2.ヴォン・クラウス
強く赤みがかった髪をした背の高い青年がよろめくように、雪でぬかるんだ土の道を歩いている。
時刻は季節と太陽の高さを勘案して午前九時といったところか、半日かけてやや南下したとはいえ、その程度で気候がそこまで和らぐ筈もない。今は止んだが先程までは雪も降っていて、日差しは弱く、風は冷たい。それまで街道の両脇は森が支配していたが、歩き進めるに連れて密生していた樹木もだいぶ疎らになり、土質が変わったのかその木々も急速に姿を消す。
そして見えてきたのは、晴天の下にあっても何処か薄暗い集落だった。そう見えるのは、恐らく全体的に建材が古びて光を反射しなくなってきているからか。
道の外れのやや高くなった箇所から見渡してみると、元々は何かの工場だったのだろうか、パイプや貯水槽にトタンで固められた城のような大きな、一目で老朽化して打ち捨てられたと分かる建築物の四方に、張り付くように民家の跡と思しき廃屋が連なっている。
外壁など以ての外、簡素な柵などもなく、何時、誰が設置したものやら見当もつかない粗雑な立看板を以って、ようやくここがヴォン・クラウスと呼ばれる場所であることが分かるのだった。
そしてその、地図に載っていない非公式な村落が、魔女ゾニミアの手配した出国幇助業者との待ち合わせ場所となっていた。路銀の持ち合わせが乏しいこと以外は順調と言える。
(……かような村では、寝床はまだしも食料の確保は難しいかも知れぬな)
「や、やっぱりゾニミアに少し路銀を分けてもらえば良かったかも知れない……」
(格好をつけてからに、今更遅い。兎でも探すのだ)
「ああ……」
ゾニミアは出国幇助業者に支払うための王国通貨を分けると言ってくれていたが、王国に戻る予定も無いのに金を借りるわけには行かないと、グリュクは強く断っていた。業者と待ち合わせている村までの間、路銀を稼ぐ機会くらいはあると思っていたのだが、今となっては見通しが甘かったとしか言いようが無い。
グリュクは遣る瀬無く唸り、その場に佇み魔女の知覚を広げて野生動物の存在を探った。大型の動物はすぐに手の届く範囲にはいない。やや小さなもの、これもなし。子犬やウサギ大のものにまで感度を上げて、ようやく複数、村の中にいる複数はペットなどであろうから除外し、二十メートルほど左の後方にそれらしい存在を感知した。
(よし、善は急げ、である)
「俺も慣れたもんだな……」
あまり足音を立てず、しかし獲物に狙っていることを悟られぬよう、慎重に森の中に踏み入れる。森の中では魔女の知覚も他の五感同様にやや精度が落ちるので、十メートルも踏み込むと、自然と息を潜めて対象を探すこととなる。低木などは少なく、探しやすくはあった。
「(……そこだ!)」
畑の青虫の駆除に銃を持ち出す譬えではないが、小声で呪文を発し、打撃魔弾を獲物の気配に向かって解き放った。
近くにあった沢まで出向き、手ごろな岩を見つけて魔法術で高温になるまで加熱した。
そこに洗った獲物を置いて鉄板の要領で簡単に調理、消毒して、ようやく食事にありつく。
「いただきます……」
折り取った二本の木の枝をピンセットの要領で扱い、焼いた獲物を摘みあげ、肉の部分だけを噛み削いでゆく。脂などは少なく味もあっさりとしているが、筋張っておらず食べやすい。
(どうだ主よ、ヘビも悪くは無かろう)
「あぁ、意外といける……ただ調味料は欲しいなぁ」
舞い上がった土埃が収まると、そこに無残な亡骸を晒していたのはヘビだった。どうやら、穴で冬眠していて無防備だった所を爆殺してしまったらしい。
仕方がないので、沢の水で洗って、食用に供することにしたのだった。
霊剣ミルフィストラッセは、過去に所有者として彼を振るった剣士たちの記憶の全てを宿す、いわゆる意志を持つ剣だ。
とある事情でグリュクと行動を共にしており、魔女や妖族であれば彼の声を直接精神で“聞く”ことが出来るらしい。その彼がそのように話すということは、過去の彼の所有者の一人にヘビの賞味経験があることになるが。
(海辺か洞窟でもあれば良かったのだが)
「塩まで自分で調達しろと……でも何とか路銀は作らないとな」
そこまで呟くと、近づく人の気配に気づいて内心舌打ちする。ついいつもの要領で霊剣と肉声で会話していたが、本来ミルフィストラッセの声は魔女や妖族以外には届かないのだ。もしかしたら、沢で一人、剣を帯びてヘビを貪る奇人扱いを受けるかも知れない。
