10.昨日、今日、明日、未来
元より政治的な活動を得意とするため、そうしたことを疎んじる者からは蛇蝎の如く嘲られることの多かった、タルタスではある。
ただ、今回のことは、それとは異なる方向で、彼の不評を推し進める格好となった。
全くの無防備になった隙に、タルタスの全力の肘打ちで鳩尾を突かれて胃の中の茶を吐くほどにえずいていたヤクネが、無理なく話せるほどに回復するのに10分ほどを要した。
場所は、ヤクネの庵の寝室。床から上半身だけを起こした彼女は、どこか安らかそうに感想を告げた。
「仕方ない。あの土壇場で女を捨てられなかった私の甘さだよ」
「何というか、そういう問題なんでしょうか……」
その傍らに立って慰めるように言うアルツェンが、半眼で部屋の隅の椅子に座っているタルタスを睨む。
「いや……久方ぶりの勝負にちょっといい気になって、調子に乗って弟を一方的になぶっていて――意外とやるもんだから本気を出そうとしたら後ろからセクハラされて一瞬とはいえ戦意を喪失して、その隙を突かれた。それだけのことさ」
「おい……やっぱこのクソ野郎はここで殺していこうぜ……!!」
今にも暴れだしそうなフランベリーゼが、タルタス――彼も木剣による無数の殴打によって、妖術でも即時治療の困難な打撲傷をかなり受けているのだが――を汚物を見るような目で見下ろす。
「タルタスも必死に考えたんだろう。私だって、もし自分より明らかに強い相手を倒そうと思ったなら、ああいう手を使っていた」
「もう少しやりようはあると思うの」「領地に帰ったら変態乳揉み猥褻大王の武勇伝を広めて差し上げるわ」
当のヤクネは擁護さえしてくれているというのに、双子も口さがなくタルタスを責める。
タルタスはと言えば、そうした心ない仕打ちは慣れたものと受け流し、ヤクネに問い掛けた。
「それでは、姉上――ご約束の件ですが」
だが、彼女が返事をする前に、ヴィルヘルムが会話に割り込む。
「その前にタルタス兄上から、一言必要な言葉があるのでは?」
「…………!」
その言葉を受けて、今や庵の寝室に集まった全員が、この傷ついた陰謀家を軽蔑の視線で以って見下しているように、タルタスには思われた。
このまま黙っているのだとしたら、もっと最低ですよ――とでも言いたげな。
この場で妙な意地を張る意味もないと、タルタスは観念して椅子から立ち、ヤクネの側に立って陳謝した。
「は……破廉恥極まる行い、謹んでお詫び申し上げます……
申し訳ありませんでした、姉上」
「まぁ実際の誠意はともあれ、人前で謝れるっていうのは良いこっちゃ。君に協力しよう、タルタス。
私も自分勝手な理屈でへそを曲げて、悪かった」
苦笑交じりに、ヤクネもそう言って毛布をのけて、床を立つ。
「戸締まりなんかはするけど、すぐ出発しよう。待っててね」
何やら楽しげに、こうした秘境に篭って剣に明け暮れていた剣士のそれとは思えない軽やかな足取りで、彼女は部屋の外へと出て行った。
あとに残ったのは、太陽の名を持つ霊剣の笑い声。
「ははははは! まさかお前さんが、弟たち妹たちの前でそこまで頭を下げるところを見られるとはね……!」
「黙れ」
かつての英雄と同じ顔形で笑う太陽の名を持つ霊剣に向かって短く一言吐き捨てる。
そこで一区切りと見たか、アルツェンが皆に呼びかけた。
