命を帯びた種族がこうしてただの信徒であるフルスに用向きを携えて来る理由があるのだとしたら、只事ではない。
青い髪の青年は手短に名と地位を名乗り、告げてきた。
「残念ですが、あなたの配偶者、アイディス・カダンが汚染個体と判明しました」
フルス・カダンの人生が、一転して地獄まで突き落された瞬間だった。
グリュク・カダンは忘れかけていた料理のコツを思い出しながら、フライパンに割り落とされた卵に塩を振っていた。じゅうじゅうと焼ける音に立ち上る湯気、敷いたベーコンの香りが食欲をそそる。彼は高い上背がやや窮屈そうに台所前に立ち、今は料理に髪が落ちないようにバンダナを巻いていた。髪色は赤みが強く、街中にいれば少々目を引いただろう。
そこで、正午を報せる鐘が鳴る。鐘といっても、北リヴリアの首都として資本が集中しているヒーベリーでは電化された巨大な音声放送なのだが。そういえば、故郷の教会では正午には年代物の鐘を槌で叩いて鳴らしていた。あれは今でも使われているだろうか。
地下組織の首領の息子の依頼を達成して――そう、達成して――から二週間が過ぎ、グリュクはリンデルと共に、ユーティスト私立興信所と同じ賃貸集合住宅の三階に用意された部屋で待機を続けていた。
グリュクには単独で出国幇助を行えるような経験はないのでリンデルとセットで扱われており、所長のアッフェンが彼らに依頼を割り振るまで、呼び出しやすいここで生活することになったのだ。リンデルはそれまで、あの散らかった事務所で寝泊まりしていたらしく、二人部屋とはいえここを宛がわれた時はやたらと嬉しそうな顔をしていた。ああ、これでもう片付ける端から散らかる部屋で寝泊りしなくて済むんですね、といったような。
(主よ、リンデルが帰ってくるぞ)
「分かってるよ」
彼の精神に直接語りかけるような声に投げやりに応じつつ、火を止めた。
そこに、同室の少年が帰って来る足音が届く。足音は走ってきて急に止まり、鍵が鍵穴に入り込んでがちゃがちゃと機構を動かす。だがその勢いは少々慌ただしく、玄関扉が開くと、黒髪のやや小柄な少年が姿を現した。
「グリさん、助けてください!」
「……いきなり何」
帰ってくるなり唐突に不穏な要求を寄越してくるリンデルの有様を見て、訝る。密出入国幇助業者、俗称「逃がし屋」で働くこの少年とは、とある村で出会ってから三週間の付き合いだった。その程度の間柄ではあるが、今までを見る限りは面倒事に巻き込まれただけでこのように狼狽する性格ではない。
(何やら訳ありのようだが……確かに意外な一面なり)
グリュクの脳裏に声が響く。意識に直接浮かんでくるような声は、鞘に収められた剣が部屋の隅に立てかけられており、そこから発せられているものだ。代々の過去の主の記憶を受け継いで来たという、ミルフィストラッセと銘じられたその剣、通称霊剣とは、一ヶ月の付き合いになる。その声は魔女や妖族にしか聞こえず、今はグリュクにしか届いていない。
「お、お……!」
「お?」
(お?)
リンデルは息切れしつつも言葉を絞り出そうとしているようで、グリュクも訝るなりに聞き取ろうとした。霊剣までもが似たような調子で先を促すのは何とも言いがたいものがあったが。
だが、少年が呼吸を整え伝えてきた言葉は、
「親が来るんです!!」
「リンデルの母のネリ・ストーズと申します」
「妹のレッチェル・ストーズと申します」
黒髪を肩まで伸ばしたこざっぱりした服装の婦人と、どことなくリンデルに似た雰囲気を感じさせる黒髪の少女が、仲良く玄関前に立って名乗った。
「どうも、同僚のグリュク・カダンです」
「息子がお世話になっていると伺いまして」
「兄がお世話になっていると伺いまして」
「こちらこそ、息子さんにはお世話になっておりまして」
リンデルが血相を変えていた理由の来訪に、グリュクはさして特別な感慨がある訳でもなく応対していた。てっきり両親が来るのだと思っていたので母と妹という組み合わせには少々驚きがあったが、父親は全うに勤務中といった所だろう。依頼がなければ日中であろうと容赦なく暇になるグリュクたちの方が少数派であるだけだ。
「……よろしかったらお茶でもいかがでしょう」
「いえ、少し様子を窺いに参っただけですので……どうぞお構いなく」
「お構いなく」
