16.無罪宣告
田園地帯に渦巻く、黒い炎。
それは廃屋や、田畑に生育した野生の草木に燃え移り、延焼していった。
自然の炎ではありえない、そのおぞましい超常の現象を引き起こした主犯は、黒い炎の海の中心にいる老人だった。
汚染種、ラヴェル・ジグムント。かつての地位と名を、スウィフトガルド国王バラエナオン・シュタウエル・スウィフトガルド。
今は眼光鋭く、距離をおいて佇む目の前のもう一人の老人を睨んでいる。
「糞ガキが、その力で何をやってきた」
彼の視線の先の老人――聖堂騎士団領ヌーロディニアの指導者にして、聖堂騎士団団長であるマグナオン・ラウエル・スウィフトガルドは答えた。
「指揮官として敵を押しとどめ、味方も掣肘するには……これしかないと考えました」
未だ魔法術を解放直前の状態に保ちつつ、怪老人は毛筆の如き白髪眉を跳ね上げて息子を一喝した。
「カルナオンに王務を押し付けてか!」
「あやつは立派にやっております。ここまで開戦が遅れたのも、支持率を犠牲にしてひたすら啓蒙者への説得に腐心してきた現王の尽力があってこそ」
対するマグナオンの語勢は落ち着き払っており、先ほどまで老いた父親と魔法術の応酬を繰り返していたにしては、擦り傷や服の焼け焦げなども無い。
同様に余裕を残したままなのは、敵対者たる彼の父とて変わらなかったが。
「立派。立派か! わしが放逐されたのは、貴様の気に召す政治をせんからじゃったか」
「あなたの路線では、いずれ啓蒙者との対立は避け得なかったでしょう。彼らは妖魔に駆逐されつつあった人類の庇護者であり、敵に回すべきでは無い。今はまだ」
「そして貴様は奴らの尖兵として、こうやって使い捨てられるというわけじゃ」
「あなたがそう思うなら、それもいいでしょう。少なくとも私は、そうなるつもりはない。
いずれ主権を人類の手に取り戻したいのは、私も同じ――」
「もう黙れ。死ね」
父――汚染種ラヴェル・ジグムントに、必殺の魔力が集中する。
スウィフトガルド王国史上最大の醜聞の一つが、王家が汚染種因子を持っていたことだろう。
極秘の遺伝子調査で、既に初代スウィフトガルド国王が娶った前王朝最後の王女に因子が存在していたことがほぼ確定しており、王国はそれに気づいた第一次大陸戦争の直前から遺伝子検査の主導権を握ることでその事実を隠蔽してきた。
だが、彼の父は若きマグナオンにそれを打ち明け、いずれは自分たちの秘密を国民に明かし、純粋人と魔女たちとで同盟を結び、啓蒙者を排斥しようという野望を語った。
それは、少なくとも当時の彼には――今もだが――絵空事としか思えなかった。
幼いカルナオンを守るため、彼は成人して政治家として力をつけた後は資本家や教会を説得し、父を放逐した。
だが、バラエナオンは諦めていなかったのだ。
マグナオンがこうして危険極まりない聖伐の前線にやってきたのは、この地域に父の成れの果てと思しき汚染種の目撃情報が複数あったためだ。
会って許しを得ようというのではない。
教会の支配が及びにくい辺境を基盤として、追放された先々代国王が王国や連合に反旗を翻すという最悪の可能性の芽を潰すためだった。
老い曝ばえたりとはいえ、極秘に魔法術を習得した元国王が地方で反乱を起こして討伐されるなどということがもしも起きたら。更にそれが、啓蒙者に知れたとしたら。
王家だけならまだしも、純粋人全体に啓蒙者がどういった処遇を取るか、全く想像がつかなかった。
仮にも人類国家の盟主であるスウィフトガルドの王家に汚染種の血が流れているなどと知れば、不気味なほど善良な彼らがどんな行動に出るか。
そして、彼の父は密かに囲っていた魔女――これは強制退位の際に処刑された――に教えさせていた魔法術の技を磨き、怪物となって目の前に現れた。
マグナオンは、巨大妖獣をも凌駕する戦闘力を持つであろう父親を、殺さずに無力化するという考えを放棄した。
彼の胸中など、汚染種ラヴェル・ジグムントにとっては知ったことではなかろうが。
「喰らえ龍の顎――」
「まって!」
マグナオンは、確かにそれを聞いた。
どす黒く燃え上がる田園の跡地に飛び込んでくる、幼い叫び声を。
「(何だ、子供……!?)」
汚染種ラヴェル――父バラエナオンの前で迂闊に隙を見せることは出来ない。
だが、野に放たれた復讐の魔獣と化したはずの彼はといえば、魔法術の構築も忘れ、間の抜けた表情で声のする方へと返事をしていた。
「こりゃキリエ! 来ちゃイカンと言うたじゃろが!」
「だって! ラヴェじじ、何にも理由を言わないで行っちゃうんだもん!」
箒でばたばたと飛来した二つ結びの幼い魔女が、やや危うげに老汚染種の横に降り立ち、そしてそのまま、禁圧王の異名を取ることもあった先々代のスウィフトガルド国王に向かって箒を振り回して抗議している。
