1.姉妹と白い粉末
信仰の真の意味というものを、時々考えることがあるんだ。
過去のどんな碩学も辿り着いたことの無い、聖典の最奥の意図。
僕ごときに偉大な最初の御方のお考えを理解出来るとは思わない。
でも、誰よりもその近くにありたいと望むのは、僕は自然なことだと思ってる。
そりゃ、列聖されるような過去の偉人に勝る自信がある訳じゃないけど……
もうすぐ季節も変わります。君の周りでまた、何か変化はあっただろうか?
返信を待っています。
君に、正義の国で待っている君の家族に、全ての歩く人々に、最初の御方の祝福がありますように。
――ついに読まれることのなかった或る少年の手紙より抜粋。
雪の降りしきる朝。ペーネーンの住む村では雪は少々珍しく、妹などは物心ついて初めて見る雪に大はしゃぎだった。彼女も最後に見たのは妹と同じ年の頃だったから、六年ぶりの雪ということになる。
ただ、さすがに降り出して三日目となり、落ちたそばから地面に溶けて積もることも無いのでは迷惑の比重の方が高まってくるものだ。
早朝の日課に家を出て、妹も低木や家の屋根にだけ降り積もった雪を指して喜ぶ様子も無く、水音を立ててついて来た。大人用の古びた長靴に履かれてガホガホと音を立て、歩きづらそうな彼女が傘の範囲から出ないように気遣いつつ、沢の近くまで歩く。
冬はあまり外出したくないのだが、碌な産業の無い彼女の村の近辺で年中安定して得られるものといえば、沢の水か、外からの廃棄業者が村に違法に捨てて行く大量のゴミから回収できる金属以外にない。
二人ともそういったことに役立つ技術を修めた訳でもないので、重い機械屑で堅い機械屑を割り、中からペンチで価格の高い一部の金属だけを抜き取るという方法を取っていた。機械屑は重いばかりで安く、ある程度値の張るゴミは大抵廃棄する側で抜き取ってある。結果として、少量でもそこそこの額になる銅線などを狙う理屈となるのだった。二人が扱うペンチはそれを教えてくれた、年老いた引き取り業者から借りているものだった。嘴の欠けて錆も目立つ、周囲のゴミ同然の品ではあるが。
手袋などをしていても怪我をすることがあり、率直に言ってしまえば少しばかり割の悪い仕事なのだが、近頃彼女をいやらしい目つきで見てくるようになった木こりの手伝いはもうやりたくなかった。本当は、妹の為にもあまり選り好みは良くないのではあるが。
「足滑らせないように気をつけなさいよ」
「わかってるよぉ……」
既に先ほど滑って尻を盛大に泥まみれにしておきながら煩がる妹に何度目かの警告すると、彼女は足元の重い鉛蓄電池を持ち上げ、近くの大型スピーカーに向かって落とすように叩きつけた。塗装された合板の外箱が割れ、そこを押し広げて内部の配線にペンチを当て、部品を摘み取り始める。
「お姉ちゃーん!」
「ちょっとキリエ、どこに……」
少し離れて呼びかけてきた妹を叱ろうと顔を上げると、信じがたいものが目に映った。沢の方に、何か物が落ちており、雪を被った複数のそれらが盛り上がっている。最初の印象は、土嚢か何か。近づいて行く内にそれが、枯れ草の色をした紙の袋に詰め込まれた何かだと分かる。
「小麦粉の袋がいっぱい落ちてるよー!」
「!?」
小走りで最寄の袋に近づき雪をはたき落とすと、そっけない印刷で確かにそう記されていた。ジョルト製粉、業務用上質パン小麦粉。
「本当に……!?」
小麦粉となれば、紛れも無い高級品だった。少なくとも、彼女の村では。迷うことなく袋の下に手を差し込み、全身を使って何とか持ち上げる。
「キリエ! 持てる!?」
「がんばる……!」