そう言いつつ二人は室内を見回し、グリュクに尋ねる。
「ところで、息子はおりますか?」
「えーと……外出中でして」
リンデルは、グリュクに口裏を合わせるように依頼して、どこかへと身を隠していた。グリュクもどこにいるのかは聞いていなかったが、身内の来訪を嫌って姿をくらましたなどと告げる訳にもいかず、しかし言われた通りの嘘を吐くのも憚られ、そのように言葉を濁さざるを得なかった。
「…………お兄ちゃーん、いないのー」
レッチェルが玄関枠に手をかけて身を乗り出し、リンデルに呼びかける。年の頃はリンデルと似たようなもので、ともすれば年上にも見えた。外に出ていったのだからいる筈はないが、呼びかけ方は勝手知ったる身内故か、手慣れている。
「ちょっとお邪魔していいですか?」
「どうぞ」
「失礼しまーす」
そういって入り込んだレッチェルは、部屋の隅のミルフィストラッセに僅かに目を留めた風ではあったが、すぐに視線を外してクロゼットの方にとてとてと歩み寄った。
「お兄ちゃーん。出てきてよー」
「…………」
彼女は少し大きな声でそう言ったが、外に逃げたのだからクロゼットの中にいるはずも無い。だがグリュクが何も言えずに様子を窺っていると、レッチェルは無言でクロゼットの取っ手に手をかけ、
「じゃあ勝手に見ーちゃおっと」
「やめろぉぉぉぉ!!」
猛烈な足音と共に絶叫しつつ階段を上って三階の廊下を疾走してきたリンデルが、玄関に立つ彼の母を押し退けて部屋に突撃し、辛うじてクロゼットを防衛した。妹の宣言を聞いてのこの反応と速度は、ごく近くに隠れていたか。
息を荒らげて妹を遠ざけるリンデルの表情には、鬼気迫る物があった。
「やっぱりいるんじゃない」
「うるさいッ、勝手に人の私物を見るなッ!!」
「やましいものでも隠してるんじゃないの」
「やましくないけど勝手に見るなって言ってるんだよッ!!」
「リンデル、そういうのはお母さん別に隠さなくてもいいと思うなぁ」
「出ていけぇぇぇ!!」
母と妹の連携に今にも泣きそうに絶叫するリンデルの様子に恐々としながらも、グリュクは何も出来ずにただただ立っていた。霊剣がどのような心境でいるのかは分からないが、先ほどから部屋の奥で無言を貫いている。
「(もう冷めちゃったな……)」
先ほどから湯気の一筋さえ昇らなくなった皿の上の目玉焼きを見ながら、グリュクは嘆息した。
「すまんな、本当に……無力な父親で……」
グリュクの横で、俯く義父の頭の帽子が傾いた。
彼の属する派閥は教会内での政争に敗れ、辺境の教会に住むことが許されなくなった彼らはこうして真昼の街で、別れを交すこととなったのだった。“魔女の息子”であるグリュクは上着のフードを目深に被り、都会ではよく知られてしまった赤い髪を隠していた。
「何度でも言うさ、お義父さんのせいじゃない。それより、今まで俺を庇ってきたせいで……」
「それは違う。私は一教司に過ぎないが、それでも生まれだけで個人から教義を受ける機会が奪われてはならないということを主張するために、教会に仕えて来た。お前を育ててきたのも、そんな進取家ぶりたがる下心があったからだろう……蔑んでくれ、教え子の遺児を自分の信念のために養子に迎え、あまつさえ政治に敗れて手放す私を」
「そんなこと言わないでよ。俺は、誰が何と言おうと幸せだった」
息子も息子で、理解のある子供を演じる傲慢さが、きっとどこかにあったのだろう。
グリュクが言うと、義父は無言で帽子を下げて目元を隠した。後頭部からうなじにかけて、白髪が覗く。元々彼の父親としては高齢だったが、この年齢の父親に援助らしい援助を何もしてやれない自分が、グリュクには呪わしかった。スウィフトガルド王国では、“魔女の息子”が収入の良い職に就ける見込みは薄い。
「……それじゃあ、俺は、これで。“魔女の息子”の俺をここまで面倒見てくださって、ありがとうございました。お義父さん」
「グリュク、私はそんなことは気にしていない! お前さえよければ、やはり、私と暮らさないか……?」
義父を愛しているのは本心からだが、グリュクはそれでも、辛い言葉を告げた。
「お言葉に甘えてしまったら、あなたはまた“魔女の息子”の養父として非難に晒されることになる……多分俺は、それに耐えられないと思うから」
「………………そうか…………達者でな」