そういったことを覚悟して気配の方向を振り向くと、気配の主は想像とはやや違った姿をしていた。
「わー!? これヘビ!? おじさんが捕まえたの!? て言うか食べてるの!? おいしい!?」
「!?」
それは、長い赤毛を両側で縛った少女だった。右手には何処かで調達したものだろう、棒切れを握っている。やや動揺していたせいで気配の大きさから即座に子供と判定できなかったのは不覚だったが、彼女は質問をまくし立ててこちらを圧倒しつつ、蛇を載せた熱石へと素早く歩み寄っていった。
「あー、その岩熱くなってるから! 触ったら火傷するから! あんまり近寄ったら駄目!?」
(たじたじとはこういった有様を指すのだな……)
「うるさい――あ」
思わず肉声で霊剣を罵ったことに気まずいものを感じて少女の方を見ると、彼女はヘビを見るのはやめて、グリュクの腰に下げた霊剣をじっと見て、呟いてきた。
「……おじさん、その剣と喋ってるの?」
「え! いや、そんな訳ないだろ……ははは」
また髭が伸びてきているので、下手をすれば十歳にも届かないこの娘にそう呼ばれるのは仕方ないとしても、霊剣との間柄の一端を言い当てられ、動揺が走った。
「でもその剣喋ってるよ?」
「!?」
グリュクとしては笑って誤魔化す以外の手が思いつかなかったのだが、咄嗟の嘘は少女の指摘によってあっさりと瓦解した。
(主よ、この娘、魔女であるぞ)
「魔女? キリエが?」
キリエという名前らしい彼女は霊剣の発言を聞いたのかそう聞き返すと、身近な大人の真似なのか、拳を腰に当てて叱るような仕草で腰を曲げ、たどたどしく言い出した。
「剣ー、いけないんだよ人にむかって魔女、だなんて。
キリエだから許してあげるけど、村のみんなだったら許してくれないよ!」
確かに、グリュクも故郷の教会では幼い頃からそう教わってきた。先日までいた村が非公式ながら魔女に対して寛容だったこともあり、現状の認識が緩んでいたらしい。
恐らく、彼らが通報されずに済んでいるのは忌むべき“魔女”と目の前の“喋る剣”とが、彼女の価値観の地図の中で関連付けられていないからに過ぎないのだろう。
グリュクは名乗り、謝って誤魔化そうと試みた。
「あ、あぁ……俺が謝る、ごめんよ。でも俺、おじさんじゃないぞ。グリュク、カダン。繰り返すけどおじさんじゃないぞ、キリエちゃん」
「グルクさん?」
「うん……まぁ、それで……いいか」
「でも何でヘビ食べてたの?」
幸い、彼女の興味は先ほどのヘビに戻ったらしく、キリエは棒切れで肉片をつつきながらそう尋ねてきた。
この年頃の子供には少々刺激が強いのではないかと思ったが、棒で焼けたヘビをつつく手つきには遠慮が無い。
このまま少女の首を上に向けさせておくのも良くないので、屈んで目線を合わせる。やや冷めかけた岩から蛇を取り除き、沢の小石をどけて掘っておいた穴に放り込んで埋めながら、話し相手をすることにした。
「お腹空いてたんだよ」
「ヘビ好きなの?」
「いや……まぁ食べてみたら意外とおいしかったけど、出来れば他の物が……お金持ってないんだ」
「キリエもお金持ってないよ」
「え……いやいや、頂戴なんて言わないよ、何とかなってる」
「そうじゃなくて、うち来て何か食べさせてあげようかなって」
「うーん……嬉しいけどそれは……」
グリュクは改めて、キリエの服装を見た。
己のことを棚において見立てれば、決して上等な服ではなく、清潔さにも欠けた。
先ほど立て看板で名を知ったばかりのすぐそこの村の娘なのだろうが、彼女の身なりは村全体の状況の縮図のようにも感じられる。
少なくとも、彼女の家で食料を分けてもらうのは、グリュクにもミルフィストラッセにも気が引けた。
(娘よ、申し訳ないが、あまり面倒を掛ける訳にも行かぬゆえ、気持ちだけありがたく頂いてゆく。
それと、吾らのことは誰にも話さぬように願いたい。御辺らにとって、吾らは不吉すぎる)
「なんで不吉なの?」
(そ、それはだな……)
「ていうか、どうやって喋ってるの?」
(それは……何というか……色々と難しいのだ!)
「えー、教えてよぅ」
「……お前もたじたじじゃないか」
(えぇい、黙れ!)
少女の質問に度を失いつつある霊剣を茶化し返すと、饒舌な剣はむきになって唸った。
「……ミルフィストラッセ!」
(む?)