ペーネーンが訊くまでも無く、既に妹は精一杯の力を込めて、もう一つ傍にあった十二キログラムの小麦粉の袋を持ち上げようとしていた。彼女の体重では恐らく無理だろう。
やはり諦めて、二人で一袋を運ぶことにした。それで往復頻度を増やした方が早い筈だ。
沢の水に浸かって駄目になっている物も含め、目に付いた全てを村からの死角になっていそうな岩陰に引きずり込んだ。こうなってはガラクタ漁りなどやってはいられない。他の村人に知られる前に、何としても回収するのだ。
「キリエ、このことは誰にも言っちゃ駄目だからね?」
「……ラヴェじじにも?」
「あ……あとでびっくりさせてあげないと」
「わかった!」
キリエは笑顔で頷くと、相変わらず足に合っていない長靴でガタボコと音を立てながら、一生懸命に小麦粉袋の重さを支えて歩き続けてくれた。
雪はまだ止みそうに無いが、暫くの間は他の村人の目からあの宝の山を覆い隠してくれるだろう。ペーネーンにはそれが有難かった。
国境を通り過ぎる前から、しんしんと雪が降っていた。ヘッドライトを反射しながら、面白みも無く地面に落ちてゆく。
国境付近では放送電波の中継施設が殆ど無いため、ラジオの音声も途切れがちだ。その程度のことには慣れていたが、気分次第ではそれも許容できなくなることがある。
ロレントが主に王国と騎士団領の間で営業する運送会社に入社して、もう二十年以上が経っていた。入ったばかりの頃は社員も十人に満たず、社有の自動車もガタの来た中古が多かったが、今では業績も安定した軌道に乗りつつあり、増えた従業員の数に比例して部下も出来た。商売道具も、新品を買えるようになった。
しかし、彼は最近不機嫌だった。
輸送車隊の副長になって利益も上がり、実入りが増えたのはいいが、それはその分仕事が忙しくなったからだ。
副長とはいえ、彼の兄である隊長と共に、部下の指導の傍ら自分でもトラックで荷を運びつづける日々。
金は家族に預けており、彼自身が使うような暇は無い。
息子は王都で一旗上げると言い出して強引に家を出てからは碌な音沙汰を寄越さず、娘は神学校の仲間内で立ち上げた映画製作プロジェクトとやらに夢中で朝帰りの常習者、夫婦仲は健在だったが、それも殆ど家に帰れない今の有様では何時彼女が心変わりしようと責めることは出来ない。
彼は最近不機嫌だった。途切れ途切れのラジオの音声も、心なしか彼を嘲笑っているような気がする。
予報が外れて、天気もこの通りの雪だ。騎士団領を出てから何本煙草を吸ったか分からない。そのせいでハンドルを握る指も余計にかじかむのだが、吸わずにはいられなかった。
先週起きたとかいう妖獣事件の調査とやらで彼のチームが普段使用している街道が封鎖されており、給料の為とはいえこんな見通しの悪い未開地同然の山道をのろのろと進まなくてはならないのだから、悪いことは重なるものだ。
道が滑りやすいので停止と発進の細かい反復、更に低速を強いられ、燃料の無駄も多かった。
最悪の場合は歩いて最寄の宿場町にでも燃料を買いに行かなければならないかと思うと、理不尽もここまでくればいっそ、清々しい……
「訳あるかこの野郎!!」
ハンドルを何度か叩き、頭を振って喚く。
だが、それでも彼は運転を生業にしていた。車外の異音に気づき、ブレーキを掛ける。
止まらない。通っていた道は舗装が無く、剥き出しの地面は溶けた雪でぬかるんでいてた。やや傾斜している道を、車体が止まらず滑り落ちてゆく。後部に満載していた積荷の小麦粉が、更に悪い方向に作用した。
「う、嘘だろ!?」
車体の挙動に狼狽えつつも必死にブレーキを踏みつけるが、彼のトラックは勢いを落とさずカーブを突きぬけ、音を立てて急斜面を転がり落ちていった。