「お義父さんこそ。たまには手紙も書くから」
「ああ…………ああ……!」
「それじゃあ……またいつかどこかで」
目頭を押さえながら俯く義父の頬から顎にかけて、輝く筋が落ちる。彼が落ち着くまで傍にいてやりたかったが、そうしてしまうと、最早離れられないような気がしていた。彼はこの二年後に死んだ筈なのに。グリュクはただ一人の家族に背を向け、通りを歩いて街道へ出る道へと曲がった。
そして角を曲がると、森に出た。少し前を歩いていたサージャンが、歩きながらも奇妙な角度で振り向いてこちらに語りかけて来る。
「――ったく、こんなに歩かされると知ってりゃよぉ……なー戦友よ」
「まだ一度も戦ってないぞ……」
「全くだ。一度も戦わずに死ぬってのは理想だったけど、まさか毒ガスで死ぬとはなぁ」
「…………俺だけが生き残ったこと、恨んでるか」
「知らねーよ。それより腹減ったな、干し葡萄やるから豆半分くれ」
「ああ、いいよ」
頷いて背嚢を下ろし、歩きながらそれを開こうとすると、何かに足を取られ、転んだ。首が下に動かず、足元にある筈の転んだ理由は分からない。だが、背後の山道から、巨大な地響きが聞こえてきた。頭部には鼻面と、牙の並んだ大きく裂けた口があり、四足歩行で体高は十メートルもあるだろうか。このままでは餌食だ。だが、何故か起き上がれない。必死で霊剣の柄をまさぐるが、もがいている内に神経ガスがやってきた。
そして、暗闇の中で目覚める。
毛布の縁が背中まで下がっており、グリュクはうつぶせに寝たことで息苦しくなって眠りから醒めたのだと知った。今回はそれが、ありがたかったが。
夢を見ていたらしい。
場所も真昼の街でも山の中でもなく、昨晩入った宿の一室の、そのベッドの中だ。窓からは登りつつある満月の光が差し込んでおり、角度から判断すれば真夜中。
(どうした、主よ)
「(…………ちょっと夢を見ただけだ)」
(そうか……)
壁のハンガーに剣帯で吊るされた霊剣が、わびしげに呟く。グリュクは再び眠ろうと毛布を被ったが、
(……何なら吾人が添い寝してやろうか)
「(そろそろ本気でへし折ってやろうか!?)」
霊剣の冗談にかなり本気で腹を立て、毛布を跳ね除けて胸中で激しく罵る。以前のように声を出して相手を出来ないのが歯がゆい所ではあった。勢いで跳ね除けた毛布を再び戻し、枕を引き寄せて頭を乗せた。 隣のベッドではリンデルが寝息を立てている。グリュクはすっかり覚めてしまった頭を抱え、遣る瀬無い怨念を枕にぶつけた。
照準、発砲。照準の向こうで標的は死亡し、もう一人の男は走ってその部屋を離脱した。そちらはまだ仕留めない。肩口から爪先に抜けてゆく長距離狙撃砲の反動の名残を感じつつ、聖マグナスピネルは指揮車へと報告した。
「目標を射殺。敵諜報員はそのまま旧ケゾン・ストリートに沿って東へ逃走中」
報告といっても、機械を通じて変換された信号を送信しただけだ。彼女の下顎の左右を覆う装備には、その思考を変換して電子メッセージとして送信する機能が与えられている。王都でも製造できない啓蒙者製の装備だ。
彼女の視界も、常人とは異なり、様々な記号や数字で彩られている。眼球内に構築された投影装置によって網膜に映し出された重層映像が、彼女の視界を作戦遂行に最適な形に補正してゆく。もし誰かが彼女の顔の超至近距離まで接近してその瞳を覗き込んだなら、その瞳の中心の奥に、何か無機的な図像らしきものがちらついているのが見える筈だ。
『続行。諜報員は予定通り、国境との距離四千で射殺』
「了解」
今は、視野の片隅に通信回線が開いていることを示すアイコンが表示されている。聖マグナスピネルは指揮車からの指示を確認すると体勢を起こし、長距離狙撃銃の分解を始めた。
展開すると小型化された高射砲のような形態を取り、最大射程は三千五百メートルに迫る。使用時の前後長は一.八メートル、重量は二十キログラム超で、本来は人間一人で易々と携行できる物ではない。それを単独で携行して足場の悪い廃墟を行動できるのは、彼女が人体の戦闘に関わる機能を極度に強化された“聖者”であるためだ。その視力は常人の七百倍の分解能を持ち、起重能力も補助無しで数十トンを叩き出す。重量二十キログラムの規格外の狙撃銃であっても、彼女にかかれば匙と大した差は無い。
