5.灰の雪の降る日に
雪が降っている。
「(……いや)」
既にかなり広い範囲で森が焼けており、周囲の気温は恐らく六十度以上にも達しているだろう。
降雪は有り得ないので、何かの灰か。
いずれにせよこの高温では、長居しては肺が焼かれてしまう。
灰が降っている領域とそうでない領域は比較的明瞭に分かれており、五メートルも踏み出せば灰の降る領域に入ることが出来そうだった。
だが、踏み込む前に尻のポケットから紙を取り出す。以前従士選抜試験の時に渡された、会場への案内図。
皺だらけになっていたが、アニラの気遣いで一緒に洗濯されず、丁寧に戻されて入っていたものだ。
彼女に対する陳謝と共に、それを広げて前方に放る。
舞い落ちる紙に灰が触れると、その一点から瞬く間に紙が燃え上がった。
「…………!」
これが、火の手の原因だろう。放
っておけば、この付近の山地一帯が炎に包まれる可能性が高い。
(固体に付着することで激しく反応し、高熱を放出する……これは一筋縄では行かぬぞ、主よ)
「そんなのをこうも大量に降らせる化け物が相手か……早速後悔しそうだ」
(うむ。だが、それを乗り越えてこそ、命に恥じぬ生の証となる)
「お前ってたまに詩人になるよね」
(うむ。……ん? まぁいい。それでは、本日二つ目の術を伝授致そう)
霊剣が告げると、刀身が淡く輝き、彼がグリュクの細胞から力を得て力を行使するのが感じられる。
その力を、言葉に乗せて自然界に解放する。
「覆い給え」
暫し体を預けた痛みに似た感覚が抜けると、新たな魔法術が発動していた。
彼の体全体を、衣服の上からうっすらと光る空気の層のようなものが覆っている。
(防熱幕の魔法術。
これにて、御辺はこの灰の雪に焼かれずに動くことが出来よう。外気の熱も緩和する。
このまま吾人がこれを維持するゆえ、奴に近づくのだ。言葉が通じるようであればそうして鎮めたいものだが)
「……まぁ、やるだけやってみるさ」
灰の雪が降っているのは面積にしてどれほどの範囲か、少なくとも前方の視界はほぼ全てがそうだった。
灰の雪に焼かれた森が広く焼け落ち、大きく開けた一帯に、木々の燃える匂いがどこまでも漂っている。
そのほぼ中心に、巨大な妖獣が佇んでいた。
やや離れた地点に、その封じ込められていた大岩の残骸が散らばっているのが分かる。
そこまで、目測で五百メートル以上。
グリュクは霊剣は鞘に収めたまま早足で燃えつづける木々の狭間を抜け、倒木を飛び越え、最後の方はやや走り、大岩のあった地点の近くまでたどり着いた。
灰の雪の密度は妖獣に近づくにつれて増加し、山火事による熱で吹雪の最中に近い様相を呈していた。
防熱幕の劣化が激しく、霊剣がそれを内側から継ぎ足して維持する度に、筋力とは違う何らかの力がが身体から奪われるのが分かった。
このような活性の高い魔法物質を全て制御しているとは思えないので、恐らく、降り始めている高さはそれほどでもないだろう。
舞い落ちる速度からして、意外に低いのかも知れない。
(主よ、そろそろ呼びかけても良いだろう)
「よし……」
相手との距離が二百メートルを切ると、霊剣がそう告げ、グリュクは灰の雪を吸い込まないように慎重に息を吸い込み、叫んだ。
「おぉい、妖獣よーッ!!」
妖獣はそれまで気づいていなかったのか、グリュクの声に反応して首をこちらを向いた。頭頂まで、目測で40メートル前後はある。
重量はおおよそ、先日殺した妖獣アヴァリリウスに近く、人間の優に一千倍を超える筈だ。
それは相手が人間の一千倍を超える数の細胞を保有しているということであり、粗雑な計算になるがグリュクの一千倍を超える魔力の容量がある、ということを意味する。
しかも、霊剣によれば妖族・妖獣などの妖魔領域の生物が細胞一つあたりに保有する変換小体の数は、魔女より圧倒的に多い。
あの妖獣の体躯ならば、この量の灰の雪を生み出しても余りあるのだろう。
概ねの形態はやや人間に近く、二本の後ろ足で立ち上がり、膝まで届く長い腕は所在無さげにぶら下がっている。
頭部は嘴のように尖った鼻面と、顎に並ぶ尖った歯、赤い目。
太く長い尾が垂れており、後頭部から尾の中ほどまで、脊椎から直接のものと思しい長い突起が一対ずつ伸びており、これに皮膜が張って二枚の帆のようになっていた。
滑らかな体表は光沢を持ち、液体で濡れているように思えた。
灰の雪から自己を防護するための生態なのかも知れない。
「俺の言葉が分かるか! 話がしたい!」
もしかしたら、怒りに任せてしまっただけで、本来は知性を持ち、音声による対話も可能なのではないか。
妖獣がこちらに背を向け、その重心の転回に従って遠心力と共に飛来した巨大な尾が、そうした根拠のない希望を打ち砕いた。
咄嗟に後ろに跳び退ることで、衝突を回避する。
「やめろ、俺は攻撃したくない! 聞いてくれ!!」
(もう止せ! ゾニミアの話では、封印されたのは手のつけられぬ暴れ者ばかりだったようだが、それが証明されただけだ!)