「じゃあ、僕達は外で待っていましょう。エロタス兄さんたちも」
以下、フランベリーゼ、ハナルースとマナルース、ヴィルヘルムと続く。
「先行ってるぞドスケベ兄貴」
「帰り道も長いのだから」「遅れてはダメよ変態乳揉み猥褻大王」
「陰湿で冷酷な権謀主義者と呼ばれるよりは、随分と親しみ深さが増したように思われますけどね。
それでは」
太陽の名を持つ霊剣も、押し黙るタルタスの心情を察してか、何も言わずに庵の外へと出て行く。
何も発さず黙ったままの霊剣に、尋ねる。
「パノーヴニク……私は本当に未来を手にしたのか……
代わりに失ったものがあまりに大きい気がするのだが……」
(気に病むことはない。妄想である)
「……本当にそうだろうか…………」
ふらふらと立ち上がり、タルタスも庵の表へと出る。
すると、そこには密林のどこかに隠れ棲んでいたのか、体長17メートルはあろうかという巨大な妖獣が姿を現していた。
「…………?」
「タルタス、早く乗りなさい!」
両腕が巨大な翼になった、翼手竜の妖獣だ。
その巨大な首元の周辺には、複数の座席らしきものが複雑な形状の帯や金具で取り付けられており、今まさに、ヤクネがその取り付けを終えたところのように見えた。
飛び降りて、ヤクネは細長い首をかしげる妖翼手竜を指して紹介する。
「私が下界との往復に使ってる、ノコギリ号だ。大人しくて気のいいやつだよ」
「なるほど……」
名付けのセンスはともかく、合点がいった。
昔フォレルと共に来た頃から、彼女一人であの庵での生活を維持するのは難しいはずだと考えた記憶があったが――あの妖翼手竜を使って物資を調達し、時には口の固い職人などを連れ込んで庵の維持をさせたのだろう。
タルタスも他の子女たちと共に――みな、ちゃっかりと袋に入った果実の土産を懐に下げていた――“ノコギリ号”の首周りに据え付けられたむき出しの座席に体を固定すると、行き先を告げた。
「北のカッソーグで合流する予定になっております。行けますか」
「そのくらいならすぐさ。何しろ地上の危機だ、急がないとね!」
首にまたがり手綱を引くヤクネの指示に従い、“ノコギリ号”は姿勢を上げると崖に向かって走り始めた。
「む……」
助走の振動が、座席にまで伝わってくる。
舌を噛まないよう警戒した矢先に、眼下の地形が一気に開けた。
「ぬぉおお!? 高けぇ……!?」
「すごい!」
「美しいわ!」「素晴らしいわ!」
「これは……!」
妖術で千メートル単位の跳躍さえ可能とはいえ、こうして空中を一定時間に渡って飛ぶことは、妖族にとっては稀なことだ。
異母弟・異母妹たちが思い思いの感想を口にする中、タルタスはフォレルの姿を借りた太陽の名を持つ霊剣がこちらを見ていることに気づき、尋ねた。
「何だ」
「もう少しばかり、晴れがましい面をしたっていいんじゃないか。
千年前から秘境に隠遁する伝説の最長女を説得して、連れ帰ることが出来たんだ」
「……フン、まだほんの、せいぜい一歩目に過ぎんさ」
(………………)
荷物入れの中の道標の名を持つ霊剣も、何か言いたげでいるように思えた。
だが、そちらに対しては問い質すことはせず、タルタスはしばし、高空から眼下を眺めた。
傾きかけた太陽が、黄金色の妖魔領域の密林を照らす。
あと何度、あの太陽を見ることが出来るだろうか?