「危ないんじゃて! ほれ見てみぃ、あのジジイとわしの喧嘩でこんなに暗いのにこんなに暑い……とにかく離れとれ、姉ちゃんには会えたんじゃろ!」
「ダーメ! とにかくケンカはだーめ! 仲良くしなきゃだーめーでーすーう!!」
幼い娘はラヴェルだけでなく、マグナオンの戦意も雪を溶かす日差しのごとくに崩し去ってしまった。
彼女は何者か。東部をさまよう怪物となったはずのバラエナオンと、どういった間柄なのか。
少なくともマグナオンの父が強引に無下には出来ない相手のようで、彼女は老人の言葉を遮ると彼の前に飛び出し、マグナオンの前に立ちはだかるような格好になった。
「騎士様、待ってください! キリエ・アールネと申します! 先ほどはラヴェじじが襲いかかってしまって、申し訳ありませんでした!」
「……気にしてはいないよ。それより――」
「すみません、まだお話したいことが!」
まだ10歳かそこらといったところか。成長を続けながらも未だ小さな身体から、元気とも呼ぶべきエネルギーが迸り続ける。マグナオンは自分が名乗るべきかどうかより、続きが気になって先を促した。
彼女の背後に佇む汚染種ラヴェルも、今は特にこちらを攻撃する素振りはないようだ。
「聞かせてくれ」
「まずは誤解を解きたいのです! このラヴェじじは、ここから北に少し離れた村を守っていたのです!」
「……村を?」
「名をソーヴルといいます! そこを汚染種の攻撃から守ると言いつつ、騎士を騙る鎧の悪人たちが襲ってきたのです!」
「! それは本当かね?」
尋ねつつもその背後の老人の様子を窺うと、彼は俯いたまま左手で両目を覆っていた。
その黒い滝のように長く伸びた髭の中から、あちゃあ、とでも聞こえてきそうに思えて、先程まで父殺しをするつもりだった自分の決意が馬鹿馬鹿しくもなってくる。
キリエと名乗った娘の証言については本格的な調査が必要だろうが、それは開戦した今となっては後回しにせざるを得ないだろう。
「キリエは嘘を申しません!」
だが、少女の目は真剣だった。
こちらの思惑を探るような知恵は、よくも悪くも持ちあわせてはいまい。
「でもラヴェじじは早とちりするので、村の近くを通りそうな皆さんのことも悪人だと勘違いしたのです! ごめんなさい! ほら、ラヴェじじも謝って!」
確認する少女――キリエの言葉に、背後の老人は重々しく口を開いた。
「…………キリエに免じて、今日のところは見逃してやる。部下たちの後を追って、ここから消えるがいい」
「……感謝します、ラヴェル・ジグムント」
「ダメでしょラヴェじじったらぁ! メトさまはそういうの、ちゃんと見てるんだからね!」
じたばたと老人の突き出た腹を叩く少女の姿を見ながら、マグナオンはふと天を仰いだ。
すると。
「……何だ、あれは……?」
するとそこには、昼間だというのに大きな星が一つ、鋭く輝いていた。
スウィフトガルド王国をはじめとする啓発教義諸国では、啓発教義の聖典に定められているため、複数の法律で天文観測が制限されている。
このため天文学や暦法も啓発教義による制限の無かった魔女諸国に比べるとあまり発達せず、啓蒙者が銃と聖典と共に正確な暦を授けたという建国神話が存在する。
科学的な天体観測を行う関連施設は存在せず、宗教上の象徴としての役割を除けば、あくまで航法や軍事技術に必要な天上の指標物としてのみ利用され続けた。
夜空に見える星のほぼ全ては遠方にある太陽の同類であり、宇宙という空間に無数の天体や天文現象が生じ続けているという魔女諸国においては普及しつつある宇宙観は、啓発教義諸国では一部の違法文物をやり取りする者の間以外では広まってはいなかった。
そのため、空の異変の前兆に気付いていた者は一部の啓蒙者を除いては皆無だったと言っていい。
一方、中世期には既に啓発教義諸国との戦争で科学技術の概念を手に入れていた魔女諸国は、啓発教義による制限がないためこれを大きく成長させ、可視光だけでなく電波などからも宇宙像を明らかにしようとする電波天文学などが花開いていった。
そして、ベルゲ連邦の首都に所在する国立天文台では、連邦各地の観測所から送られてくる観測情報を元に、月軌道上で生じている天変地異の一部始終を記録に収め続けていた。
去年導入されたばかりの高価な遠隔写真電送機から、次々と各観測所からの観測写真の単色複写が吐き出されてくる。
研究員の一人であるイバタは、煙草を吸いに外に出られない忙しさへの不満も忘れ、興奮していた。
「(月の周りで何が起きてるんだ……!?)」
連邦にも無断で月まで飛んでいったという特殊戦隊の連中が実在するならば羨ましい限りだが、しかし、この月の周囲に見える不自然な光点の数々はどうしたことか――撮像機械の故障ではないのか?