分解を終えて銃を携行用ケースに収納すると、彼女は指揮車からの指示に従い、朽ち果てた戦前のオフィスビルを後にして次の予定地点へと向かった。
ヒーベリーから鉄道を使用して丸二日、そこから歩いて辿り着いた宿場町を夜半に出発して早朝、二人は啓発教義連合の都市サリアに到着した。
サリア市は戦前は交通の要衝として栄えたが、大戦中期に戦線の流動によって市街地が二度に渡って激戦地域となり、周囲の幹線道路と共に広範囲が破壊された自治体だ。現在グリュクとリンデルが見ることが出来るのはその亡骸とでも呼ぶべき瓦礫の山だったが、霊剣の記憶には人の溢れる地方の大都市サリアとしての往時の姿が残っており、グリュクには今感じている寂寥が自分の感情なのか霊剣のそれなのかが判別出来なくなっていた。頭では、あくまでこの剣に残されていた過去の所有者の記憶なのだと分かっているのだが。
一帯は治安機構も機能しておらず、それゆえ、野外強盗や野生の捕食性動物による危険が多いにも関わらず密出入国が盛んだ。グリュクが大幅な遠回りと追加料金さえ了承すれば、リンデルは南リヴリアを迂回してこちらのルートを通ることも考えていたという。
ヒーベリーで地図も購入したグリュクは、そのルートが相当に長いものだと知って少しばかり青ざめていたが。
二人は既に都市圏だった場所に差し掛かっており、植生に覆われその野性味をを取り戻しつつある郊外の並木通りの廃墟を歩いて南下している最中だった。月は更に下がりつつあり、後二時間もすれば左手から空が白み始めるだろう。
アッフェンが斡旋してきた依頼は、教会系企業の不正を告発しようとして逆に破門されたという女性信徒からのものだ。そして、依頼者はこの先の廃墟地帯の外れ、都市機能が辛うじて生きている市街地の辺縁地帯にある、ユーティスト興信所のサリア支部とやらにいるらしい。
グリュクは自分が現在属している逃がし屋を小さな地下業者だと思っていたが、ウェンナハーメンに続いて遠く離れたサリアにも支部があるとなると、その認識は少々改めなくてはならないのかも知れない。
「危なくなったら、グリさんお願いしますね」
「ああ……眠らせるだけに留めたいけど、もう俺一人じゃないし、まして帰りは依頼人同伴だからね……逃げた方がいいとは思うけど」
「迷う可能性があるんで、下手な逃げ方は出来ませんけどね……個人的には魔法でどーんとやっちゃって欲しいです。当局が逃がし屋業界の牽制に野外強盗を黙認してるなんて噂もあるくらいで、多少派手にやった所で国境警備が飛んでくることはありませんから」
「どーん、て……あんまり死なせるようなことはやりたくないけど、場合次第じゃ仕方ないかもな……」
事前の情報によれば廃墟を野外強盗の集団などが根城にしているということなので、逃がし屋として経験のあるリンデルと、魔女の中でも戦闘力に優れた部類とアッフェンが判断したグリュクの二人が選ばれていた。魔女といっても三人、戦闘的な術を扱う者は一人しか知らないグリュクとしては基準が分からなかったが、まあ、そうなのだろう。
(最悪、邪魔者は殺害する。このような場所でこちらに害意を向ける者には、当然の姿勢なれば)
「(……どうしてもそうしなきゃいけない状況だったらな。今の俺は逃がし屋見習いだよ)」
霊剣の意気込みに、ぼやく。往路で眠らせるだけでは復路で目を覚ました相手に追撃される可能性があるのはその通りで、このような場所で旅人を襲っているのだとしたら、多少手傷を負わされた所で諦めることも無いだろう。
殺害を避け、かつ確実に危害を受ける危険を無くすのであれば、襲撃者には重傷を負わせる必要があるが、このような場所で与える重傷は殺害とどう違うのか、確かに分かりかねる所ではあった。
もしくは、見せしめに一人を惨殺して抑止効果を期待するか。出来る出来ないは別としても、気分のいい想像ではない。
そう考えつつ歩いていると、そこで魔女の知覚に感があった。
「……!」
振り向き、距離の離れた後方の林を見遣る。
(……確かに気配があったのだが)
「グリさん? 何かいましたか?」
「…………いや」
距離にして数百メートルは離れていたが、確かに彼の第六の感覚に波を立てた者があった。ただ、今はそれが無い。
「ちょっと過敏になってたみたいだ」