地上の滅亡まで、あと46時間余りとなった。
彼は、夢を見ていた。
記憶はあっても、体はない。
いや、厳密に言えば生前から作り続けてきたこの建物自体が体ではあった。
未来を見たいという、古来から愚かな欲望とされてきた願いを実現するための機械。
ついに自分の命がある内には完成できなかったようだが、愛弟子たちがこれを引き継ぎ、ついに彼は予知装置の制御人格として現代に蘇った。
しかし、安定した未来視を行えるようになった時点で、あと2日ばかりもすれば世界が滅亡するという状況になっているとは。
妖魔領域は最西端、グラバジャ辺境伯領。
そこにそびえ立つ時計塔はそう考えて、気分の上で大いに嘆息した。今や肺や喉など、持たない身ではあるが。
それを見て取ったか、一番弟子であるグラバジャ辺境伯のアルベルトが尋ねる。
「師よ……試算のお具合はいかがでしょうか」
(…………まったくもって、不収穫だ)
彼は、仄暗い地獄となった二日後の世界の様子を未来視に捉えていた。
予知室の虚空に映しだされたその光景を、既にアルベルトと共に何度も見ている。
48時間後の時点では、世界のどこ――といっても、地上の光景に限られるが――を見ても、文明と生命の失われた昏い地上の様子しか窺えないのだ。
「もはや、例の始原者とやらの宣言の完遂は……揺るぎないということなのでしょうか」
(このまま我々が何も出来ぬのであれば、そうなるだろう)
最初に未来視を行ったのは、一人の妖女の20日後の生存についてだった。
これだけ巨大な機械を用いても、記念すべき最初の稼働では、「彼女が20日後に、どうやら五体無事で生存しているらしい」という事実を観測したのみ。
そこから調整を繰り返すことを決めた際、まずは時計塔は、アルベルトに複数の業者から様々な蝋燭を調達させた。
どの蝋燭がどれだけ燃え続けるのかといった情報は時計塔には開示しない。
そして複数の種類の異なる蝋燭に一斉に点火し、一定時間後のそれぞれの状態を予知するのだ。
未来視の光景は予知室の壁面に映し出されるので、これを写真に撮影して保存することで、未来視の正確さを検証する。
5000本ほどの蝋燭を消費した時点で、1時間後のごく狭い範囲についての未来予知は、それを元に対策するに足る精度を確保したと確信できるほどになった。
続いて、範囲を広げた。
今度はアルベルトが、城内で使用されている来城者名簿や鍵の持ち出し台帳に記入される内容について、1時間毎に未来視を行うと提案した。
次の段階では、広報板に張り替えられた掲示物や食堂の献立、城内で実施された球技の得点と勝敗、それに隠れて行われていた賭け事の集計表の内容までを見通すことが可能になった。賭け事に興じていたものは罰された。
このようにして、時計塔とアルベルトは協力し、時に内部機構に調整を加えつつ、細かな一点であれば7日から8日ほど先を詳細に、また大きな出来事でも一つ事に絞れば最大2日の未来視を可能とした。
無論これは最重要機密であり、グラバジャの擁する唯一の狂王の嫡子であるパピヨンが後継闘争で脱落することを防ぐ最終手段としての意味もあるが、それ以前に、啓蒙者による最終戦争への最初の防衛線として設立されたグラバジャの立場を限りなく強化するものでもある。
未来が分かるとなれば、それを元に狂王にも等しき権威と権力を手に入れることも可能だ。
それに奢って自滅するといった訓話めいた事態にも、可能な限り対策が考えられた。
そこから、半年近くが経つ。
(だがそれも、世界ごと終わってしまう未来が変えられないのでは意味が無い)
グラバジャの時計塔。そこに宿る人格は、生前の立場をグラバジャ辺境伯領付術技指南役、デオティメスという妖族のものであった。
この時計塔の中枢に生前の自分の人格を鋳込んで5年も経っていないが、この不毛の究極たる未来があと二日後に迫り、それが一向に変わる様子がないことに、早くも諦観めいたものを覚えるようになっていた。
まさか、自分が未来視などという大それた技術を実現したために、世界法則とでもいうべき存在が罰として、世界を終わらせにでもやってきたというのだろうか?