写真が貯まる度に、教授たちの集まる会議室にそれを運ばなくてはならない。
彼の他にも、電送機に印画紙を補給する係、刻々と減り続けるインクを補充する係などがいた。
印刷された紙束を会議室へと運ぶたび、分析している教授たちの間で原子核兵器の爆発であるやら、天文学級の戦闘用魔法術の光芒であったやらと、やたらに大仰な言葉が飛び交っていた。
しかし現に月の裏側で、何か強烈な閃光らしきものが生じたのは疑いようのないところでしょう――まずは可能性の高いところから考えていくのが常道じゃないかね――いやいや、現にこの一連の写真の火花は――人工物の影がないじゃないか――こんな解像度の低い画像でそこまで分かるか――しかし流星群では説明が――まあ待ちなさい、今時間順に整理した画像を並べる! この撮影員のメモ書きを見ても分かる通り、光の群が明滅を繰り返しているのは明白ではありませんか――など、喧々諤々の有様だ。
イバタには知る由もないが、国立天文台の指導的立場にいる研究員は全て、妖族の天船に乗った少数精鋭の魔女部隊が月へと飛び立ったらしいという眉唾ものの情報を、ベルゲ連邦科学省から一通り与えられていた。
その行き先であるとされた月への道筋を明らかにし、可能であれば位置を補足せよ、とも。
そうした巨大飛行物体を市井の魔女がたまたま撮影出来たという話はそれなりに知られており、近年では外交筋も、妖魔領域の宝物庫を管理しているという名家からそうした情報を入手していた。
だが、それがこの地上の未来を救うために宇宙からやってきた侵略者を叩きに月に向かったなど、誰が信じるというのか。
もっとも、科学省からの胡散臭すぎる通達に対する疑念も、月周辺で観測された立て続けの異変に対する興奮で、吹き飛んでしまっていたが。
天文学者たちの分析は的確で、黒板に書きだされた模式図は、確かに何らかの物体が周囲に爆発を巻き起こしながら急角度で高度を上げていったこと――すなわち低軌道から飛来する飛行爆弾を天船が迎撃して生じた無数の爆炎の光が光輝の川を描いたことが示唆されていた。
「(つっても、あれで終わりかな……?)」
月の裏側で大規模な閃光が確認されてから1時間と経過してはいないが、月の周辺は沈黙している。
しかし、
「ん……?」
イバタが印画を完了して切り取られた画像をまとめ、目を落とすと、今度はそこには鋭い星が一つ、写しだされていた。
その日、太陽を覆い隠す巨大な影が地上をよぎった。
長径約300キロメートル、総重量推定2兆8千億トン。
百億年の太古から、星間文明とその萌芽を刈ることを宿命として宇宙を飛び続けてきた執念の結晶。
抵抗する星間文明たちに何度滅ぼされようと、自己保存と宇宙に散ったエメトの破壊、そしてその介入を受けた文明の抹消。
これを三大原則として、未だ広がり続ける宇宙の辺縁を目指して進み続けていた。
そして、宇宙の中心近くに残っていた、比較的若い文明。
宇宙の歴史の中で比較的遅く開花したその文明は、メトの追撃を逃れてたどり着いたエメトの率いる小規模な船団と接触していた。そしてそのまま、宇宙の外縁に向かって散らばっていったメトの目から、3000年ほど隠れていた。
だが、見つかってしまった。
エメトが一度はメトを退けたが、それは驚異的な執念で復活し、今また、月面で船体を再構成し、地上へと降臨しようとしている。
既に月軌道から高度を大幅に落とし、地上まで1万キロメートルを切った。
船体は180度反転し、衝撃反射板を大地に向けて減速を行う。
減速とは即ち、小型核爆弾の爆発を再開させること。
惑星に突入しようとしているメトは、秒速20キロメートル以上の速度で接近していた。
さしもの始原者も、エネルギーの少ない状態でこの速度のまま惑星の地表に衝突すれば破壊されてしまう。