(警戒せよ、いかにも不穏なり。人の気配も感じられぬゆえ、ここは一つ大威力の攻撃術を伝授致そう)
「(大威力って、クレーターが出来るようなのは困るぞ……)」
リンデルの質問を曖昧に否定しつつ、グリュクは霊剣の提案に難色だけ示し、再び目的地へと足を踏み出した。
黒い液体から立ち昇る湯気で唇の周りを暖めつつ、温度を確認するように少しずつ少しずつ、それを喉へと流し入れる。
早朝のコーヒー屋台でアーカディはコーヒーを啜りながら、出国幇助業者だというやや胡散臭い中年の女を信じてここまで来てしまった自分の判断を後悔しつつあった。
ヒーベリーから来るという彼女の仲間が来るまではこの廃墟のすぐ近くの安宿に部屋を取っていたが、夜明け前に目が覚めてしまい、こうして部屋を抜け出して早朝から駅前で営業している屋台でコーヒーを啜っているのだった。本当は準備中だったのだが、ありがたいことに店主は特に嫌がりもせずに一杯を淹れてくれた。駅前とはいえ駅舎は街の規模相応に小さく、人も稀なこのような早朝から屋台で火を使う採算の具合を疑いもしたが。
「(……本当に迎えの人なんて来るのかな)」
心底から疑っている訳でもなく、半信半疑といった所か。アーカディは雑念に塗れながら、コーヒーを再び啜り始めた。大陸中部の冬の、まして日も昇らない早朝の大気に冷やされているので、うっかりしているとあっという間に冷えたインクもどきになりかねない。
持ち出せた数少ない私物である上質の腕時計の指し示す時刻は、午前六時過ぎ。指定の時間は午前七時ということなので、それを過ぎてしまったら、あとは彼女に調整を任せ、宿で彼女が吉報を持ってくるのを待つことになるだろう。起こすのも悪いと思って勝手に抜け出してきてしまっていたので、もう戻っておいた方がいい。アーカディは中身を飲み終えた空の紙カップを屑入れへ突っ込むと、店主に礼と退席を告げて屋台を離れた。
喉がコーヒーで加熱されたために通常より大きく膨れ上がった自分の吐息を潜り抜けながら、アーカディはまだ日の出ていない通りを歩いて宿へと向かう。時折左右に顔を出す商店は時間帯もあって全て閉ざされているが、中には既に廃業したのか窓の向こうに家財道具が無造作に詰め込まれているのが分かる所もあった。それらの更に向こうには、こちら側と違って灯り一つない、暗い廃墟が広がっている。戦中に破壊された廃墟地帯一帯とは殆ど隣接しているようなもので、ここは本当に居住地域の辺縁なのだと分かる。
そしてふと、西の空に沈みつつあるはずの満月を見たくなって立ち止まり、後ろを振り向いた。
「…………?」
知らない男が両手を構えて立っている。目深な帽子や布で顔の殆どを覆い隠しており、それは一瞬狼狽したような動作を見せたが、すぐに彼女へと掴み掛かって来た。
(野外強盗!? 街中なのに――)
彼らが根城にしているという廃墟がごく近いことを思い出し、急激に恐怖が増幅される。出すべき悲鳴が出ないでいる内に口を塞がれ、体が持ち上げられた。相手は一人ではなかった! 体験したことの無い状況に平静時ならば失笑するであろう分析しか出来ず、あとはひたすら恐慌を来たすだけだった。このまま、更なる暗がりへと運ばれるのか。
「留まれ……!」
突如聞こえた小さく叱るような声と共に、ただ運び去られるだけだった彼女の、足が地に着いた。彼女を持ち上げている二人の男の向く先を見ると、一人が、彼女の足を持ち上げていたと思しい一人の男が、
「(浮いてる!?)」
宙に浮いた男は直後、何か目に見えない手にそうされたかのように路面に叩きつけられ、ぐったりと伸びて動かなくなった。
「ま、魔法術……!?」
続いて、残りの二人も似たような目に遭った。恐らく、彼女がいた研究所では干渉念場と呼ばれていた種類の術だ。どこかに魔女がいるらしい。魔女に関しては職業柄それなりの知識があったものの、さすがに変化が唐突過ぎて状況は把握できないままだ。
拉致の過程から解放されたらしい彼女が、尻餅をつきつつも事態を把握すべく混乱していると、その後ろから掛かる声があった。
「失礼ですが……もしかして、アーカディ・ガレルさん?」
「へ……?」