と、そこにじりじりと、電話が鳴った。
アルベルトが受話器を取り、応答する。
「アルベルトだ」
この電話機は新しい物好きのアルベルトが魔女たちから買ったもので、職人たちに命じてこの時計塔の地下までも線を引かせたのだ。
今は城内に発電機や複数の通話機を設置するにとどまっているが、いずれ辺境伯の権限でグラバジャ独自の電話局とその通話網を整備する計画も始めているというのだから、生きている者にとって世界がいつ終わるのかなどといったことは関係がないのだろう。
それは無知と不感から来る図々しさではなく、尊敬すべき強く素晴らしい力なのだと思いたかった。
「……分かった、お出迎えの準備はあまり目立たないよう進めろ。
天船は速い。さして準備をする時間もないと思うがな」
何か変化があったらしく、アルベルトが通話を終える。
本来であれば、観測した未来を元に何がしかの対応を行えば、それに応じて未来視も変化する。
だが、彼が見ている二日後のこの世界は、冥府のようになったままだ。
全ては、無駄なあがきなのか。
「師父、そのまま引き続き、試算をお願いいたします。
私は、セオ殿下がいらっしゃるとのことですので、パピヨン殿下とお出迎えに上がります」
(分かった……あの風来坊のセオ王子が、変わったものだな)
「生きておれば、心を持つ者は変化を起こします。そういうものです。
私がそう申しますのも、師父のお教えのあったればこそ。それでは」
いつの間にか、一人前のことを言うようになった。
時計塔となったデオティメスは、弟子が退室するのを見届けて、少しばかり、そうした感慨を弄ぶ。
地上滅亡まで、あと44時間ほどとなった。
妖魔領域の北部、ハロルト辺境伯領。
妖魔領域において辺境伯領と呼ばれる土地が満たすべき条件は非常に明快で、つまりは、妖魔領域の外縁部分に位置する地域はすべてそう呼ぶというものだ。
西部の魔女諸国に隣接するグラバジャ、カルネジロフなどに加え、南東部の海を隔てたサーク・リモール。
そしてこの、最北端にして北極海に面したハロルトは、北部辺縁の広大な領域を守護する行政区分として存在していた。
赤道からやや南に位置する啓蒙者世界からはやや遠いため、対啓蒙者としての備えはセオを擁するサーク・リモールと比べれば貧弱で、寒冷地ゆえに農作物の収穫高も他の伯領や候領と比べて低い。
任を務める辺境伯にとっては不名誉なことだが、国防の要である辺境伯領としては重要度も低く、開発もあまり進んでいない。
「あけすけな言い方をするなら、“何かパッとしない”って感じかしらね」
フレデリカは、妖術の生徒でもあり、護衛対象でもある少女にそう説明し、概略を終えた。
「グラバジャも同盟国に隣接してるわけですし、お金周り以外は似たような感じな気がしますけど」
「お陰で、大して活用されてない広い土地が使わせてもらえるってわけ。さ、出来たわ」
現在、狂王位継承権第11、パピヨン・ヴェゲナ・ルフレート。
狂王の実子としては相当に早期に生まれていながら、実母の要望で長期の凍結睡眠状態にあり、継承権闘争に参加するようになったのが2年ほど前という変わり種だ。
もっとも、フレデリカとしてはそうした背景には関係なく、師として、また姉代わりとして愛情を持って接しているつもりではあったが。
「では先生、いってきます!」
「うん。一人で不動華冑を展開できるようになったあなたなら、もうそんなことはないと思うけど……
他の弟妹たちに侮られちゃ駄目よ?」
「はい!」
防寒着でしっかりと身を固めた少女はこちらに手を振り、彼女を待つ異母兄弟たちの元へ駆けてゆく。
異母兄弟たちの数は、およそ30人は下るまい。
全て、この地上の危機に招かれ、集まってくれた者達だった。
時刻は、妖魔領域標準時で午後8時。
雪こそ降っていないものの太陽はとっくに沈み、月明かりと積もった雪の反射だけが頼りとなった、北国の夜だ。
にも関わらず、これから、タルタス・ヴェゲナ・ルフレートを指導役に据えた訓練が始まる。
こうした土地でなければ実施できない、大規模なものだ。
フレデリカは傍らに佇む女に、横目で尋ねた。
「今更ではあるけど……あなたの主、信じていいのかしら」
「信じていただく他ありません。我々フィッスオウの者は、そのための人質としての役割も持っておりますので」
礼服に身を包んだ狐耳の妖女――何度か面識のある、タルタスの秘書だった――は、無愛想にそう答える。
タルタスが自ら運転する大型の自動車らしき乗り物に継承権者の全員を収容し、それは走りだした。天船が残していったもので、この雪の中でも馬匹より早く走っていた。
「こういう時くらい、信用してもいいのかもね。なんせ、世界が終わるかどうかの瀬戸際らしいから」
従来から武力を軽んじるいけ好かない王子と評されることが多いにもかかわらず、こうして彼は、取引を駆使して有力な子女たちを集めてみせた。
それどころか、南部の大高地に隠棲していたという最長女、ヤクネまで連れ帰ってきたとあっては、それを知った一部の有力者たちは目を丸くして驚いていた。
フォレルという巨大な後ろ盾を失った筈の彼が、フォレルそっくりの存在を連れていることもあるか。
ただ、それが複雑な経緯で持ち主そっくりに擬態している霊剣だという実際をフレデリカに明かしたのだけは、解せないが。
不可解ついでに、秘書にまた尋ねる。
「でも、あなた個人はどうなの?
