6.ゆきは晴れれど
結論から記せば、死者は出なかった。
灰の雪による周囲の森林の被害は懸念よりはるかに狭い範囲に留まり、ソーヴルの村民はゾニミアの知らせで全員が退避することが出来ていた。
灰の雪の降下範囲から外れていたお陰で、村の財産への被害も殆ど無かった。
ゾニミアの小屋は、間に合わず延焼してしまったものの、灰の雪が早めに停止したお陰か焼失は免れ、少々の補修で元通りになるようだ。
工事に携わっていた入植者たちや討伐隊も無事だったが、入植者たちは借り物だったらしい重機を含めて機材の大半を、討伐隊――昏倒していた作業者たちを安全なところまで連れ出してくれたのは、彼らだった――も退避で一時的に放棄した武器の殆どを山火事で失い、肩を落として村から去っていった。
入植者たちの指導格だったスケベ髭は折角伸ばした髭が燃えてしまい、泣き伏せている所を郡庁から来たという調査員たちによって聴取を受け、司法取引によって非公式ながら魔女によって管理されていた危険な不動産(あの大岩のことだ)を毀損し王国の領土に損害を与えた件で、裁判抜きで資産をかなり没収されたらしい。
以上は、診療所にいる時にゾニミアから聞いたことだった。
「十五年ほど前、南部のイツァという町の下水道工事の途中で、先の戦でベルゲが遺棄していったと思われる同様の封印兵器が出土しまして……現地はただの岩盤だと思って発破をかけたらしく、そこから出現した妖獣の起こした竜巻で町の人口の半分が死亡、もしくは行方不明になるという事件がありました。それ以来、どこの郡もあの封印兵器にはうかつに触りたがらないんです」
曇り空の下で、丸太の椅子に腰掛けた礼服の男が淡々と語る。
霊剣の話では、創傷や骨折を修復する魔法術というのはかなり難度が高く、知識や経験の無い者がそのまま塞ごうとするのは不自然な形状に治癒する恐れがあって危険なのだという。グリュクが受けた傷について言えば、火傷の治療以外は、人体の治癒力に任せた方が良いらしい。
そういう訳で、グリュクは打撲で痛む手でパンを齧りながら、彼の話を聞いていた。
「……それで、ソーヴル近くのあの大岩は手を出さずに放置していたと」
「イツァの妖獣は啓蒙者たちが駆逐してくれましたが、また同じことが起これば、彼らに対する大きな失点になりますからね……お恥ずかしい話ですが、郡庁が隠したがるのはもっとももなんです。どう対処しても評価が下がりますから。
幸い、管理手法を知るゾニミア女史がやってきて、村とも良好な関係を築いてくれたお陰で、一人報告員を置いておけば然して心配がないという状況になっていましたし……」
ゾニミアの小屋の表だ。妖獣に止めを刺した後しばらくしてから戻ってきたゾニミアに拾われ、満身創痍で村の診療所に担ぎ込まれて治療を受け――ついでに髭剃りまで借りた――、それから二度目の朝を迎えていた。丸太で作った即席の食卓と椅子に、ゾニミアの作ってくれた食事を置いてそれを食らいつつ、訪れた郡庁の者だという彼の話相手をしている。
ゾニミアは、フォンデュを連れて村に食料と薪や薬剤との交換に出かけていた。
(それで、あの入植者たちからの魔女の討伐要請も断っていたと)
「入植者たちからの魔女の討伐要請を断ってたのも、そういうことですか?」
グリュクが卓に立て掛けられた霊剣の言葉をほぼそのまま代弁すると、
「まぁ……彼にも後ろ暗いところがあって王国や騎士団に直訴できないのは知っていましたので。
元々、サッターヴァ氏たちにはやんわりと、鉱山開発を止めるよう忠告していたんですが。
制止が弱すぎてと言いますか、氏が存外に強引で、あんなことになってしまいました。
まぁ、死者も出ず、我々の懐も痛んでおりませんし、教訓だと思ってもらうしか。
啓蒙者たちが地方にあまり興味が無いお陰で、何とかもみ消せたって所です」
語りつづける彼は、ここに来た時にカイシェスと名乗っていた。グリュクよりは年上だろうが、なかなか若く、三十代前後といった辺りか。
事情を詳しく語る様子を見ると、そこそこに地位は高いのだと思えるが、確証は無い。