それを防ぐために、地上に向かって放った核爆発の威力を使ってブレーキを掛けるのだ。
降着予定地点は、決定的境界地域中部。啓発教義連合と大陸安全保障同盟とがぶつかる、大陸の中央に当たる。
そこに向かって始原者から発せられる、核の閃光。
2兆8千億トンの破壊的な巨体を軟着陸させるための光と熱の暴虐も、最初は高度が高く、地上で戦う騎士や魔女たちからは星にしか見えなかった。
太陽ではないもう一つの輝きが天空に出現し、気づく余裕のあったものはそれを凶兆と取った。
古代、月軌道で起きたエメトとメトの戦闘の余波で被害を受けた地上には、太陽や月ではない強い輝きが天に出現した時、地上に不利益が訪れるという伝説が、東西を問わず多く伝えられていたのだ。
そして、忌まわしき巨重が高度を下げると共に、その莫大な質量を受け止めるための核の光の起爆高度も下がってきていた。
底部――即ち、各爆発の衝撃を受け止める衝撃反射板のふちから数えた高度、1千キロメートル。
この時点で秒速1キロメートルほどまでに減速が完了しており、これは音速の3倍ほど。
だが既に、地上で戦う人々からは太陽よりも巨大な輝きとして目に写っていた。起爆高度が下がっていることもあったが、何よりその強烈な光の殆どを、鏡面の如き衝撃反射板が地上へと反射しているためだ。
実際よりも更に明るく地上を照らすこの光は、遠く、夕刻を迎えようとしていた妖魔領域東部や日の出時刻だったスウィフトガルド王国西部でも「太陽が二つに増えた」異変として観測されていた。
異変を感じたベルゲ連邦軍の司令部はすでに国立天文台など複数の機関から送られてきた観測の分析結果を受け取っており、何らかの強烈な、啓蒙者の新兵器の可能性を感じて――それは当たらずとも遠からぬ推測であった――味方に後退指示を出した。
啓発教義連合国軍の司令部も、同様に敵の大呪術である可能性――本国に帰らず残った数少ない啓蒙者も知らなかったためだ――を鑑み、やはり後退を指示している。
判断は賢明だったが、完全には間に合わなかった。
音速の3倍からなおも減速する始原者、地表まで残り100キロメートルほど。
衝撃反射板も含めたメトの長径がおよそ300キロメートルなので、これは人間で言えば腰より低い高さから極めて用心深く降りようとしている状態に近い。
高度1000キロメートルから100キロメートルまでに所要した時間は、およそ20分。亜音速で飛行可能な魔女であれば、落着予想地点からでも全力で飛べば400キロメートル彼方まで離脱することが出来る。
ただ、地上に展開した機械化戦力や重い野砲の類、前線基地などは放棄をせざるを得なかった。実際に離脱が間に合わなかったものも多い。単独飛行など不可能な歩行兵力や陸上兵器を多く保持する啓発教義連合の兵士たちは、もっと悲惨だった。
既に強烈な光と熱が、戦場に降り注ぎ始めている。
核爆発の起爆高度が地表に近づくに連れ、一瞬で致死レベルに達する強烈な放射線や、減衰しきらなかった熱や衝撃波、光が地上のあらゆる構造物を破壊し始めた。
軌道上と異なり、地表には濃密な大気がある。これが核爆発の熱で急激に膨張し、爆風を伴う苛烈な波紋として大地を無差別に耕すのだ。
それによって薙ぎ払われる騎士、超高温で紙細工のように分解される装甲自走砲。遅れてやってきた爆風から逃げ遅れて吹き飛ばされる魔女、高エネルギーの閃光に灼かれて即死する戦闘妖獣。
高度100キロメートル時点から更に10分ほどを経て、やがて火球の炸裂高度が地表に達した。
高熱と衝撃で大地が溶けて抉られ、その後更に生じた2回の核爆発を最後に、衝撃反射板の外縁が地表に接触、数百メートルに渡って沈降した。
その際、2兆8千億トンの大重量が引き起こした地震はその戦場に居合わせたものの殆どが体験したことのない規模となり、核の炎で焼きつくされても尚残った遠方の建築物などを完膚なきまでに破壊する。