狂王陛下はこの期に及んで動く気もない、頼りの総軍は前線に向かうための編成すら覚束ない……
こんな状況で、有力な子女だけを集めて共同妖術を撃ちこむなんて作戦、あと24時間でモノに出来ると思う?」
「――出来ないかも知れない、などと思ってはいけない」
唐突に口調が変わったのを訝しんでいると、妖女はフレデリカの方に顔を向け、続けた。
「意外かも知れませんが、殿下はそんなことを宣っていました。
いえ、私にも意外でしたけど……」
驚きを隠せず、フレデリカは所感を口にした。
「ホント意外だわ……でも裏でねちねちと陰湿で地道なことをやるなら、そのくらいの執念がないといけないのかもね」
「さすがにそこまであからさまに主を侮辱するのはやめてくれます……?」
気温は氷点下に近く、再び雪がちらつき始めてきた。
始原者の宣言した地上の破壊まで、あと42時間。
神聖啓発教義領では、ほぼ全ての市民が陰鬱な心地で日々を送っていた。
軍民一体となって行われていた資源採掘や兵器生産などは、極度の体調不良に陥った啓蒙者が続出し、大きく作業量を落としていた。
実際に採掘や製造を行うのはロボットだが、それを管理・保守する側が、命令を出せないためだ。
最大の原因は、始原者メトを名乗る存在が降臨し、世界の滅亡を宣言したことにある。
なぜ?
どうして?
黙示者たちはどこへ行ったのか?
一体なぜ始原者は携挙を行おうとせず、地上絶滅を宣言したのか?
信心深く、疑うことを知らない彼らにとってそれは、偉大な始原者が与えた試練なのだと解釈するのも困難な、矛盾の極致であった。
こうした状況で多少なりとも平素と変わらない活動が可能なのは、指令系統の結節点として高位に位置するごく一部の啓蒙者のみだ。
例えば、捧神司祭。
ネットワークを落としているため、現在は手動で開閉するようになっている執務室の扉を叩く音に、ナイアは答えて促した。
「どうぞ」
「ようナイア。こんな状況でも精が出ることだ、羨ましいぞ私は」
扉を押しのけて入ってきたのは、祭祀用の黄金の仮面を被った老司祭、アクロテカトルだった。
捧神司祭ではないが、それに次ぐ高位の地位にある。
仮面は軽量ながら巨大で、頭部の上へと大きく広がって巨大な顔面のようにも見える。
「からかわないで」
報告に自ら出向いてきた老司祭を労うと、詳細を尋ねた。
「どう、アクロテカトル監司……自分の目で見て回った市民の様子は」
「……率直に言って、痛ましいね。
私はこの歳まで、教義の道から外れた市民を発見し、隔離する生業に就いていたが……無理も無いことだが、国全体が挫折しちまったようじゃないか」
「あなたは……どうかしら」
「医者じゃないぞ私は、こうしたもんは見慣れちゃいるがね。
ただま、人が辛そうな様子を見ると、自分はさほどでもないように思えてくるものさ」
「あなたも耐えているのね……」
ナイアが憔悴を来しかけているというのに、この老司祭は笑っていた。
それを実際に問うたならば、恐らくこの老司祭はやはり、笑い飛ばしただろう。
何、ちと耄碌して感性と信仰心が磨り減っちゃったのよ、などと。
信仰こそ確かであるとされていたが、啓蒙者としてはこの男は、少々どころでは無く常軌を逸していた。
「それはお互い様というものさ。
メトの神は、我々の自我の一部といっても良い存在だった。今でもだな。
だがそれが実際に現世に降臨し、斯様に我らと導くべき無翼人たちを顧みず、滅ぼすと宣われたのだとすれば……
寝込む市民が続出するのもやむを得ぬことだろう。
あんたがたの方が、無理をしておられる」
「負っているのよ、そういう責任を。
だからこそ、通常の啓蒙者には極めて難しい懐疑思考が可能にもなっている」
ナイアがそこまで言うと、彼女の持ち物だった装甲端末が鋭い通知音を奏でた。
アクロテカトルの端末も同様の音を立て、二人は同時に画面の通知を確認した。