アーカディは最早頓狂な声を上げることしか出来ず、振り返って声の主の姿を確かめた。この地で彼女の名を知っているということは、逃がし屋か、追っ手かのいずれかだろう。そういえば、すぐそこに折り重なって倒れている男たちは野外強盗だとばかり思っていたが、王国の放った連行者、もしくは暗殺者か何かという可能性もあったのだ。
「大丈夫ですか。依頼を頂いたユーティスト私立興信所の、グリュク・カダンです」
未だ冷たい歩道に尻をついたままの彼女に手を差し伸べてきたのは、背の高い、赤い髪の青年だった。どういった時代錯誤か腰に剣などを帯びていたが、目つきや物腰は柔らかく感じられる。
「あ、ど、どうも……ありがとうございます、アーカディ・ガレルです」
アーカディは彼の大きな手を取り、助け起こされて礼を言った。青年の出した依頼先の名は合っているので、安心していいだろう。
「急いで来て良かった。取り敢えず、宿に戻りましょう……あ、魔女はお嫌い?」
最後の一言だけは、早朝とはいえ人目を憚ってか、辛うじて聞き取れる程度の大きさだった。特に魔女に対する忌避感も無いので、彼女は小さく首を横に振ると、彼の案内に従った。
グリュクによって野外強盗らしき男たちに拉致されかかった所を救助されたのは、宿から消えたという依頼人だった。
話を聞く限りは寝付けずに駅前のコーヒー屋台で暖を取っていたそうだが、依頼者は見た所二十代後半から三十歳前後なので、廃墟地帯に程近いこの区画では少々無用心が過ぎる話ではある。グリュクたちのサリア到着が五分程度も前後していたら、今頃どうなっていたか。
彼女をここまで案内した、同じくアッフェンの逃がし屋に所属する中年女性――リンデルは何度か面識があるらしいが、グリュクは当然初対面だった――とはその宿で別れた。
今度は今まで来た廃墟地域を戻って彼女、依頼者アーカディ・ガレルを、少なくともベルゲ連邦かその同盟国まで保護しつつ連れてゆくのが、今回の依頼だった。
互いに自己紹介も終わり、剣を帯びた赤い髪の長身の青年と、黒髪の小柄な少年、華盛りを過ぎつつある気配の赤毛の女が、目立たない服装で廃墟の路地を歩いている。
(警戒が緩んでいる。自戒せよ)
「(……さすがに日も出てきたし、大型妖獣が襲ってくるようなことも無いと思うけどな)」
(大いに用心せよ、御辺は既に守る側となっている。攻めるは一瞬の隙を見つければよいが、守るは常に隙を作らずにおかねばならぬ。依頼人は適齢の娘、奪われた挙句に蹂躙されては遅いのだぞ)
「(何も出来ないのは嫌だからな……気をつけるよ)」
霊剣の叱責を受け流しつつ、甦ってくる暗い記憶を振り切るように、グリュクは再び魔女の知覚を走らせた。やはり怪しい事象は無いが、ともすれば惰性になりがちだった警戒の目が少し引き締まった気はした。
そこから更に歩き、朝日に照らされた建築は混沌とした様相を見せ始め、その名前を記した標識の文字も殆ど崩れ落ちて読めなくなった大通りに入ると、原型も分からないほどに捻じれ果てた、恐らく戦車か何かであった物。半壊した住宅の瓦礫の中から覗く崩れた巨大な骨格は、兵器としてこの地に連れて来られた妖獣の成れの果てか。一つとして無事なものなど無い窓ガラスに、細かな瓦礫に埋もれて車体の錆び尽くした自動車。どうやら爆撃か何かで屋上から落下して破裂したらしい給水タンクが、荒れ果てた酒場の店頭に逆さに鎮座している。冷たい風が吹くたびに埃を舞い上げ、舗装の割れ目の草本を揺らした。
そうした廃墟を大通りの僅かな湾曲に沿って歩きつづけると、二人は進路上に異常を発見した。
「……何でしょうね、この瓦礫の山」
大通りがそこから――通りが終わるまで埋まっているとは考えにくいので、恐らくその箇所だけだろうが――、不自然に寄せ集められた瓦礫の山によって塞き止められているのだった。あたりに無数に散らばる瓦礫とは異なり、比較的歩きやすいこの大通りを塞ぐためだけに堆く積み上げられたかのように。レンガなどの壁材や廃自動車、材木や鉄筋、窓枠などの建材が主で、高さは通りの左右の三階建ての商店跡に近い。歩いて登るのは危険極まりないだろう。
その手前にはやや狭まるものの左右に横道が分かれており、右は倒壊した民家に塞がれているが、左側に関しては特に問題なく通行できるようにも思える。
「誰かがわざとやったようにも……見えるね」
