3.道化師の朝の歌
ヴォン・クラウスは、元々は貴族資本の防護具メーカーが持っている工場を中心とした、小さな街道の村だった。
行政区分としては南の大都市の付属物のような扱いであったが、最盛期には従業員とその家族を含め、2000人に前後する人々がそこで暮らしていたという。
だがそれも今や、50年近く前の話になる。時代の流れが変わり、教会の発言力が弱まってくると、長引く戦後経済の停滞に倦んでいた貴族や企業の資本は王都のある西部へと戻っていくようになり、その結果として東部は省みられることが少なくなってきた。
都市圏が残っているのは幾つかの代表的な地域だけで、それまで大規模資本によって底上げされていた地方経済は衰退の一途を辿り、元々農業などで自給自足できていた地域を除けば、多くが寂れていった。
ヴォン・クラウスも他の多くの似たような町村同様、工場が放棄されたあとは寂れる一方だった。
なまじ街道に近かったためにいつしか周辺都市や緩衝諸国のいくつかからゴミが不法投棄されるようになり、移転勧告が正式に発布され、主要な住民の周辺自治体への移住が確認されてから、遂にヴォン・クラウスは王国の地図から抹消された。
人口危機にある村として福祉政策の負担になるよりは、解消して税収の使う先を絞った方が良いという政治判断の煽りを受けたのだ。
公共設備は整備されなくなり、残った住民はほとんどが転居のための少額の補助金を辞退した老人たちだった。
それまでは交通量が多かった隣接する街道も、結節点だったいくつかの地方都市と同様に寂れ、今では殆ど使われなくなってしまい、今に至る。
老いも老いた彼が居を構えているのは、そんな村の南東の広場の、ゴミの山の傍だった。
もはや何らかの価値のある物はことごとく抜き取られ、樹脂とガラスと化学繊維の塔と化していた。
ただ、うっすら積もった雪のおかげで、そんなゴミ山でも風情が感じられなくもない。
何に使われていたのかよく分からない大きな樹脂の板切れで確保した屋根の下に、樽のような胴体の背に伸ばし放題になった白髪と、腹にはこれまた延び放題になった白い髭がカーテンのように垂れ下がっていた。
特殊な毛筆のように顎の下まで垂れ下がる長さの眉だけが黒く、右目には眼帯。
装いは古びれて劣化が目立つが、生地や装飾が、元が高級品であった頃を偲ばせた。
そして何より、腕の通らない右の袖。風体としてはこの上も無く異様な部類だろう。
十日ほど前にここに目をつけ住み始めたのではあるが、彼はそれ以上一箇所に留まる性分ではなかった。
今尻を置いている重厚な下水道の石蓋――漏れ出る臭いも、どうせこのゴミ山全体が臭いのだから気にならない――はなかなか座り心地が良かったが、そろそろお別れだ。
次はどちらの方位に歩いたものかとぼんやり思案していると、見知った影が二つ。
「ごはんだよ、ラヴェじじ!」
「おはようラヴェルさん。っても、もうお昼だけど」
赤毛の少女が、大小二人。大は真っ直ぐな髪をうなじで切りそろえた姉のペーネーン、小さい方は曲がちな髪を伸ばして両側で束ねた妹のキリエだ。
妹の方はこの村でも熱心な部類に入る啓発教義の信徒で、彼女たち自身も身なりを見れば決して裕福ではない(というか、彼と大差ない)というのに、スラムと呼んでよいヴォン・クラウスの中でも最も汚い場所に好んで住み着く隻腕の彼に食事を届けてくれていた。
主にキリエの好意によるもので、ペーネーンは最初はあまり乗り気ではなかったようだが。
内容はいつも通り、丸パンと水で薄めた山羊乳、今日は胡桃まであった。
パンについては一日分と称して、籠一杯分を作ってくれていた。ペーネーンが漏らした所によれば、キリエが本当に頑張っているのだという。
ラヴェルは内心、この好意についてどう受止めたらよいのか分からず困惑していたが、自力で食事を調達しようとすると残飯を溶かした汁一杯にまで後退してしまうので、有難くはあった。
「はい、じじ……あ!?」
こちらに籠を差し出そうとしたキリエが、転んだ。
キリエ自身は地に手を突いて何事も無かったが、丸パンを満載した籠が飛んだ。