ナイアの執務室の入り口の扉も自動開閉機能が復活し、小さな電子音と共に一度開閉し、再起動を済ませたようだった。
「おお、ネットワークの再起動が完了したか」
「先代から再起動キーを受け取った時は、二回も使うことになるなんて思わなかったけどね……でも」
既に一度、汚染種の船の強襲を受けた際に再起動を行っている。
今回の再起動は、メトの神による、啓蒙者に対する不利益をもたらす置き土産のようなものがないかどうかを確認する目的を兼ねていた。
もっとも、彼女たちは汚染種の船の強襲を受けた際、黄金の超対称性粒子の力で汚染種との強制的な記憶共有を巻き起されており、精神防御が可能な高位の司祭はともかく、多くの市民はその影響を受けてしまっていた。
黙示者の登場、そして聖体の再臨準備で有耶無耶になってしまっていたが、アルスリィが自ら複数の市民の精神探査を行ったところ、黙示者すら開示しなかった情報が明らかとなったためだ。
「アクロテカトル。あなたは汚染種が残していった特機情報について、どう思うかしら」
「蓋然性は……高いのではないかな」
大型の仮面に付属した鈴が、アクロテカトルの首の傾きに合わせてちりんと鳴る。
「再起動の前に、科学院でまだ元気の残ってる連中に頼んで調べてもらったが、我々啓蒙者はこの惑星の生命史からやや外れておる。
若いやつらの言うことには、我々は惑星独自の生態系を……恐らくは当時この地に生息していた汚染種を改造して生み出された種族なのではないかとな。
この惑星に存在する啓蒙者以外の脊椎動物で、3対の肢を持つ種族がいなかった不自然さも、それならば説明がつく。
ショックを受けておっても、連中の頭は柔軟性をなくしたわけではなかった。聖典に曰く、"若くして老いたりを敬え、老いて若きを尊べ"とな。
私はあんた方の判断に従うよ。ククラマートルも、きっと無翼人たちに入れ込んでる奴さんのことだ……同じことを言うだろう」
ナイアは、その言葉に救いを求めるかのように聴き入っていた。
その、親身に諭すような言葉に感じられる深みを、老成と呼ぶのだろうか。
「聖典を信じよ、真実の御方の御心を信じよ。本当のメトの神はきっと、この試練を無翼人と啓蒙者が手を取り合って乗り越えることをご所望だ。
あんな日照権侵害物件が最初の御方だというのはな、何かの間違いよ。みんな分かっている。
ただ少しだけ……驚いてしまっただけさ、な」
「そう……そうね……」
うまく言葉にできず――捧神司祭としては恥ずべきことだが――、唸る。
その時、装甲端末から再び通知音が鳴った。
今度は単音ではなく、複数の小節からなる曲と呼べる長さのものだった。
それが終わると、柔らかな声が発せられる。
『信仰を同じくする同胞たちよ。
通常の式礼を割愛し、エンクヴァル放送局から私、捧神司祭ネフェルタインがお送りする。
これは、現在我々の置かれている状況を鑑みての臨時の措置である』
アクロテカトルが、端末の画面を彼女に見せつつ、尋ねる。
装甲端末の画面には、気難しそうな表情の端正な青年が話しかける様子が映し出されていた。
「ナイア、こりゃ一体……」
「彼が前から立ててた企画よ。仕事の合間に、何らかの精神的な危難が訪れた時に、市民を慰撫するプログラムを考えてたというから、任せたの」
ナイアは気分が少し楽になるのを覚えつつ、それに答えた。
「ははぁ……まあ、少し聞かせてもらうかな」
仮面の老司祭はそう言うと来客用の椅子に腰掛け、自分の装甲端末の画面を眺め始めた。
ナイアも、先ほどまでの沈痛な心持ちからやや立ち直り、微笑ましげな気持ちで自分の端末を見つめ、聞き入る姿勢に入っていた。
『今回、同じく捧神司祭であるカルノクォトルから、捧神司祭から市民への言葉をお送りすることとなった。
各装甲端末は、先ほどのネットワークの再起動と同時に通信が戻っている。