「…………!」
(アヴァリリウスの気性と知能の話は覚えているな。
幼児程度には高い知性は、自分と相手が違う種族であることを認識する。
そしてその認識に凶暴性や獰猛さといった野獣の要素と魔力が加われば、閉じ込められた鬱憤ばらしにこうした挙に出ることも、理解できよう!)
「あぁ、あんまり理解したくないけどな……!」
尾の旋回による打撃を回避されたと見るや、グリュクを踏み潰そうということか、妖獣は腕を大きく広げ、大地を踏み込んで突進してきた。
四足歩行だったアヴァリリウスと異なり、灰の雪の妖獣は後肢での二足歩行の姿勢を取っている。
そのため、移動にともなって大地に掛かる面積あたりの重量は、単純計算でアヴァリリウスの二倍。
大質量の疾走によって局所的な地震が起き、グリュクはやや足を取られた。
それでも何とか左に跳躍し、着地ざまに更に横転することで、これも回避できた。
何千トンという体重で行った突進は、そうそうすぐに停止できるものでもなく、グリュクと妖獣との間には150メートル前後の距離が開く。
体勢を立て直してふと気づくと、妖獣がこちらに気を取られているからか、灰の雪が止んでいた。
霊剣が防熱幕を解除すると、彼を鞘から抜き放って構える。
(催眠の魔法術は恐らく効果が出るのに時間がかかる。
最大出力の貫通魔弾で、足か、尾を狙うのだ。主要な動脈を切断し、失血死させる)
霊剣の助言は、表現が少々直接的過ぎる気もしたが、ここで躊躇してもグリュクが返り討ちに遭い、灰の雪による山火事が拡大するだけだろう。
今の所は種が撒かれただけの畑に囲まれているため延焼などはしていないだろうが、ソーヴルが危険に晒されるのは時間の問題だ。
ゾニミアは既にフォンデュと共に避難している筈だが、妖獣に通じる言葉も、再びそれを封印する手段も無い以上、森の中の彼女の小屋はもっと危うい。
グリュクは覚悟を固めて、貫通魔弾で確実に脚か尾を狙える距離まで走った。
(……いかん、躱せ!!)