(明らかに罠……ほのかに複数の気配が感じ取れる上、左はやや狭い。左に曲がったが最後、屋根の上から瓦礫を落とされるか、前後を多人数によって封鎖されるだろう。武装の規模は不明)
グリュクも既に、魔女の知覚でやや不確かながらも周囲の複数の気配を感じ取っていた。来る時に後方に感じたあの気配は、彼らの斥候か何かだったか。アーカディを見ると、不安げに佇んでいる。勝手に離れて歩き出す性分ではないようで、その点は安心できた。
「(……じゃあ、二人を抱えて瓦礫の山を飛び越えるか。一人ずつでもいいけど)」
(いや、吾人にいい考えがある。どうせ誰も住んではおらぬのだから、この際気配を感じる建築を片っ端から爆破しておくのだ)
「(さすがに拙いだろそれは……)」
「一旦引き返しましょうか、ちょっと怪しいし。ガレルさん、ちょっと遠回りに――」
リンデルがアーカディにそう言って元来た大通りを戻り始めようとすると、瓦礫の山の左右の商店跡から数人の人影が走り出てきて、何かを投げつけてきた。
「――――!」
リンデルの頭部に直撃するコースを取っていた一つを、グリュクは素早くリンデルに駆け寄り霊剣を抜き放って弾いた。乾いた音を立てて石畳に落ちたそれは、レンガの欠片だった。続いて、アーカディに向かって飛来したものを同様に処理する。
見れば、様々な礫を投げつけながら走り寄って来たのは五人。細い鉄パイプなどを携えている者が二人、礫を複数抱えて投げつけてきている者が三人。服装のくたびれ具合から判断して、恐らくこの一帯に居住しており、そして、時折通るグリュクたちのような人間を襲撃している。
(主よ!)
「吹き飛べ!」
アレンジを加えて散弾のように生成した魔弾を投射して三人を戦闘不能にしたが、残る二人は倒れた者から得物を奪い取り、霊剣を構えているグリュクではなく、アーカディを狙って突進し始めた。
「(三人倒れても怯まない……まだ倍以上の仲間がいるってことか……!)」
魔弾は距離の近いアーカディを巻き込みかねないので断念し、念動力場の魔法術を構築する。
「っ!?」
「離れろッ!!」
呪文によって術が発動し、アーカディに向かった二人を広範囲の念動力場で上方から抑えつけて路面に叩きつけるが、周囲を見回すと拡散魔弾を当てて倒した三人の内の一人が身を起こした。また、高所から瓦礫を落とす算段だったのか、屋根にでも布陣していたらしい新たな襲撃者たちが商店跡からこちらに走ってきては瓦礫を投げつけてきた。第一波よりも人数が多い。
(道理で怯まぬ筈、主よ!)
「ああ、分かってるよ! クソッ……」
「グリさんッ、依頼人は僕が、うわッ!?」
「リンデル!」
霊剣に対して内心で返事をするのも忘れて喚く。悲鳴を上げたリンデルはグリュクに呼びかけつつも、何とかアーカディを庇いつつ逃げ回っていた。だがいつまでも持つものではないだろう。グリュクは念動力場を解除し、リンデルたちに向かって走りながら、やや散開しつつも彼らを追い詰めるように立ち回る三人の男に対して誘導魔弾の魔法術を構築する。他に、リンデルたちが捕まるまでに確実に敵だけに当たって打ち倒せそうな術が無い。念動で一人一人引き剥がすのは論外だ。
「喰らいつけッ!!」
自然界に解放された魔弾が柔らかな光を放ちながらリンデルたちと距離を狭めつつあった男たちに向けて飛翔し、次の瞬間前方の一人の背を捉えて爆発した。その余波でリンデルとアーカディがバランスを崩すが、すぐに立ち直る。無事だった。周囲を確認すると、残る襲撃者たちが気絶した面々を放置し、瓦礫に閉ざされていない左の道に逃げる所が見えた。
「砕けろぉッ!!!」
そこに、怒声と共に魔法術を解き放つ。高密度に圧縮された超高熱の魔法物質が真っ直ぐに突進し、着弾と同時に莫大な熱と爆轟が解放されて周囲を破壊した。着弾した箇所に近い商店の一部が崩壊して瓦礫に変わり、煙が立ち昇る。先ほど霊剣によって教えられた“爆裂魔弾”の魔法術だが、対人的な破壊力の大きさは語るまでも無い。
以前に彼一人(厳密には霊剣もいるが)を襲われた時とは異なる脈打つような怒りに、グリュクは我を忘れていた。平静の時ならば違っただろうが、十分な警戒をしていなかった自分の過失に対する羞恥も手伝い、劣勢を悟るや己が所業も忘れて逃げ去る襲撃者たちを憎んだ。
だが、爆音でその憤怒が吹き飛んだ。逃げ去る相手に対して過剰な攻撃を行わなかったかという疑念が蟠り始める。