念のため、ご家族やご友人の端末も、お互いに確認されたし。
気分や体調がすぐれない者も多いとは思うが、復旧していない市民が近くにいる場合、可能な限り端末を共有し、以後に始まる番組を視聴して欲しい』
各市民の持つ端末には、基本的に故障などはないはずだ。
ただ、そこにはナイアの知るネフェルタインらしい、配慮の行き届きが感じられた。
『では、カルノクォトル。よろしくお願いする』
『分かりました、ネフェルタイン。
不肖、捧神司祭カルノクォトルがお伝えします』
そうして、画面外から入ってきた、直毛の髪を長く伸ばした啓蒙者の娘は、紹介された通りに名乗り、語りかけ始めた。
『それでは、まずは皆さま。
昨日のミレオム標準時間で午前2時頃、皆さまの全員が、最初の御方を名乗る声を、眠っていたかどうかは関係なく、聞いたことと思います。
まずは決定事項として、我々はあれを、最初の御方ではないと判断することにしました』
そこで、神聖啓発教義領の全てが凍りついたような気がした。
これは、この放送を見た啓蒙者たちが、自分たちの猜疑心に乏しい――逆にいえば、与えられた情報に疑問を呈することが困難――という種族的特徴に、真っ向から反抗しなければならないということを意味する。
確かに、この判断も、放送も、記憶を取り戻したロメリオも含めた、捧神司祭の全員で決めたことだった。
だが、ナイアは再び不安になった。
やはり、早すぎたのではないか?
カルノクォトルは、なおも続ける。
『戸惑う市民もあるでしょう。
苦しむ市民もいることでしょう。
ですが、皆さまにはまず最初に、思い出していただきたいことがあります』
一拍を置くと、異形の翼を持つ若き啓蒙者は、語気を強めた。
『それは、最初の御方が、私たち啓蒙者を生み出した理由です。
誰もが、諳んじることができることでしょう――“汝らを産み、名付ける。蒙いを啓き、自ら伝え、導く者。翼無き人々を扶け、相愛し、共に真の王国へ進まんことを”』
ナイアも途中から、端末の画面の向こうのカルノクォトルと同時に唱和していた。
『また、私たちは、翼無き人々を導く責任以外にも、多くのものを、全ての父より預かりました。
信仰を忘れず、それを守るために戦う義務。
その日々を、家族と、友と、翼無き人々と分かち合い、喜ぶ権利。
何より、そうすれば、きっと全てが救済される楽土が作り出されるという、希望を』
端末の画面の中の少女は、目を閉じ、己の胸に手を当てる。
ネットワークの再起動に伴い、各市民の持つ装甲端末にも通知が入っているはずだ。
その直後ならば、健常にあるほとんど全ての市民が、この放送を見ていることになる。
『想いましょう。
私たちには、信仰を守る義務があります。
信仰の日々を、無慈悲な行いから守らなくてはならない』
ナイアも、想った。
捧神司祭ならば、通常の市民よりも多くの能力を持つ司祭であるならば、なおのことその責任は大きい。
そしてそれを投げ打つことがないからこそ、"捧神"と号されてもいるのだ。
『私たちには、そして勝ち取った今日を、明日を、喜びと共に生活する権利があります。
無上の法悦も、ささやかな楽しみも、正しい理由なく奪わせはしない』
カルノクォトルも――今は画面外に出ているが、ネフェルタインも――、考えたのだろう。
考え、悩みつつも、世界を襲った大いなる矛盾に対して、当座の指針となる答えを出した。
ナイアとしても、そうあるべきと思える決断ではあったが、しかし、彼女には決断が躊躇われていた。
戦いとあらば冷静に、果断に振舞うカルノクォトルだからこそ、出来たことなのかも知れない。
『私たちには、希望があります。
この地上に、いつか本当の安息の地を生み出せると、教えられたから。
それまでは、滅べない!』
そこまで言うと、カルノクォトルは深く一呼吸し、最後の結論を唱えるようだった。
『生き残りましょう、皆さん!