「報告を受けた時はどうなるかと思いましたが……まぁ、あなたが頑張ってくれて助かりましたよ。しかも"厄介ごと一つ起こさず何処かへ居なくなってくれる"んですからね」
引っかかる部分を強調するようにそう言うと、カイシェスは手を差し伸べきた。
やや引っかかるものは覚えつつ握り返すと、何やらやや硬い感触があった。
「この度はご協力ありがとうございました、本当に」
「いえ、こちらこそいろいろ教えて頂いて……」
「それでは、他の業務がありますので、私はこれで……ゾニミア女史にもよろしくお伝えください」
手の違和感の正体を確認しようとすると、カイシェスは手を解いてそう言ってきた。
彼女の処遇については何も聞いていなかったため、グリュクは慎重に尋ねた。
「……ゾニミアは、どうなるんです」
「え? いや、別に何も。今更彼女を処罰しちゃいますと、それまで何してたんだと上の方の石頭に怒られちゃいますしね。そうなったら幾つか首が飛びますよ、物理的に」
真剣に尋ねたつもりだったが、カイシェスはちょっと小用を伝え忘れていたという程度の調子でそう答えた。
「……それならいいんですけど」
「お互いさまって奴ですね。それじゃ」
彼はそう告げて、やってくる時に乗っていた自動車に戻るとエンジンを掛け、ハンドルを切りながら、自動車が通るには狭い山道を去っていった。
それを見届けてから手に残ったものをよく見ると、掌に収まる大きさの長方形の札だった。
樹脂で出来ているようで、質感は堅い。文字列が並んでいるが、最初に目に入ったのは「出入国許可証」の文字だった。
偽造なのか、しかし役人が渡してきたということは、本物と同様の行程で作られているということになりはしないか。
どうでもいい点に思い悩んでいると、霊剣が言う。
(成る程、出国許可をやるから余計な魔女が居座るな、ということか。
あの男、役人の癖になかなか小粋な真似をする)
「ふーん……」
許可証に影が落ちた。ゾニミアとフォンデュが戻ってきたのだ。ゆっくりと大気をかき乱しながら降りてくる紅の髪の魔女の傍まで歩いてゆき、グリュクは意志を告げた。
青空の下、街道が通る丘の上で立ち止まると、低木が点々と生えた草原に昨日降った本物の雪がまばらに残っていた。
山火事で上空に立ち昇った暖気が、僅かだが雪雲となって降らせたものだ。
地平に覗く峻険な山脈の向こうから、なだらかな地形を這う旅人たちに向かって、まだまだ冬が終わらないことを思い知らせる冷たい風が吹いている。
過去の戦争の痕跡だろう、遠くに霞むひしゃげた旧型の高圧鉄塔と、グリュクの頭上で風に唸る送電線を支える現代的な鉄塔が、時代の隔たりを印象付けた。
旧型の方は、近くで見れば錆と蔓草でそれが更に強調されただろう。
もっとも、今後の情勢次第ではいずれ大した違いも無くなるのかも知れないが……
位置はソーヴルから南東に5キロメートルほど、王国の国境に程近い地域だ。
この一帯はやや平坦だが、すぐにまた山地を行かねばならなくなると思うと、気が重い。
グリュクは世話になったゾニミアに別れを告げ、隣国への出国を試みることを選んだ。
ベルゲ連邦へ行く前に、まずは王国とベルゲとの間に存在する緩衝諸国へ入国しなければならない。
両勢力の息のかかった複数の国家の内、最低でも二国を経由、その二国間が最難関なのだとゾニミアは教えてくれた。
彼女の通った七年前と比べて、取締りが緩んでいればいいのだが。
(そう甘くは無かろう……まずは嬢の手配してくれた出国幇助業者と合流するのだ)
「分かってるよ……この一週間で分かったけど、不要なまでに念押しするのが、お前の悪いとこだ」
(この一週間で分かったが、物事の見方が多少楽観的に過ぎるのが、御辺の汚点なり)
「……うるさい」
今は晴れていたが、冬の大陸中部は気候が不安定なので油断できない。
相棒の減らず口に呻くと、グリュクはあちこち毀れた街道の脇を、また歩き出した。
昼になっても溶けずに残っていた霜柱を踏み砕く音が、誰に聞こえるとも無く続いてゆく。