燃え移るようなものはなかったらしく、爆炎は砂埃の焼ける臭いを残してそのまま掻き消えた。
(よし、威力示威は十分。この位で良いだろう)
「……良い、だと」
「グリさん!」
「剣士さん!」
「………………!」
霊剣を睨むが、駆け寄ってくるリンデルたちの声に、グリュクは咎められたかの如く動揺した。
「すいません、助かりました……捕まってたら何されるかと」
「いや……俺が油断してたせいで、ごめん。大丈夫か? ガレルさんも」
「ええ、ありがとうございました」
「いえ……良かった……」
リンデルとアーカディの感謝の言葉に、他意などは全く無いだろう。だがそれでも、独善じみた罪悪感が臓腑を締め付けた。二人の無事には安堵しつつ、倒れた男たちに近づいて様子を観察して行く。死んだ振りなどをされていては厄介だ。
まず、拡散魔弾で失神したままの者が二人。これは息があり、止めを刺す気にもなれずに催眠電場によって更に深く昏睡させた。廃墟を通る他の出入国者などのことも考えれば殺してしまうべきなのだろうが、先ほど怒りに任せて殺傷力の高すぎる術を使ってしまった今のグリュクには、とてもそのような気が起きなかった。念動力場で路面に叩きつけられた二人の内、一方は気絶していたので同様の処置を施したが、もう一人は頭部を打ったせいか死亡。至近距離で誘導魔弾が爆発した三人については言うまでも無い。怒りに任せた爆裂魔弾による死者がいなかったのは幸いといえたが、最早相手が生きていても死んでいても、グリュクには遣りきれないものが残った。死体の有様に一月ほど前、山中で共に従士となるための行軍に参加した男たちの末路を連想し、グリュクは必死にこみ上げてくる吐き気を堪えた。
この日初めて、グリュクは意図して人間を殺害したことになる。
通りの隅で一通り胃の中身を吐き出した後、魔弾で掘った穴に襲撃者の死体を集めた。原形を留めないような損傷を与えたものが少なかったのが救いだ。リンデルはしきりに言葉をかけてくれたが、その配慮が今は苦い。
「グリさん、あの、僕も……」
「……ありがとう。でももう大丈夫だよ」
憔然を隠し切れずにそう答えると、最後の死体を穴へと引きずり落とした。念動力場で投げ込むことまではしたくなかったからだが、体温が逃げてゆく一方の人体の感触は、言葉に出来ない不気味さがあった。
「葬り給え」
術を念じ、続いて発した呪文と共に魔弾で掘り出した土砂が念動力場によって宙に浮き、不可視の巨大な両手でそうされるが如く、穴の中の死者たちに向けてゆっくりと降下してゆく。グリュクはそれを、そのまま力場で押し固めた。本来ならば火葬したい所――啓発教義は死者を火葬する――だが、これ以上の時間は惜しい。幸い、その程度のことを考える余裕は残っていた。もはや啓発教義に排斥される身ではあるが、それでも完全に魔女の体質になってしまうまではそれを信仰して生きてきたこともあり、グリュクは神ではない何かに祈った。
(主よ)
霊剣が、語りかけて来る。
(本意で何かを守ろうと思うならば、何かを傷つけ、殺さねばならぬことがある。アヴァリリウスは己の生存のために従士志願者たちを捕食し、御辺は己の生存のために吾人と共に彼奴を殺した。吾らはゾニミア嬢やソーヴルの住民のために、灰の雪の妖獣を殺した。そして今また、御辺はリンデルと依頼者の危機を救うために襲撃者たちを殺した。相手が異種であろうが同種であろうが、同じこと。強盗如き何人殺そうとも、というのは殺戮者の考え方だが、さりとて殺意を持った強盗と友の命、その都度天秤で計らねば違いが分からぬというのでは底抜けの白痴なり)
「(分かってる……)」
(果たしてそうかな。その情状を汲まぬ吾人ではないが、あまりに尾を引くのは、それによって救われた二人に対する無礼となる。心せよ)
「…………行こうか、リンデル」
「ええ」
グリュクは霊剣に対してはそれ以上の言葉を紡げず、黙った。いつもなら何らかの減らず口でも叩いて見せた所だろうが、俯いて徐に嘆息し、腰の霊剣の柄尻に掌を被せる。
「すみません、お待たせしました。急ぎましょう」
「あ、はい……!」
顔を上げ、少々無理をして笑顔を作り、やや離れた場所に佇んでいたアーカディに告げると、グリュクは再び歩き始めた。