我々捧神司祭は、メトの神を名乗る彼の者を探しだし、正すために戦うつもりです。
黙示者の行方の知れない今、戸惑ったまま滅ぶことこそ、信仰の敗北であると!
真の王国の建設予定地であるこの地上を滅ぼされることは、聖典に示された御意志ではありません。
ならば、これこそは信仰の試練!
今こそ試練に打ち克ち、信仰の真の証明を果たす時です!』
やや、演説じみてきてはいたが、呼びかけとしては十分だろう。
ナイアは防音が施されたアムナガル神殿の一室にいるが、今や彼女が呼び覚ましたミレオム市民たちのほのかな熱が感じとれるような気がしていた。
『そして皆さん、私たち捧神司祭は、無翼人世界に現れた巨大な物体を砕くための行動を開始することを決定しました。
詳しくは随時、端末に情報が届くことと思います。
……義務ではありません。迷いを得たままの信仰者を戦わせてはならないと、聖典にもあります。
どうか一人一人の啓蒙者が、今回こそはこころから、自分の信仰の心に従い、身振りを決めてもらいたい。
……少し、長くなってしまいました』
カルノクォトルは、少し寂しそうに声の調子を落とすと、
『市民の皆さま、辛い最中にご清聴頂き、どうもありがとう。
あなたの今日の終わりに、明日の夜明けに。
最初の御方の、御加護がありますように』
そこで聖印を切って画面外へと消える彼女に代わって、先ほど画面外に出たネフェルタインが再び現れた。
『以上、臨時放送を休止する。
未だ辛い者も多いとは思うが、市民諸君は装甲端末に送信された事項を確認し、行動して欲しい。
これは義務ではない。
だが、決心がついたならば、いつでも参加を表明して構わない。
あなた方の信仰に、確かな救いがもたらされることを祈っている』
そこで、映像は途切れて画面が切り替わった。
表示には、「戦闘およびその支援行動に参加する市民は、分野に応じて以下の連絡先に連絡すること」とある。
そこに並んだ十数の番号列のうちの一つに、彼女は見覚えがあった。
「あら、この番号って……」
次の瞬間、彼女の装甲端末の画面を怒涛の連絡通知が埋め尽くす。
「うぅ……!? こ、これは……」
「あんたの部下たちからだろう。医化学省も離脱者多数でダウンしとる今、医療分野の復帰志願者の連絡先といったらあんたしかおるまい。
……高位の部下から連絡を取って、組織の復旧を急がんとな」
「分かってるわよっ!!」
「それでは、私も忙しくなるのでな。失礼するよ」
「お互いにね!!」
一覧にはアクロテカトルの番号も載っていたのか、彼も今の放送で熱意を取り戻した部下たちからの連絡が大量に届いているらしく、着信通知が止まらないようだった。
胸の内を明かせば、その悲鳴は嬉しさに由来するのだろう。
ナイアは目星をつけると、通信会議を開くため、部下たちの端末へと通信を繋げていった。
滅亡まで、あと40時間51分。