付近の違和感に気づき、霊剣の銘を呼ぶ。沢のやや上流、斜面が徐々に崖となって上方へ切り立っている方向を見ると、沢から高さにして5メートルほどの高さ、斜面から生えた二本のシラカバの根元に、大きな影が引っかかっていた。
自動車だ。後方が箱状の荷台になっている形式で、斜面の上の山道から墜落してきたのだろうか、それが沢に激突する前に白樺の根に堰き止められたものか。
元々塗装が白く、白樺や雪で目立たなくなっていたので気づかなかったが、よく見ると車内に人影が見える。どのような順序で落ちてきたものか、荷台の壁は大きく裂けて、助手席は潰れきっていた。だが運転席は何とか原形を保っており、いつからあのままだったのかは分からないが、魔女の知覚で探ると、まだ運転手がそこにいて生きていると知れた。
(主よ!)
「分かってる!」
「あー、待って!」
少女を尻目に、グリュクは走り出し、自動車の下まで辿り着いた。
(よし、新たな術を伝授致そう)
「……たまには休ませて欲しいんだけど、仕方ないか」
魔女となって以来、一日あたりに一つか二つの頻度で魔法術を教えられた。大まかな種別の数だけでも、既に二十に迫りつつある。
「……あの人を助けるの?」
「あ……えーと……」
その魔女の呼称を忌む発言から、彼女は魔女でありながら啓発教義を信仰する価値観の社会で育ったことがはっきりしていた。
ヴォン・クラウスは啓発教義の村なのだろうが、恐らく、キリエにはグリュク同様祖先の血が世代を空けて現れたのではないか。
彼女の前で魔法術を行使すれば、グリュクが魔女であることは知れてしまう。
(そう、人助けである。良いことをするのだ、分かってくれるな娘よ)
「うん」
「……やろう、早く手当てしないと」
(うむ! では行くぞ)
近くに他の気配はない。未だ出会って三十分にも満たない短い付き合いだが、少女の優しさと、幼さゆえに教義に染まりきっていないその倫理観を信じることにした。
霊剣が術を念じ、グリュクの魔力を使って魔法術を構築する。
(よし、唱えよ)
「……来たれ!」
呪文を口にすると、霊剣の発する光が鞘から漏れ、グリュクの体を通して強い力が発動した。
すると、トラックがゆっくりと浮き上がり、白樺の枝葉を掻き分けて沢の上空十メートルほどに漂い出てきた。
「うわーすごい!!」
(これぞ、念動。扱いやすく応用の幅も広い術ゆえ、努めて熟練すべし)
「説明はいいから早く下ろせって、お前が制御してる術なんだから」
(ぐぬぬ……)
霊剣がトラックを静かに着地させると、全身を刺激する奔流のような感覚が解け、グリュクはトラックに近づいて仔細を調べた。
運転席の扉の根元が歪んで開かなくなっていたが、霊剣による一閃でその箇所を切り離して強引に扉を開くと、運転席の男が小さな呻き声を上げた。
四十歳前後といったところか、顔は青ざめていて弱々しくはあるものの、呼吸をしていた。
見た所、しっかりと座席のベルトで体を座席に固定していたようで、歪んだ車体の部品に体のどこかを挟み込まれているということも無い。
落下時に固定ベルトで強烈に締め付けられたであろうこと以外は目立った創傷などもなく、軽く触診したところ、骨も全て無事だった。背負って行けるだろう。
ぐったりしたままの上半身を抱き寄せながら、何とか車内から引き摺り下ろすことが出来た。
「もしもし、もしもし!」
(無理に起こさぬ方が良い。何処かに運んで安静を保たせるべきだが……ここは何とか村民の家屋に間借りするのだ)
背負っても、やはり起きる様子はない。体温がやや下がっているが、恐らく崖から落ちて何時間もあのままでいた筈で、この幸運と生命力は賞賛されてもいいかも知れない。
「じゃあうちに連れて行こう!」
「いいの?」
「人と人とは助け合い、人と人とで立ち向かう……だからね!」
グリュクも聞き覚えのある聖典の一節を、キリエがたどたどしく諳んじてみせる。
厳密には、二人とも王国にとっては人ではない魔女なのだが。
その魔女でありながら、彼女は既に熱心な啓発教義の信徒であった。
妖獣の血を浴びるまで覚醒しなかったグリュクと違って、身体機能に特に問題のないキリエは教えれば短期間で魔法を扱えるようになるはずで、彼女が生きているのは、恐らくはここが公式には存在しない村であるからなのだろう。
グリュクは全くの他人ながら、心優しい少女の行く末を案じた。
(……御辺、もう聖典を読めるのか?)
「…………お姉ちゃんに読んでもらいました……」
(素直でよろしい)
そのままでは程なく絶命する可能性もある男を差し置いて、早くもキリエは霊剣と馴染んでいる。そういった才能なのだろうか、その境遇ゆえ友人が多かったとは決して言えないグリュクには、少々羨ましいものが感じられた。
そして結局、他に案もないのでキリエの案内で彼女の家へと彼を運び込むことにした。ぐったりと重く圧し掛かる男の体を背負って村への坂を上ることよりも、喋る剣のことと、魔法術を使って救助したことを漏らさないようにキリエを説得する方が、はるかに骨が折れた。