「!?」
霊剣の悲鳴を聞くや否や、突然グリュクと妖獣との間に鋭い光輝が出現し、そこから大量の灰の雪が噴出した。
灰の雪を広範囲に降下させるのではなく、狭い範囲に圧縮して水のように発射したのだろう。
吹雪のように殺到する灰の雪を、転倒するようにグリュクは回避し、転がりながら体を起こして右へと抜け出した。
妖獣の術の発動速度の速さに気づいて体の動きが間に合ったのは、霊剣のもたらした戦士の呼吸のたまものだ。
飛び跳ね、走って灰の吹雪を避け続けるグリュクを追うように、妖獣は断続的に灰の雪を噴射してきた。
「覆い給え!」
それを防ぐべく、霊剣が再び構築した防熱幕の魔法術を発動する。
直接付着して炎上するのは防ぐことが出来たが、周囲に舞い散った灰の雪を吸い込む訳にも行かず、呼吸が一瞬、グリュクの意図しないタイミングで阻害された。
「!?」
そこに、今度は左から旋回してきた尾が直撃した。
グリュクの体が、大きく跳ね飛び、落着して転がる。
反対側に跳ぼうとしていたお陰か、怪我は左腕の骨折と、あちこちの軽度の打撲。
意識を失うことこそしなかったが、立ち上がるのに難儀した。
噴水のように湧き出る痛みが押し寄せて、魔法術の連続発動で高まっていた全身の鈍痛を霞ませる。
この有様では灰の雪の噴射で焼き尽くされるだけのはずだが、妖獣が様子見でもしているのか、そうなる気配は無い。
痛みで、動きも鈍る。
そして何より、手の中から霊剣が無くなっていた。
「!?」
霊剣が無くては、彼はさほどに大した魔法術を行使できるわけではない。
以前の彼ならば大きく取り乱した所だが、今や彼には、短期間とはいえ霊剣を通して身体に染み付き始めた戦闘の感覚というものがあった。
それにしたがって、自分と妖獣の位置関係から霊剣を飛ばされた場所に検討をつけてそちらへと走る。
だが、妖獣もまた走りだし、彼を踏み潰そうと試みた。
とてもではないが生身の足では逃げきれない。
グリュクは両手を虚空に掲げ、貫通魔弾の魔法術を構築した。
「っ、貫け!」
だが、生成・射出した拳大の魔弾は、妖獣の腹に当って弾かれる。
妖獣が、腹を立てたように低い唸り声を上げて加速した。
アヴァリリウスとまみえた際に霊剣が呟いていたのを覚えていたが、あの妖獣が魔女たちによって罠の中身として用意されていたものなら、兵器として同様の強化を施されていてもおかしくはない。
まして、魔法術の感覚に目覚めてまだ五日のグリュクの構築では、なおのことだ。
「護り給え――!!」
今度は、防御障壁で身を守ろうと試みる。
大地から薄っすらと輝く半球状の魔法物質の壁が生じた。
未知の物体に対して体当たりをするつもりはないのか、妖獣は速度を落として歩き始める。
それを囮にして再び走りだすと、妖獣は腹立ちまぎれか残された消えかけの半球を踏み潰し、再びグリュクを追い始めた。
しかし、途中で走るのが面倒になったか、両足の位置を捻って長大な尻尾を振り回し、再び彼を打ち据えようとする。
「聳えよ!」
その尻尾の進路上に、グリュクは高さ2メートル、直径1メートル程度の下を向いた円錐状の魔法物質の塊を生成した。
円錐は地面に刺さり、妖獣の尻尾が大きな音を立ててそれに衝突する。
勢いを挫かれた妖獣は目を見開き、自分の一撃の邪魔をした円錐が蒸発して魔力線に戻るのを見ていた。
そこに、隙が出来る。
形状を念じ、呪文を唱えて魔法術を開放する!
「落・と・せぇッ!!」
すると妖獣の頭上に、直径にして何と20メートルほどの巨大な岩塊のような物体が出現した。
今の彼の全力で生成した、魔法物質の塊だ。
それは重力に従って落下し、妖獣の頭部を強かに打つ。
その勢いに負けて妖獣が大地に倒れるのを見て、グリュクは走った。
霊剣のおおよその位置は検討をつけた上、初めて会った五日前同様に、霊剣がグリュクに対して呼びかけを続けているのが聞こえ始めた。
かなり遠くに飛ばされたらしい。
(主よ、ここだ! いい加減気づけこのウスラトンカチ!!
あっすまぬ、今のは聞かなかったことに――)
「お前なあ!」
全力で走って、何とかそれを回収する。
引き返して、姿勢を立て直そうと両腕を支えに立ち上がる妖獣が、今度は再び灰の雪を降らせた。
「……!」
(主、唱えよ! 再度防熱幕を――)
「いや、いい――もう一発!」
(なぬ!?)
グリュクは再び、起き上がりかけの妖獣の頭上に擬似岩塊を生成し、落とした。
「落とせッ!」
再び痛打を受けて、妖獣が倒れる。
同時、グリュクの髪や衣服に灰の雪が付着した。
「痛ぅッ!?」
しかし彼は止まらず、走る。
物理的に炎上しながら、あと20メートル、5メートル――
「――――ッ!!」
そして、自分の背丈と同程度の高さまで叩き落とした妖獣の頭部に、全力で霊剣の刃を叩き込む。
どこまでも鋭利な一撃は、弾丸に耐える表皮と顔筋と骨を砕き、脳に達した。