籠は空中で回転し、上空に派手に中身をばら撒く。籠が落下を始め、そこに丸パンが殺到し……
「ラヴェじじすごーい!!」
キリエの声援に応えるように、ラヴェルは首尾よく受け止めた籠一杯の丸パンを手の上で揺らしてみせた。一つとしてこぼしてはいない。
「セーフじゃ」
「すごいすごーい!」
「はいはい達者ですこと……」
感嘆はしつつも呆れたように呻くペーネーンが、薄めた山羊乳と胡桃の乗った小皿を渡してきた。
「いつもすまんなお二人さん……じゃが――ん?」
ラヴェルは丸パンを噛み千切ると、そのまま咀嚼し、飲み下す。
籠を受け止めた時に既に違和感を覚えていたが、それが明確になった。
「パンの材料、変えたかね?」
「びっくりした?」
「おぅ、ほっぺた落っこちるかと思ったわい」
キリエが目を輝かせ、ペーネーンの袖を引く。何か許可を求めているのだろうか。
「……いいわよ」
「あのねっ! 今日はねー! なんとー、小麦粉を使っているのでしたーっ!!」
「ほー、そりゃすごいのう! 旨いのも納得じゃ、ありがとな」
ペーネーンが折れたように許可を出すと、キリエは得意も得意といった顔で種を明かしてきた。確かに味は良く、礼を言うと彼は残りを口に放った。
違和感を覚えたといっても、要はパンが昨日までのそれと段違いに軽く、柔らかかったというだけのことだ。
いつもはライ麦や燕麦の粉にふすまを混ぜて焼成されたものだった彼女たちのくれるパンが、小麦粉を含んだものになっていたということになる。
だが、それはこのような貧民村では異常と同じ意味を持つ。
小麦粉など、市場での価格を考えれば彼女たちが到底手を出せるような代物ではないはずだが、それを口にすべきか、ラヴェルは少々迷っていた。
「この小麦粉はですねー、キリエが思うに、きっと神様が、ラヴェじじの面倒を一生懸命見ているキリエのために授けてくれたものだと思うんだー」
「ほー、そりゃあもう、ありがたいねぇ」
「ちゃんと神様に感謝して食べるんだよラヴェじじ!」
「うんうん、最初の御方に栄光あれじゃ」
「ほら、そろそろ行くわよキリエ!」
キリエと他愛もない問答をしていると、ペーネーンがキリエの襟首を掴んで引き寄せた。
何やら急いでいるらしい。
「んー? どうかしたんか、ペーネーン」
「朝ね、キリエが沢から怪我人を連れてきたの。その人も看なきゃ行けないから……ちょっと急ぐわ。じゃあね、ラヴェルさん」
「じゃーねーラヴェじじー」
「そんじゃーまたのー」
ペーネーンに引かれて去ってゆくキリエに手を振りながら、ラヴェルはあることを思い出していた。
「いかん、今日出て行くはずじゃったのにお別れを言い忘れた」
ただ、彼は自分を薄情者でないと強弁するほど自惚れてはいなかった。
彼女たちに感謝はしているが、別れの言葉を言い忘れた程度で気の咎める所など無い。
その程度には、余計なものを切り捨ててきたつもりだった。
王国全体を騒がせるような事件は毎日起きているといっても過言ではないが、先週の妖獣出現は、特に騒ぎになった。要因は幾つかあるが――
まず、王国本土に妖獣の侵入を許したこと。
次に、その妖獣が人間に被害を出したこと。
続いて、その被害の内容として選抜訓練の途中だった訓練生980、および教練騎士55の計1035名の内、664名の死亡・行方不明という、戦時を除いた王国近代史において前代未聞の大惨事を招いたこと。
最後が、事件の収束の詳細が不明――つまり誰が妖獣を倒したのか分からないということだった。
最寄のガフェシ基地を根拠地とする騎士団が事後処理――この場合、教練騎士や従士たちの遺体の収容や記録、周辺住民への聞き取り調査、関係機関への各種照会、妖獣の巨大な死骸を解体処分し、研究機関の要請があれば一部を試料として保存することまで含む――に出動したのはもちろんだが、一地方基地ではとても処理が追いつかないため、周辺の騎士団から大隊規模で人員が出向くこととなった。
アーストス大隊も、そうした仕事に狩り出された、少々不運な部隊の一つだった。
「……面倒でも設営した方がいいな、間借り出来そうな所が無い」
「ま、仕方ありませんね」