高度300キロメートル、底径約100キロメートル。地上最高峰の高山を遥かに超える規模の始原文明の遺産が、未だ熱風と噴煙の渦巻く地上に降臨を果たした。
始原者の外縁から100キロメートルもの遠方――始原者の巨大さからしてみれば足下としか形容できないような距離だが――にもかかわらず、民家程度の建築物は衝撃波で吹き飛ばされ、人々は軽度の火傷さえ負った。
始原者から50キロメートル離れた程度の地点では、逃げ遅れた生物は炭化し、全ての都市は燃え盛る廃墟となった。
10キロメートル以内は完全に灰やガラス質になり、そこに降り立ったものは、始原者以外の何も存在しない無色の地平線を見ることとなるはずだ。
例えば、啓発教義連合の構成国であるオステン大公国は、その国境線をメトが降下地点に選んだため、連合第3の面積を誇る国土の1/3の建造物が破壊された。
だが、被害範囲の外縁付近に位置していたため比較的軽傷で生き残ることが出来た人々も、手を止め足を止め、黒煙渦巻く地平の彼方のある一点を凝視することとなった。
例えば、ベルゲ連邦の一部であるケザイム共和国の首都アルフィメタでは、政庁と降臨を完了した始原者の辺縁との間に、直線にして130キロメートルもの距離がある。
だが、天頂高度300キロメートルを超え、電離層や熱圏と呼ばれる高度に頭を突き出している始原者の威容は、そこまで離れていても首まで動かして視線を上げないと、完全に視界に収めることが出来ない。
衝撃波だけでは消し去られずに残った雲や始原者自身が着陸して巻き上げた膨大な噴煙に隠れ、そこまでは見えない地方も多かった。
幸か不幸か見えた者は、その姿にまるで翼を畳み、大地を睥睨する眼窩の無い鷹を想像したことだろう。
しかし、異変はそれだけにとどまらなかった。
「何だ、この声――!?」
そう。
世界に生きとし生ける全ての人々が、魔女が、妖族が、啓蒙者が。
老若男女が、強者が、弱者が、軍農工商、貧富貴賤が。
心に直接浮かんでくるかのような、音ではなく、明らかに自分のものでもない声に驚き、狼狽えた。
『地上の人々、全ての種族。はじめまして、僕はメト』
啓発教義の国々の人々。
それに対抗する、魔女諸国の人々。
遠く離れて始原者の姿を直接は見られない、妖魔領域や神聖啓発教義領の人々。
全てに向かい、始原者メトは語りかけた。
『見えている人もいることでしょう。僕は先ほど着陸を果たした巨大物体、それそのものです』
この事態を伝えるために、路を急ぐ者。
瓦礫に挟まれた他者の救助で、手を休めない者。
愛する者を失い、慟哭する者。
怒りに打ち震えながらも、驚愕に動けぬ者。
全てに向かい、最初の文明の遣わした破滅の使者は告げた。
『突然の勝手をお許し下さい。
僕はこの世界における72時間の後、世界を滅ぼします。
実際にはあなた方が許してくれる筈もありませんが、それでもそうするのです。
どうか滅びるまでの三日間を、大切な人と過ごす時間に使ってください。
もちろん、僕を滅ぼそうと戦うのもいい。
あなた方が死の間際まで、少しでも悔いなく生きられるよう、祈っています。
汝ら、罪なし。地上の人々に、生命体に、祝福あれ――』
あまりに一方的で悲しみに満ち溢れた、優しい死の宣告。
事実か? たちの悪い白昼夢か?
全ての種族が言葉を失い、終末が訪れた。
昨日はどこにあったのだろうか、山脈の彼方に聳え立つあの悪夢は。
今日は既に滅びつつある、降り注ぐ光と燃え盛る炎によって。
明日は既に失われた、誰も知らない薄暗い淵へと。
昨日の私は想像しなかっただろう、この黙示された終末を。
今日から始まるだろう、不合理の掟と死の支配する世界が。
明日が訪れるだろう、地の果てに佇む、あの盲目の鷹の為だけに。
――始原者の降臨後に記された、とある手記より抜粋。