車を降りると、カロナン・アーストス重騎士は嘆息した。彼の副官も眼鏡の位置を直しつつ、それに頷く。
年齢は四十歳前後、白髪がかなり混じった頭髪にはストレスの影響も大いにあるだろう。
体型は少々肉付きが過剰か、整えた髭は任務続きで乱れかけていたが、それでも采配は抜かりない。
采配というには、このような貧民村を拠点としての調査任務というのはいささか見劣りするものの。
判断を伝えると、続々到着しつつある部下たちはそれに従い手際よく設営の準備を進めた。
装備は念のため、最大限の備えよりは少しばかり軽度ながら、対地飛行爆弾射出架五基、対装甲機関砲十二基など、野生化した大型妖獣の数頭程度は余裕を持って駆除できる程度のものを持ってきていた。
兵科も小規模ながら一通り揃っている。
カロナンとしてはこの出動は大いに不満を持つ所だった。
平時に重装備の訓練が演習場以外で可能、というのはちょっとした旨みだったが、無残に潰された三年振りの長期休暇に見合う報酬ではない。
そこに追い討ち、ではないが、騎士団領から王国へ積荷を運ぶ途中の民間商社のトラックが一台、消息を絶ったらしく、こちらも調査するよう要請が届いていた。
「まさかまだ妖獣がいて、そいつがトラックを襲ったとでも言いたいんでしょうかね」
「……そうかもな」
彼を伴いそのまま歩いて設営現場まで向かうと、何やら強く言い合う声が聞こえてきた。
「なぁ、頼むよ、力尽くで引っ張って行きたくはないんだ」
「もうちょっと待ってくれるだけでいいんですっ! そしたら帰ってきますからぁ!」
「そのお爺さんだって分かってくれるよ……別にここにお城を建てたい訳じゃなくて、テントを張れるようにさせて貰いたいだけなんだ、な?」
「もう少しだけ! あと五分でいいんです、お願いだから!」
重機の傍で、癖の強い赤毛を頭の両側でまとめた少女が、彼女にしゃがんで目線を合わせて応じる従士と何やら問答を繰り広げていた。
「おい、そこ! 何しとるんだ!」
「あ、重騎士殿……」
「説明せい」
「ハ! ……この子が、ここの……この瓦礫の山に住んでいる老人が今たまたま出かけているので、帰ってくるまでこれを取り壊さないようにと懇願してきまして……」
カロナンたちの前には、割れた窓ガラスや樹脂の雨樋、工事用だったと思しい穴だらけになった大きな防水布、赤錆でくまなく覆われたバス停の標識、大量の朽ちて使い物にならなくなった砕けた漆喰の欠片の山など、資源にも燃料にもならない、どうしようもない部類のゴミの山だった。産業廃棄物でも打ち捨てられているのか、僅かながら今まで嗅いだこともないような奇妙な刺激臭まで漂っていた。
ゴミの山から視線を外し、真剣な少女の眼を観察して、質した。
「…………これがかい、お嬢ちゃん」
「そ、そうです、あの、私! キリエ・アールネと申します!!
ここは、ちょっと……汚くて臭いけど、ラヴェルっていう片手のお爺さんが住んでるんです!
だから……その……と、取り壊さないで! ください!」
少女は言いよどみつつも余所に視線を泳がすことも無く、懸命に拳を固めて主張している。
「よし……ちょっとあっちで話そうか?」
「……?」
重騎士の意図を測りきれないのか、少女は小首をかしげつつもその誘導に従い、何処かへと歩いていった。
彼の副官はそれを気まずそうに見届けると、帽子のつばを下げて視線を逸らし、従士たちに瓦礫の山に手をつけるように命じた。
彼女の陳情に耳を傾けていた従士はいたたまれない様相でそれに従い、重機に乗り込んだ。
大隊を統括する“重騎士”の位を授けられているカロナン・アーストスだが、或る醜癖を持ち合わせており、それは時折、こうして露になった。
この村は納税能力の観点から、王国には存在しないことになっている。
つまり、村民である少女も王国としては“存在していないもの”であり、大隊統括騎士への諫言は“存在しない人物への虐待を理由とした反逆”として扱われることになる。彼は実務において有能な騎士であったが、そういったことの扱いにも長けていた。
副官も従士の男も、カロナン重騎士がそうした論理で劣欲を遂げてきたのを知っている。
彼らではそれを止められないことも、知っていた。